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時計塔のアンリエッタ
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カラーン、カラーン、カラァーン・・・・・・・・・・。
鐘の音に眠りの中から引きずり出され、ゆめうつつに壁の時計に目をやれば、針は3時を示している。
(まだ夜中じゃねぇか)
聞き違えたか夢でも見たのだろうと、ハンスはもう一度横になり、再び眠りについた。
用務員のハンス・リピドラは、隣国との戦争で足を悪くしてからもう8年以上、このアルドゥラン王立学院の学舎の一室に住んでいる。もちろん当直も兼ねているのだが、深夜に巡回はない。
彼の仕事は日々の雑用の他、朝夕に門の解錠施錠と、夜8時の学舎の1階から3階までの見回りだ。とは言え足の悪いハンスにはこの見回りは骨が折れ、毎回1時間以上かかってしまう。それでも57歳になる身寄りのないハンスにとって、他にはないありがたい職場だった。
翌朝、壁掛け時計が6時の鐘を鳴らす。リンゴン、リンゴンと明るく軽やかな音色をハンスは気に入っている。
朝食後、いつもより少し重たい身体を叱咤して、職員の通用口である裏門を解錠したのが7時頃。その後、正門へと向かった。
その時普段なら気にも留めない時計塔にふと目がいったのは、昨夜の鐘の音が心に引っかかっていたからかもしれない。今は動かない時計塔の文字盤に、何かが揺れている事に気がついた。
「なんだ、ありゃ・・・・・・?」
ハンスは軽く舌打ちすると、確認のため片足を引きずりながら、時計塔に向かった。近づくと、文字盤の針に紫の布が絡みついているように見える。
「ありゃあ、ドレスじゃないか?よりによってなんであんなとこに・・・・・。 後でニールに取りに行かせにゃならん」
ハンスは若い用務員の顔を思い浮かべながら、ため息をついた。
迷惑な話ではあるが、とりあえず正体がわかり、ほっとして踵を返そうとした、その時。
ずるり。
一本の縄が、ドレスの裾から垂れ落ちた。
「は・・・・・?」
いや、縄ではない。それはかつて戦場で何度も見たことがあるものだ。ぬらり、とした光沢の異様さに、一瞬理解が追いつかなかった。
「・・・・・あれは、臓物じゃねぇか?」
ハンスは小刻みに震える手で何度か顔を擦ると、足を引きずりながら学舎へと引き返していった。
◆◆◆◆◆
王室警察隊は、3年前に陸軍の憲兵隊の一部を独立させて発足した、枢密院の一機関だ。
管理局の下に5つの捜査局を設置し、第一から四までの捜査局は、それぞれ王都近郊における殺人、傷害・誘拐、窃盗、詐欺事件を担当する。
ただし第五のみは特殊で、貴族の関わる事件において要請があった場合のみ捜査を行うが、その捜査結果が一般に公開されることはない。
「おい、エヴァン、殺しだぞ」
王室警察隊第一捜査局局長のリック・チャンドラーは受話器を置くと、捜査官のエヴァン・デュークに声を掛けた。
「俺ですか? ポッサ地区の殺人事件を捜査中ですよ?」
渋々立ち上がった男は、この国では一般的な栗色の髪とヘーゼルの瞳をした中肉中背という特徴のない容姿をしている。
「腹裂き事件だろ? そっちはいい加減頓挫してるみたいじゃねぇか。カーリスとキャラハンに任せて、お前はちょっと息抜きしてこい」
にやりと笑うチャンドラー局長は、2m近い長身に丸太のような体躯、燃えるような赤毛と顎を覆うもじゃもじゃの赤髭。まるで山賊のような風体だが、こう見えて名門伯爵家の次男坊だったりする。
尤も、陸軍憲兵隊の選りすぐりで構成された王室警察隊の捜査官は、ほぼすべてが貴族か準貴族の子弟だ。唯一の例外が、エヴァンである。
「わざわざご指名ってことは、何かあるんですね?」
「そりゃ、行ってからのお楽しみだ」
チャンドラー局長とも、もう12年の付き合いだ。こういう時彼が何も教えてくれないのはわかっていた。食い下がってもムダである。
「で、現場はどこなんです?」
諦めて尋ねれば、
「アルドゥラン王立学院だ」
しれっと答える上司の顔を、エヴァンはじとり、と眺めた。
「また面倒なところを・・・・・。どうせ後から第五が割り込んでくるんじゃないですか?」
「奴らが来たところでお前は気にしやしないだろ?」
「俺だって面倒ごとはごめんですよ。平民の俺はお貴族様には虫ケラ同然なんですから」
「おいおい、第一のエースが情けないこと言うなよ。俺はお前を大事にしてるじゃねーか」
「大事にねぇ」
胡乱な目つきで人使いの荒い上司を見る。初めて会った時、彼はもう少し小綺麗ではなかったか? 当時13歳だったエヴァンは、その優しい若手将校に憧れを抱いていた気がするのだが・・・・・。
「せめて、横槍が入らないように、入ってもしっかり握りつぶしてくださいよ」
エヴァンは制服の上着を肩にかけると、ひらひらと手を振って部屋を出た。
第一捜査局付きの御者に声を掛け、急いで馬車を用意させる。懐中時計で時間を確認すると、午前9時10分。通報から15分ほど経過していた。警察隊からアルドゥラン王立学院までは馬車で1時間ほどだ。
「すまないが急いでくれ」
馴染みの御者は小さく頷くと、馬に軽く鞭を当てる。
その甲斐あって、40分ほどすると一対の尖塔が樹々の間に見えてきた。フラナラン城の両翼である。
アルドゥラン王立学院は、先先々代の王がその愛妾のために建てたという離宮とその庭園を利用して設立された。学舎となったフラナラン城は風雪に晒され傷みはあるものの、当時の一流の建築家により8年の歳月をかけて建てられた、小さいながらも堅牢かつ優美な城だ。エヴァンも外から見たことはあるが、中に入るのは初めてだった。
外郭のはね橋を渡ると、警備のための詰所がある。そこで身分証を見せると守衛の1人が馬で案内を申し出てくれた。
「外郭の中は学生のための商店などが並んでいるんですよ」
ポール・ハミルセンというまだ若い守衛の説明どおり、街路樹と瓦斯灯が並ぶ石畳の道路の向こうには、公園や喫茶店、雑貨屋、菓子店などが軒を連ねていて、ちょっとした大通りの様相だ。
「ここからでは見えませんが、道を挟んで右が男子寮、左が女子寮となっていて、医務室、食堂、カフェ、教会が各寮に備えられています」
「至れり尽くせりですね」
「まあ、自由のない子どもたちですから」
守衛は彼らに同情的なのか、眉尻を下げて困ったように微笑んだ。
学院の入学を許可されるのは、領地で基礎教育を終了した13歳の優秀な高位貴族の子弟のみだ。全寮制で、17歳までの5年間徹底して英才教育を施されるため、卒業すればステータスとなるが、耐えきれず中途で退学を選ぶ者もいるらしい。
そう考えると、確かにここは豪華な牢獄のようだな、とエヴァンは思った。
やがて、内郭にぐるりを守られた学舎の前に到着すると、閉じた門扉の前に、不安げな面持ちで、男が1人佇んでいた。
「お連れしました」
エヴァンを案内してくれた守衛が声を掛けると、四十絡みの恰幅の良いその男は小走りに馬車へと駆け寄った。
「お待ちしていました。馬車は裏門からお願いします、捜査官殿は通用口から中へ。こちらの方が近いので」
門から三メートルほど離れた郭壁に、間口の小さい頑丈そうな木戸が備え付けられている。分厚い扉を身を屈めながらくぐると、簡単に自己紹介をしながら現場に向かった。
男の名はハリス・ルード。学院の事務長だという。
「あの時計塔です」
事務長のルードは学舎の左に立つ時計塔を指差し、そちらへと足を向けた。
「もっとも、今は動いておりませんがね」
「今回の件で壊れたんですか?」
「いいえ、もう半年前でしょうか。歯車が一つ欠けまして。修理しようにも部品が古く大きい上に複雑で、なかなか職人が見つからないのです」
「では現在は使われていないという事ですか。ところで、遺体には誰も近づいたり触れたりはしていないですね?」
「はい。電話で警察隊の方にそのままにするよう言われましたので、用務員のハンス・リピドラに誰も近寄らないよう見張らせています」
「ああ、あの男ですよ」と、事務長が示した先、時計塔の入口の前に、2人の男が所在無げに立っていた。1人は白髪混じりの髪にこめかみに傷痕のある体格の良い初老の男。もう1人はやや小柄な、明るい茶色の髪と目をした少年だ。
「年配の方が用務員のハンス・リピドラです。彼が時計塔に人の死体のようなものがある、と慌てて事務室に駆け込んできましてね。若い方はニール。ハンスの同僚です」
事務長はエヴァンに小声で伝えると、ハンスとニールに近づいて、朗らかに声をかけた。
「2人ともご苦労だったね。こちらは警察隊のデューク捜査官だ」
「第一捜査局の捜査官、エヴァン・デュークです。ご協力ありがとうございます」
「・・・・・・・・・・どうも」
「よ、よろしくお願いします」
2人は緊張した面持ちで、おどおどと頭を下げる。エヴァンはすこし眉を顰めると、2人の表情を注意深く観察した。
「最初に発見したのは、リピドラ氏だそうですね」
「あ、はい。朝の解錠作業の時たまたま時計塔が目に入って、なんかぶら下がってるみたいなんで、なんだろう、と近づいてみたら」
ハンスはちらり、と時計塔を見て、すぐに目を伏せた。
「あの状態だったんですね」
エヴァンは文字盤に揺れる遺体を見上げた。高さは20メートルほどだろうか。
真下の土には、被害者の体から滴り落ちた血と体液が黒いシミを作り、かすかに生臭さが漂っている。
上着の内ポケットから小さなノートと鉛筆を取り出すと、エヴァンは時計塔に吊り下げられた遺体の様子を手早くスケッチした。
「今、職員や学生たちはどうしていますか?」
手を止めて事務長に尋ねる。
「職員は出勤しておりますが、学生は本日より長期休暇となります。昨夜は卒業記念パーティーでして」
「では、学生は寮に?」
「はい。休みに入っても図書館を利用する者もおりますので、いつもは門は開けているのですが、本日は学舎で事故があり閉鎖と通達しておりますので、全員寮にいるはずです。明日説明を行うという事にしまして、とりあえず帰省も禁止致しました」
エヴァンはひそかに感心した。殺人事件など身近で起こる事はそうそうない。まして高位貴族の子弟が集まる中での事件だ。忖度して内密に第五に依頼してもおかしくない。
「ただ、電話でもお伝えしましたが、」
ふと、事務長の声が翳った。
「どうしました?」
「いえ、寮監に点呼を取らせたのですが、1人部屋にいないのです」
「ほう。名前は?」
「侯爵令嬢のアンリエッタ・グレイス様です」
社交界に無縁のエヴァンでさえもその名に聞き覚えがあった。
月の女神という大層な二つ名のある、第二王子の婚約者だ。
(確か、銀髪の綺麗な娘という話だったな。銀髪・・・・・なるほどな)
エヴァンは1人頷くと、事務長に確認した。
「第二王子殿下の婚約者のご令嬢ですね」
「ええ、いや、はい」
しかし何やら歯切れが悪い。
「違いましたか?」
「あの、実はここだけの話、昨夜ユリアス殿下が婚約破棄を宣言されまして」
「それは、穏やかではありませんね」
「はい。なので人が死んでいると聞いて、はじめはグレイス様が自殺されたのかと思ったのです。その、首を括って塔から飛びおりて、運悪くあのような状態になったのかと」
「はじめは、という事はすぐに自殺ではないと思われた?」
「はい」
「何故ですか?」
「あの紫のドレスは昨夜のパーティーの衣装だと思います。腰から下が膨らんだデザインでしたから、時計塔の梯子などとても登れません」
時計塔の内部がどんなものかはわからないが、例え乗馬服を着ていようと、貴族のご令嬢が夜1人で赴く場所ではな事は、エヴァンでも想像がつく。
「では、事務長殿。とりあえず力のある男性職員の方を2人ほどと、長いロープを何本かご用意いただけますか?まずはあの遺体を下ろしてみなければ、グレイス嬢なのかもわかりませんからね」
事務長に準備を任せ、エヴァンはひと足先にニールの案内で時計塔の内部に入った。厚い木製の扉に関貫はあるが、鍵はかかっていない。
「入ろうと思えば誰でも入れるな」
「そうかもしれませんが、入りたがる人はいないんじゃないでしょうか」
急な螺旋階段に足を掛けながら、ニールが首を傾げた。時計塔の内部は石壁の所々に明かり取りの小さな窓があるのみで薄暗い。
「所々木が傷んでいますから気をつけて。ボクの後に着いてきてくださいね」
ギシギシと嫌な音を立てながら登ると、やがて、いくつもの大きな歯車と重たい振り子のある機械室に到着した。
「ここからは梯子ですから、ゆっくり来てください」
古びた梯子にしがみつきながら更に登ると、文字盤の裏側を通過した辺りから、頭上にうっすらと光が差した。
「大丈夫ですか?」
先に鐘楼に到着したニールが小さな手を差し出す。ありがたく手を貸してもらいながら這い上がると、そこは狭い円形の回廊の上だった。四方をアーチ状にくり抜かれた鐘楼からは、周囲に広がる森と、遠くに王城の尖塔が見える。
「なかなかの見晴らしだな」
「そうでしょう?ボクは半年前、時計が壊れちゃう前まで、ここで鐘を鳴らすのが仕事だったんですよ」
ニールは誇らしげに、頭上の鐘を見上げた。
「文字盤はこっちです」
ニールに教えられた方角から下を覗くと、白金色の後頭部とドレスに包まれた背中が視界に入る。
エヴァンは再び辺りのスケッチを始めた。遺体の胸の下あたりから、鐘を引くための鎖にしっかりと結びつけられているロープは、やや弛んでいる。
「・・・・・・・これは。針に、体が引っかかっているようだ。一旦引き上げないとダメだな」
実際は針にぐっさりと串刺しになっているようだが、ニールにそれを言うのはさすがに憚られた。
ほどなくエヴァンのリクエスト通りに手配された庭師のライオネル・アンガーと事務員のトマス・ランドがロープを抱えてやってきた。大量のロープはかなりの重さだろうが、筋肉質でガッチリとした2人は不安定な足場を物ともしない様子だ。
エヴァンは渡されたロープをつなぎ合わせ、遺体を繋ぐロープの中ほどに結んでから、その先を2人に渡した。
「しっかり持っていてください」
ライオネルとトマスがロープをグッと掴んだ事を確認してから、チェーンとの接続をナイフで切る。
「ロープ引っ張って!」
回廊に腹這いになると、エヴァンは遺体の体が針から抜けるのを待つ。
ずぐ、と嫌な音が聞こえ、2人の持つロープがピンと張った。
「もう結構です!ゆっくり降ろしてください」
エヴァンの声に従って、ロープに吊るされた遺体がゆっくり、ゆっくりと降ろされ、時計塔の下に広げた白い布の上に、静かに横たえられた。
鐘の音に眠りの中から引きずり出され、ゆめうつつに壁の時計に目をやれば、針は3時を示している。
(まだ夜中じゃねぇか)
聞き違えたか夢でも見たのだろうと、ハンスはもう一度横になり、再び眠りについた。
用務員のハンス・リピドラは、隣国との戦争で足を悪くしてからもう8年以上、このアルドゥラン王立学院の学舎の一室に住んでいる。もちろん当直も兼ねているのだが、深夜に巡回はない。
彼の仕事は日々の雑用の他、朝夕に門の解錠施錠と、夜8時の学舎の1階から3階までの見回りだ。とは言え足の悪いハンスにはこの見回りは骨が折れ、毎回1時間以上かかってしまう。それでも57歳になる身寄りのないハンスにとって、他にはないありがたい職場だった。
翌朝、壁掛け時計が6時の鐘を鳴らす。リンゴン、リンゴンと明るく軽やかな音色をハンスは気に入っている。
朝食後、いつもより少し重たい身体を叱咤して、職員の通用口である裏門を解錠したのが7時頃。その後、正門へと向かった。
その時普段なら気にも留めない時計塔にふと目がいったのは、昨夜の鐘の音が心に引っかかっていたからかもしれない。今は動かない時計塔の文字盤に、何かが揺れている事に気がついた。
「なんだ、ありゃ・・・・・・?」
ハンスは軽く舌打ちすると、確認のため片足を引きずりながら、時計塔に向かった。近づくと、文字盤の針に紫の布が絡みついているように見える。
「ありゃあ、ドレスじゃないか?よりによってなんであんなとこに・・・・・。 後でニールに取りに行かせにゃならん」
ハンスは若い用務員の顔を思い浮かべながら、ため息をついた。
迷惑な話ではあるが、とりあえず正体がわかり、ほっとして踵を返そうとした、その時。
ずるり。
一本の縄が、ドレスの裾から垂れ落ちた。
「は・・・・・?」
いや、縄ではない。それはかつて戦場で何度も見たことがあるものだ。ぬらり、とした光沢の異様さに、一瞬理解が追いつかなかった。
「・・・・・あれは、臓物じゃねぇか?」
ハンスは小刻みに震える手で何度か顔を擦ると、足を引きずりながら学舎へと引き返していった。
◆◆◆◆◆
王室警察隊は、3年前に陸軍の憲兵隊の一部を独立させて発足した、枢密院の一機関だ。
管理局の下に5つの捜査局を設置し、第一から四までの捜査局は、それぞれ王都近郊における殺人、傷害・誘拐、窃盗、詐欺事件を担当する。
ただし第五のみは特殊で、貴族の関わる事件において要請があった場合のみ捜査を行うが、その捜査結果が一般に公開されることはない。
「おい、エヴァン、殺しだぞ」
王室警察隊第一捜査局局長のリック・チャンドラーは受話器を置くと、捜査官のエヴァン・デュークに声を掛けた。
「俺ですか? ポッサ地区の殺人事件を捜査中ですよ?」
渋々立ち上がった男は、この国では一般的な栗色の髪とヘーゼルの瞳をした中肉中背という特徴のない容姿をしている。
「腹裂き事件だろ? そっちはいい加減頓挫してるみたいじゃねぇか。カーリスとキャラハンに任せて、お前はちょっと息抜きしてこい」
にやりと笑うチャンドラー局長は、2m近い長身に丸太のような体躯、燃えるような赤毛と顎を覆うもじゃもじゃの赤髭。まるで山賊のような風体だが、こう見えて名門伯爵家の次男坊だったりする。
尤も、陸軍憲兵隊の選りすぐりで構成された王室警察隊の捜査官は、ほぼすべてが貴族か準貴族の子弟だ。唯一の例外が、エヴァンである。
「わざわざご指名ってことは、何かあるんですね?」
「そりゃ、行ってからのお楽しみだ」
チャンドラー局長とも、もう12年の付き合いだ。こういう時彼が何も教えてくれないのはわかっていた。食い下がってもムダである。
「で、現場はどこなんです?」
諦めて尋ねれば、
「アルドゥラン王立学院だ」
しれっと答える上司の顔を、エヴァンはじとり、と眺めた。
「また面倒なところを・・・・・。どうせ後から第五が割り込んでくるんじゃないですか?」
「奴らが来たところでお前は気にしやしないだろ?」
「俺だって面倒ごとはごめんですよ。平民の俺はお貴族様には虫ケラ同然なんですから」
「おいおい、第一のエースが情けないこと言うなよ。俺はお前を大事にしてるじゃねーか」
「大事にねぇ」
胡乱な目つきで人使いの荒い上司を見る。初めて会った時、彼はもう少し小綺麗ではなかったか? 当時13歳だったエヴァンは、その優しい若手将校に憧れを抱いていた気がするのだが・・・・・。
「せめて、横槍が入らないように、入ってもしっかり握りつぶしてくださいよ」
エヴァンは制服の上着を肩にかけると、ひらひらと手を振って部屋を出た。
第一捜査局付きの御者に声を掛け、急いで馬車を用意させる。懐中時計で時間を確認すると、午前9時10分。通報から15分ほど経過していた。警察隊からアルドゥラン王立学院までは馬車で1時間ほどだ。
「すまないが急いでくれ」
馴染みの御者は小さく頷くと、馬に軽く鞭を当てる。
その甲斐あって、40分ほどすると一対の尖塔が樹々の間に見えてきた。フラナラン城の両翼である。
アルドゥラン王立学院は、先先々代の王がその愛妾のために建てたという離宮とその庭園を利用して設立された。学舎となったフラナラン城は風雪に晒され傷みはあるものの、当時の一流の建築家により8年の歳月をかけて建てられた、小さいながらも堅牢かつ優美な城だ。エヴァンも外から見たことはあるが、中に入るのは初めてだった。
外郭のはね橋を渡ると、警備のための詰所がある。そこで身分証を見せると守衛の1人が馬で案内を申し出てくれた。
「外郭の中は学生のための商店などが並んでいるんですよ」
ポール・ハミルセンというまだ若い守衛の説明どおり、街路樹と瓦斯灯が並ぶ石畳の道路の向こうには、公園や喫茶店、雑貨屋、菓子店などが軒を連ねていて、ちょっとした大通りの様相だ。
「ここからでは見えませんが、道を挟んで右が男子寮、左が女子寮となっていて、医務室、食堂、カフェ、教会が各寮に備えられています」
「至れり尽くせりですね」
「まあ、自由のない子どもたちですから」
守衛は彼らに同情的なのか、眉尻を下げて困ったように微笑んだ。
学院の入学を許可されるのは、領地で基礎教育を終了した13歳の優秀な高位貴族の子弟のみだ。全寮制で、17歳までの5年間徹底して英才教育を施されるため、卒業すればステータスとなるが、耐えきれず中途で退学を選ぶ者もいるらしい。
そう考えると、確かにここは豪華な牢獄のようだな、とエヴァンは思った。
やがて、内郭にぐるりを守られた学舎の前に到着すると、閉じた門扉の前に、不安げな面持ちで、男が1人佇んでいた。
「お連れしました」
エヴァンを案内してくれた守衛が声を掛けると、四十絡みの恰幅の良いその男は小走りに馬車へと駆け寄った。
「お待ちしていました。馬車は裏門からお願いします、捜査官殿は通用口から中へ。こちらの方が近いので」
門から三メートルほど離れた郭壁に、間口の小さい頑丈そうな木戸が備え付けられている。分厚い扉を身を屈めながらくぐると、簡単に自己紹介をしながら現場に向かった。
男の名はハリス・ルード。学院の事務長だという。
「あの時計塔です」
事務長のルードは学舎の左に立つ時計塔を指差し、そちらへと足を向けた。
「もっとも、今は動いておりませんがね」
「今回の件で壊れたんですか?」
「いいえ、もう半年前でしょうか。歯車が一つ欠けまして。修理しようにも部品が古く大きい上に複雑で、なかなか職人が見つからないのです」
「では現在は使われていないという事ですか。ところで、遺体には誰も近づいたり触れたりはしていないですね?」
「はい。電話で警察隊の方にそのままにするよう言われましたので、用務員のハンス・リピドラに誰も近寄らないよう見張らせています」
「ああ、あの男ですよ」と、事務長が示した先、時計塔の入口の前に、2人の男が所在無げに立っていた。1人は白髪混じりの髪にこめかみに傷痕のある体格の良い初老の男。もう1人はやや小柄な、明るい茶色の髪と目をした少年だ。
「年配の方が用務員のハンス・リピドラです。彼が時計塔に人の死体のようなものがある、と慌てて事務室に駆け込んできましてね。若い方はニール。ハンスの同僚です」
事務長はエヴァンに小声で伝えると、ハンスとニールに近づいて、朗らかに声をかけた。
「2人ともご苦労だったね。こちらは警察隊のデューク捜査官だ」
「第一捜査局の捜査官、エヴァン・デュークです。ご協力ありがとうございます」
「・・・・・・・・・・どうも」
「よ、よろしくお願いします」
2人は緊張した面持ちで、おどおどと頭を下げる。エヴァンはすこし眉を顰めると、2人の表情を注意深く観察した。
「最初に発見したのは、リピドラ氏だそうですね」
「あ、はい。朝の解錠作業の時たまたま時計塔が目に入って、なんかぶら下がってるみたいなんで、なんだろう、と近づいてみたら」
ハンスはちらり、と時計塔を見て、すぐに目を伏せた。
「あの状態だったんですね」
エヴァンは文字盤に揺れる遺体を見上げた。高さは20メートルほどだろうか。
真下の土には、被害者の体から滴り落ちた血と体液が黒いシミを作り、かすかに生臭さが漂っている。
上着の内ポケットから小さなノートと鉛筆を取り出すと、エヴァンは時計塔に吊り下げられた遺体の様子を手早くスケッチした。
「今、職員や学生たちはどうしていますか?」
手を止めて事務長に尋ねる。
「職員は出勤しておりますが、学生は本日より長期休暇となります。昨夜は卒業記念パーティーでして」
「では、学生は寮に?」
「はい。休みに入っても図書館を利用する者もおりますので、いつもは門は開けているのですが、本日は学舎で事故があり閉鎖と通達しておりますので、全員寮にいるはずです。明日説明を行うという事にしまして、とりあえず帰省も禁止致しました」
エヴァンはひそかに感心した。殺人事件など身近で起こる事はそうそうない。まして高位貴族の子弟が集まる中での事件だ。忖度して内密に第五に依頼してもおかしくない。
「ただ、電話でもお伝えしましたが、」
ふと、事務長の声が翳った。
「どうしました?」
「いえ、寮監に点呼を取らせたのですが、1人部屋にいないのです」
「ほう。名前は?」
「侯爵令嬢のアンリエッタ・グレイス様です」
社交界に無縁のエヴァンでさえもその名に聞き覚えがあった。
月の女神という大層な二つ名のある、第二王子の婚約者だ。
(確か、銀髪の綺麗な娘という話だったな。銀髪・・・・・なるほどな)
エヴァンは1人頷くと、事務長に確認した。
「第二王子殿下の婚約者のご令嬢ですね」
「ええ、いや、はい」
しかし何やら歯切れが悪い。
「違いましたか?」
「あの、実はここだけの話、昨夜ユリアス殿下が婚約破棄を宣言されまして」
「それは、穏やかではありませんね」
「はい。なので人が死んでいると聞いて、はじめはグレイス様が自殺されたのかと思ったのです。その、首を括って塔から飛びおりて、運悪くあのような状態になったのかと」
「はじめは、という事はすぐに自殺ではないと思われた?」
「はい」
「何故ですか?」
「あの紫のドレスは昨夜のパーティーの衣装だと思います。腰から下が膨らんだデザインでしたから、時計塔の梯子などとても登れません」
時計塔の内部がどんなものかはわからないが、例え乗馬服を着ていようと、貴族のご令嬢が夜1人で赴く場所ではな事は、エヴァンでも想像がつく。
「では、事務長殿。とりあえず力のある男性職員の方を2人ほどと、長いロープを何本かご用意いただけますか?まずはあの遺体を下ろしてみなければ、グレイス嬢なのかもわかりませんからね」
事務長に準備を任せ、エヴァンはひと足先にニールの案内で時計塔の内部に入った。厚い木製の扉に関貫はあるが、鍵はかかっていない。
「入ろうと思えば誰でも入れるな」
「そうかもしれませんが、入りたがる人はいないんじゃないでしょうか」
急な螺旋階段に足を掛けながら、ニールが首を傾げた。時計塔の内部は石壁の所々に明かり取りの小さな窓があるのみで薄暗い。
「所々木が傷んでいますから気をつけて。ボクの後に着いてきてくださいね」
ギシギシと嫌な音を立てながら登ると、やがて、いくつもの大きな歯車と重たい振り子のある機械室に到着した。
「ここからは梯子ですから、ゆっくり来てください」
古びた梯子にしがみつきながら更に登ると、文字盤の裏側を通過した辺りから、頭上にうっすらと光が差した。
「大丈夫ですか?」
先に鐘楼に到着したニールが小さな手を差し出す。ありがたく手を貸してもらいながら這い上がると、そこは狭い円形の回廊の上だった。四方をアーチ状にくり抜かれた鐘楼からは、周囲に広がる森と、遠くに王城の尖塔が見える。
「なかなかの見晴らしだな」
「そうでしょう?ボクは半年前、時計が壊れちゃう前まで、ここで鐘を鳴らすのが仕事だったんですよ」
ニールは誇らしげに、頭上の鐘を見上げた。
「文字盤はこっちです」
ニールに教えられた方角から下を覗くと、白金色の後頭部とドレスに包まれた背中が視界に入る。
エヴァンは再び辺りのスケッチを始めた。遺体の胸の下あたりから、鐘を引くための鎖にしっかりと結びつけられているロープは、やや弛んでいる。
「・・・・・・・これは。針に、体が引っかかっているようだ。一旦引き上げないとダメだな」
実際は針にぐっさりと串刺しになっているようだが、ニールにそれを言うのはさすがに憚られた。
ほどなくエヴァンのリクエスト通りに手配された庭師のライオネル・アンガーと事務員のトマス・ランドがロープを抱えてやってきた。大量のロープはかなりの重さだろうが、筋肉質でガッチリとした2人は不安定な足場を物ともしない様子だ。
エヴァンは渡されたロープをつなぎ合わせ、遺体を繋ぐロープの中ほどに結んでから、その先を2人に渡した。
「しっかり持っていてください」
ライオネルとトマスがロープをグッと掴んだ事を確認してから、チェーンとの接続をナイフで切る。
「ロープ引っ張って!」
回廊に腹這いになると、エヴァンは遺体の体が針から抜けるのを待つ。
ずぐ、と嫌な音が聞こえ、2人の持つロープがピンと張った。
「もう結構です!ゆっくり降ろしてください」
エヴァンの声に従って、ロープに吊るされた遺体がゆっくり、ゆっくりと降ろされ、時計塔の下に広げた白い布の上に、静かに横たえられた。
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