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夢のような夏の日。

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 今日はきっと新月だ。闇に染まる空を見上げる。
 坂下ハルトは人工的な光に塗れた道を歩く。夜は暗くても今の世の中暗闇はない。
 街灯がそこかしこで辺りを照らしている。

『あー、遅くなったなあ』

 アルバイトが残業になりいつもより30分以上帰宅が遅くなり、ハルトは急いでいた。
 バイト先の居酒屋は彼の住む家からはそんなに離れてはいない。

『近道とかあれば良いけど』

あるにはある、と息を吐く。

『どっちにしてもあれだよな』

 諦めたように意を決して家路を急ぐ。
 無意識なのか意識的なのか、ある場所に差し掛かると、拳を握りしめる。
 墓地だ。
 この前を通らなければ家にはつかない。
 近道もあるにはあるが、唯一人工的な光が少ない草むらが広がる場所を通らなければならず、夜には嫌な噂もあるので、地元の人は暗くなると自然と近寄らなくなるような場所だった。
 お墓は、昼は公園も隣接されているためひとの出入りもあるが、深夜に近づいた今の時間に人がいるとなると不良や、それとも違う何かに違いない。

『まだ不良の方がいいよなあ。生きてるし』

 余計なことを考えるなと頭を振るう。しかし、このような時、人間とは裏腹に変なことしか頭に浮かばないようになっている。

『あー、なんでこんな時にのっぺらぼうの話なんか思い出すんだよ。聞いたの十年も前の話だろ』

 何か楽しい話を思い出そうとするが、海で可愛い子にナンパをしている様子を想像しようとするが、振り返った相手の口が耳まで裂けていたり、車を買って一人ドライブをしていたら、差し掛かったトンネルで女性がフロントガラスから逆さまに現れてきたりと、わかりやすいまでにホラーなことしか思いつかない。
 ナンパもドライブも今の自分には程遠いものだからこんなにも貧相なことしか思い付かないと言い聞かせるが、脳内の全面に現れる口の裂けた顔に頭を振るう。

『何だよもう! 今時口裂け女とか流行らないだろ』

 ハルトは、自分が生まれるよりずっと以前に世の中を震撼させた都市伝説を何故かこのタイミングで思い出し憤慨していた。

『そんなこと言わないでよ』

 耳元でか細い声がする。
 生暖かい吐息のようなものを感じでハルトは小さく声を上げて固まってしまう。
 なんとかギギと壊れたロボットのように動き出すが、恐怖で足がすくみ走り出すことができず、こともあろうことに、その声を振り返ってしまった。

『うわっ』

 目の前には、ニヤニヤと笑う女の子が立っていた。

『うわって何?もう、怖がりだなハルトは』

 明るく笑うその少女にハルトもゆっくりと落ち着きを取り戻していった。

『朱音かよー』

『いや、私じゃなかったらなんなの? 本当失礼なんだから』

 ケラケラと笑うその目には涙が浮かんでいる。泣き笑いをするほどに朱音は笑っている。自分の情けないところをそこまで笑う朱音にその頭を軽く叩く。

『酷いよ!』

『酷くねえよ。てか、こんな時間に何やってんだ。お子ちゃまは寝てる時間だろ』

 キャラクターの描かれたTシャツと短パンにサンダルといったラフな姿にバイトや学校帰りではないことはわかった。

『だって、眠れなかったからさあ。散歩してるの!一つしか違わないくせに子供扱いしないでよね』

『へえ。サンダル左右チグハグなんだけど』

 そう指摘され朱音は足元を見る。
 どちらもフラットではあるが、スポーツサンダルとミュールタイプのものだった。

『あ、はは。なんでだろう?ははは』

『相変わらず朱音は天然だな』

『そ、そうだね』

 顔を俯かせる朱音を不思議に思いながらも、彼女のお陰で今まで怖かわっていた気持ちが嘘のように晴れたことに気づいた。

『で、ハルトはバイトの帰り?』

『ああ。少し遅くなった』

『今も居酒屋?』

『そ。居酒屋』

『良いなあ。大学生は。バイト禁止じゃないから堂々とバイト出来るんだし』

『お前もバイトしてるじゃん』

 朱音は盛大に息を吐く。

『話聞いてた?堂々とバイトできるのが羨ましいの!』

『たしかに、高校生って、バイトできるのに、禁止の学校多いよなあ』

 ハルトも一年前までは高校生だった。ようやく大学生になり誰の目も気にせずにバイトができると喜んでたな、と今だにむくれている朱音を見やる。

『居酒屋のバイト楽しい?』

『うん。忙しい時はマジで大変だけど楽しいよ』

『へえ。酔っ払いとかの相手大変そうだよね』

『んー、まあ、それなりに相手してたら大丈夫だからな』

『それなり?』

 朱音はギロリとハルトを睨むように見る。
『え?』

 その目には、例えるような表情が浮かばない。怒りなのか、悲しみなのか、それとも、恨みのようなものを感じた。そう思った瞬間、背筋に冷たい何かが伝う。

『ねえ、その居酒屋の名前は? 店長は誰』

『ちょ、朱音?』

『どこにあるの? 唐揚げはいくら?』

 朱音は、制止も聞かずにどんどん質問していく。

 様子のおかしい朱音の肩を掴む。

『朱音!』

『っ、あ、ご、ごめん。ほら羨ましすぎて』

『驚かすなよ。まるで、ゆ、っ、この世のモンに見えなかったぞ』

無理矢理おちゃらけてみる。
朱音の瞳は一瞬光を失うが、取り繕うように笑顔を浮かべる。

『話し過ぎたね。ハルト、明日も大学でしょ?』

『うん。朱音は?』

『あー。テスト休み中ー』

『うーわ。羨ましい』

『へへ。だから、もう少し歩いて行くから、ハルトは先に帰りなよ』

『いやいや。あぶねえよ。散歩なら付き合うぞ?』

『良いの良いの。ちょっと一人で夜風にあたりたいなあって』

『そうか?結構寒いし冷えるから風邪ひかないようにな』

『う、うん』

 
 ちょうど墓地の前に少し大きめな住宅街がある。ハルトと朱音は二人とも昔からのご近所だった。
 ハルトは住宅街へと入って行く。それを見送るようにすると、朱音は墓地へと歩みを進める。
 ザッザッと、砂利を踏みしめる。

『うっ、っ』

 いつの間にか立ち止まり、ある一つのお墓の前に座り込む。


 街灯の光が照らすそこには『阪下家之墓』と掘られている。
 茜は声にならない嗚咽を漏らし、灰色の砂利が黒く染まる。

『律儀にお盆に帰ってきた…』

 お墓に頬をつける。

『ハルト、ハルト』

 墓石の無機質な冷たさが今の朱音には心地よかった。

 



 テスト休みなんて嘘だった。私はもう大学生になっていた。
夏休みで授業がないから休みなのだけど。
 課題をやるために自室の机に向かっていたら、まるで季節感を無視した格好の人物が歩いているのが見えた。
 あの赤色のマフラーは私が大学入学の記念にあげたものだ。見間違えるはずがない。
 なんで、亡くなった時に着ていたもので帰ってきてるんだってつっこんだ。
 怖さなんか無くて、嬉しくて嬉しくて私は家を飛び出した。まさか履いているサンダルが左右違うほどに慌てていたとは思わなかったけど。
 ハルトが帰ってきた、ただそれだけだ。
 そっと近づくと、彼は口裂け女がどうとか言っていた。怖い怖いと肩を震わせている。いや、幽霊なのはあんたの方だよ。
 幽霊になっても怖がりなんだな、と思うと、呆れるよりもからかってやろうと妙な加虐心が生まれる。
 後ろで囁いてやった。案の定面白いぐらいに怖がってくれた。
 私に気づいたホッとしたハルトは柔らかな笑顔を浮かべた。
 死んでいても変わらないその顔に思わず泣きそうになる。

『ハルトがいなくなってもう、二年か…ん?あいつにとって、私は二年前から変わってない?』

 ホッとしたあいつ、すぐに私だって言ったよなあ。二年越しの再会で、普通なら少し大人っぽくなったとかあるよね。

 なんか腹たってきたなあ。しかも、なんでこの後に及んでバイト帰りなの。あんたどこでバイトしてきたの。
 あんなことがあって、あの居酒屋はもう潰れてるから。

『っ、あの店で、酔っ払いの、喧嘩に巻き込まれて死んだくせに、なんでまだバイトしてんのよ! 馬鹿じゃない!』

 私は叫んだ。喉が痛くなるのも気にせずに。

『今は夏だから! ダウンコートにマフラーとかする季節じゃないから! しかも、受け取った時には、赤なんて嫌だよって言ってたくせに、赤いマフラー使ってたんじゃん! なんで、なんで、死んじゃったの、ハルト』

 墓石に抱きつく。
 さっきみたいに冷たくなかった。堅くもない。

『え?』
『朱音、そっか俺…』


 見上げるとハルトが頬をかきながら立っていた。

 私は、ハルトに抱きついていたのだ。
 まるで生きてるみたいにその体に触れられているし、温かい。

『朱音の格好見て逆にお前が幽霊なんだと思ったんだ』

 優しい雰囲気が漂っているのに不意に飛び出す天然な発言に思わず吹き出してしまう。

『それ、今言う?』

『えっ? ご、ごめん』

『まあ、いいけどさ』

 私はハルトの手を掴む。

『朱音?』

『ハルト、おかえり』

『あ、うん。ただいま』

『いつまでいるの?』

『いや、わからないんだ…』

『そっかあ』

 別れがあり、そしてまたいつ会えるかなんてわからない再会だ。   ありがたくもあり迷惑でもある。

『墓場で話すのやめない?』

『え?あんたのじゃん』

『いやでもさあ』

『幽霊怖いの?』

ハルトは頷いた。

『幽霊のくせに?』

『う、うるさいなあ』

 少し摩訶不思議だけど、優しく流れる時間が心地いい。いつまでも続けば良いのにと、胸を押さえる。

『家には戻れたの?』

『うん。でも、みんな暗くてさ、話しかけても反応がなかったから、怖くなって、なんとなくここに来なきゃいけない気がしたんだ』

『そうなんだ。どうやって戻ってきたかもわからないの?』

『うん。気づいたらバイト帰りになってたから』

『来年も戻って来れるかもわからない?』

『わからない。でも、お前に会いたいよ』

 湿り気のあるハルトの言葉に、乾いていたはずの涙が再びあふれる。こぼれ落ちて短パンの先の素足を濡らす。

『どこにも行かないで』

 ぎゅっと回す腕の力を込める私の頭を戸惑いながらも撫でてくれる。

 叶わなかった初恋に、幾つも後悔した。真面目に想いを伝えておけばよかった。

『また、会いにきてね』

 それだけしか言えなかった。
『ああ。会いにくるよ』

 触れるだけのキスをした。生暖かい夏の夜風に吹かれて、ハルトの姿は消えていた。

 切なくて悲しいそれでもどこかふんわりと優しい気持ちに包まれたそんな不思議な夜がいつの間にか更けていく。
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