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わたくしと目が合うと、ファウストも驚いたように目を少しだけ見開きました。
けれどそれも一瞬のこと。
わたくしが何も言えないでいるうちにいつもの表情を取り戻して、すぐに身体を起こして離れていきました。
少しだけ困惑しているような気配はするのですけれど、わたくしの混乱のほうが大きいですから、今はちょっと、ファウストが何を考えているかを汲むのは難しいですわね。
「……起こしてしまいましたか」
今度はわかりやすくしゅんとしました。
自分の動作で姉の健やかな眠りを妨げてしまったと自戒しております。
「…………」
けれどわたくしはそんなファウストに言葉をかけることもなく、どんなきっかけで自分が醜態をさらしてしまうか気が気でないものですから、おそるおそる、ひどく緩慢な動きでどうにか枕を抱き寄せて、顔を隠すことに成功いたしました。
せめて肌掛けでもかけてくれていればすぐに潜り込んだでしょうに、あいにくファウストはわたくしを寝具の上に横たえたので、一旦起き上がって再び横になるには動きが大き過ぎて、わたくしにはそんな勇気は出ませんでした。
「…………姉上?」
わたくしの滑稽な様子に、もちろんファウストも首を傾げていることでしょう。
でもわたくしの目の前はたっぷりの羽毛が詰まったふかふかの肌触りの枕でいっぱいです。
何も見えなければ、ファウストにもわたくしの顔は見えませんから、これは外せません。
「寝顔を見られるのは、恥ずかしいですわ…………」
たっぷりの間をおいて、それっぽい理由を口にしました。
これまでの姉弟生活の中でいくらでも見られる機会はありましたから、今さら何を言っているのかと思われても仕方ありません。
けれど、これがわたくしのこんがらがった頭で考えられる精いっぱいです。
「申し訳ありません……」
ファウストは素直に謝ってくれました。
おそらく勝手に私室に入ってしまった後ろめたさも感じているのでしょう。
あまりに萎れた声なのでかえって申し訳なくなりましたけれど、わたくしにフォローをするだけの余裕はありません。
「…………」
「………………」
いつもなら積極的に話しかけるわたくしが言葉を発せないせいで、沈黙が続きます。
ひさしぶりに顔を合わせたのですから聞きたいこともたくさんあるはずですのに、わたくしはここから逃れたい一心で何も考えられません。
「…………来週からは学園に来られると伺いました。お加減は、もうよろしいのですか」
気を利かせたのか、ファウストから話しを振ってくれました。
(ええ、もう大丈夫ですわ)
思っていることがひとつも喉に届かず、顔に枕を押しつけたままコクコクと頷くだけのわたくしは、すでにファウストに醜態をさらしているのではないのかしら?
またしても、ファウストから困惑している気配がいたします。
顔を見なくてもなんとなくわかるものですわね。
「さき、ほどは、失礼しました」
言いにくそうに、ファウストが言葉を繋ぎました。
(さきほど。……さきほどの、あれ、のことですわよね)
どう考えても、額を付け合っていたあれのことです。
鼻先も少し触れていたような幻覚を思い出してまたぶわりと心臓から汗が出た気がいたします。
顔を隠せていて本当によかったですわ。
自分でもとんでもなく熱いのがわかりますもの!
「その、少し動悸が早い気がしたので、また熱が上がったのかと……」
つまり、熱を測っていた、と。
(王道ですわね!実に王道!
額と額と合わせて体温を確かめるなんて……手ではいけませんでしたの?!手のほうが確かではありません??!!)
わたくしの心の声は恥ずかしさのあまりうるさいほどツッコミをはじめました。
(そもそも動悸が早くなっていたことに気がつかれていましたのね?!まああれほど深く指を絡めていたらそうなりますわね!!
お姫様抱っこから恋人繋ぎのコンボで心臓が壊れてしまうのは当然ですのよ!!
いえわたくし寝ていましたから?何も知らないはずですけれどね?
寝込みを襲うのは卑怯ですしええいわたくしの心臓静まって!!!!)
ぎゅっと枕を握る手に力がこもりました。
体調を心配していただけの弟にこれほど狼狽える必要はありませんのに、のぼせる頭が本当に煩わしいこと!
自分自身に怒りが湧いてきます。
「怒っていらっしゃるのですか?」
悄気たよう声でうかがってくるファウストに、わたくしハッとしました。
わたくしもファウストの心の機微に聡いほうですが、ファウストもまたそうなのです。
わたくしが言葉にしない思いを、顔を見なくても察してくれるのですから……心を鎮めて、気をつけないと。
「怒っては、おりません」
ようやく声を絞り出せました。
上擦らないように、注意して。
「はずか、し、かったのです」
我ながら舌足らずな物言いに、恥の上塗りではありませんの。
「!」
パッと、悄気ていた気配が上向いた気がいたしました。
姉が恥ずかしい思いをしているのに、何がそれほどうれしいのです。
「驚かせてしまい、申し訳ありません。
姉上が伏せられてから、心配で何度かこちらに帰っておりました。
体調がすぐれないうちは煩わしいかと思い我慢しておりましたが、今日は姉上も調子が良さそうだったとイザイアに聞いて、どうしてもお顔だけでも見たいと思ってしまい……」
めずらしく饒舌になったファウストから、真っ直ぐな気持ちが伝わってきました。
(うぅ……イザイア……)
うらめしいような、なんて気が効くのと称えたいような、複雑な思いがいたします。
これほど顔が見たいと望まれて嬉しい気持ちになってしまったのははじめてです。
こんな顔でよければと枕を下ろしかけ、慌てて思い留まります。
(今の顔はまずいですわね、とてもまずいですわ……)
人様に見せられるような顔ではないことは自分がいちばんよくわかります。
困ったような、嬉しいような、恥ずかしいような。
(とにかくファウストには見せていけないのはわかります)
「でも寝顔はダメですわっ」
枕を改めて抱え直し、わたくしは早口で反撃しました。
寝ている隙は、ダメです!
「申し訳ありません……でも、もう起きていらっしゃいます。
お顔を見せてはいただけませんか?」
(…………ゔ、)
そのように切実にお願いするものではありません。
心臓が貫かれてしまいます。
わたくしにだけしか聞かせないような、甘えるような声はだめです!
(それに、わたくしが今どんな顔をしているか、わかっていて言っておりません?)
期待するような、請うような、そんな声音に聞こえてしまいましたけれど、これはわたくしの願望がそんな気にさせているだけなのでしょうか。
「…………見せたら、今夜はもう休みますから」
「はい」
「すぐに、なにも言わず、あいさつだけして、自室に戻ってください」
「はい」
「わたくし、病み上がりですし、ひどい顔をしておりますわよ」
「いいえ、姉上がどんなに頑張ってもひどい顔には決してなりません」
「はい、だけ言っていて」
「はい」
「何がそんなに楽しいのです」
「はい、姉上とお話しできたので」
「…………」
何を言っても、墓穴にしかなりません。
努めて冷静を装っておりますけれど、顔が火照る一方で、枕を下ろすタイミングがつかめません。
黙って勇気が湧くのを待っていると、ファウストがゆっくりとまた身を屈めてきたのがわかりました。
「姉上」
とても機嫌の良さそうな声が、すぐ上から降ってきます。
ファウストが、枕に触れました。
その指が力のこもったわたくしの指をそっと掠めて、怯んで力が抜けてしまった隙に。
「おやすみなさい、姉上」
枕をどかして顔を覗きこんできたファウストが、まるで愛おしいものでも見るような目でわたくしを見ておりました。
枕ひとつ分の厚みの距離で、間接照明の橙の薄明かりがその目に輝いていたのが、それからすぐにファウストが部屋を出て行ってからも、ずうっと目に焼き付いて離れませんでした。
けれどそれも一瞬のこと。
わたくしが何も言えないでいるうちにいつもの表情を取り戻して、すぐに身体を起こして離れていきました。
少しだけ困惑しているような気配はするのですけれど、わたくしの混乱のほうが大きいですから、今はちょっと、ファウストが何を考えているかを汲むのは難しいですわね。
「……起こしてしまいましたか」
今度はわかりやすくしゅんとしました。
自分の動作で姉の健やかな眠りを妨げてしまったと自戒しております。
「…………」
けれどわたくしはそんなファウストに言葉をかけることもなく、どんなきっかけで自分が醜態をさらしてしまうか気が気でないものですから、おそるおそる、ひどく緩慢な動きでどうにか枕を抱き寄せて、顔を隠すことに成功いたしました。
せめて肌掛けでもかけてくれていればすぐに潜り込んだでしょうに、あいにくファウストはわたくしを寝具の上に横たえたので、一旦起き上がって再び横になるには動きが大き過ぎて、わたくしにはそんな勇気は出ませんでした。
「…………姉上?」
わたくしの滑稽な様子に、もちろんファウストも首を傾げていることでしょう。
でもわたくしの目の前はたっぷりの羽毛が詰まったふかふかの肌触りの枕でいっぱいです。
何も見えなければ、ファウストにもわたくしの顔は見えませんから、これは外せません。
「寝顔を見られるのは、恥ずかしいですわ…………」
たっぷりの間をおいて、それっぽい理由を口にしました。
これまでの姉弟生活の中でいくらでも見られる機会はありましたから、今さら何を言っているのかと思われても仕方ありません。
けれど、これがわたくしのこんがらがった頭で考えられる精いっぱいです。
「申し訳ありません……」
ファウストは素直に謝ってくれました。
おそらく勝手に私室に入ってしまった後ろめたさも感じているのでしょう。
あまりに萎れた声なのでかえって申し訳なくなりましたけれど、わたくしにフォローをするだけの余裕はありません。
「…………」
「………………」
いつもなら積極的に話しかけるわたくしが言葉を発せないせいで、沈黙が続きます。
ひさしぶりに顔を合わせたのですから聞きたいこともたくさんあるはずですのに、わたくしはここから逃れたい一心で何も考えられません。
「…………来週からは学園に来られると伺いました。お加減は、もうよろしいのですか」
気を利かせたのか、ファウストから話しを振ってくれました。
(ええ、もう大丈夫ですわ)
思っていることがひとつも喉に届かず、顔に枕を押しつけたままコクコクと頷くだけのわたくしは、すでにファウストに醜態をさらしているのではないのかしら?
またしても、ファウストから困惑している気配がいたします。
顔を見なくてもなんとなくわかるものですわね。
「さき、ほどは、失礼しました」
言いにくそうに、ファウストが言葉を繋ぎました。
(さきほど。……さきほどの、あれ、のことですわよね)
どう考えても、額を付け合っていたあれのことです。
鼻先も少し触れていたような幻覚を思い出してまたぶわりと心臓から汗が出た気がいたします。
顔を隠せていて本当によかったですわ。
自分でもとんでもなく熱いのがわかりますもの!
「その、少し動悸が早い気がしたので、また熱が上がったのかと……」
つまり、熱を測っていた、と。
(王道ですわね!実に王道!
額と額と合わせて体温を確かめるなんて……手ではいけませんでしたの?!手のほうが確かではありません??!!)
わたくしの心の声は恥ずかしさのあまりうるさいほどツッコミをはじめました。
(そもそも動悸が早くなっていたことに気がつかれていましたのね?!まああれほど深く指を絡めていたらそうなりますわね!!
お姫様抱っこから恋人繋ぎのコンボで心臓が壊れてしまうのは当然ですのよ!!
いえわたくし寝ていましたから?何も知らないはずですけれどね?
寝込みを襲うのは卑怯ですしええいわたくしの心臓静まって!!!!)
ぎゅっと枕を握る手に力がこもりました。
体調を心配していただけの弟にこれほど狼狽える必要はありませんのに、のぼせる頭が本当に煩わしいこと!
自分自身に怒りが湧いてきます。
「怒っていらっしゃるのですか?」
悄気たよう声でうかがってくるファウストに、わたくしハッとしました。
わたくしもファウストの心の機微に聡いほうですが、ファウストもまたそうなのです。
わたくしが言葉にしない思いを、顔を見なくても察してくれるのですから……心を鎮めて、気をつけないと。
「怒っては、おりません」
ようやく声を絞り出せました。
上擦らないように、注意して。
「はずか、し、かったのです」
我ながら舌足らずな物言いに、恥の上塗りではありませんの。
「!」
パッと、悄気ていた気配が上向いた気がいたしました。
姉が恥ずかしい思いをしているのに、何がそれほどうれしいのです。
「驚かせてしまい、申し訳ありません。
姉上が伏せられてから、心配で何度かこちらに帰っておりました。
体調がすぐれないうちは煩わしいかと思い我慢しておりましたが、今日は姉上も調子が良さそうだったとイザイアに聞いて、どうしてもお顔だけでも見たいと思ってしまい……」
めずらしく饒舌になったファウストから、真っ直ぐな気持ちが伝わってきました。
(うぅ……イザイア……)
うらめしいような、なんて気が効くのと称えたいような、複雑な思いがいたします。
これほど顔が見たいと望まれて嬉しい気持ちになってしまったのははじめてです。
こんな顔でよければと枕を下ろしかけ、慌てて思い留まります。
(今の顔はまずいですわね、とてもまずいですわ……)
人様に見せられるような顔ではないことは自分がいちばんよくわかります。
困ったような、嬉しいような、恥ずかしいような。
(とにかくファウストには見せていけないのはわかります)
「でも寝顔はダメですわっ」
枕を改めて抱え直し、わたくしは早口で反撃しました。
寝ている隙は、ダメです!
「申し訳ありません……でも、もう起きていらっしゃいます。
お顔を見せてはいただけませんか?」
(…………ゔ、)
そのように切実にお願いするものではありません。
心臓が貫かれてしまいます。
わたくしにだけしか聞かせないような、甘えるような声はだめです!
(それに、わたくしが今どんな顔をしているか、わかっていて言っておりません?)
期待するような、請うような、そんな声音に聞こえてしまいましたけれど、これはわたくしの願望がそんな気にさせているだけなのでしょうか。
「…………見せたら、今夜はもう休みますから」
「はい」
「すぐに、なにも言わず、あいさつだけして、自室に戻ってください」
「はい」
「わたくし、病み上がりですし、ひどい顔をしておりますわよ」
「いいえ、姉上がどんなに頑張ってもひどい顔には決してなりません」
「はい、だけ言っていて」
「はい」
「何がそんなに楽しいのです」
「はい、姉上とお話しできたので」
「…………」
何を言っても、墓穴にしかなりません。
努めて冷静を装っておりますけれど、顔が火照る一方で、枕を下ろすタイミングがつかめません。
黙って勇気が湧くのを待っていると、ファウストがゆっくりとまた身を屈めてきたのがわかりました。
「姉上」
とても機嫌の良さそうな声が、すぐ上から降ってきます。
ファウストが、枕に触れました。
その指が力のこもったわたくしの指をそっと掠めて、怯んで力が抜けてしまった隙に。
「おやすみなさい、姉上」
枕をどかして顔を覗きこんできたファウストが、まるで愛おしいものでも見るような目でわたくしを見ておりました。
枕ひとつ分の厚みの距離で、間接照明の橙の薄明かりがその目に輝いていたのが、それからすぐにファウストが部屋を出て行ってからも、ずうっと目に焼き付いて離れませんでした。
応援ありがとうございます!
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