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第二章
クレージュ公爵領
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今、ベアトリーチェはクレージュ公爵領に来ている。
というより、公爵家が管理している静養所を慰問しているのだ。
ここ数年、闇の精霊師としての修業を兼ねて、ベアトリーチェとフェリシアは静養所に入所している患者に治癒魔法の練習をしていた。
魔法といっても精神干渉の魔法はご法度。
だから、カウンセリングのようなもので、相手と話をすることが主な目的だった。
しかし、闇の精霊は、静寂と安らぎを与えるため、ベアトリーチェたちと会話した何人かの患者も彼女らが帰った後は穏やかな表情を浮かべていた。
流石に王女や大公令嬢に暴れて手におえないような患者の世話はさせられないから安心だ。
一緒についてきている護衛や侍女たちもほっと胸を撫で下ろした。
今日の相手は、年老いた夫人で、記憶もあやふやな状態。今覚えたことも一時間もすればまた聞き直すこともある。それでもフェリシアもベアトリーチェも自分たちを必要とされることを密かに喜んだ。
頼られる存在だということが、彼女らにとって満足な結果だった。
ここ数年でベアトリーチェ達と話をして、心が落ち着いた人の何人かは退所していき、新しい別の人生を歩んでいる。
そのこともベアトリーチェ達の励みになった。
自分たちのしていることが、たくさんの人の役に立っているという事実が自信と更なる意欲を湧き起こさせている。
勿論、患者に触れることで、ベアトリーチェ達自身の魔力の調整もできるので、まさに一石二鳥というものだった。
ベアトリーチェが廊下を歩いていると、奥の方から誰かの呻き声なのか鳴き声なのかわからない声が聞こえてきた。
気になって、半開きになっている扉の向こうを覗いた。
そこには白い髪を振り乱した女性が、ベッドの上で暴れている。
何か喚きながら、職員の手を逃れてベアトリーチェの方に走ってきた。
恐ろしい形相に身を竦めて動けないベアトリーチェの腕を掴んだできた。
爪が食い込んで痛いが女性とはいえ大人の力に抗えない。生暖かい水滴が指の方まで滴るのを感じている。
慌てた職員が彼女に失神の魔法をかけようとしたが、何故か女性は掴んでいた腕を離して、ベアトリーチェに謝ってきた。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
職員が女性を支えるようにベッドに戻した。
ベアトリーチェは何が起きたのか分からない。
ただ、その場に呆然と立っていた。
「今のは君がやったのかい」
後ろから声が聞こえてきて、振り向くと茶色い髪にトパーズ色の瞳をしたひょろりとした長身の男性が声をかけてきた。
「わ…わかりません」
「ここは立ち入り区域だが、どうやって入ってきたんだい」
「声が聞こえてきて、気になって…申し訳ありません」
「はあっ、もういいから帰りなさい。ここへは二度と立ち入らないように」
「わかりました」
ベアトリーチェは男性に注意されて項垂れて、元来た廊下を戻っていった。
「公爵閣下…いつこちらに」
「今しがただ。患者の容体は?」
「それがさっきまで、いつものように暴れていたのですが、嘘のように落ち着いていて、僕らにも何がなんだかわからないんです」
「落ち着いているだと」
「はい」
公爵と呼ばれた男は、白い髪の女性の方に近付いて、彼女に声をかけた。
「こんにちは夫人。今日のご気分はいかがですか」
「……」
焦点の合っていない虚ろな目はいつも通りだが、確かに静かにベッドに腰かけている。
世話をしている職員の言うことに素直に従っているのだ。
確かに不思議だ。
今までどんな薬を使っても状態を安定させるだけで手一杯だったのに、少し好転の兆しを見せるなんて。
公爵は顎に手を当てて考え込んだ。
もしかして…まさか。さっきのあの少女は闇の精霊と契約しているのか?
最近、この療養所に慰問に訪れる貴族令嬢がいると報告があったが、私が会ったのはそのうちの誰だろう。
難しい表情を浮かべる公爵の様子に職員たちは叱責されるのではないかと内心ビクビクしていた。
「公爵閣下。母の容体はどうでしょうか?」
黒髪の少年が公爵に話しかけた。
もうすぐ学園に戻らなくてはならないので、母親の見舞いに訪れたのだ。
「デミオンか…それが、今日は珍しく落ち着いているんだ」
「本当ですか?」
「ああ」
「母上。俺が分かりますか?」
「……」
デミオンの呼びかけに女性は振り向くが言葉は返さない。
それでもいつものように暴れて、自分や職員に傷を負わせていない。ただ焦点の合っていない目でデミオンの方を見ているだけだった。
「よかった。何か糸口でも掴みましたか」
「いや…まてよ。もしかしたら」
デミオンの表情は期待に満ちていた。
公爵は職員に、
「次に少女がきたら、私に連絡してくれ。確認したいことがある」
「畏まりました」
公爵は考え事をしながら、部屋を出た。
デミオンは、久しぶりに母の顔を見ていた。瘦せてはいるが表情は少し穏やかに見える。
一方ベアトリーチェは、男性に叱られたことでしょんぼりしていた。
フェリシアに話すと、
「もう、一人で勝手に歩くからだよ。今度はいなくならないでね。皆心配していたんだから」
「ごめんなさい。二度としないわ」
「本当にしないでよ」
「わかったから許してよ。そうだ。帰りにベリーベリーのケーキを買って帰りましょう」
「うん。それなら許す」
フェリシアは、口を尖らせながら、しぶしぶの表情でベアトリーチェに返事した。
侍女や騎士たちからもさんざん注意されたベアトリーチェは、帰りの馬車の中で大きなため息をついた。
今日は散々な一日だったな。
窓から見える療養所の方を見ると、黒髪の少年が先ほどベアトリーチェを叱った男性と何か話をしているのが見えた。
あれ、デミオンだわ。一体何をしにここに来たのかしら。
ベアトリーチェは頭を傾げていたが、フェリシアの「あーあ、お腹が空いた。甘いものが食べたい」という声で、小さな疑問も消し飛んだ。
自動運転馬車は、ベアトリーチェ達を載せて、オーウェスト侯爵領に帰っていった。
というより、公爵家が管理している静養所を慰問しているのだ。
ここ数年、闇の精霊師としての修業を兼ねて、ベアトリーチェとフェリシアは静養所に入所している患者に治癒魔法の練習をしていた。
魔法といっても精神干渉の魔法はご法度。
だから、カウンセリングのようなもので、相手と話をすることが主な目的だった。
しかし、闇の精霊は、静寂と安らぎを与えるため、ベアトリーチェたちと会話した何人かの患者も彼女らが帰った後は穏やかな表情を浮かべていた。
流石に王女や大公令嬢に暴れて手におえないような患者の世話はさせられないから安心だ。
一緒についてきている護衛や侍女たちもほっと胸を撫で下ろした。
今日の相手は、年老いた夫人で、記憶もあやふやな状態。今覚えたことも一時間もすればまた聞き直すこともある。それでもフェリシアもベアトリーチェも自分たちを必要とされることを密かに喜んだ。
頼られる存在だということが、彼女らにとって満足な結果だった。
ここ数年でベアトリーチェ達と話をして、心が落ち着いた人の何人かは退所していき、新しい別の人生を歩んでいる。
そのこともベアトリーチェ達の励みになった。
自分たちのしていることが、たくさんの人の役に立っているという事実が自信と更なる意欲を湧き起こさせている。
勿論、患者に触れることで、ベアトリーチェ達自身の魔力の調整もできるので、まさに一石二鳥というものだった。
ベアトリーチェが廊下を歩いていると、奥の方から誰かの呻き声なのか鳴き声なのかわからない声が聞こえてきた。
気になって、半開きになっている扉の向こうを覗いた。
そこには白い髪を振り乱した女性が、ベッドの上で暴れている。
何か喚きながら、職員の手を逃れてベアトリーチェの方に走ってきた。
恐ろしい形相に身を竦めて動けないベアトリーチェの腕を掴んだできた。
爪が食い込んで痛いが女性とはいえ大人の力に抗えない。生暖かい水滴が指の方まで滴るのを感じている。
慌てた職員が彼女に失神の魔法をかけようとしたが、何故か女性は掴んでいた腕を離して、ベアトリーチェに謝ってきた。
「ごめんなさい。ごめんなさい」
職員が女性を支えるようにベッドに戻した。
ベアトリーチェは何が起きたのか分からない。
ただ、その場に呆然と立っていた。
「今のは君がやったのかい」
後ろから声が聞こえてきて、振り向くと茶色い髪にトパーズ色の瞳をしたひょろりとした長身の男性が声をかけてきた。
「わ…わかりません」
「ここは立ち入り区域だが、どうやって入ってきたんだい」
「声が聞こえてきて、気になって…申し訳ありません」
「はあっ、もういいから帰りなさい。ここへは二度と立ち入らないように」
「わかりました」
ベアトリーチェは男性に注意されて項垂れて、元来た廊下を戻っていった。
「公爵閣下…いつこちらに」
「今しがただ。患者の容体は?」
「それがさっきまで、いつものように暴れていたのですが、嘘のように落ち着いていて、僕らにも何がなんだかわからないんです」
「落ち着いているだと」
「はい」
公爵と呼ばれた男は、白い髪の女性の方に近付いて、彼女に声をかけた。
「こんにちは夫人。今日のご気分はいかがですか」
「……」
焦点の合っていない虚ろな目はいつも通りだが、確かに静かにベッドに腰かけている。
世話をしている職員の言うことに素直に従っているのだ。
確かに不思議だ。
今までどんな薬を使っても状態を安定させるだけで手一杯だったのに、少し好転の兆しを見せるなんて。
公爵は顎に手を当てて考え込んだ。
もしかして…まさか。さっきのあの少女は闇の精霊と契約しているのか?
最近、この療養所に慰問に訪れる貴族令嬢がいると報告があったが、私が会ったのはそのうちの誰だろう。
難しい表情を浮かべる公爵の様子に職員たちは叱責されるのではないかと内心ビクビクしていた。
「公爵閣下。母の容体はどうでしょうか?」
黒髪の少年が公爵に話しかけた。
もうすぐ学園に戻らなくてはならないので、母親の見舞いに訪れたのだ。
「デミオンか…それが、今日は珍しく落ち着いているんだ」
「本当ですか?」
「ああ」
「母上。俺が分かりますか?」
「……」
デミオンの呼びかけに女性は振り向くが言葉は返さない。
それでもいつものように暴れて、自分や職員に傷を負わせていない。ただ焦点の合っていない目でデミオンの方を見ているだけだった。
「よかった。何か糸口でも掴みましたか」
「いや…まてよ。もしかしたら」
デミオンの表情は期待に満ちていた。
公爵は職員に、
「次に少女がきたら、私に連絡してくれ。確認したいことがある」
「畏まりました」
公爵は考え事をしながら、部屋を出た。
デミオンは、久しぶりに母の顔を見ていた。瘦せてはいるが表情は少し穏やかに見える。
一方ベアトリーチェは、男性に叱られたことでしょんぼりしていた。
フェリシアに話すと、
「もう、一人で勝手に歩くからだよ。今度はいなくならないでね。皆心配していたんだから」
「ごめんなさい。二度としないわ」
「本当にしないでよ」
「わかったから許してよ。そうだ。帰りにベリーベリーのケーキを買って帰りましょう」
「うん。それなら許す」
フェリシアは、口を尖らせながら、しぶしぶの表情でベアトリーチェに返事した。
侍女や騎士たちからもさんざん注意されたベアトリーチェは、帰りの馬車の中で大きなため息をついた。
今日は散々な一日だったな。
窓から見える療養所の方を見ると、黒髪の少年が先ほどベアトリーチェを叱った男性と何か話をしているのが見えた。
あれ、デミオンだわ。一体何をしにここに来たのかしら。
ベアトリーチェは頭を傾げていたが、フェリシアの「あーあ、お腹が空いた。甘いものが食べたい」という声で、小さな疑問も消し飛んだ。
自動運転馬車は、ベアトリーチェ達を載せて、オーウェスト侯爵領に帰っていった。
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