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第一章
さよなら、初恋の人
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何か夢を見ていたような気がするが、起きた時にはベアトリーチェの記憶から全て消えていた。
相変わらず、ベアトリーチェの周りを蛍の様に飛び回る闇の精霊。手で追い払う仕草をすると、ホテルの使用人が怪訝な表情を見ている。
いけない。普通の人には見えないのだわ。気を付けないと…。
ベアトリーチェは気を取り直して支度を急いだ。
今日は、王宮に呼ばれている。国王への謁見が終われば、長年住んでいたアルカイドを出て、父母の故郷フロンティアに向かう予定だ。
新しい国に行く不安よりも、何かが始まりそうでわくわくした気持ちの方が勝っている。
「準備は出来たかい?」
部屋の外で待っていたレオンハルトは、ベアトリーチェに声をかけた。
「はい。できています」
ベアトリーチェは、初めて着るフロンティアの衣装に感動した。アルカイドは重たいドレスなのに、フロンティアのドレスは軽い。滑らかでシンプルなデザインだがどこか品が感じられる。長いワンピースを着ているような不思議な感覚。
色はベアトリーチェとレオンハルトの瞳の翠。シルバーのネックレスには青い宝石が填められていた。父と母に包まれるような衣装はベアトリーチェの心を弾ませるのに十分だった。
あの日から随分と会っていないレイノルド。果たして自分はきちんと笑う事が出来るだろうか。暫し不安に駆られたが、リリエンヌが馬車の中でそっとベアトリーチェの手を握ってくれている。
その温もりにほっと息をつく。
王都の街並みを抜ければ、王宮への道は一本道。昔は何度も往復して通いなれた道。王宮に向かう道のりはレイノルドへの想いで気が逸ったが、帰る時は寂しく、公爵家に着く頃には意気消沈していたものだ。
だが、これからは違う。これで最後となるのだ。これからは誰かの為に生きるのではなく。自分の為に生きて行こうと考えていた。
昨夜、父から渡された手帳にやりたい事をいっぱい書いて、二度目の子供時代を謳歌したい。決して後悔しない様に…。
今度は、絶対に間違えない。
強く拳を握っていたのか。リリエンヌが「大丈夫よ。心配しないで」と優しく声を掛けて、握っていた掌を開いてくれた。
王宮に着くと、ベアトリーチェ達は案内してくれている騎士の後を付いて行った。そこに見知った騎士がいる。この頃は駆け出しの新人だったのだろうが、後8年経てば中堅の部隊長になる。その人物は、あの日ベアトリーチェを頭を押さえつけ、腕を捻じ曲げた騎士だった。その後乱暴に牢に投げ入れられたのを覚えている。
誰かから聞いた話では、彼の妹はレイノルド様に近付こうとして、ベアトリーチェに排除されたらしい。何人もそういった輩が大勢いて、ベアトリーチェは数えるほどしか記憶していない。
どれほど排除していっても後から蛆の様に湧いてくる。レイノルドという甘い蜜に群がる美しい毒蝶は、常にベアトリーチェの神経を逆なでする存在だった。
過去の記憶を思い出していたせいか、立ち止まっていたらしい。
「どうかしましたか?」
親切に訊ねてくるが、あの時受けた痛みは忘れられない。ふと、目に入った中庭への階段…。
ここでレイノルド様と話をしたんだった。あそこでは、読書をしているレイノルド様の横に座って彼が読み終わるのを待っていた。
そんなこともあったのだと済ませられるほど、簡単な気持ちではない。複雑な気持ちを押し込めて、ベアトリーチェはその場を後にした。
謁見室に辿り着くと国王と王妃が玉座に座り、宰相がことの顛末を話した。
「では、先日約束した通り、ベアトリーチェはベンジャミン・チェスター公爵の実子ではないことを確認しました。そこで、レイノルド王太子殿下の婚約者はチェスター公爵の実子であるジュリア・チェスター嬢に内定し、仮の婚約期間を設ける事を提案いたします」
「そうだな。令嬢は平民の血が流れているそうではないか。まだ貴族令嬢としての知識や振る舞いが身についていないであろう。ならば、暫し猶予を与え、様子を見てから結論を出すことにしよう。そうだな。3年ぐらいあれば成果が出るのではないか?」
「畏まりました。ではそのように手配いたしましょう。その間の妃教育は中止ということで宜しいでしょうか。王妃殿下」
「仕方がありませんね。そうするしかないでしょう。でも、令嬢が落第した場合、次の候補はどうするのです」
「その時は異国の王女を迎えても良いかと」
「それも一理ある。準備を始めるがよい」
「ところで、フロンティア帝国の大公殿下。大公令嬢も候補に加えさせてもらえまいか。その宝石眼は実に見事なものだ。次代の子らにも受け継げられようぞ」
「申し訳ありませんが、いずれ我が帝国内で縁談を探すつもりですので、ご容赦下さい」
「そうか、残念ではあるが今回は縁がなかったと考えよう」
国王ジルベスターは残念そうに頷いた。王妃は扇で口元を隠しているが、その口角はしてやったりとほくそ笑んでいる事だろう。
彼女にとって、フロンティア帝国は地雷のようなもの。ある人物を思い出して腸が煮えくり返るのを必死で隠そうとしていた。
ベアトリーチェは大人たちの話が進む中、国王の隣に立つレイノルドの方をじっと見つめていた。
───遠い……。
今までは気に留めていなかったが、玉座と壇下に位置する自分との距離が酷く遠くに感じていた。
ああ…今、わかったわ。これがわたしとレイノルド様との距離だったのね。こんなに遠いのに必死で追いかけて隣に立とうともがいていた自分が滑稽だわ。
どんなに急いで走っても追いつくことはない距離。レイノルド様は一度も私の歩行に合わせてはくれなかったし、わたしも急ぎ過ぎた。気持ちだけが逸って、全てを置き去りにしたのよ。だから、わたしは選ばれなかっただけ。もっとゆっくりと歩み寄れば良かったのに、あの頃のわたしにはそんな余裕もなかった。与えられてもいなかったわ。
ベアトリーチェは自分を苦笑し、皮肉った。過去の行いを顧みてもレイノルドがベアトリーチェを選ぶはずはなかった。寧ろ嫌悪していたくらいだろう。
それに、今ならベアトリーチェの方もリリエンヌがレオンハルトに向ける様な情念があったとは思えない。確かにレイノルドに恋はしたかもしれない。愛されたいという想いだけが先先走って、愛そうと努力はしなかったように思えるのだ。
求めるばかりの未熟な恋心は、愛という物に変化する以前のものだった。ただ、レイノルドの中の一番になりたい気持ちを押し付けただけの一方通行な幼い恋心。
あまりにも求めすぎた為にそれを愛だと勘違いしたのだ。そんなものは愛でもなんでもない。子供の様に絵本やぬいぐるみを欲しがっていただけの我儘だった。
今なら分かる。あの時の想いは愛ではなく好きだという幼い子供の幼稚な想いだという事も…。でも、彼に恋した気持ちは本物だった。
だから、言える。
はっきりと気持ちに区切りをつけられる。
わたしはあなたに実らぬ恋をしました。でもそれは叶わぬ夢だったのです。だから、これでお別れです。もうこの想いは心の奥に封印します。いつの日か、その恋心が別の想いに変わるまで…。
さようなら、わたしの大好きだった王子様──。
ベアトリーチェは、心の中で自分の想いを封じ込め、整理をつけたのだった。
壇上にいるレイノルドがどんな顔をしていたのかも知らずに……。
相変わらず、ベアトリーチェの周りを蛍の様に飛び回る闇の精霊。手で追い払う仕草をすると、ホテルの使用人が怪訝な表情を見ている。
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「はい。できています」
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色はベアトリーチェとレオンハルトの瞳の翠。シルバーのネックレスには青い宝石が填められていた。父と母に包まれるような衣装はベアトリーチェの心を弾ませるのに十分だった。
あの日から随分と会っていないレイノルド。果たして自分はきちんと笑う事が出来るだろうか。暫し不安に駆られたが、リリエンヌが馬車の中でそっとベアトリーチェの手を握ってくれている。
その温もりにほっと息をつく。
王都の街並みを抜ければ、王宮への道は一本道。昔は何度も往復して通いなれた道。王宮に向かう道のりはレイノルドへの想いで気が逸ったが、帰る時は寂しく、公爵家に着く頃には意気消沈していたものだ。
だが、これからは違う。これで最後となるのだ。これからは誰かの為に生きるのではなく。自分の為に生きて行こうと考えていた。
昨夜、父から渡された手帳にやりたい事をいっぱい書いて、二度目の子供時代を謳歌したい。決して後悔しない様に…。
今度は、絶対に間違えない。
強く拳を握っていたのか。リリエンヌが「大丈夫よ。心配しないで」と優しく声を掛けて、握っていた掌を開いてくれた。
王宮に着くと、ベアトリーチェ達は案内してくれている騎士の後を付いて行った。そこに見知った騎士がいる。この頃は駆け出しの新人だったのだろうが、後8年経てば中堅の部隊長になる。その人物は、あの日ベアトリーチェを頭を押さえつけ、腕を捻じ曲げた騎士だった。その後乱暴に牢に投げ入れられたのを覚えている。
誰かから聞いた話では、彼の妹はレイノルド様に近付こうとして、ベアトリーチェに排除されたらしい。何人もそういった輩が大勢いて、ベアトリーチェは数えるほどしか記憶していない。
どれほど排除していっても後から蛆の様に湧いてくる。レイノルドという甘い蜜に群がる美しい毒蝶は、常にベアトリーチェの神経を逆なでする存在だった。
過去の記憶を思い出していたせいか、立ち止まっていたらしい。
「どうかしましたか?」
親切に訊ねてくるが、あの時受けた痛みは忘れられない。ふと、目に入った中庭への階段…。
ここでレイノルド様と話をしたんだった。あそこでは、読書をしているレイノルド様の横に座って彼が読み終わるのを待っていた。
そんなこともあったのだと済ませられるほど、簡単な気持ちではない。複雑な気持ちを押し込めて、ベアトリーチェはその場を後にした。
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「では、先日約束した通り、ベアトリーチェはベンジャミン・チェスター公爵の実子ではないことを確認しました。そこで、レイノルド王太子殿下の婚約者はチェスター公爵の実子であるジュリア・チェスター嬢に内定し、仮の婚約期間を設ける事を提案いたします」
「そうだな。令嬢は平民の血が流れているそうではないか。まだ貴族令嬢としての知識や振る舞いが身についていないであろう。ならば、暫し猶予を与え、様子を見てから結論を出すことにしよう。そうだな。3年ぐらいあれば成果が出るのではないか?」
「畏まりました。ではそのように手配いたしましょう。その間の妃教育は中止ということで宜しいでしょうか。王妃殿下」
「仕方がありませんね。そうするしかないでしょう。でも、令嬢が落第した場合、次の候補はどうするのです」
「その時は異国の王女を迎えても良いかと」
「それも一理ある。準備を始めるがよい」
「ところで、フロンティア帝国の大公殿下。大公令嬢も候補に加えさせてもらえまいか。その宝石眼は実に見事なものだ。次代の子らにも受け継げられようぞ」
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国王ジルベスターは残念そうに頷いた。王妃は扇で口元を隠しているが、その口角はしてやったりとほくそ笑んでいる事だろう。
彼女にとって、フロンティア帝国は地雷のようなもの。ある人物を思い出して腸が煮えくり返るのを必死で隠そうとしていた。
ベアトリーチェは大人たちの話が進む中、国王の隣に立つレイノルドの方をじっと見つめていた。
───遠い……。
今までは気に留めていなかったが、玉座と壇下に位置する自分との距離が酷く遠くに感じていた。
ああ…今、わかったわ。これがわたしとレイノルド様との距離だったのね。こんなに遠いのに必死で追いかけて隣に立とうともがいていた自分が滑稽だわ。
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