もう、あなたを愛することはないでしょう

春野オカリナ

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第一章

隣国からの訪問客

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  今回もやはり、ベアトリーチェはレイノルドの婚約者に選ばれた。今度は母に告げるつもりなどない。寧ろ、これが名誉だというのなら、別の誰かジュリアに押し付けたい気分だとベアトリーチェは思った。

 王家からの通達に屋敷中が色めきたっている。

 どうせ後8年もすれば、わたしは捨てられる。後から現れる異国の王女にその座を明け渡すことになるのだから…。

 ベアトリーチェが喜ぶべき知らせに顰め面をしていると、侍女たちは怪訝そうに見つめてくる。何も分からない侍女たちからすれば、いずれこの国の権力者の座を約束されたことの何が不満なのかと不思議に思っているのだろう。

 回帰前の妃教育は思い出したくもないほど嫌な思い出が多い。全ての行動を監視され、窮屈で自由もない王宮の生活。どれをとっても苦しく、虚しい日々だった。唯一救いはレイノルドとの定例のお茶会。しかし、それも8年後に「婚約破棄」されることになるだ。そう考えると全てが無駄に思える。馬鹿馬鹿しいと思わず笑えてしまう自分に気付いた。

 今のベアトリーチェの心にはレイノルドへの愛など残っていない。忌々しさと悔しさ、それ以上に憎しみさえも宿しているかもしれない。

 だから、運命を変えるためには母リリエンヌには生きてもらわなくてはならない。

 ベアトリーチェは足早に母の部屋に向かって、部屋を飛び出した。

 あの日…リリエンヌが鳥の様に窓から転落した時に彼女の手から手紙らしきものが舞い散った。ベアトリーチェは窓から手を差し伸べたが、間に合わずドスンという鈍い音と共にリリエンヌは真下の庭に落ちたのだ。

 丁度、真下の庭にいたのは父だった。まるでこれまで父から受けた仕打ちに対する復讐のように感じたのは、果たして気の所為だろうか?

 リリエンヌの持っていた手紙が風に舞って、幼いベアトリーチェの足元に落ちてきた。拾って一番最初に目に入った文字は誰かの訃報の知らせだった。

 思い返せばリリエンヌはいつも窓辺に腰かけて遠くを見つめていた気がする。まるで、公爵家の門から誰かが来るのを待っているように…。回帰前ではその相手は父だと考えていたが本当はもっと別の特別な人だったのではないだろうか。あの訃報を知らせる手紙…。何か重要な事を見逃しているようなそんな感覚に襲われ、ベアトリーチェは母の部屋に急いでいた。



 母の部屋の前まで来ると中から前とは違って母の楽しそうな声が聞こえてきた。

 どういうこと?

 ベアトリーチェが母の部屋の扉を開く同時に、開け放たれた窓から風が吹いて、瞬く間にリリエンヌの持っていた手紙を奪って行った。

 風に舞う手紙を追いかけるようにリリエンヌの手が宙を彷徨う。それと同時に彼女の重心が傾いて窓から落ちそうになった。

 慌ててベアトリーチェは、リリエンヌの元に駆けた。侍女のエリッサがリリエンヌを窓辺から引きはがすと今度は走り寄った勢いでベアトリーチェが窓から落ちてしまった。

 「きゃあああああああーーーー」

 リリエンヌの悲鳴と共に屋敷内が騒がしくなっていく。

 ───地面にぶつかる…。

 地面が見えた時、ベアトリーチェは咄嗟に目をつぶった。周りはシーンと静まり返っていた。あれほど聞こえて来ていた使用人たちのざわめきも今は何も聞こえてこない。何よりもベアトリーチェ自身の身体に異常がなかった。衝撃の代わりに温かな腕の感触を。傷を負わなかった代わりに何かくすぐったい感覚がする。それがベアトリーチェの頬にあたっている物だと知るのは目を開いた時。

 そっと瞼を開くと誰かの腕にすっぽりと収まっている自分に気付く。ベアトリーチェは誰かの腕に抱かれている事実を知った。

 じっくりと相手を吟味するように様子を伺えば、抱き上げている人物も同じようにベアトリーチェを見つめていた。その深い翠の瞳が興味深くベアトリーチェを熱心に見ている。

 長身で短髪の黒髪に彫りの深い顔立ちの翠の目を持った男性は、三階から転落したベアトリーチェを軽々と抱き上げていた。その眼差しは優しく…切なく見える。

 「大丈夫か…痛いところはないか」
 「…は……い…。平気です」

 バリトンの声が耳に心地よく聞こえた。

 …同じ……。

 ベアトリーチェは、優しくゆっくりと地面に降ろしてくれる男性の瞳の色を確認した。自分と同じ瞳の色を持つ男性は正装し、上着には多くの勲章が付いている。胸のあたりまで伸ばした一房の黒髪は三つ編みされ、髪留めで縛っていた。おそらくあれがベアトリーチェの頬にあたっていたのだろう。

 男性の特徴から異邦人だということは容易に想像できたが、回帰前では出会っていない。ベアトリーチェが周りをキョロキョロ見回すと、後方から声が聞こえてきた。ベアトリーチェが今、何より心待ちにしていた人だった。

 「おーい、レオン。おいて行くなよ。って、ベアトリーチェかい。怪我はない。急に上から落ちたんで驚いたよ」

 「怪我はないです」

 そうこの人物こそが、リリエンヌとベアトリーチェの救い主となる伯父…エドモンド・オーウェスト侯爵。その後ろから憎々しげな表情を隠そうともせずに見ていたのは、父ベンジャミンだった。

 玄関から騒がしい声が聞こえてくる。きっとリリエンヌがベアトリーチェを心配して屋敷を出ようとして使用人に止められているのだろう。

 リリエンヌはベンジャミンの許可なく部屋から出ることが出来ない。長い軟禁にあるのだ。遂に使用人の制止を振り切ったリリエンヌはベアトリーチェの所までかけてきた。

 「ベティ!!怪我は?体は…?」

 何度も何度もベアトリーチェに異常がないかを確認し、泣きながら抱きついた。

 「お母様、なんともありません。この方がわたしを抱きとめて下さいましたから」

 リリエンヌは、改めて助けてもらった男性の姿を見て、ハッとした。

 「レ…レオン…あなた…いつ」
 「久しぶりだな。リリー会いたかった…」

 『レオン』と呼ばれた男性は、リリエンヌに泣きそうな顔を見せていた。

 「リリー、本当に久しぶりだ。もっと早く知らせてくれれば良かったのに、そうすれば…」

 伯父エドモンドはその続きの言葉を呑み込んだ。


 ──早く迎えに来たのに…。

 
 回帰前、母の葬儀で初めて会った伯父の母に手向けた言葉だった。あの時、エドモンドはベアトリーチェに「一緒に来るかい?」と救いの手を差し伸べてくれた。だが、ベアトリーチェはその手を拒んだ。もし、あの時その手を取っていたなら、ベアトリーチェの運命もまた違ったのだろう。あの時は、ベアトリーチェの中にレイノルドへの恋心と父への想いがあった。



 でも、今は何も残っていない。全て過去に捨ててきたのだから…。
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