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プロローグ
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―――― ライラ
―――― こっちへおいで、ライラ
大好きな、愛おしい人の声が遠くに聞こえる。
でも、どうしてライラと呼ぶの?
私はライラじゃない。嫌な名前で呼ばないで。
私の名前は ――――
ふと、鏡に映る自分の姿に違和感を覚えて目を瞬かせた。
朝支度で侍女に髪を梳いてもらいながら、こんなに悠長にしていていいのだろうかと、焦る気持ちが湧きあがる。
(あれ、今日は平日だよね? のんびりしていたら会社に遅れちゃう!)
寝ぼけた頭がクリアになって、慌てて周囲に目を配った。広い部屋には芸術的な調度品が置かれ、裕福な侯爵令嬢らしい部屋がそこにある。
うん、いつもの私の部屋だ。
私ってば何を考えているのかしら。毎日勉強漬けの私が会社に行く余裕なんて無いじゃない。そもそも私十二歳の子供だし。
そう思い直して、はたと気付く。
会社って何。
改めて鏡に映った自分の姿を見つめた。
肩下まで流れる艶やかな紫色の髪。あまり好きではない少し釣り目がちの顔。そしてちょっとだけ自慢できる白い肌。
やはりいつもの見慣れた私、ライラ=コンスティだ。
なのに、このままでは無断欠勤になってしまうという心配が、頭からどうしても離れない。
「ライラ様、髪型を少しお変えになりますか?」
侍女が梳くのを止めて声をかけてきた。私の様子がおかしいことを感じたのかもしれない。
「……お任せするわ」
そう言って、どうにか気持ちを落ち着かせようと深呼吸をする。
世話をしてくれる侍女は何年もの付き合いで、いつものように毎朝のルーティンをこなしている。
それなのに私にはどこか非日常のように感じて、言いようのない不安に包まれた。ここは私の部屋だというのに、つい昨日までは別の部屋にいたような感覚がある。
わけが分からず怖くなり、とりあえず昨日の寝る前までの自分の行動を振り返ってみた。
昼間は、二週間後に行われる王家主催のお茶会に向けて王妃のもとへご挨拶に伺っていた。
このことでピリピリしている両親が、夕食時まで説教を続けてくれたおかげで大好物の鴨のパイを全く美味しく頂くことができなかった。
という記憶がある一方、残業中に買い置きしていたカロリー食を侘しく口にしていた記憶もある。その時は、今夜はカレーだと言っていたお母さんの料理を楽しみにして、おやつ程度の軽食で済ましたのだ。
どちらも昨日の私で間違いない。そして鴨のパイを食べた私は朝起きてここにいる。
では会社にいた私はその後どうしたっけ?
めちゃくちゃ忙しい日だったことは覚えている。仕事のピークで連日残業が続いていたのだ。
それでも夜九時までには終わらせようとその日は頑張っていた。私の大好きなゲームのドラマCDの発売日で、予約していたショップの閉店までに間に合いたかったのだ。
ひとまず急ぎのものを片付け、九時前には会社を後にしてなんとか手にすることができた。
この時、ドラマCDの発売を本当に楽しみにしていたから相当浮かれていたのだと思う。ヘッドライトを左右に不自然に揺らしながら、蛇行して迫る車に気付かなかった。
大きな破壊音が聞こえてハッと顔をあげると、ガードレールをガリガリと擦りながら突進してくる車が見えた。
運の悪いことに、私はガードレールの途切れた場所にいた。迫る車を前にして私の時が止まる。
―――― あ。終わった。
大きな車体が私の視界を覆い、そう悟る。
お父さん、お母さん、ごめんなさい。
たぶん、私はもう無理。
咄嗟に、袋に入った買ったばかりのCDをぎゅっと胸に抱きしめた。
(せめて大好きな彼と一緒に……!)
おそらくそれが、平凡な会社員だった私の最後の記憶だった。
―――― こっちへおいで、ライラ
大好きな、愛おしい人の声が遠くに聞こえる。
でも、どうしてライラと呼ぶの?
私はライラじゃない。嫌な名前で呼ばないで。
私の名前は ――――
ふと、鏡に映る自分の姿に違和感を覚えて目を瞬かせた。
朝支度で侍女に髪を梳いてもらいながら、こんなに悠長にしていていいのだろうかと、焦る気持ちが湧きあがる。
(あれ、今日は平日だよね? のんびりしていたら会社に遅れちゃう!)
寝ぼけた頭がクリアになって、慌てて周囲に目を配った。広い部屋には芸術的な調度品が置かれ、裕福な侯爵令嬢らしい部屋がそこにある。
うん、いつもの私の部屋だ。
私ってば何を考えているのかしら。毎日勉強漬けの私が会社に行く余裕なんて無いじゃない。そもそも私十二歳の子供だし。
そう思い直して、はたと気付く。
会社って何。
改めて鏡に映った自分の姿を見つめた。
肩下まで流れる艶やかな紫色の髪。あまり好きではない少し釣り目がちの顔。そしてちょっとだけ自慢できる白い肌。
やはりいつもの見慣れた私、ライラ=コンスティだ。
なのに、このままでは無断欠勤になってしまうという心配が、頭からどうしても離れない。
「ライラ様、髪型を少しお変えになりますか?」
侍女が梳くのを止めて声をかけてきた。私の様子がおかしいことを感じたのかもしれない。
「……お任せするわ」
そう言って、どうにか気持ちを落ち着かせようと深呼吸をする。
世話をしてくれる侍女は何年もの付き合いで、いつものように毎朝のルーティンをこなしている。
それなのに私にはどこか非日常のように感じて、言いようのない不安に包まれた。ここは私の部屋だというのに、つい昨日までは別の部屋にいたような感覚がある。
わけが分からず怖くなり、とりあえず昨日の寝る前までの自分の行動を振り返ってみた。
昼間は、二週間後に行われる王家主催のお茶会に向けて王妃のもとへご挨拶に伺っていた。
このことでピリピリしている両親が、夕食時まで説教を続けてくれたおかげで大好物の鴨のパイを全く美味しく頂くことができなかった。
という記憶がある一方、残業中に買い置きしていたカロリー食を侘しく口にしていた記憶もある。その時は、今夜はカレーだと言っていたお母さんの料理を楽しみにして、おやつ程度の軽食で済ましたのだ。
どちらも昨日の私で間違いない。そして鴨のパイを食べた私は朝起きてここにいる。
では会社にいた私はその後どうしたっけ?
めちゃくちゃ忙しい日だったことは覚えている。仕事のピークで連日残業が続いていたのだ。
それでも夜九時までには終わらせようとその日は頑張っていた。私の大好きなゲームのドラマCDの発売日で、予約していたショップの閉店までに間に合いたかったのだ。
ひとまず急ぎのものを片付け、九時前には会社を後にしてなんとか手にすることができた。
この時、ドラマCDの発売を本当に楽しみにしていたから相当浮かれていたのだと思う。ヘッドライトを左右に不自然に揺らしながら、蛇行して迫る車に気付かなかった。
大きな破壊音が聞こえてハッと顔をあげると、ガードレールをガリガリと擦りながら突進してくる車が見えた。
運の悪いことに、私はガードレールの途切れた場所にいた。迫る車を前にして私の時が止まる。
―――― あ。終わった。
大きな車体が私の視界を覆い、そう悟る。
お父さん、お母さん、ごめんなさい。
たぶん、私はもう無理。
咄嗟に、袋に入った買ったばかりのCDをぎゅっと胸に抱きしめた。
(せめて大好きな彼と一緒に……!)
おそらくそれが、平凡な会社員だった私の最後の記憶だった。
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