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エピローグ
六月六日、早朝
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ぴんぽーん。
間抜けな音によってまどろみから引き戻されると、外の明るい日差しが目に入った。
ぴんぽーん、ぴんぽーん、ぴんぽーん!
連続で鳴るその音に、俺は被っていた毛布を跳ね除けて、玄関へずかずかと歩いていく。先日、屋上でできたタンコブや、教室で転んだ時のすり傷が、ひりひりと痛んだ。
あの日、何かを失ったような感覚は、今もずっと続いたままだ。胸のどこかにぽっかりと穴が開いて、そこから気持ちが流れ出してしまっているような気持ちだった。
「……ったく、一回鳴らせばわかるっての!」
俺は玄関の引き戸を勢いよく開けて、その向こうにいる相手に悪態をつく。
「おっ、茶介! いやー、ノンからケガしたって聞いたからさぁ、家で倒れてんじゃねぇべって、様子見に来たけど……案外大丈夫そうだな!」
外のまぶしい光に照らされて、九重然人が立っていた。
「……こんな時間に来て、部活の朝練もう始まってるんじゃねえのかよ」
「いや、ほら、こんな状態だしさ。しばらくは練習免除ってわけよ。……これがVIP待遇ってやつだべ」
然人は、抱えた松葉杖をこちらに見せてくる。頭を打ったなんて噂もあったが、そちらは重症ではなかったらしい。着地の際に折ってしまった骨くらいで済んだようで、週が明けた途端、このようにピンピンした顔を見せてきた。
「……顔が確認できたなら、帰れよ。遅刻するぞ」
「俺の足をあんまりなめんなよ? チャリに乗れなくたって、ここからだったら始業前に余裕で到着できるべ」
「……そうか、じゃ、頑張れよ」
この口ぶり、特に用事は無いようだった。……俺の心配をするよりも、自分の心配をした方がいいんじゃないか、そう思いながら、俺は玄関を閉めようとした。
……その時だった。
「なぁ、そういえばリサちゃんは?」
「……え?」
然人に呼び止められる。最初、こいつは何を言っているんだと思った。
「え、って。リサちゃんだよ、コンノリサ。今日は出掛けてんのか? もしくは、料理してるとか?」
矢継ぎ早に問いかけてくる然人。話しかけられる内容は、俺の頭の中にまったく無い記憶のはずだった。……しかし、どうしてか引っかかる。まるで、底の見えない濁った水の中を、手探りで探しているような感覚だ。
「……なぁ、茶介?」
呆けていたのだろう。然人が心配そうに手を伸ばしてくると、俺の脳裏にある映像が浮かび上がった。
そうだ、あれは夜の、この場所だ。
ここにいたのは然人ではなく、女子だった。……その子は、金色の瞳に涙をたっぷりと浮かべていて、こう言ったのだ。
『近野……近野里咲です』
俺は思わず、サンダルを履いて、玄関を飛び出す。……なぜかはわからない。思考しての結果ではなかった。
「お、おい! 茶介!」
「悪い然人、鍵は閉めなくていいから、扉だけ閉めといてくれ!」
「閉めろったって、お前な!」
足を怪我している然人は、俺の行く先が気になっただろうが、追ってくることはできないだろう。
……それで良かった。この意味のわからない衝動に突き動かされた結果、何が起こるのかは俺自身も理解していないのだから。
俺は家の前の道を、裏の山に向かって駆け出す。
そうしていると、また新しい映像が浮かび上がった。
これは夜。……神社への道に向かって、俺と女の子の二人が歩いている。月の光がだんだんと黒い枝のカーテンに覆われて、辺りがだんだんと暗くなって……二人の距離が、心なしか近くなった、そんな様子だ。
舗装された道路が終わって、神社への道と、尾先家の私道と、二股に分かれている場所にたどり着く。俺の足は迷わず、尾先家の私道の方を選んでいた。昔ジジイが整備したであろうその道は、均等ではなく、かつ高い段差になっていて、走りづらい。……それでも俺は一心に、その土の階段を駆け上がっていく。
次に浮かび上がった映像は、最近の出来事ではないようだ。しかし不思議なことに、先ほど玄関で見た幻視と同じ女の子が、こちらを見ているようだった。これはきっと、夏。……俺が、熱中症になりかけて、倒れていたあの日のことだ。
『私もね……昔人に助けられたんだよ。お母さんと二人で、お腹が空いてて、キミと同じように行き倒れそうだった。……そうしたらね、こうして、助けてくれた人がいたの。大丈夫か? って』
夢中で走っていると、気付けば広場にたどり着いていた。……レンガで敷き詰められた、然人が花火を盛大に行った場所だ。
ここが目指していた場所だったのか……? いや、違う。ここより、もっと先の……。切り返した先の登り道だ。サンダルのスキマが、雑草とすれて少しかゆくなっている。……でも、それで歩みを止める気には、どうしてもなれなかった。
……そうだ。近野里咲だ。どうして忘れていたんだろう。あいつのおかげで、俺は助かったのだ。一昨日、あの枝高の屋上で、俺が囚字エリの霊に落とされずに済んだのは、彼女に助けられたからだ。
俺は道の無い道を、森の中を駆ける。
結局あの日、あいつは俺の質問に答えなかった。ただ化かすだけなら、あんなに手の込んだ演出をする必要はない。彼女は、ひょっとして……然人たちが花火で俺のことを話しているのを聞いて、少しずつ、家の外へと連れ出してくれていたのではないだろうか。
最初は、裏の山。次に、枝高までの道にあるトンネル。そして、最終的に……俺が勝手に訪れる形になってしまったが、枝高の校舎。あの日、彼女が枝高にいたのは、ひょっとしたら『四百十九人目』の噂の下調べをしようとしていたのではないだろうか……?
いや、そんなものは全て考えすぎで、本当は彼女が言うように、俺を化かそうと何かを考えていたのかもしれない。俺が彼女からちゃんとした返答をもらうまで、そのどちらの可能性もあるのだ。
走り続けて、ついに、俺はその場所にたどり着いた。
そこは、祠というにはあまりに簡素で、本当に小さな石を積み上げた、ちょっとしたオブジェのある場所だった。
あの日と同じように、さわさわと周囲の葉が風で擦れる。……とても、静かな場所だった。
「……近野。いや……化け狐」
俺はそこに立っていた後姿に、声をかける。
ボロボロで、砂だらけの枝高の制服に、どこかで見たことのあるパーカーを羽織った、女の子だった。
「然人の記憶を消すのを、忘れてたんだよな。……だから、記憶に残らなかったはずのお前を、俺は見つけ出してしまったわけだ」
初夏の爽やかな風がびゅーっと、こちらに向かって吹き付けてくる。その風と同時に振り向いた彼女は、どこか神秘的な雰囲気をまとっているように感じた。
彼女の顔の形が目に入る。毛むくじゃらの顔、もこもこの腕、少し出張った黒く丸い鼻、スカートの裾からはみ出したふわふわの尻尾――そして、パーカーのフードで少し隠れてはいるが、頭のてっぺんからピンと生えた二本の耳。
彼女は目を閉じて、すっと息を吸い込んだ。
その後に紡がれる言葉は何なのか。
今の俺は、ただ彼女が語り始めるのを待っていた。
その時は、きっとすぐに訪れる。
間抜けな音によってまどろみから引き戻されると、外の明るい日差しが目に入った。
ぴんぽーん、ぴんぽーん、ぴんぽーん!
連続で鳴るその音に、俺は被っていた毛布を跳ね除けて、玄関へずかずかと歩いていく。先日、屋上でできたタンコブや、教室で転んだ時のすり傷が、ひりひりと痛んだ。
あの日、何かを失ったような感覚は、今もずっと続いたままだ。胸のどこかにぽっかりと穴が開いて、そこから気持ちが流れ出してしまっているような気持ちだった。
「……ったく、一回鳴らせばわかるっての!」
俺は玄関の引き戸を勢いよく開けて、その向こうにいる相手に悪態をつく。
「おっ、茶介! いやー、ノンからケガしたって聞いたからさぁ、家で倒れてんじゃねぇべって、様子見に来たけど……案外大丈夫そうだな!」
外のまぶしい光に照らされて、九重然人が立っていた。
「……こんな時間に来て、部活の朝練もう始まってるんじゃねえのかよ」
「いや、ほら、こんな状態だしさ。しばらくは練習免除ってわけよ。……これがVIP待遇ってやつだべ」
然人は、抱えた松葉杖をこちらに見せてくる。頭を打ったなんて噂もあったが、そちらは重症ではなかったらしい。着地の際に折ってしまった骨くらいで済んだようで、週が明けた途端、このようにピンピンした顔を見せてきた。
「……顔が確認できたなら、帰れよ。遅刻するぞ」
「俺の足をあんまりなめんなよ? チャリに乗れなくたって、ここからだったら始業前に余裕で到着できるべ」
「……そうか、じゃ、頑張れよ」
この口ぶり、特に用事は無いようだった。……俺の心配をするよりも、自分の心配をした方がいいんじゃないか、そう思いながら、俺は玄関を閉めようとした。
……その時だった。
「なぁ、そういえばリサちゃんは?」
「……え?」
然人に呼び止められる。最初、こいつは何を言っているんだと思った。
「え、って。リサちゃんだよ、コンノリサ。今日は出掛けてんのか? もしくは、料理してるとか?」
矢継ぎ早に問いかけてくる然人。話しかけられる内容は、俺の頭の中にまったく無い記憶のはずだった。……しかし、どうしてか引っかかる。まるで、底の見えない濁った水の中を、手探りで探しているような感覚だ。
「……なぁ、茶介?」
呆けていたのだろう。然人が心配そうに手を伸ばしてくると、俺の脳裏にある映像が浮かび上がった。
そうだ、あれは夜の、この場所だ。
ここにいたのは然人ではなく、女子だった。……その子は、金色の瞳に涙をたっぷりと浮かべていて、こう言ったのだ。
『近野……近野里咲です』
俺は思わず、サンダルを履いて、玄関を飛び出す。……なぜかはわからない。思考しての結果ではなかった。
「お、おい! 茶介!」
「悪い然人、鍵は閉めなくていいから、扉だけ閉めといてくれ!」
「閉めろったって、お前な!」
足を怪我している然人は、俺の行く先が気になっただろうが、追ってくることはできないだろう。
……それで良かった。この意味のわからない衝動に突き動かされた結果、何が起こるのかは俺自身も理解していないのだから。
俺は家の前の道を、裏の山に向かって駆け出す。
そうしていると、また新しい映像が浮かび上がった。
これは夜。……神社への道に向かって、俺と女の子の二人が歩いている。月の光がだんだんと黒い枝のカーテンに覆われて、辺りがだんだんと暗くなって……二人の距離が、心なしか近くなった、そんな様子だ。
舗装された道路が終わって、神社への道と、尾先家の私道と、二股に分かれている場所にたどり着く。俺の足は迷わず、尾先家の私道の方を選んでいた。昔ジジイが整備したであろうその道は、均等ではなく、かつ高い段差になっていて、走りづらい。……それでも俺は一心に、その土の階段を駆け上がっていく。
次に浮かび上がった映像は、最近の出来事ではないようだ。しかし不思議なことに、先ほど玄関で見た幻視と同じ女の子が、こちらを見ているようだった。これはきっと、夏。……俺が、熱中症になりかけて、倒れていたあの日のことだ。
『私もね……昔人に助けられたんだよ。お母さんと二人で、お腹が空いてて、キミと同じように行き倒れそうだった。……そうしたらね、こうして、助けてくれた人がいたの。大丈夫か? って』
夢中で走っていると、気付けば広場にたどり着いていた。……レンガで敷き詰められた、然人が花火を盛大に行った場所だ。
ここが目指していた場所だったのか……? いや、違う。ここより、もっと先の……。切り返した先の登り道だ。サンダルのスキマが、雑草とすれて少しかゆくなっている。……でも、それで歩みを止める気には、どうしてもなれなかった。
……そうだ。近野里咲だ。どうして忘れていたんだろう。あいつのおかげで、俺は助かったのだ。一昨日、あの枝高の屋上で、俺が囚字エリの霊に落とされずに済んだのは、彼女に助けられたからだ。
俺は道の無い道を、森の中を駆ける。
結局あの日、あいつは俺の質問に答えなかった。ただ化かすだけなら、あんなに手の込んだ演出をする必要はない。彼女は、ひょっとして……然人たちが花火で俺のことを話しているのを聞いて、少しずつ、家の外へと連れ出してくれていたのではないだろうか。
最初は、裏の山。次に、枝高までの道にあるトンネル。そして、最終的に……俺が勝手に訪れる形になってしまったが、枝高の校舎。あの日、彼女が枝高にいたのは、ひょっとしたら『四百十九人目』の噂の下調べをしようとしていたのではないだろうか……?
いや、そんなものは全て考えすぎで、本当は彼女が言うように、俺を化かそうと何かを考えていたのかもしれない。俺が彼女からちゃんとした返答をもらうまで、そのどちらの可能性もあるのだ。
走り続けて、ついに、俺はその場所にたどり着いた。
そこは、祠というにはあまりに簡素で、本当に小さな石を積み上げた、ちょっとしたオブジェのある場所だった。
あの日と同じように、さわさわと周囲の葉が風で擦れる。……とても、静かな場所だった。
「……近野。いや……化け狐」
俺はそこに立っていた後姿に、声をかける。
ボロボロで、砂だらけの枝高の制服に、どこかで見たことのあるパーカーを羽織った、女の子だった。
「然人の記憶を消すのを、忘れてたんだよな。……だから、記憶に残らなかったはずのお前を、俺は見つけ出してしまったわけだ」
初夏の爽やかな風がびゅーっと、こちらに向かって吹き付けてくる。その風と同時に振り向いた彼女は、どこか神秘的な雰囲気をまとっているように感じた。
彼女の顔の形が目に入る。毛むくじゃらの顔、もこもこの腕、少し出張った黒く丸い鼻、スカートの裾からはみ出したふわふわの尻尾――そして、パーカーのフードで少し隠れてはいるが、頭のてっぺんからピンと生えた二本の耳。
彼女は目を閉じて、すっと息を吸い込んだ。
その後に紡がれる言葉は何なのか。
今の俺は、ただ彼女が語り始めるのを待っていた。
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