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第4話 尾先茶介は血塗れの怪に挑む
5 立ち上がって、逃げるしかない
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それを見て、俺は反射的に近野の腕を引っ張った。理由は三つある。
一つ目は、どこからか鳴るアラームの音に気を取られていたこと。視界の隅に、ノンが慌ててスマートフォンを取り出すのが見えた。彼女が時計を気にしていたのは、そのせいだったのだろう。
二つ目は、近野があまりにも無防備だったこと。教室の入り口を背にして立っていた彼女は、先ほどまで俺が指摘していた色々なことを反芻していたからか、心ここにあらず、といった感じだったのだ。
三つ目は、他でもない近野の背後に立っていた人影だ。近野やノンとの会話に気を取られていたとはいえ、教室の中に誰かが入ってきたのに気が付かないはずがない。だからそれは、そこに突然現れたのだと理解できてしまった。それは左腕を振り上げ、近野の背中に振り下ろそうとしていたのだ。
腕を引っ張られた近野は、こちらにつんのめる形で飛んでくる。その体を支えることができず、俺はバランスを崩して転びそうになった。
俺とそれの間から近野がいなくなったことで、ようやく全体像が見えた。
長い髪が顔の前に流れていて顔は良く見えない。枝高の制服を着ていて、緑色のスカーフがだらんと垂れていた。これは、枝高一年の色だ。そして、ほとんど日に当たっていない俺よりもよっぽど青白い肌の色。
ノンが無事アラームを止められたからか、それが腕を振り下ろした後、間合いを見計らうかのように沈黙が流れる。
そして――その時は突然訪れた。
それは踏み込むだとか、一瞬屈むだとか、そんな予備動作を一切せずに、こちらに飛び込んできた。振り下ろした左手を、今度は振り上げるようにしながら、俺の方にまっすぐ飛んできたのだ。
本能がまずいと告げた時には、もう遅かった。俺は距離を取るように上半身を後ろに反らした。しかし、取り残された右腕が、それの振り上げた左腕と交差する形になる。相手の腕と触れるような感覚は無かった。ぞわりとした悪寒が、その左腕と同時にすり抜けていったのだ。
気味の悪さを覚えながら、俺は右腕を背後の机につこうとする。だが、そうすることはできなかった。右腕に力が一切入らなかったのだ。支えを失った俺は肩から倒れ込み、派手に机を飛ばしながら床に倒れ込む。
「いッ……!」
全身を襲った鈍い痛みに顔を上げると、俺はそれと初めて目が合った。そして……俺はそれを見たのが初めてのことではないと気が付いてしまった。
それを前に見たのは、四月二十日。赤い床事件と呼ばれているらしい――あの憂鬱な夕方に、屋上から落ちてきた人影そのものだったのだ。形相こそ異なっているが、裂けるような口の開きは、あの時の顔と寸分たがわない。
しかし、あいつは……あの日、屋上から落ちてきて、血らしき赤い液体をぶちまけていたのではなかったか?
それに、先ほど力が入らなかった右腕は、まだ思い通りに動かないままだ。この状態を何かに例えるのは非常に難しい。強いるのであれば、腕を体の下敷きにしたまま寝てしまい、血の巡りが悪くなって痺れている……その状態を、もっと悪化させたようなものと言えばいいだろうか。
「尾先!」
ノンの大声で我に返ると、じんわりとした痛みが蘇ってきた。
「アンタ、何やってんの!」
ノンがこちらに、机をどけながら向かってきた。膝を曲げて、地面を蹴って、筋肉の予備動作がはっきりわかる。そうだ、人間の動きというものは、こういうもののはずだ。それなのに、俺の目の前に立っている……いや、存在するこいつは、まったく予測不可能な動きをしてきた。
こちらを見下す眼差しと目が合う。……いや、これは目というのだろうか? ガラス玉のように顔に張り付いているそれは、入り込んだ光を全て飲み込むかのように、黒く、黒く澱んでいた。
駆け寄ってきたノンに上体を起こされると、それとの距離が少しだけ縮まる。すると、言い様のない感情……これは、恐怖とでも言うのだろうか。それが、心の奥底から浮かび上がってきて、あっという間に心を侵食していった。
「四時二十分……」
耳元でノンが囁くのが聞こえた。
四、二、〇の並び。それは確か、女子高生が投身自殺した日付であり、その女子高生が病的なまでに固執していた数字であり、赤い床事件が起こった日付でもあった。
ということは、やはり、こいつは。
それがじわじわと、こちらに向かって近づいてくる。先ほど少し腕をかすめただけで、これほどの異常が体を襲ったのだ。もし、全身が通り抜けたりしようものなら……どんな目に遭うのか、想像もできなかった。
言い様のない恐怖が全身を凍り付かせた。このままでは――まずい。
混乱する頭でノンに逃げろと伝えようとしたとき、それは起こった。
俺とそれの間に、一つの影が入り込んできた。スカートをはいた華奢な体。上半身には、俺が貸したパーカー……。
近野里咲が飛び出してきたのだ。
「逃げましょう!」
近野は鋭く言い放つと、こちらに向かってきていたそれを、黒板のほうに向かって両手で突き飛ばした。想定外の攻撃だったのだろう。突き飛ばされ、教卓の向こう側に向けて転倒したように見えたそれは、すぐには起き上がってこなかった。
倒れたそれがどうなったのか確認しようと首を少し伸ばすと、力強く後ろに向かって引っ張られる。
「馬鹿、早く立ち上がんの!」
声の主は、ノンだった。近野が後ろから背中を押して、立ち上がらせてくれた。俺たちは全力で走り出す。教室の扉を開けて廊下に飛び出ると、近野が教室の扉を勢いよく閉めた音が背後から響いた。
一つ目は、どこからか鳴るアラームの音に気を取られていたこと。視界の隅に、ノンが慌ててスマートフォンを取り出すのが見えた。彼女が時計を気にしていたのは、そのせいだったのだろう。
二つ目は、近野があまりにも無防備だったこと。教室の入り口を背にして立っていた彼女は、先ほどまで俺が指摘していた色々なことを反芻していたからか、心ここにあらず、といった感じだったのだ。
三つ目は、他でもない近野の背後に立っていた人影だ。近野やノンとの会話に気を取られていたとはいえ、教室の中に誰かが入ってきたのに気が付かないはずがない。だからそれは、そこに突然現れたのだと理解できてしまった。それは左腕を振り上げ、近野の背中に振り下ろそうとしていたのだ。
腕を引っ張られた近野は、こちらにつんのめる形で飛んでくる。その体を支えることができず、俺はバランスを崩して転びそうになった。
俺とそれの間から近野がいなくなったことで、ようやく全体像が見えた。
長い髪が顔の前に流れていて顔は良く見えない。枝高の制服を着ていて、緑色のスカーフがだらんと垂れていた。これは、枝高一年の色だ。そして、ほとんど日に当たっていない俺よりもよっぽど青白い肌の色。
ノンが無事アラームを止められたからか、それが腕を振り下ろした後、間合いを見計らうかのように沈黙が流れる。
そして――その時は突然訪れた。
それは踏み込むだとか、一瞬屈むだとか、そんな予備動作を一切せずに、こちらに飛び込んできた。振り下ろした左手を、今度は振り上げるようにしながら、俺の方にまっすぐ飛んできたのだ。
本能がまずいと告げた時には、もう遅かった。俺は距離を取るように上半身を後ろに反らした。しかし、取り残された右腕が、それの振り上げた左腕と交差する形になる。相手の腕と触れるような感覚は無かった。ぞわりとした悪寒が、その左腕と同時にすり抜けていったのだ。
気味の悪さを覚えながら、俺は右腕を背後の机につこうとする。だが、そうすることはできなかった。右腕に力が一切入らなかったのだ。支えを失った俺は肩から倒れ込み、派手に机を飛ばしながら床に倒れ込む。
「いッ……!」
全身を襲った鈍い痛みに顔を上げると、俺はそれと初めて目が合った。そして……俺はそれを見たのが初めてのことではないと気が付いてしまった。
それを前に見たのは、四月二十日。赤い床事件と呼ばれているらしい――あの憂鬱な夕方に、屋上から落ちてきた人影そのものだったのだ。形相こそ異なっているが、裂けるような口の開きは、あの時の顔と寸分たがわない。
しかし、あいつは……あの日、屋上から落ちてきて、血らしき赤い液体をぶちまけていたのではなかったか?
それに、先ほど力が入らなかった右腕は、まだ思い通りに動かないままだ。この状態を何かに例えるのは非常に難しい。強いるのであれば、腕を体の下敷きにしたまま寝てしまい、血の巡りが悪くなって痺れている……その状態を、もっと悪化させたようなものと言えばいいだろうか。
「尾先!」
ノンの大声で我に返ると、じんわりとした痛みが蘇ってきた。
「アンタ、何やってんの!」
ノンがこちらに、机をどけながら向かってきた。膝を曲げて、地面を蹴って、筋肉の予備動作がはっきりわかる。そうだ、人間の動きというものは、こういうもののはずだ。それなのに、俺の目の前に立っている……いや、存在するこいつは、まったく予測不可能な動きをしてきた。
こちらを見下す眼差しと目が合う。……いや、これは目というのだろうか? ガラス玉のように顔に張り付いているそれは、入り込んだ光を全て飲み込むかのように、黒く、黒く澱んでいた。
駆け寄ってきたノンに上体を起こされると、それとの距離が少しだけ縮まる。すると、言い様のない感情……これは、恐怖とでも言うのだろうか。それが、心の奥底から浮かび上がってきて、あっという間に心を侵食していった。
「四時二十分……」
耳元でノンが囁くのが聞こえた。
四、二、〇の並び。それは確か、女子高生が投身自殺した日付であり、その女子高生が病的なまでに固執していた数字であり、赤い床事件が起こった日付でもあった。
ということは、やはり、こいつは。
それがじわじわと、こちらに向かって近づいてくる。先ほど少し腕をかすめただけで、これほどの異常が体を襲ったのだ。もし、全身が通り抜けたりしようものなら……どんな目に遭うのか、想像もできなかった。
言い様のない恐怖が全身を凍り付かせた。このままでは――まずい。
混乱する頭でノンに逃げろと伝えようとしたとき、それは起こった。
俺とそれの間に、一つの影が入り込んできた。スカートをはいた華奢な体。上半身には、俺が貸したパーカー……。
近野里咲が飛び出してきたのだ。
「逃げましょう!」
近野は鋭く言い放つと、こちらに向かってきていたそれを、黒板のほうに向かって両手で突き飛ばした。想定外の攻撃だったのだろう。突き飛ばされ、教卓の向こう側に向けて転倒したように見えたそれは、すぐには起き上がってこなかった。
倒れたそれがどうなったのか確認しようと首を少し伸ばすと、力強く後ろに向かって引っ張られる。
「馬鹿、早く立ち上がんの!」
声の主は、ノンだった。近野が後ろから背中を押して、立ち上がらせてくれた。俺たちは全力で走り出す。教室の扉を開けて廊下に飛び出ると、近野が教室の扉を勢いよく閉めた音が背後から響いた。
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