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第2話 九重然人は影と対峙する
4 ちょっと靴紐がほどけたの
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その日の放課後。
影人間の……まあ、ノンにとっては不要な知識をたくさん植えつけられて、おれと彼女は話題のトンネル前にいた。
「身近な場所と怪談を結びつけるの、本当にやめろって思うわ」
「まあまあ。ノンの話じゃ、奴が出たのは日が暮れてからって言ってたし。だいたいこういう話、ノンは信じねえべ?」
「あのね。信じるかどうかと、怖いと感じるかどうかっていうのは別の話なの、わかる?」
「……ちょっとだけわかるけど、気の持ちようが大事って話だべ!」
ノンに恨み言を述べられながら、おれはトンネルを観察する。
あまり意識をしたことは無かったが、何らかの怪談話があるのだと思って見てみると、ほんの少し不気味な感じがした。
長さはだいたい……電柱同士の間隔くらい。距離にすると三十メートルくらいになるんかな。
横幅は車が二台すれ違うことができないくらい。天井の中央には古い照明が埋め込んであり、これは日が沈む頃に自動的に点灯する。
高さは、学校の校舎の天井よりも少し高いくらいかな。
……こうして寸法を目測すると、なんだか数学の問題みたいだ。
十五年ものの壁ということもあり、内壁はスプレー缶による落書きがあちらこちらに施されていた。
次に、周囲を観察する。
市街地をはずれてバイパスが通っていることもあり、周囲は畑や田んぼや斜面ばかりだ。
夜はバイパス上の明かりが漏れて周囲はそこまで暗くも無いが、やはり市街地と比べてしまうと暗いし、何より人気が無い。
……まあ、でも茶介の家の裏に比べたらよっぽどマシだけれど。
と、そこで、トンネルの入り口のガードレールのところに、何かが落ちていることに気が付いた。最初はビニール袋か何かが落ちているのかと思ったけれど、近付いてみて違うとわかる。
……それは、透明なビニールで包まれた、一輪の白いユリの花だった。
花屋で「ユリの花を一輪ください、ラッピングは特になしで」なんて言ったような、花束ならよくある紙やリボンのラッピングなどが一切行われていない、簡素なものだった。
ただし、ビニールでしっかり包まれていて、偶然ここを通りかかったやつが落としたわけがないのは明らかだった。
「な、なあ、ノン。……この花、どういうことだべ……?」
振り向くと、ノンはなるべくこちらを見ないようにしているようだった。
「知らない」
「ま、まあ、そうだよなあ。大方、影人間の噂を流したやつが、誰かを怖がらせようと思って、置いたんだべ」
妙なものが出没する地点の近くに花が手向けられている。
ますます、ベタな話になってきた。影人間の噂くらいだったら、多少はビビるやつもいるだろうけどさ、これはやりすぎだべ。うん。
「……じゃ、なくって」
「……ん?」
「知らないってのは、そういう意味じゃなくって……」
ノンが珍しく歯切れの悪い言い方をする。
彼女は唇に指を当て、少しの間悩んだような素振りを見せていたけれど、そのうち、たまらなくなったのか、次の言葉が零れ出てきた。
「その花がどうして、毎年そこに置かれてるのかを知らない」
それは、予想外の答えだった。
「……毎年?」
「……そう、毎年……。思い出した。あたし、見ないように……いや、見ても意識しないようにしていた。この花、確かに暑くなってくるころ、必ずここに置かれてる。小学校に通っていた頃、いや、物心付いた頃から、ずっとそう……」
「は、はあ? 毎年って、毎年?」
「アンタが見つけるまで、記憶から消してたのよ。……こんなの気味悪くて、覚えてたくないでしょ!」
ノンは逆ギレしながらおれに大声を出す。
ってことは何か。ノンの言っていることが正しければ、この花束はおれ達が少なくとも小学生の頃から置かれているってことになるのか……?
そんなの、昨日今日……いや、今年初めて「影人間」の噂を流すような連中が用意できるわけがない。
少なくとも十年近く、この場所に花が手向けられているのだとすれば……影人間の噂も、意味合いが変わってくる。
「じ、冗談きついべー、ノン。そんな、少なくとも十年、いや、物心付いたころだと、もっとか? 十二年? そんな長期スパンで、影人間の噂を用意してたってことかよー」
「あたしがそんな、自分の首を絞めるような冗談を言うと思ってる?」
ノンの言い分はもっともだった。
誰よりも怖がりのノンが、そんな作り話をするわけがない。
怪談話。人気のない場所。同じ季節に供えられるユリの花。色々と条件が重なって、身震いする。もしかして、ここには本当に妙なものが住み着いているのか……?
色々考えようとするものの、思考が簡単にまとまるような気がしなかった。
こりゃ、忘れないうちにこのことを里咲ちゃんに報告しなけりゃならないな……などと思っていると、背中を何かに突っつかれた。
「先、行って」
振り返ると、ノンが肘を突き出していた。
「行くって、何が」
「妙な話に巻き込んだ責任、取ってよ。先に通れって言ってんの」
「……影人間って、後ろから付いてくんべ? おれが先でいいんか?」
「やっぱりあたしが先に行く」
ノンは肩をいからせて歩き始めた。
彼女は入り口のところで立ち止まる。
その場でトンネルの入り口をぐるりと見渡し、そして……大きく深呼吸をしてから、おそるおそる歩を進めていった。
おれは頼まれた以上仕方なく、自転車を手で押しながら、彼女の後を追う。どうせ茶介の家に行くなら、この道が近道なんだ。
トンネルの中に入った瞬間、外の雑音がしんとしなくなり、暖かい空気が一気に冷え込んだ。
まるで冷蔵庫を開けて、何か入っているか吟味しているときのようだ。目がまだ慣れていないので、周囲が一気に暗くなったように感じる。
数歩前を行くのノンは一歩一歩、地面を踏みしめるように歩いていた。やがて怖くなり始めたのか、次第に早足になっていく。その歩きはちょっと曲がっていて、ひょっとしたら目を瞑っているのかもしれなかった。
特別に妙な気配を感じるということは無い。
この冷え込みも、直射日光の当たっていないトンネルの特性だろう。そうだ。お化けなんていない。こんな噂は誰かの悪戯に違いないんだから。
そんなことを考えながら歩いていると、頭上から獣が吠えるような重苦しい音が聞こえて、そこら中に反響する。
……おそらく、上のバイパスを車が通ったんだ。
車の、そう「車の」反響音が消え、二人の足音だけが聞こえるようになると、今度は自分で転がす自転車のチェーンの音が妙に大きく聞こえだした。
チャリチャリチャリ。
……普段から聞いている音のはずなのに。トンネルの反響のせいか、その音が気味の悪い音に聞こえだす。
おれは、入り口にあったユリの花を思い出す。ながめの話を思い出す。
……まさか、本当に、このトンネルの中には、何か良くないものが住み着いているのではなかろうか……。
……と、ここで。
おれは、背後に何かの気配を感じた。
先ほどまでは、こんな感覚はなかった。だんだんと寄ってくるような、そんな嫌な気配。
まさか。まさかまさか。本当に影人間が……?
おれは、ごくりと唾を飲み込んだ。
視界はようやく暗さに慣れてきたのか、壁面の、暗い色の落書きが目に入ってくる。それがどうしてか怖く感じ、少しだけ身がぶるっと震えた。
この落書きの英語は何なんだ。ひょっとして、お前を呪う、みたいなことが書いてあるんじゃなかろうか。ああ、後ろから何かの気配を感じる。やはり噂通り、このトンネルは呪われているのか……?
恐る恐る、振り返ってみる。
立ち止まったためかチェーンの音が消え、シンとした静寂が訪れる。
……ながめから聞いていた通り、というか、それ以前に当たり前なんだが、誰もいなかった。
おれは前を向き、数歩歩いてみた。
そうだ、気のせいだ、と自分に言い聞かせながら。
……しかし、そんな自己催眠じみた努力は無駄だった。
どうしても、何かが付けて来ているような気配を感じる。
おれはポケットからスマホを取り出そうとして、やめた。ここでカメラに何か写ったら卒倒する自信がある。
……落ち着け、九重然人。おれは一人じゃない。現実世界から意識を手放すな。そうだ、おれには頼れる……いや、頼りないけど、現実の仲間がいる。
「ノン、ちょっと聞きたいんだけどさ……」
「何」
ノンは振り返らず、短く答えた。
歩みを止める気はなく、スタスタと早足のままだった。
「何か、嫌な気配感じないか……? 後ろに、誰かいるような……」
ノンがピタリ、と足を止める。
再び、トンネル内を静寂が支配した。やめてくれ。何でもいい、車の音でもいい、おれ達をそっちの世界に引きずり込まない、現実の音を聞かせてくれ……!
沈黙に耐えられず、何か言葉を発しようと、息を吸い込んだ。
……そのとき。
「きゃはははははははははは!」
その高音はおれの背後から響き、トンネル中に響き渡った。
反響したその音が四方から聞こえて、本当にその音が背後から発されたのかもわからなくなるほどだ。
ノンはもちろん、おれも思わず、比喩ではなく飛び跳ねる。
正面のノンはというと、飛んだ勢いでドスンと尻もちをついてしまった。おれは体が恐怖を感じて動いた力そのままに、勢いで後ろを振り返る。
振り返って……。
そこに、見てしまった。
「……おい! 麗!」
俺のすぐ背後でしゃがんで大笑いする少女。
ノンの妹、奥之院麗の姿を。
「いつ気付くかなーと思ってたのに、全然気付かないんだもん! あー、面白かった」
ああ、そうか。
さっきまで感じていた背後の気配は、麗だったのだ。
彼女は小学生。身長が低く、その上しゃがまれてしまえば、恐る恐る振り返ったくらいじゃ視界に入らなかったんだ……。
「麗! アンタ、冗談じゃ済まないからね!」
はるか前方で腰を抜かしていたノンが怒鳴る。
麗は心配そうな顔でその様子を見て、駆け寄っていく。
丈の短いパンツに、ハイソックス。クセのある長髪のポニーテールが揺れている。装備しているのは、中身の少ないランドセルに、ピンクのスニーカー。走るとキュッキュッという足音に、ランドセルの中の……筆箱か何かかな、揺れる音が聞こえた。
……あれで気付かれず付いて来るなんて、貴様忍びの者であるな!
「ノンねえ、どうしたの、転んじゃったの?」
「ちょっと靴紐がほどけたの」
「……紐ないよ?」
「うるさい!」
ノンは少しふらつきながら立ち上がり、スカートの埃を払う。こいつ、実はながめ以上のドSな才能を隠し持っているんじゃないだろうか。
「ね、ね、然にいが一緒にいるなんて珍しいね。デート?」
「ノンとデートなんて冗談でもやめろって、想像できねーべ。このトンネルにさ、お化けがいるかもしれないって噂を聞いてな、探検してたんだ。そいで……そうだ。ええと……『おれが頼んで』ノンに手伝ってもらってたんだべ」
「そう、それ。どうしてもって然人が言うから」
ノンが振り返らずに言う。
食いつきと変わり身の早さは芸術だった。よっぽど妹の前では弱みを見せたくないのか。……もうとっくにバレて、遊ばれているような気がしなくも無いが。
「お化け?」
「ああ。そのお化けは、夜になると出るらしくってさ。だから、一度下見に来たんよ」
「下見……ってことは、ホンミもあるってことだね!」
ホンミ?
おれは一瞬戸惑ったが、頭で文字を浮かべて納得した。「本見」ってことね。
「今晩あたりは天気も良さそうだし、本見してもいいかなって思ってんべ」
「ホント! ね、ね、麗も行きたい!」
「ん、ま、別におれは構わねーけど、ノンは……」
わいわいと話しているおれ達を置いて、ノンはさっさとトンネルを抜けてしまっていた。
「行きたいなら行けば。あたしは嫌だから」
「どうしてノンねえ、来ないの?」
「どうしてって……」
ノンが言い淀む。
そりゃそうだ、彼女はもう、一日分は怖がった。
街中に出る用事もないのに、これ以上この場所を通ることに意味はない。ましてや、夜という恐ろしい時間帯になど……。
おれが何かフォローの言葉を発するよりも早く、麗はノンのスカートの裾を掴んだ。
「ノンねえ、然にいのお手伝いしてあげてたんでしょ? お手伝いは最後までやらないとダメなんだよ」
「それは皿洗いとか風呂掃除の話で、これとは……」
「ふうん。そうなんだ」
麗は失望したように顔を背けた。
……やっぱり楽しんでるんじゃないだろうか、このませた少女は。
ノンは沈黙に耐えかねたのか、妹に家事を頼んだときの言い訳に使われるのが嫌だったのか、ため息を吐いてこう言った。
「……わかったよ、わかった。あたしも行く。麗を夜一人にしとくのは怖いし」
こうして、夜の探検隊が結成されたのである。
影人間の……まあ、ノンにとっては不要な知識をたくさん植えつけられて、おれと彼女は話題のトンネル前にいた。
「身近な場所と怪談を結びつけるの、本当にやめろって思うわ」
「まあまあ。ノンの話じゃ、奴が出たのは日が暮れてからって言ってたし。だいたいこういう話、ノンは信じねえべ?」
「あのね。信じるかどうかと、怖いと感じるかどうかっていうのは別の話なの、わかる?」
「……ちょっとだけわかるけど、気の持ちようが大事って話だべ!」
ノンに恨み言を述べられながら、おれはトンネルを観察する。
あまり意識をしたことは無かったが、何らかの怪談話があるのだと思って見てみると、ほんの少し不気味な感じがした。
長さはだいたい……電柱同士の間隔くらい。距離にすると三十メートルくらいになるんかな。
横幅は車が二台すれ違うことができないくらい。天井の中央には古い照明が埋め込んであり、これは日が沈む頃に自動的に点灯する。
高さは、学校の校舎の天井よりも少し高いくらいかな。
……こうして寸法を目測すると、なんだか数学の問題みたいだ。
十五年ものの壁ということもあり、内壁はスプレー缶による落書きがあちらこちらに施されていた。
次に、周囲を観察する。
市街地をはずれてバイパスが通っていることもあり、周囲は畑や田んぼや斜面ばかりだ。
夜はバイパス上の明かりが漏れて周囲はそこまで暗くも無いが、やはり市街地と比べてしまうと暗いし、何より人気が無い。
……まあ、でも茶介の家の裏に比べたらよっぽどマシだけれど。
と、そこで、トンネルの入り口のガードレールのところに、何かが落ちていることに気が付いた。最初はビニール袋か何かが落ちているのかと思ったけれど、近付いてみて違うとわかる。
……それは、透明なビニールで包まれた、一輪の白いユリの花だった。
花屋で「ユリの花を一輪ください、ラッピングは特になしで」なんて言ったような、花束ならよくある紙やリボンのラッピングなどが一切行われていない、簡素なものだった。
ただし、ビニールでしっかり包まれていて、偶然ここを通りかかったやつが落としたわけがないのは明らかだった。
「な、なあ、ノン。……この花、どういうことだべ……?」
振り向くと、ノンはなるべくこちらを見ないようにしているようだった。
「知らない」
「ま、まあ、そうだよなあ。大方、影人間の噂を流したやつが、誰かを怖がらせようと思って、置いたんだべ」
妙なものが出没する地点の近くに花が手向けられている。
ますます、ベタな話になってきた。影人間の噂くらいだったら、多少はビビるやつもいるだろうけどさ、これはやりすぎだべ。うん。
「……じゃ、なくって」
「……ん?」
「知らないってのは、そういう意味じゃなくって……」
ノンが珍しく歯切れの悪い言い方をする。
彼女は唇に指を当て、少しの間悩んだような素振りを見せていたけれど、そのうち、たまらなくなったのか、次の言葉が零れ出てきた。
「その花がどうして、毎年そこに置かれてるのかを知らない」
それは、予想外の答えだった。
「……毎年?」
「……そう、毎年……。思い出した。あたし、見ないように……いや、見ても意識しないようにしていた。この花、確かに暑くなってくるころ、必ずここに置かれてる。小学校に通っていた頃、いや、物心付いた頃から、ずっとそう……」
「は、はあ? 毎年って、毎年?」
「アンタが見つけるまで、記憶から消してたのよ。……こんなの気味悪くて、覚えてたくないでしょ!」
ノンは逆ギレしながらおれに大声を出す。
ってことは何か。ノンの言っていることが正しければ、この花束はおれ達が少なくとも小学生の頃から置かれているってことになるのか……?
そんなの、昨日今日……いや、今年初めて「影人間」の噂を流すような連中が用意できるわけがない。
少なくとも十年近く、この場所に花が手向けられているのだとすれば……影人間の噂も、意味合いが変わってくる。
「じ、冗談きついべー、ノン。そんな、少なくとも十年、いや、物心付いたころだと、もっとか? 十二年? そんな長期スパンで、影人間の噂を用意してたってことかよー」
「あたしがそんな、自分の首を絞めるような冗談を言うと思ってる?」
ノンの言い分はもっともだった。
誰よりも怖がりのノンが、そんな作り話をするわけがない。
怪談話。人気のない場所。同じ季節に供えられるユリの花。色々と条件が重なって、身震いする。もしかして、ここには本当に妙なものが住み着いているのか……?
色々考えようとするものの、思考が簡単にまとまるような気がしなかった。
こりゃ、忘れないうちにこのことを里咲ちゃんに報告しなけりゃならないな……などと思っていると、背中を何かに突っつかれた。
「先、行って」
振り返ると、ノンが肘を突き出していた。
「行くって、何が」
「妙な話に巻き込んだ責任、取ってよ。先に通れって言ってんの」
「……影人間って、後ろから付いてくんべ? おれが先でいいんか?」
「やっぱりあたしが先に行く」
ノンは肩をいからせて歩き始めた。
彼女は入り口のところで立ち止まる。
その場でトンネルの入り口をぐるりと見渡し、そして……大きく深呼吸をしてから、おそるおそる歩を進めていった。
おれは頼まれた以上仕方なく、自転車を手で押しながら、彼女の後を追う。どうせ茶介の家に行くなら、この道が近道なんだ。
トンネルの中に入った瞬間、外の雑音がしんとしなくなり、暖かい空気が一気に冷え込んだ。
まるで冷蔵庫を開けて、何か入っているか吟味しているときのようだ。目がまだ慣れていないので、周囲が一気に暗くなったように感じる。
数歩前を行くのノンは一歩一歩、地面を踏みしめるように歩いていた。やがて怖くなり始めたのか、次第に早足になっていく。その歩きはちょっと曲がっていて、ひょっとしたら目を瞑っているのかもしれなかった。
特別に妙な気配を感じるということは無い。
この冷え込みも、直射日光の当たっていないトンネルの特性だろう。そうだ。お化けなんていない。こんな噂は誰かの悪戯に違いないんだから。
そんなことを考えながら歩いていると、頭上から獣が吠えるような重苦しい音が聞こえて、そこら中に反響する。
……おそらく、上のバイパスを車が通ったんだ。
車の、そう「車の」反響音が消え、二人の足音だけが聞こえるようになると、今度は自分で転がす自転車のチェーンの音が妙に大きく聞こえだした。
チャリチャリチャリ。
……普段から聞いている音のはずなのに。トンネルの反響のせいか、その音が気味の悪い音に聞こえだす。
おれは、入り口にあったユリの花を思い出す。ながめの話を思い出す。
……まさか、本当に、このトンネルの中には、何か良くないものが住み着いているのではなかろうか……。
……と、ここで。
おれは、背後に何かの気配を感じた。
先ほどまでは、こんな感覚はなかった。だんだんと寄ってくるような、そんな嫌な気配。
まさか。まさかまさか。本当に影人間が……?
おれは、ごくりと唾を飲み込んだ。
視界はようやく暗さに慣れてきたのか、壁面の、暗い色の落書きが目に入ってくる。それがどうしてか怖く感じ、少しだけ身がぶるっと震えた。
この落書きの英語は何なんだ。ひょっとして、お前を呪う、みたいなことが書いてあるんじゃなかろうか。ああ、後ろから何かの気配を感じる。やはり噂通り、このトンネルは呪われているのか……?
恐る恐る、振り返ってみる。
立ち止まったためかチェーンの音が消え、シンとした静寂が訪れる。
……ながめから聞いていた通り、というか、それ以前に当たり前なんだが、誰もいなかった。
おれは前を向き、数歩歩いてみた。
そうだ、気のせいだ、と自分に言い聞かせながら。
……しかし、そんな自己催眠じみた努力は無駄だった。
どうしても、何かが付けて来ているような気配を感じる。
おれはポケットからスマホを取り出そうとして、やめた。ここでカメラに何か写ったら卒倒する自信がある。
……落ち着け、九重然人。おれは一人じゃない。現実世界から意識を手放すな。そうだ、おれには頼れる……いや、頼りないけど、現実の仲間がいる。
「ノン、ちょっと聞きたいんだけどさ……」
「何」
ノンは振り返らず、短く答えた。
歩みを止める気はなく、スタスタと早足のままだった。
「何か、嫌な気配感じないか……? 後ろに、誰かいるような……」
ノンがピタリ、と足を止める。
再び、トンネル内を静寂が支配した。やめてくれ。何でもいい、車の音でもいい、おれ達をそっちの世界に引きずり込まない、現実の音を聞かせてくれ……!
沈黙に耐えられず、何か言葉を発しようと、息を吸い込んだ。
……そのとき。
「きゃはははははははははは!」
その高音はおれの背後から響き、トンネル中に響き渡った。
反響したその音が四方から聞こえて、本当にその音が背後から発されたのかもわからなくなるほどだ。
ノンはもちろん、おれも思わず、比喩ではなく飛び跳ねる。
正面のノンはというと、飛んだ勢いでドスンと尻もちをついてしまった。おれは体が恐怖を感じて動いた力そのままに、勢いで後ろを振り返る。
振り返って……。
そこに、見てしまった。
「……おい! 麗!」
俺のすぐ背後でしゃがんで大笑いする少女。
ノンの妹、奥之院麗の姿を。
「いつ気付くかなーと思ってたのに、全然気付かないんだもん! あー、面白かった」
ああ、そうか。
さっきまで感じていた背後の気配は、麗だったのだ。
彼女は小学生。身長が低く、その上しゃがまれてしまえば、恐る恐る振り返ったくらいじゃ視界に入らなかったんだ……。
「麗! アンタ、冗談じゃ済まないからね!」
はるか前方で腰を抜かしていたノンが怒鳴る。
麗は心配そうな顔でその様子を見て、駆け寄っていく。
丈の短いパンツに、ハイソックス。クセのある長髪のポニーテールが揺れている。装備しているのは、中身の少ないランドセルに、ピンクのスニーカー。走るとキュッキュッという足音に、ランドセルの中の……筆箱か何かかな、揺れる音が聞こえた。
……あれで気付かれず付いて来るなんて、貴様忍びの者であるな!
「ノンねえ、どうしたの、転んじゃったの?」
「ちょっと靴紐がほどけたの」
「……紐ないよ?」
「うるさい!」
ノンは少しふらつきながら立ち上がり、スカートの埃を払う。こいつ、実はながめ以上のドSな才能を隠し持っているんじゃないだろうか。
「ね、ね、然にいが一緒にいるなんて珍しいね。デート?」
「ノンとデートなんて冗談でもやめろって、想像できねーべ。このトンネルにさ、お化けがいるかもしれないって噂を聞いてな、探検してたんだ。そいで……そうだ。ええと……『おれが頼んで』ノンに手伝ってもらってたんだべ」
「そう、それ。どうしてもって然人が言うから」
ノンが振り返らずに言う。
食いつきと変わり身の早さは芸術だった。よっぽど妹の前では弱みを見せたくないのか。……もうとっくにバレて、遊ばれているような気がしなくも無いが。
「お化け?」
「ああ。そのお化けは、夜になると出るらしくってさ。だから、一度下見に来たんよ」
「下見……ってことは、ホンミもあるってことだね!」
ホンミ?
おれは一瞬戸惑ったが、頭で文字を浮かべて納得した。「本見」ってことね。
「今晩あたりは天気も良さそうだし、本見してもいいかなって思ってんべ」
「ホント! ね、ね、麗も行きたい!」
「ん、ま、別におれは構わねーけど、ノンは……」
わいわいと話しているおれ達を置いて、ノンはさっさとトンネルを抜けてしまっていた。
「行きたいなら行けば。あたしは嫌だから」
「どうしてノンねえ、来ないの?」
「どうしてって……」
ノンが言い淀む。
そりゃそうだ、彼女はもう、一日分は怖がった。
街中に出る用事もないのに、これ以上この場所を通ることに意味はない。ましてや、夜という恐ろしい時間帯になど……。
おれが何かフォローの言葉を発するよりも早く、麗はノンのスカートの裾を掴んだ。
「ノンねえ、然にいのお手伝いしてあげてたんでしょ? お手伝いは最後までやらないとダメなんだよ」
「それは皿洗いとか風呂掃除の話で、これとは……」
「ふうん。そうなんだ」
麗は失望したように顔を背けた。
……やっぱり楽しんでるんじゃないだろうか、このませた少女は。
ノンは沈黙に耐えかねたのか、妹に家事を頼んだときの言い訳に使われるのが嫌だったのか、ため息を吐いてこう言った。
「……わかったよ、わかった。あたしも行く。麗を夜一人にしとくのは怖いし」
こうして、夜の探検隊が結成されたのである。
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