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第1話 近野里咲は狐に化かされる
9 狐の恩返し
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鼻をつく焦げ臭さで目が覚めた。
どうやら、居間のクッションで寝てしまっていたらしい。
窓の外からはうっすらと日差しが入り込んできており、ハトの間抜けな鳴き声が聞こえた。
はじめはその匂いに、また夢でも見ているのかと思っていた。
だがそれはあまりにも不快で、ぼんやりとした頭を徐々に覚醒させた。
寝ぼけ眼を必死で動かして、匂いの元を探す。
すると、台所へと繋がる引戸からもくもくと黒々しい煙が立ち上っているのが見えた。……何か、火にかけたままだったろうか?
慌てて引戸に駆け寄ろうとする。寝起きのせいかフラフラとした足取りになる。
一歩二歩と歩くと、その視界の動きに既視感があった。つい最近、同じように、寝ぼけながらどこかに向かったことがあったような。頭をひねると、砂だらけの近野と会ったときのことが思い当たった。
渦中にいたときにもうっすらと感じていたが、改めて考えると、恐ろしく現実離れした出来事だ。
あれらはきっと、居間で一眠りしている間に見た夢なのだろう。そう結論付けると俺は首を振って、台所の引戸を開けた。
だがそんな憶測は、途端に消え失せた。
黒々とした煙の中から出てきたのは、昨夜貸したパーカーを枝高の制服の上に着た、半人半獣の女子……近野里咲、その人だったのである。
「あっ、尾先くん。すぐ運びますから、居間で待っててください」
「いや、そうじゃなくて。何だよこれは」
近野と出会ったのが夢でないなら、懐中電灯を取りに来た昨夜、台所はもっと綺麗だったはずだ。
いや綺麗とは言わずとも、人間が生活できる空間であり、こんな爆心地のような惨状では決してなかった。
「鶴の恩返しならぬ、狐の恩返しですよ」
顔中煤だらけにして、胸を張った近野は、俺を両手で台所から押し出した。
そして、引戸を閉めて鼻歌を歌い始める。俺はただぽかんと立ち尽くすしかなかった。
数分後。居間のテーブルの上にあったのは、一枚の皿と、その上に置かれている、名状し難い消し炭のような何かだった。
「近野、これは……」
「目玉焼きと、ベーコンと、付け合せにオオバコの若葉です! すみません、卵とベーコン、勝手に使っちゃいました。でも、きっとお腹空いているだろうって思って。オオバコはさっき、摘んできました」
説明されたところで、この黒い物体のどこまでがベーコンで、どこまでが卵で草なのか、まったく判別が付かない。
手を付けたら、この世に別れを告げねばならない物体に見えるのだが、近野はキラキラとした笑顔でこちらを覗いている。
どう断ったものかと普段の俺なら考えるのだろうが、この時ばかりは、この料理さえも夢なのではないかという一抹の期待を抱いて、言われるがままその物体を口に入れてしまった。
刹那、舌がビリビリとしいう刺激を感じ、脳内を何かいけない物質が駆け巡る。……おかげさまで完全に覚醒し、色々なことを思い出してきた。
然人が白状したところによると、昨日の怪しい光事件の真相は、おおむね俺の話した通りだったようだ。
俺が集合場所に行かなかったので、あいつは一応あの場所を使うのを諦めようとしたが、皆にとっておきの場所と公言していた手前引っ込みが付かなくなったらしい。
結局あの場所で手持ち花火やら線香花火やらねずみ花火やらによる花火大会が開催され、その花火の光を近野が目撃したということである。
すべてを白状した後、然人は近野のことを内緒にすると約束して、すぐに家に帰っていった。夜中にふらついていることを両親に知られれば大目玉なんだそうだ。
彼はあれから、自宅の二階の窓から帰宅するという一大ミッションにチャレンジしたようで、その成否は謎である。
そんなことになるくらいだったら、翌日探しに来れば良かったのにと思うが、あいつのことだ。ライターを忘れたことに気が付いた途端、いてもたってもいられなくなったのだろう。
結局、昨夜の探索では「然人が花火でバカ騒ぎをした」ということ以外、何かの痕跡が見つかるということはなかった。
つまり、近野が登り道で気絶した原因までは判明したが、こんな姿になってしまった原因はまったく掴めなかったのである。
「……悪かったな、力になれなくて」
俺は口の中に残った苦いとも辛いともとれない、一生忘れることがないであろう妙な味を流し込みながら、近野を見た。
彼女は全身を覆う毛とは異なる色の、黒い前髪を指先で巻きながら、目線を横に泳がせた。
「いいえ、むしろ私は感謝しているのです。目が醒めて鏡を見て、こんな姿になってしまったと自覚したとき……誰を頼れば良いのかわからなくて。頭に浮かんだのは、尾先くんのおじい様でした。亡くなっていたのも知らずに訪ねて来た私の話を親身に聞いてくれて。本当に、嬉しかったのです」
感謝を述べる彼女に、俺はなんとも気まずい気持ちになった。
昨夜の俺の態度は、決して褒められるようなものではなかったと思う。結果として彼女を受け入れる形になったとはいえ、それはたまたま、色々な歯車が噛み合ってしまったというだけのことなのだ。
「本当に、お世話になりっぱなしでした。……では、私はこれで」
近野は立ち上がって、部屋の隅に置いていたバッグを肩にかけた。その様子を見て、俺はふと彼女に尋ねる。
「これからどうするんだよ、近野。……その格好じゃ目立って仕方ないだろ」
彼女はピタリと足を止め、少しの間静止して、そして――振り返って、力なく笑った。
「どうにか、します」
「どうにかって……」
「どうにかですよ。やってやれないことはないはずです」
「なんだよ、それ。具体的な案もないのに、無責任に……!」
強い口調になっていたことに気が付き、俺は言葉に詰まる。
……そうだ、俺に何かできることが示せないのなら、これ以上を言うべきではない。彼女を責めるべきではない。
「わかってます。でも、これ以上ご迷惑をお掛けするわけにはいきませんから」
「……学校には行けないよな。それに堂々と電車に乗って家に帰る訳にもいかないし」
誰にも見られないように帰るなら、夜になるまで待ち、なるべく人のいない夜道を選んで帰るくらいしか方法はないだろう。近里ならできなくもない。
ただ、昨夜の私道ですら生い茂っていた草木のことを考えれば、道を外れて帰るというのは非常に困難だ。近野は土地勘がありそうだが、それでも目印のない山の中を歩けば遭難しかねない。
仮に帰れたところで、誰かが助けてくれるという保証はない。
近野は昨晩、連絡する相手がいないと言っていた。相談できる相手もいないのかもしれないのだ。
「誰か……頼れる人間はいるのか?」
俺はその言葉を、近野に問いかけたつもりでいた。しかし、そう言った俺の心が、ズキリと痛む。
……あの時。俺には、頼れる相手がいなかった。
ジジイはすでに、この世にいなかった。両親とまともに連絡を取るつもりはなかった。
「昨日も話したとおり、私には連絡する相手がいません」
「なあ近野。家に帰って何か解決するのかよ。もうちょっと良く考えろよ。その身体が元に戻らない限り――」
ここまで言って、俺はハッとする。
近野がこちらを向いたまま、ぽろぽろと涙を零していたのだ。こんなこと、俺よりも当事者の近野が一番良くわかっていたはずなのに。
……そうだ。
俺は勝手に、あのときの自分と彼女とを重ねているんだ。あのときの自分に、気が晴れない今の生活の責任を押し付けるようなつもりで、彼女を追い詰めるようなことばかりを言ってしまっているのだ。
ばつが悪くなり、俺は首を掻く。
「……悪い。言い過ぎた」
「いいんです。事実ですから」
彼女はそのまま廊下に出て行こうとする。
言いようのない不安が俺を襲った。
止めなくていいのだろうか。下手をすれば警察や保健所に連れて行かれて、実験動物にされてしまうかもしれない。
すぐに姿が戻ればそれでいい。だがもし、具合が悪くなったら、怪我をしたら、彼女はいったいどうするのだろう。
……俺は、とっさに立ち上がる。
これ以上踏み込むのは、俺のエゴかもしれない。けれど。
「近野」
気付けば、俺は声を出していた。
自分でこうしたいという思いで動いたら、ろくなことにならないのは痛いほどわかっているはずなのだ。
両親のことも、近里に越してきたことも、春のあの嫌な事件のことも、枝高に登校しないと決意したことも、全部そうだ。
なのに。
どうしてこんな思いが、未だに湧き上がってくるのだろう。
やめておけという心の声が聞こえたような気がした。また、お前は痛い目を見るのか。何もすることはない、見知って間もないクラスメイトを心配する必要などないと。
「俺は……お前を匿うと約束した。……だから、もし、ウチが必要なら使ってくれ。もし、俺を頼れるようであれば、頼ってくれ」
気づけば俺は、そんなことを喋っていた。近野は驚いたようにこちらを向き直る。
「どうして、そこまで――」
細い声で、彼女は問う。
廊下に差し込む朝の光に照らされて、彼女の毛並みが黄金色に輝く。
俺は答えに詰まってしまった。この疑問に対する明確な答えを、俺は持っていない。自分でもどうして、このような衝動に駆られたのか良くわかっていないのだから。
ただ一つ言えることは、ここで俺が手を離してしまえば、彼女にとって良くないことが起こりそうな、そんな気がしたということだけだ。何の具体性も根拠もない。ずぶりと黒く、悪い予感が、じわりと俺の心を鷲づかみにする。
この感覚は、そうか。……そういうことか。
「近野が、良く似ていたんだ。……一ヶ月前の俺に。誰にも頼れなかった俺に。だから……心配なんだよ」
思えば俺が寝ている間に、近野は野草を摘みに行った上に料理までしていた。
気が張っていたのだろう。緊張の糸が解けて、眠気に耐えられなくなってしまったようだ。
俺は居間のテーブルにうつ伏せた彼女に毛布を掛け、反対の壁に寄りかかって座った。
俺の方も少し動いたからか、再び眠気が襲ってきた。腕を組んで、少しうつむく。
……そういえばこの時間は、不摂生な俺がいつも寝ている時間だ。
うとうとしていると、ふいに一つ、嫌な感覚が湧き上がった。
これは、ひとまず近野の身の安全が確保でき、心に余裕ができたために、その空いた隙間に割って入ってきたのだと思う。
その正体は、焦燥感だった。
心がざわざわする。昨晩、近野が狐になってしまったこと以外に、何か見落としているような、そんな気分。
解決していないことがあるような気がする。
自信満々に推理を述べたはずの俺の心に引っ掛かった細い糸。
昨晩の、俺の結論を思い返す。
然人が俺を誘って、でも俺は集合場所に行かなくて、あいつは友人数人とあの広場で花火をして、近野がお詣りに向かう途中でそれを見つけて、倒れて、そして――。
しかし、それは次第に、眠さに負けて消えていった。
まるで、狐に化かされたみたいに。
どうやら、居間のクッションで寝てしまっていたらしい。
窓の外からはうっすらと日差しが入り込んできており、ハトの間抜けな鳴き声が聞こえた。
はじめはその匂いに、また夢でも見ているのかと思っていた。
だがそれはあまりにも不快で、ぼんやりとした頭を徐々に覚醒させた。
寝ぼけ眼を必死で動かして、匂いの元を探す。
すると、台所へと繋がる引戸からもくもくと黒々しい煙が立ち上っているのが見えた。……何か、火にかけたままだったろうか?
慌てて引戸に駆け寄ろうとする。寝起きのせいかフラフラとした足取りになる。
一歩二歩と歩くと、その視界の動きに既視感があった。つい最近、同じように、寝ぼけながらどこかに向かったことがあったような。頭をひねると、砂だらけの近野と会ったときのことが思い当たった。
渦中にいたときにもうっすらと感じていたが、改めて考えると、恐ろしく現実離れした出来事だ。
あれらはきっと、居間で一眠りしている間に見た夢なのだろう。そう結論付けると俺は首を振って、台所の引戸を開けた。
だがそんな憶測は、途端に消え失せた。
黒々とした煙の中から出てきたのは、昨夜貸したパーカーを枝高の制服の上に着た、半人半獣の女子……近野里咲、その人だったのである。
「あっ、尾先くん。すぐ運びますから、居間で待っててください」
「いや、そうじゃなくて。何だよこれは」
近野と出会ったのが夢でないなら、懐中電灯を取りに来た昨夜、台所はもっと綺麗だったはずだ。
いや綺麗とは言わずとも、人間が生活できる空間であり、こんな爆心地のような惨状では決してなかった。
「鶴の恩返しならぬ、狐の恩返しですよ」
顔中煤だらけにして、胸を張った近野は、俺を両手で台所から押し出した。
そして、引戸を閉めて鼻歌を歌い始める。俺はただぽかんと立ち尽くすしかなかった。
数分後。居間のテーブルの上にあったのは、一枚の皿と、その上に置かれている、名状し難い消し炭のような何かだった。
「近野、これは……」
「目玉焼きと、ベーコンと、付け合せにオオバコの若葉です! すみません、卵とベーコン、勝手に使っちゃいました。でも、きっとお腹空いているだろうって思って。オオバコはさっき、摘んできました」
説明されたところで、この黒い物体のどこまでがベーコンで、どこまでが卵で草なのか、まったく判別が付かない。
手を付けたら、この世に別れを告げねばならない物体に見えるのだが、近野はキラキラとした笑顔でこちらを覗いている。
どう断ったものかと普段の俺なら考えるのだろうが、この時ばかりは、この料理さえも夢なのではないかという一抹の期待を抱いて、言われるがままその物体を口に入れてしまった。
刹那、舌がビリビリとしいう刺激を感じ、脳内を何かいけない物質が駆け巡る。……おかげさまで完全に覚醒し、色々なことを思い出してきた。
然人が白状したところによると、昨日の怪しい光事件の真相は、おおむね俺の話した通りだったようだ。
俺が集合場所に行かなかったので、あいつは一応あの場所を使うのを諦めようとしたが、皆にとっておきの場所と公言していた手前引っ込みが付かなくなったらしい。
結局あの場所で手持ち花火やら線香花火やらねずみ花火やらによる花火大会が開催され、その花火の光を近野が目撃したということである。
すべてを白状した後、然人は近野のことを内緒にすると約束して、すぐに家に帰っていった。夜中にふらついていることを両親に知られれば大目玉なんだそうだ。
彼はあれから、自宅の二階の窓から帰宅するという一大ミッションにチャレンジしたようで、その成否は謎である。
そんなことになるくらいだったら、翌日探しに来れば良かったのにと思うが、あいつのことだ。ライターを忘れたことに気が付いた途端、いてもたってもいられなくなったのだろう。
結局、昨夜の探索では「然人が花火でバカ騒ぎをした」ということ以外、何かの痕跡が見つかるということはなかった。
つまり、近野が登り道で気絶した原因までは判明したが、こんな姿になってしまった原因はまったく掴めなかったのである。
「……悪かったな、力になれなくて」
俺は口の中に残った苦いとも辛いともとれない、一生忘れることがないであろう妙な味を流し込みながら、近野を見た。
彼女は全身を覆う毛とは異なる色の、黒い前髪を指先で巻きながら、目線を横に泳がせた。
「いいえ、むしろ私は感謝しているのです。目が醒めて鏡を見て、こんな姿になってしまったと自覚したとき……誰を頼れば良いのかわからなくて。頭に浮かんだのは、尾先くんのおじい様でした。亡くなっていたのも知らずに訪ねて来た私の話を親身に聞いてくれて。本当に、嬉しかったのです」
感謝を述べる彼女に、俺はなんとも気まずい気持ちになった。
昨夜の俺の態度は、決して褒められるようなものではなかったと思う。結果として彼女を受け入れる形になったとはいえ、それはたまたま、色々な歯車が噛み合ってしまったというだけのことなのだ。
「本当に、お世話になりっぱなしでした。……では、私はこれで」
近野は立ち上がって、部屋の隅に置いていたバッグを肩にかけた。その様子を見て、俺はふと彼女に尋ねる。
「これからどうするんだよ、近野。……その格好じゃ目立って仕方ないだろ」
彼女はピタリと足を止め、少しの間静止して、そして――振り返って、力なく笑った。
「どうにか、します」
「どうにかって……」
「どうにかですよ。やってやれないことはないはずです」
「なんだよ、それ。具体的な案もないのに、無責任に……!」
強い口調になっていたことに気が付き、俺は言葉に詰まる。
……そうだ、俺に何かできることが示せないのなら、これ以上を言うべきではない。彼女を責めるべきではない。
「わかってます。でも、これ以上ご迷惑をお掛けするわけにはいきませんから」
「……学校には行けないよな。それに堂々と電車に乗って家に帰る訳にもいかないし」
誰にも見られないように帰るなら、夜になるまで待ち、なるべく人のいない夜道を選んで帰るくらいしか方法はないだろう。近里ならできなくもない。
ただ、昨夜の私道ですら生い茂っていた草木のことを考えれば、道を外れて帰るというのは非常に困難だ。近野は土地勘がありそうだが、それでも目印のない山の中を歩けば遭難しかねない。
仮に帰れたところで、誰かが助けてくれるという保証はない。
近野は昨晩、連絡する相手がいないと言っていた。相談できる相手もいないのかもしれないのだ。
「誰か……頼れる人間はいるのか?」
俺はその言葉を、近野に問いかけたつもりでいた。しかし、そう言った俺の心が、ズキリと痛む。
……あの時。俺には、頼れる相手がいなかった。
ジジイはすでに、この世にいなかった。両親とまともに連絡を取るつもりはなかった。
「昨日も話したとおり、私には連絡する相手がいません」
「なあ近野。家に帰って何か解決するのかよ。もうちょっと良く考えろよ。その身体が元に戻らない限り――」
ここまで言って、俺はハッとする。
近野がこちらを向いたまま、ぽろぽろと涙を零していたのだ。こんなこと、俺よりも当事者の近野が一番良くわかっていたはずなのに。
……そうだ。
俺は勝手に、あのときの自分と彼女とを重ねているんだ。あのときの自分に、気が晴れない今の生活の責任を押し付けるようなつもりで、彼女を追い詰めるようなことばかりを言ってしまっているのだ。
ばつが悪くなり、俺は首を掻く。
「……悪い。言い過ぎた」
「いいんです。事実ですから」
彼女はそのまま廊下に出て行こうとする。
言いようのない不安が俺を襲った。
止めなくていいのだろうか。下手をすれば警察や保健所に連れて行かれて、実験動物にされてしまうかもしれない。
すぐに姿が戻ればそれでいい。だがもし、具合が悪くなったら、怪我をしたら、彼女はいったいどうするのだろう。
……俺は、とっさに立ち上がる。
これ以上踏み込むのは、俺のエゴかもしれない。けれど。
「近野」
気付けば、俺は声を出していた。
自分でこうしたいという思いで動いたら、ろくなことにならないのは痛いほどわかっているはずなのだ。
両親のことも、近里に越してきたことも、春のあの嫌な事件のことも、枝高に登校しないと決意したことも、全部そうだ。
なのに。
どうしてこんな思いが、未だに湧き上がってくるのだろう。
やめておけという心の声が聞こえたような気がした。また、お前は痛い目を見るのか。何もすることはない、見知って間もないクラスメイトを心配する必要などないと。
「俺は……お前を匿うと約束した。……だから、もし、ウチが必要なら使ってくれ。もし、俺を頼れるようであれば、頼ってくれ」
気づけば俺は、そんなことを喋っていた。近野は驚いたようにこちらを向き直る。
「どうして、そこまで――」
細い声で、彼女は問う。
廊下に差し込む朝の光に照らされて、彼女の毛並みが黄金色に輝く。
俺は答えに詰まってしまった。この疑問に対する明確な答えを、俺は持っていない。自分でもどうして、このような衝動に駆られたのか良くわかっていないのだから。
ただ一つ言えることは、ここで俺が手を離してしまえば、彼女にとって良くないことが起こりそうな、そんな気がしたということだけだ。何の具体性も根拠もない。ずぶりと黒く、悪い予感が、じわりと俺の心を鷲づかみにする。
この感覚は、そうか。……そういうことか。
「近野が、良く似ていたんだ。……一ヶ月前の俺に。誰にも頼れなかった俺に。だから……心配なんだよ」
思えば俺が寝ている間に、近野は野草を摘みに行った上に料理までしていた。
気が張っていたのだろう。緊張の糸が解けて、眠気に耐えられなくなってしまったようだ。
俺は居間のテーブルにうつ伏せた彼女に毛布を掛け、反対の壁に寄りかかって座った。
俺の方も少し動いたからか、再び眠気が襲ってきた。腕を組んで、少しうつむく。
……そういえばこの時間は、不摂生な俺がいつも寝ている時間だ。
うとうとしていると、ふいに一つ、嫌な感覚が湧き上がった。
これは、ひとまず近野の身の安全が確保でき、心に余裕ができたために、その空いた隙間に割って入ってきたのだと思う。
その正体は、焦燥感だった。
心がざわざわする。昨晩、近野が狐になってしまったこと以外に、何か見落としているような、そんな気分。
解決していないことがあるような気がする。
自信満々に推理を述べたはずの俺の心に引っ掛かった細い糸。
昨晩の、俺の結論を思い返す。
然人が俺を誘って、でも俺は集合場所に行かなくて、あいつは友人数人とあの広場で花火をして、近野がお詣りに向かう途中でそれを見つけて、倒れて、そして――。
しかし、それは次第に、眠さに負けて消えていった。
まるで、狐に化かされたみたいに。
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