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眠っている肢体の横で、キュウキュウと鼠が鳴く大部屋が僕の寝床だった。埃っぽくて冷えた石造りの床に薄い布を引いて眠るので、度々咳き込んで目が覚める。横では弟が寝ているし、同室には明日の朝も早くから仕事がある肉体労働者もいるので、少しでも音を絞る為に布団代わりの麻布を口に押し付けて夜を過ごした。
『行ってきまーす』
まともなご飯すら食べられない状況だけれど、溌剌とした笑顔で弟はこちらに一度手を振って、自分よりも一回り大きい男衆と土木工事の現場に出かけて行った。
まだ一人では杭も打ち込たせて貰えないけれど、自分にできる最大限をやってのける弟はいつも帰ってくると汗だくで、クタクタに疲れてしまった日は食事すら忘れて眠るほどだった。けれど、弟は同僚たちから好かれていた。人懐っこく笑ってハキハキと喋る姿は、少なからずこの奴隷商店で働く奴隷の癒しになっていたのだろう。
僕はとても外で働ける人間ではなかった。体力が無くてすぐにへばるし、長時間日に当たっていると肌が赤く腫れて大変なことになる。幸いにも読み書きは得意だったし、学校に行っていた頃も成績は良い方だったので事務の仕事なんかを受けることができた。
机に向かって一日中帳簿を書き写す。計算が必要な書類の場合はソロバンを借りたりしながら、一日中ペンを動かしている日もあった。
しばらくすると、他の仕事も掛け持ちで受けるようになった。それは主に、春を売る女性らの世話係。食事を食べさせたり、衣装を洗ったり、仕事へ向かう彼女たちに化粧を施すこと。化粧まで手伝った時は、大抵馬車でお客のところまで行くのに付き添うことになっていた。
そういう時は使用人服が配布されるのでそれを着て、馬車の扉を開けたり、彼女らが歩くのを手伝ったりするのも仕事だった。座り心地の悪い馬車の中、いつも事務仕事をしている時はニコニコと微笑んで優しく話しかけてくれる彼女たちの影が見当たらないことに最初は不安を抱いていた。
一言も話さず、車の中から無表情に外を見ているのが常だった。自分がいつも見送って、定刻になったら迎えにいく彼女たちが馬車を下りた先でどんな仕事をしているのかは聞けなかったけれど、度々薬物に溺れて現実に戻らなくなった人やもう動かない少女を包んだ袋なんかを見てはその非道さに震えていた。
見送りの仕事は事務よりも賃金が高かったが、それでも一向に借金の返済は終わる気がしなかった。母が倒れるまで働き詰めたのに半分も返せなかったのだから、特別な知識も技能もない子供がそう簡単に完済できるハズもないことは分かっていたつもりだったが、自身と弟で等分した負債額はこの店に来た時に書かれたまま一桁も減らないことに焦っていた。
『シエル、お話があります。事務室まで来てください』
長い灰髪を一つにまとめた商店の支配人がそうして僕を呼んだ時も、仕事が貰えるなら、と軽い気持ちでいた。
『実は、弟くんに新しい仕事を紹介しようと思っています』
椅子に座り、机に肘をつけた支配人が腕を組んでニマリと口角を上げるのは、大きな商機に気分が浮ついている時だと誰かが言っていた。しかしその話を僕にする意味が分からない。立ったまま見下ろしている床の木目が歪んでいくようだった。
『顧客の中に少女が大好きな方がいらっしゃいるのです。それはもう、買った子供を何人も殺してしまって他店を出禁にされるくらいには』
その発言に耳を疑った。子供を殺す、そんな奴に弟が買われる。その二つの事象が歪だが、確かに繋がろうとしていた。脳裏にだらりと無気力に天井からぶら下がった、たった一人の兄弟の無惨な姿が過ぎる。
『今まではこの店で少女を買って下さっていたんですがね、どうにも飽きてしまわれたらしく…そこでこちらから、少年はいかがですか?と提案したわけです』
こちらの気を知りもしないで支配人はトントンと話を進めていく。彼の上等な革靴が粗雑な裸電球の光を受けて輝くのを、どこか遠くから漠然と見せつけられているような気がした。
部屋にはぬるい紅茶の香りが充満していた。ここに従業員が集まっては、度々お茶会と称した愚痴の吐き合いをしているのは弟から聞いたことがある。
『どうやら最近、予約もしないで見学にいらっしゃったそうで。貴方の弟君をえらく気に入られたのだそう。しかし彼は優秀な労働者ですから、潰されたりなんてしたら堪らない…』
遠回しに『君なら死んでも構わない』と言われているようで息が詰まった。裸足で立たされているからか知らないが、床から昇る空気が底無しに冷えているように感じられてしまって、どこか遠くの河にでも消えてしまいたくなった。
『そこで貴方です。貴方は事務業向きですから換えはいくらでもいますが、私が推薦する理由はそれだけでありません』
音を立てて椅子を引いた支配人は立ち上がって、諭すように僕の肩へ手をかける。ニンマリと口角を持ち上げて微笑んだ口元から白い犬歯が覗いていた。
『貴方なら今後もその仕事一つで稼げるでしょう。それに、今までよりずっと沢山のお金を稼げますよ』
兄弟揃って内臓を売るようなことにはなりたくないでしょう?
耳元で囁かれた言葉を引き金に、僕は浅く頷いた。
僕が見送る彼女たちの中には、仕事を受けるのを泣いて嫌がる娘もいる。けれど商会に生殺与奪の権を握られている以上、どれだけ喚いても仕方の無いことがあると言いくるめて連れて行ったこともあった。結局のところ、僕は非道な金の亡者に他ならなかった。
春売りの世話係は事務仕事なんかよりずっと給料が良かったし、キチンと仕事をこなして、何がなんでもその稼ぎ口を失うまいと必死でしがみついてきたのだ。
――――――――――
一週間後の晩、僕は今まで見たこともないような上等な服を着て、三つ離れた街の、豊かな森に囲まれた郊外にいた。時々石を噛んで跳ねる馬車に揺られ、酷い座り心地に呻いたりしながら街のハズレを進んでいく。
やがて馬車がゆっくりと速度を落として停車すると、御者役を担っていた支配人がガチャリと扉を開けた。差し出された手に縋りながら車を下りると、目の前の玄関扉が開いて中から貴族風の男性が出てきた。人の良さそうな笑みを湛えて『こんばんは』と言う。
『いらっしゃい、来てくれて嬉しいよ。今晩は君を迎える為に料理を作ってあるんだ。冷めないうちに食べよう』
今朝洗われたばかりの僕の頭を撫でて、心底嬉しそうな顔で彼はそう誘った。支配人は少し後ろでにこやかに手を振っているだけで、何の説明もないままだ。早く行こう、と手を引かれるのに従って、僕はその人の後をついて行く。革靴なんて履くのは久しぶりで、慣れない歩き心地につまずきそうになりながら絨毯の上を歩いた。
最初は食事だった。真っ白なテーブルクロスの上に、籠へ入った白いパンが置いてあった。促されるままに席に座って、昔母に習ったテーブルマナーを何とか思い出しながら運ばれてくる料理を食べる。
瑞々しい葉野菜を食べた。舌に張り付きそうなくらい甘いスープを飲んだ。酸っぱいようなソースのかかった魚を食べた。分厚いステーキ肉は脂っこくて、喉につかえそうになるのを必死に飲み込んだ。
久しぶりに食べる温かい料理は涙が出るほど嬉しかったけれど、その味は緊張のせいか、どこか嫌な味がした。きっと栄養のあるものだし、これだけの料理の為にどれだけの人が関わったのか考えると残せなかった。
『美味しいかな?』
僕を迎えた時と同じ、優しそうな笑顔でそう聞かれる度に『はい』と答える。額に浮いた汗をこっそり拭って、ぶるぶる震える手でナイフもフォークも操った。
最後にデザートとして、大きなケーキが運ばれてきた。鼻腔をくすぐる甘いチョコレートの匂いと、上にかかったベリー系のソースの酸っぱい匂いで頭がクラクラした。切り分けられた一切れが、白い皿に載ってやってくる。
ケーキの上には柔らかくてしっとりした小さなクッキーとビターチョコレートが載っていた。ソースでてらてらと光るチョコレートをスポンジやクリームと一緒に飲み込んだ。ソースの染みたクッキーは抵抗もなく口の中で溶けた。どちらも吐き出したくなるくらい甘かった。
傍にあった紅茶だけは苦かったから、おかげで一切れ全てを食べきることができたのだと思う。
『おや、もういいのかい?もっと食べてもいいんだよ』
そうは言われてももう無理だ。こんな馬鹿みたいに甘い物、食べられるわけがないのだが、それを口に出すわけにはいかなかった。無言で首を横に振る僕を一瞬だけ笑みの消えた顔で見た男は、すぐさま今までと同じ顔を作って椅子を引いた。
『そうか…彼女たちは喜んでくれたんだがな…。まあ構わないよ。さあメイド、彼を風呂に連れて行ってくれ』
パン、と手を叩いて男が指示すると、そそくさと二人のメイドが現れて僕を連れて行こうとする。一方僕といえば何だか世界が揺れているような不思議な気分で、紅茶で流し込んだ甘ったるいケーキが食道を這い上がってきそうになっていた。一人じゃマトモに歩けないので、二人に肩を貸してもらってなんとか廊下まで歩いていった。
――――――――――
風呂を出たまでは良かったが、温まって血の流れが良くなったせいか僕はいよいよ立ち上がることすらできないほどになっていた。深い呼吸ができなくて、チカチカ点滅する視界を遮るように目を閉じて、投げ捨てられたベッドの上で膝を抱えていた。
少しでも目を開けると明暗を激しく切り替える世界の中にぶらりと下がった足がチラついて、風に揺れるネグリジェのレースと梁の軋む音がやたら現実地味て感じられた。
『調子はどう?楽しんでくれているかな』なんて聞いてくる声が鬱陶しくて、返事をしなければいけないのは分かっていたのに声を出すのが怖かった。
ゆるゆると顔を上げると、心配そうに眉を歪めた男の後ろに布の余ったネグリジェの女がいた。俯いて顔の見えない、明かりの少ない部屋の中でも輝くような長い金髪を持ったその女性を僕はよく知っていた。その人は安らぎの象徴であり、また同時に、成長途中の子供が失うにはあまりに大きすぎたものだ。
瞬きを何度も繰り返す。カラカラに乾いた目でなければ、彼女が映り込むことは無いと思った。それでも、閉じた視界が開ける度に彼女は近づいている。荒れきった髪に輝きはなく、服のあちこちは不器用に縫い直した跡があった。
『……もしかすると、君には合わなかったのかも。すまないことをしたね』
僕は彼女しか見えていなかった。何も告げられることなく仕事が始まったにも関わらず、白髪混じりの汚れた金髪の下の顔が見えるのを見つめていた。
白い玉肌に傷は無いが、血の気のない土気色の顔が露になっていく。しわが深く刻まれた真っ白な唇が一瞬振動してすぐ、突風が吹きつけたかのように長い髪が逆立つ。窪んだ目に眼球はなかった。僕と弟を優しく見守ってくれていた目はもうそこになかった。
『母さん!』
喉からひっくり返った悲鳴が飛び出したのはそれを見てしまったせいなのか、それとも左の手のひらとベッドを縫い付けるように突き立てられたナイフのせいなのかも知らぬまま、結末を語られた本が閉じられるみたいに一瞬で、異形と化した母の幻影は消えてしまった。
消えてしまった輝かしく長い髪が恋しいのか、僕の意識もそれに釣られるように暗幕の中へ沈んでいく。
――――――――――
朝日の入らない暗い部屋で、頭に響く鈍痛と共に目を覚ます。目の前には少し老けた顔の魔法使い。顎に生えた薄い無精髭を撫でながら、憐れむような顔で僕を見下ろしていた。
『目が覚めたな。気分はどうだ?世界はちゃんと見えてるか?…なら良い。帰る時間だぜ、新人くん』
彼はまだ頭がぼんやりしていて動こうとしない僕を手を引っ張って、棚に置かれていた服の前まで誘導した。来る時とは違って、今度はいつも着ている綿で編まれた普通の服だ。
『体の方は大丈夫だ。ちゃんと蘇生したし、傷も残ってない。浄化魔法で汚れまで取っておいたからな。感謝しろよ~』
そういいながらベッドわきのコップに水入れの水を注いで、すんと匂いを嗅いでは顔をしかめたりしている変な魔法使いは、決して顔見知りではない。名前を尋ねると、思い出したように目を見開いて、どこかの役者のように大仰に天を仰いで彼は言う。
『会ったことは無かったな、うん。俺の名前はネクロ。ネクロマンサーのネクロだな。商店で蘇生師として雇われている、冴えないお兄さんだ』
まくしたてるようにそう自己紹介をした後、パチンと鳴らした指で僕を指す。乾燥しているのか、ひび割れたようなしわの刻まれた指先が特徴的だった。
『そして今後は君の世話係でもある。安心しろ、これでも俺は、今までに商店トップの女奴隷の世話係だったこともあるんだ。洗濯も化粧も完璧にこなせるし、死んだら生き返らせる』
それはそれは自信ありげに、胸を叩いて頼もしく言い放った彼に僕は感心した。僕ならば、きっと自分の仕事にそこまでの誇りを賭けることはできなかっただろうから。
同時に僕はいくつかのことに気がついた。部屋に充満する、昨晩のケーキみたいな甘ったるい臭い。それは僕自身にも染み付いていること。食事の後の出来事がハッキリと思い出せないこと。今いる部屋はとても清潔らしいのに、全てがどうにも忌まわしく逃げ出したいような気持ちになった。
『…部屋は、こんなに綺麗でしたっけ』
ネクロに渡してもらった服を着て、空いた机の表面を撫でながらそう尋ねたと思う。僕が起きて、シワの寄ったシーツを直していたネクロがゆっくりと振り返った。
『いいや。俺が掃除した。浄化とか治癒とか、そういう魔法が得意なんだ。ああ、ちゃんとした学校は出てないから教会では働けないが、もし俺が教会にいたら、きっと歴史に名を残す偉大な治癒魔法使いになっていただろうよ』
眉をひそめ、まるでなにかを隠したいかのように喋り続けようとする彼に僕は続けて尋ねた。頭の隅では、昨日の僕の一部が警鐘を鳴らしている。
『どうして掃除をしたんですか』
『…正気か?』
今度こそ彼はシーツを整える手を止めて僕に向き直った。責めるような、制止するようなその声色と表情が一瞬だけ怖くて、拳を握り直して問いを繰り返す。
宣告を躊躇っていたネクロが根負けしたように口を開く。
『俺が迎えのためにこの部屋に入った時、それはもう酷い有様だったんだぜ。壁は血飛沫でベタベタだし、床は色んな液体で足の踏み場もなかった。薬品の臭いだけで頭がバカになりそうな中で傷だらけ汚れだらけのお前がベッドで気絶してたもんだから、掃除しねえワケにはいかねえだろう』
僕は服の袖をまくったりして自分の体を確かめた。見る限りどこにも傷はなくて、いつも通り骨と皮みたいな痩せっぽちの自分があるだけだった。ネクロはバリバリと頭を掻いて続ける。
『できることなら仕事なんてしたくないんだ。幼児趣味の変態野郎やそれに付き合わされる子供なんかにゃ関わりなくもない。それでも俺がいねえと、皆死んじまう。いいか、昨晩お前と寝たあのいけ好かねえ商人は今まで五人殺してるんだ…生きてる運が良かったってことを覚えておけ』
話しているうちにぼんやりと、昨日母を見たことを思い出した。首に縄をかけた、化け物のような母の姿が脳裏に浮かんで膝が震えた。同時に左の手のひらがズキリと痛む。青く血管の透けた皮膚の薄い手のひらに、細やかな装飾の短剣が突き刺さっていた気がする。
腹の底が冷えていった。自分がずっと遠くにいるような感覚になって、その嘲笑に押し潰されるようだった。なるほど、と独り合点する。僕は迎えに行く側ではなくなってしまったのだと自覚した。
応援ありがとうございます!
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