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眠い目をこすって丘を歩いている。昨日は片付けのせいで寝るのが遅くなって、見事に睡眠不足になってしまった。
私たちが今向かっているのは、春の街アラウィスと次に目指していた商いの街エルバリアの間にある中規模の村。シエルの服を買うために寄る。
エルバリアへ行けば服屋も家具屋も飽きるほどあるけれど、いつまでも同じ下着で、私の昔の服なんて格好は申し訳なさすぎるので、できる限り早く新しいものを揃えたい。
村は街と違って身分証の提示が必要ないので、簡素な木の門をくぐるだけで済む。しかしそれは、どんな悪意がこの場所へ紛れ込むのかが分からないことと同じだ。のどかな畑と青空のコントラストに飽き飽きしながらも、警戒を怠ることができなかった。
私だけなら魔法でちゃちゃと対応することができるけれど、今は自衛手段を持っていないシエルがいる。ここでモンスターと遭遇なんてことになったら、私は彼を守って戦う必要があるのだ。
村は本当に平凡で平和そうだった。何となく舗装された道と、四方に広がる畑と家々。これでもかと建物が詰め込まれたアラウィスや、多くの人が行き交い賑わうケブトランとはまた違う、静かで落ち着いた雰囲気だ。
見慣れない旅人に目を凝らして、遠目に私を観察していた奴らが顔をしかめて避けていく。本当に、自然と少しの人の音しかしない静かな村だった。眩しいぐらいの青空と、うざったいくらいの日差しと、風に揺れた麦畑が不愉快だ。
たった今私の足元へ唾を吐いて歩いていった奴の背中を見送りながら、明日の朝ベッドから起きる時に転ぶよう願い掛けた。
酷く閉鎖的で排他的。知識を得るでもなく、人づてに聞いただけの、元の奴だって聞きかじりでしかない情報を信じ込むような、どうしようもない奴らだ。
そんな彼らを愚か愚かと腹の底で笑っているけれど、大人になりきれない私にも些かの問題はあるような気もした。
「あ、あれが服屋じゃないかな」
まっすぐ前を向いて歩いていると、村を半ば一周したところで服屋らしき店の看板を見つけた。軒先に吊られた小さな板は、長年雨風に晒された故かあちこち塗装が剥げて無惨な姿になっていた。
遠目では分からなかったが、改めて近づいて見ると、花柄のワンピースを着た女性の絵が描かれていたと思われる名残が残っていた。
店に目を向けると、薄汚れた、少し埃っぽい古びたガラス扉のすぐ隣のショーウィンドウには日焼けして黄色く色落ちした花柄のワンピースをまとった人形が立っている。三角に砕けた石タイルを踏みながら扉を押すと、錆び付いた蝶番がギリギリと音を立てた。ドアベルがヂリンと鳴る。
「いらっしゃい」
人の良さそうな、でも確実に歳を重ねてしゃがれた老婆の声がした。背後の入口を除く三方面は隙間なく吊られた服が完全に目隠ししているので、店主と思われる声の主の姿は確認できない。
「すみません、男物のシャツとズボンと下着を探しているのですが、どこにありますか?」
入口すぐのところで声を張って尋ねると、正面の服の壁から小さく返事が返ってきた。
「少しお待ちくださいな、今行きますから」
そう言う声が聞こえてすぐ、埃を被っていたライトブラウンのロングコートの裾がモゾモゾと動いて、腰の曲がった背の低い老婆が現れた。持ち手に金具の付いた杖をついて、カツカツと音を立てながら少しずつ歩みを進めて近づいてくる。
「はいはい、お待たせしまし……ん?」
顔を上げた老婆が私を見つめる。よく見えていないのか、酷く細められた視線が腹から顔へ上がっていく。やがてその視線は右目の眼帯に注がれた。
それから私の後ろにいるシエルを見、私を見。一拍置いて、老婆は血走った目を大きく見開いた。
「なんだい、異人じゃないか!なんだってこんな、こんな老いぼれがやってる店に来るんだい!?」
突然彼女は大声で、ヒステリックに叫びながら私を押して店外へ追いやろうとする。先程まで穏やかそうな雰囲気だった老婆の変わり様に、私は何も言えない。非力に私の腹を押す彼女が怪我をしないように、少したたらを踏みながらそこに立っているだけだ。
「アンタみたいなのが来ると信用が落ちるんだ!『あそこは異人に服を売る店だ』ってな!それになんだい?奴隷まで連れちまって。印が丸見えだよ!どうせ逃げてきたんだろう?あの悪夢みたいなところから!ああ酷い臭いだ、薬物臭くて堪ったもんじゃない……」
片手を羽虫を退かすみたいに動かしながら喋っていた老婆の語尾が萎んでいく。それに連れて老女の猛攻は苛烈さを増し、遂には杖を振り上げた。
飛び出そうなほどに見開かれてギョロギョロと動く目は私の後ろを見ているような気がして、シエルに危害が及ぶのは本意じゃない、と流石に店を出ようと扉を押した。
「分かりました。分かりましたから、殴るのを止めてください。手を痛めますよ」
「さっさと出ていっておくれ!」
三角に割れた石タイルの不安定な足場の上、宥めるつもりで私が言った言葉は終ぞ彼女に届くことはなく、老婆はトドメと言わんばかりに杖を大きく振った。空気が震えて鈍い音が鳴る。先の金具が左腕を掠って熱くなった。
シエルの手を引いて、転げるように店から逃げた私は最後に老婆の呟きを少しだけ聞くことができた。
「アタシが守っていかなきゃなんないんだ…あの人の店なんだからね……」
酷く曲がった背中がさらに丸くなったように見えたが、このまま立ちっぱなしでいると彼女に対して憎悪の念が湧いてきそうだと思って足を進めた。
もうこの小さな村に用はない。であればすぐにでもエルバリアへ向かいたくて、嫌に晴れ晴れとした空の下、四方に広がる麦畑にイライラしながら歩く。カッと蹴飛ばした石が道を逸れて水路へ落ちて、それすらも自分が馬鹿にされているような気がして苛立った。
「あー全く、ムカつくったらありゃしない!薬臭い?とんでもない…そんなの、やったことないのに」
「あの…」
あまりに長く伸びすぎた後ろ髪を弄りながら愚痴を吐いていたら、シエルが控え目に声をかけてきた。視線は左の二の腕に注がれている。ゴミでも付いていたか、と思って軽く手で払う。
「怪我、大丈夫ですか」
「ん?」
そんなことを聞かれるなんて全く予想していなかったので、一瞬理解が遅れて聞き返した。少し考えて、老婆の杖が当たったことを言っているんだろうと納得する。老婆の杖が掠めた腕についてはとくに痛みもなく、ジクジクと尾を引く感覚もないので大したことはない。
「全然痛くないし大丈夫だよ。しばらくは青アザになるくらいはあるかもしれないけど、すぐに治るだろうから」
袖の上から二の腕の色々なところを探ってみると、一箇所だけ痛みがあった。指で押してみると確かに痛いけれど、何も触らなければ普段と変わりない。
シエルは申し訳なさそうに俯いた。
「…すみません、僕が前に出れば良かったです。」
「なんでそう思うの?」
間髪入れずに問いを投げると、途端シエルは戸惑いの表情を浮かべた。
「…主人を傷つけてしまいました」
絞り出された回答は、とても納得できるものでは無かった。苦しそうに顔を歪めて話すのだから、言葉自体も彼の本心じゃないんだろう。そう言うべきだと学習せざるを得なかった彼の抱える環境問題に、内心同情した。
「私はそうは思わないから、気にしないでいいんだよ」
洋服屋を出てもうしばらく歩いた。
相変わらず青空と陽射しだけは元気なものだが、体力のあまりない私はそれらにどんどん蝕まれるばかりで、だんだん歩くのが億劫になってきた。
「そんなことより疲れたよ…ねえシエル、あそこのベンチでちょっと休憩しよう」
どこかの農家の納屋の近く、道に置かれた木製のベンチに腰掛けた。日を吸ってだいぶ暑かったけれど、近くに植わっていた木の影のおかげで少しだけ涼しい。
「何か飲む?水と果汁水があるけど、どっちがいい?」
鞄の中から二つの瓶を取り出した。よく冷えて汗をかいた、水と葡萄の果汁水。鞄の中は時間が止まっている。冷蔵室から取り出してそのままの冷えた飲料は、数年日差しの中を歩かなかった私の疲れを癒すのにもってこいのご褒美だ。
何より水分不足は体調不良に繋がるのだから、タイミングを見てしっかり摂取しておかなければならない。技術も知識も身につけた魔法使いに必要なのは、良好なコンディションだろう。
「僕は、結構ですから…」
「遠慮しないでいいから。水と葡萄、どっちがいい?」
目の前に瓶を突き付けて迫ると、思ってもみない角度の言葉が飛んできた。
「貴方は選択肢を下さるんですね」
信じられない、といった顔で至極当然のことを口にするのだから面白い。私は思わずクスクス笑ってしまって、危うく瓶を落としかけた。長いこと持っていたから、瓶の汗で手が滑る。
「もちろん。私はどっちでもいいからね」
心底困ってしまったようで、眉間に皺を寄せながら考え込むシエルの回答をのんびりと待つ。人間不信を拗らせてるのは確実だけれど、きっと彼は優しくて純粋だ。答えるべきか、いや答えて良いのかずっと悩んでいるのだ。
私は気が長いし、幾らだって、彼が答えを出せるようになるまで待ってあげられる。持っているのが面倒臭くなってきた二つの瓶を私と彼の間に並べた。ガラス瓶は汗をかいて、つるりとした表面を水滴が伝って行く。
「それじゃあ、水…水をいただいても良いでしょうか?」
「勿論!じゃあ私は葡萄を貰おう」
じーっと見つめられるのがこたえたのか、シエルは水の瓶を手に取った。それでは、と私も果汁水の方を取る。液体を瓶に詰めた時の私が硬く栓を締めたおかげで開けるのに少し苦労した。
喉を通っていく葡萄の味が体に染み渡る。高く傾けた瓶からは満潮を終えた海が引いていくみたいに中身が減っていく。残るのは葡萄の渋とカスだけだ。
赤紫色の、サラサラしたそれを見ていると昨日吐いた赤黒い何かを思い出した。物心ついた時からかれこれ十数年、度々私が吐き出す魔力を帯びたアレが一体何なのかは、未だに分からない。
そんな汚いことを考えてしまったからか、目の前の果汁水がなんだか泥水のようにも思えてしまった。急いでそれを飲み干して鞄へしまう。
隣のシエルはというと、まだ半分も飲めていない。
今朝の朝食はなるべく軽いものにしたつもりだった。水で洗った葉野菜と一枚の小さなハム、それと薄切りの白パンだ。私はデザートに果物も食べたけれど、シエルは食べていない。
というか食べられなかった。野菜はまだ大丈夫だったけれど、肉とかパンが辛そうだった。しばらくはお粥だとか、具の無いスープなんかにした方がいいんだろうか。その辺り、私はいつでも何でも食べるタイプの人間なので詳しく把握していない。
果実は食べられるだろうか。茶は今家にあるものを飲ませるので大丈夫だろうか、水の方がいいんじゃないか。となると食材は足りるか。手間をかけるのは問題ないけれど、元の食材が無ければどうにもならない。
「ありがとうございました」
微かな風に揺れる木の葉をぼんやりと見ていた私にそう言って、シエルは中身がほとんど減っていない瓶を差し出した。
「どういたしまして。じゃあ、そろそろ行こう」
もっと飲んだ方が良いんじゃないかとも思うが、無理をさせるのは良くないだろう。受け取った瓶のコルク栓しっかりが締まってるのを確認したら、また適当に鞄へ放り込む。
「ごめんね、無駄に歩かせちゃって。大人しくエルバリアを目指しとけば良かったなぁ…」
エルバリアは商いの街。国内最大級の港がある。服や家具は勿論のこと、珍しい魔道具や本も集まる巨大市だ。
エルバリアには差別が無いとも言われている。お金さえ持っていれば、それは等しくお客なのだそうだ。勿論所持金額によって扱いが変わる場合もあるけれど、異人でも安心して買い物できると聞いている。
アラウィスといい、エルバリアといい、私たちを遠ざけるメリットよりも利益が優先される場所は、探してみると案外多いらしい。向けられるその親切が、言葉が本当に親しい気持ちからの物ではないことだけ考えなければ。
木陰を出て歩き始めてすぐ、空に少し雲がかかって日が遮られた。今日のように風が涼やかな、少し曇っているくらいの天気が私にはちょうどいい。
「旅の方。すみませんが、お時間よろしいでしょうか?」
「ん?」
背後から呼びかけられ、私は振り向く。簡単な鎧を身に付けた、三人組の男らが立っていた。場所はちょうど、納屋と牛舎の陰。ジメジメと湿り、人目につかない嫌な場所だった。
私たちが今向かっているのは、春の街アラウィスと次に目指していた商いの街エルバリアの間にある中規模の村。シエルの服を買うために寄る。
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村は街と違って身分証の提示が必要ないので、簡素な木の門をくぐるだけで済む。しかしそれは、どんな悪意がこの場所へ紛れ込むのかが分からないことと同じだ。のどかな畑と青空のコントラストに飽き飽きしながらも、警戒を怠ることができなかった。
私だけなら魔法でちゃちゃと対応することができるけれど、今は自衛手段を持っていないシエルがいる。ここでモンスターと遭遇なんてことになったら、私は彼を守って戦う必要があるのだ。
村は本当に平凡で平和そうだった。何となく舗装された道と、四方に広がる畑と家々。これでもかと建物が詰め込まれたアラウィスや、多くの人が行き交い賑わうケブトランとはまた違う、静かで落ち着いた雰囲気だ。
見慣れない旅人に目を凝らして、遠目に私を観察していた奴らが顔をしかめて避けていく。本当に、自然と少しの人の音しかしない静かな村だった。眩しいぐらいの青空と、うざったいくらいの日差しと、風に揺れた麦畑が不愉快だ。
たった今私の足元へ唾を吐いて歩いていった奴の背中を見送りながら、明日の朝ベッドから起きる時に転ぶよう願い掛けた。
酷く閉鎖的で排他的。知識を得るでもなく、人づてに聞いただけの、元の奴だって聞きかじりでしかない情報を信じ込むような、どうしようもない奴らだ。
そんな彼らを愚か愚かと腹の底で笑っているけれど、大人になりきれない私にも些かの問題はあるような気もした。
「あ、あれが服屋じゃないかな」
まっすぐ前を向いて歩いていると、村を半ば一周したところで服屋らしき店の看板を見つけた。軒先に吊られた小さな板は、長年雨風に晒された故かあちこち塗装が剥げて無惨な姿になっていた。
遠目では分からなかったが、改めて近づいて見ると、花柄のワンピースを着た女性の絵が描かれていたと思われる名残が残っていた。
店に目を向けると、薄汚れた、少し埃っぽい古びたガラス扉のすぐ隣のショーウィンドウには日焼けして黄色く色落ちした花柄のワンピースをまとった人形が立っている。三角に砕けた石タイルを踏みながら扉を押すと、錆び付いた蝶番がギリギリと音を立てた。ドアベルがヂリンと鳴る。
「いらっしゃい」
人の良さそうな、でも確実に歳を重ねてしゃがれた老婆の声がした。背後の入口を除く三方面は隙間なく吊られた服が完全に目隠ししているので、店主と思われる声の主の姿は確認できない。
「すみません、男物のシャツとズボンと下着を探しているのですが、どこにありますか?」
入口すぐのところで声を張って尋ねると、正面の服の壁から小さく返事が返ってきた。
「少しお待ちくださいな、今行きますから」
そう言う声が聞こえてすぐ、埃を被っていたライトブラウンのロングコートの裾がモゾモゾと動いて、腰の曲がった背の低い老婆が現れた。持ち手に金具の付いた杖をついて、カツカツと音を立てながら少しずつ歩みを進めて近づいてくる。
「はいはい、お待たせしまし……ん?」
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それから私の後ろにいるシエルを見、私を見。一拍置いて、老婆は血走った目を大きく見開いた。
「なんだい、異人じゃないか!なんだってこんな、こんな老いぼれがやってる店に来るんだい!?」
突然彼女は大声で、ヒステリックに叫びながら私を押して店外へ追いやろうとする。先程まで穏やかそうな雰囲気だった老婆の変わり様に、私は何も言えない。非力に私の腹を押す彼女が怪我をしないように、少したたらを踏みながらそこに立っているだけだ。
「アンタみたいなのが来ると信用が落ちるんだ!『あそこは異人に服を売る店だ』ってな!それになんだい?奴隷まで連れちまって。印が丸見えだよ!どうせ逃げてきたんだろう?あの悪夢みたいなところから!ああ酷い臭いだ、薬物臭くて堪ったもんじゃない……」
片手を羽虫を退かすみたいに動かしながら喋っていた老婆の語尾が萎んでいく。それに連れて老女の猛攻は苛烈さを増し、遂には杖を振り上げた。
飛び出そうなほどに見開かれてギョロギョロと動く目は私の後ろを見ているような気がして、シエルに危害が及ぶのは本意じゃない、と流石に店を出ようと扉を押した。
「分かりました。分かりましたから、殴るのを止めてください。手を痛めますよ」
「さっさと出ていっておくれ!」
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シエルの手を引いて、転げるように店から逃げた私は最後に老婆の呟きを少しだけ聞くことができた。
「アタシが守っていかなきゃなんないんだ…あの人の店なんだからね……」
酷く曲がった背中がさらに丸くなったように見えたが、このまま立ちっぱなしでいると彼女に対して憎悪の念が湧いてきそうだと思って足を進めた。
もうこの小さな村に用はない。であればすぐにでもエルバリアへ向かいたくて、嫌に晴れ晴れとした空の下、四方に広がる麦畑にイライラしながら歩く。カッと蹴飛ばした石が道を逸れて水路へ落ちて、それすらも自分が馬鹿にされているような気がして苛立った。
「あー全く、ムカつくったらありゃしない!薬臭い?とんでもない…そんなの、やったことないのに」
「あの…」
あまりに長く伸びすぎた後ろ髪を弄りながら愚痴を吐いていたら、シエルが控え目に声をかけてきた。視線は左の二の腕に注がれている。ゴミでも付いていたか、と思って軽く手で払う。
「怪我、大丈夫ですか」
「ん?」
そんなことを聞かれるなんて全く予想していなかったので、一瞬理解が遅れて聞き返した。少し考えて、老婆の杖が当たったことを言っているんだろうと納得する。老婆の杖が掠めた腕についてはとくに痛みもなく、ジクジクと尾を引く感覚もないので大したことはない。
「全然痛くないし大丈夫だよ。しばらくは青アザになるくらいはあるかもしれないけど、すぐに治るだろうから」
袖の上から二の腕の色々なところを探ってみると、一箇所だけ痛みがあった。指で押してみると確かに痛いけれど、何も触らなければ普段と変わりない。
シエルは申し訳なさそうに俯いた。
「…すみません、僕が前に出れば良かったです。」
「なんでそう思うの?」
間髪入れずに問いを投げると、途端シエルは戸惑いの表情を浮かべた。
「…主人を傷つけてしまいました」
絞り出された回答は、とても納得できるものでは無かった。苦しそうに顔を歪めて話すのだから、言葉自体も彼の本心じゃないんだろう。そう言うべきだと学習せざるを得なかった彼の抱える環境問題に、内心同情した。
「私はそうは思わないから、気にしないでいいんだよ」
洋服屋を出てもうしばらく歩いた。
相変わらず青空と陽射しだけは元気なものだが、体力のあまりない私はそれらにどんどん蝕まれるばかりで、だんだん歩くのが億劫になってきた。
「そんなことより疲れたよ…ねえシエル、あそこのベンチでちょっと休憩しよう」
どこかの農家の納屋の近く、道に置かれた木製のベンチに腰掛けた。日を吸ってだいぶ暑かったけれど、近くに植わっていた木の影のおかげで少しだけ涼しい。
「何か飲む?水と果汁水があるけど、どっちがいい?」
鞄の中から二つの瓶を取り出した。よく冷えて汗をかいた、水と葡萄の果汁水。鞄の中は時間が止まっている。冷蔵室から取り出してそのままの冷えた飲料は、数年日差しの中を歩かなかった私の疲れを癒すのにもってこいのご褒美だ。
何より水分不足は体調不良に繋がるのだから、タイミングを見てしっかり摂取しておかなければならない。技術も知識も身につけた魔法使いに必要なのは、良好なコンディションだろう。
「僕は、結構ですから…」
「遠慮しないでいいから。水と葡萄、どっちがいい?」
目の前に瓶を突き付けて迫ると、思ってもみない角度の言葉が飛んできた。
「貴方は選択肢を下さるんですね」
信じられない、といった顔で至極当然のことを口にするのだから面白い。私は思わずクスクス笑ってしまって、危うく瓶を落としかけた。長いこと持っていたから、瓶の汗で手が滑る。
「もちろん。私はどっちでもいいからね」
心底困ってしまったようで、眉間に皺を寄せながら考え込むシエルの回答をのんびりと待つ。人間不信を拗らせてるのは確実だけれど、きっと彼は優しくて純粋だ。答えるべきか、いや答えて良いのかずっと悩んでいるのだ。
私は気が長いし、幾らだって、彼が答えを出せるようになるまで待ってあげられる。持っているのが面倒臭くなってきた二つの瓶を私と彼の間に並べた。ガラス瓶は汗をかいて、つるりとした表面を水滴が伝って行く。
「それじゃあ、水…水をいただいても良いでしょうか?」
「勿論!じゃあ私は葡萄を貰おう」
じーっと見つめられるのがこたえたのか、シエルは水の瓶を手に取った。それでは、と私も果汁水の方を取る。液体を瓶に詰めた時の私が硬く栓を締めたおかげで開けるのに少し苦労した。
喉を通っていく葡萄の味が体に染み渡る。高く傾けた瓶からは満潮を終えた海が引いていくみたいに中身が減っていく。残るのは葡萄の渋とカスだけだ。
赤紫色の、サラサラしたそれを見ていると昨日吐いた赤黒い何かを思い出した。物心ついた時からかれこれ十数年、度々私が吐き出す魔力を帯びたアレが一体何なのかは、未だに分からない。
そんな汚いことを考えてしまったからか、目の前の果汁水がなんだか泥水のようにも思えてしまった。急いでそれを飲み干して鞄へしまう。
隣のシエルはというと、まだ半分も飲めていない。
今朝の朝食はなるべく軽いものにしたつもりだった。水で洗った葉野菜と一枚の小さなハム、それと薄切りの白パンだ。私はデザートに果物も食べたけれど、シエルは食べていない。
というか食べられなかった。野菜はまだ大丈夫だったけれど、肉とかパンが辛そうだった。しばらくはお粥だとか、具の無いスープなんかにした方がいいんだろうか。その辺り、私はいつでも何でも食べるタイプの人間なので詳しく把握していない。
果実は食べられるだろうか。茶は今家にあるものを飲ませるので大丈夫だろうか、水の方がいいんじゃないか。となると食材は足りるか。手間をかけるのは問題ないけれど、元の食材が無ければどうにもならない。
「ありがとうございました」
微かな風に揺れる木の葉をぼんやりと見ていた私にそう言って、シエルは中身がほとんど減っていない瓶を差し出した。
「どういたしまして。じゃあ、そろそろ行こう」
もっと飲んだ方が良いんじゃないかとも思うが、無理をさせるのは良くないだろう。受け取った瓶のコルク栓しっかりが締まってるのを確認したら、また適当に鞄へ放り込む。
「ごめんね、無駄に歩かせちゃって。大人しくエルバリアを目指しとけば良かったなぁ…」
エルバリアは商いの街。国内最大級の港がある。服や家具は勿論のこと、珍しい魔道具や本も集まる巨大市だ。
エルバリアには差別が無いとも言われている。お金さえ持っていれば、それは等しくお客なのだそうだ。勿論所持金額によって扱いが変わる場合もあるけれど、異人でも安心して買い物できると聞いている。
アラウィスといい、エルバリアといい、私たちを遠ざけるメリットよりも利益が優先される場所は、探してみると案外多いらしい。向けられるその親切が、言葉が本当に親しい気持ちからの物ではないことだけ考えなければ。
木陰を出て歩き始めてすぐ、空に少し雲がかかって日が遮られた。今日のように風が涼やかな、少し曇っているくらいの天気が私にはちょうどいい。
「旅の方。すみませんが、お時間よろしいでしょうか?」
「ん?」
背後から呼びかけられ、私は振り向く。簡単な鎧を身に付けた、三人組の男らが立っていた。場所はちょうど、納屋と牛舎の陰。ジメジメと湿り、人目につかない嫌な場所だった。
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