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第二話 第四の騎士
しおりを挟む突如我が店に襲来した黒く蠢く謎の粘体に、呆気なく弾き飛ばされた滝川は、黒いティッシュのように宙を舞ってそのまま、珈琲色の特注ソファに体を打ち付けた。
「滝川——いや、ソファー!」
ソファは滝川の体を受け止めきれず、見事に瓦解し、私の投資は遂に水の泡になった。
「きゅう……」
一瞬、死んだのかと思ったが、滝川は瓦礫となったソファの上で呻いており、命に別状は無さそうであった。尤も、奴は殺したところで死ぬ気がしない。
黒い影は滝川を投げ飛ばしたのち、五分前にやって来た少女の方を目掛けて、腕を伸ばすように形を変えて迫った。
「っ……!」
少女はすぐ、なすすべも無く黒い影に捕まった。
「お客さん!」
少女は影に首根っこを掴まれて、宙ぶらりんになって痩せた土地で育ったもやしのような細い脚をじたばたさせている。まずいことになってしまった。景気の悪い現代、店は火事で全焼でもしなければ保険金はおりない。中途半端に破壊され、中途半端に原型をとどめてしまっている私。この黒い影に賠償を請求をしようにも、裁判所はこれが責任能力があると判断をするわけがない。そうなれば、泣き寝入り。非常に腹立たしいことである。そもそも、保険金を受け取る前に死ぬ可能性が高いとすら言える。
「ああ、魔法が使えたら」
人は窮地に追い込まれると訳のわからないことを言い始めるのだと思った。影が私を飲み込もうと迫ってくる。平穏に死ねないどころか、よりにもよってこんな訳のわからないものに殺されるくらいなら、ギロチンに首を刎ねられて最期を迎えてみたかったものだ。
ギロチンは潔い処刑装置であると思う。罪人の首を一瞬で両断する。ひとたび作動すれば、確実に首を刎ねることが出来る。実際のところ、あれで首を刎ねられて受ける苦痛がどれほどのものなのか、私は知る由もないが、少なくとも劇的に死ぬことは出来たはずだ。一度しか味わえない死の体験は、この災害のように顕れた意味不明な怪異ではなく、あの処刑装置に捧げたかった。
なぜ、今日なのだろう。この影が人を襲うことになんらかの拘りを持っているとは思えないが、こんな清々しいまでに客の居ない昼下がり、唯一やって来た客には丹精を込めて作ったカレーをサービスしたにもかかわらず、絶賛の言葉すら貰えずに殺されてしまう。こんな日にはやはり、断頭台に首を預けて、死にたかった。
己の生を諦めて二、三十秒ほどそんなことを考えていた。ゲル状の黒く重たい波は、あと数センチで私の体に触れるであろう。滝川はとっくに死んだような気がするし、少女もきっと絞め殺されている頃合ではないか。マスクの中で生涯最後の溜め息を吐こうとした刹那、何か、凄まじい質量のものが目の前の床に落ちて、床板が砕け散るのが足元から伝わった。
驚いて目を開けると、目測二メートルほどの小さなギロチンが私と、黒い影との間に立っていた。
「こ、これは……」
人生最後の日ということで、決算前の追い込みの如く天変地異が私の残り数分の生涯に殺到してくる。ギロチンはただ、我々の間に鎮座している。今か今かと重たい刃を罪人の首に落としてしまおうと無言で口を開けて待っている姿は鰐にすら見えた。このギロチンには執行者が居ない。刃を上にとどめておくための縄や滑車の仕掛けがないのに、刃はどういう原理かひとりでに浮いているのだ。なんとなく、何者かがこのギロチンの下に頸椎を差し出したその瞬間にこの断頭台は動き出して道具としての機能を果たすような確信がある。このギロチンは、私が首を差し出すのを待っている。
「——!」
首根っこを掴まれて、今にも体中の酸素を使い果たしそうな少女は、青白い顔に石灰を吹きかけたような不吉な顔色でこちらの状況を見たのか、ギロチンの方に幽かな視線を送っているように見えた。さて、私は私の方で、このまま何もせずに黒い影に殺されるか、それとも断頭台で頭を落として首無しの無縁仏になるか、理不尽な二択を押し付けられている。どうせなら劇的に死にたいのは私の心の奥底からの叫びであるが、今すぐに叶えたい願いとは違う。
「——で、い……から、戦って——」
後から思い出せば全く正気を失っていたに違いないほどに落ち着き払って、人生最後の二択に頭を悩ませていたこの時の私は、絞め殺されるのも時間の問題であろう少女の必死の呼びかけに気づくまで十二秒もかかってしまった。
「かはっ……戦って! ここは全て——」
少女は今にも捻じ切られそうな細い喉から、声を絞り出している。
「……全てあんたの、思い通りに、なる」
少女は確かに、私にそう伝えた。
全て、思い通りになる。額面通りに言葉を受け取るならば、私がこの空間において絶対の主導権、神に等しい力を持っていることになる。しかし、現状はどうか。店は破壊し尽くされ、目の前にギロチン、唯一の客は締め殺されそうで、雇っている唯一のバイトは死亡。
「おい! 死んでないっすよ!」
滝川は折れたモップを杖代わりにしてやっと立ち上がっていた。
「生きてたのか」
「あのクソ店長……」
滝川はひびの入った金縁の丸眼鏡の奥から憎悪に染まった眼光で私を睨みつけた。雇い主に向ける視線のそれではない。半年間、減給。
「げほっ」
まずい。滝川はともかく、少女の方はいい加減、息を引き取るのも限界であった。店が事故物件になるのは非常に困る。話を戻そう。現状は全く、私にとって恐ろしく都合の悪い状態である。可能であるのなら今でこそ、脳の門を潜った先の思考の楽園に閉じこもりたいものだ。それこそ、あそこならば何もかも、思い通りになれる。少女の言葉を愚直に受け取るのならば、私は今こうして相対している現実も、いつも空想の中に閉じこもる時の要領でいくらでも書き換えることが出来るらしい。
私は一昨日に観た、酷い出来のホラー映画に出てくる死神。大鎌を振り回し、全ての命を刈り取る。
「おお……」
気づけば私の右手が、大鎌の柄を握っていた。こんな大鎌、人生で初めて持ったが毎日振り回してきたかのように手によく馴染んでいる。まるで、肉を切るときのフォークかナイフのように。少女の言っていたことは、本当だった。私のヌースの部屋で生み出されたイメージは、自身の存在を超越して、今、現実となる。
「店をこれ以上荒らされては困るのでね」
私は第四の騎士になる。状況が一変したのを察したのか、黒い影は私を飲み込むためか、大きく体の大方の部分を大波のようにうねらせ、こちらにゆっくりと背を伸ばして倒れ込んできた。
「ふむ……」
私は兎のように高く飛び上がって、両手で鎌を振りかぶり、襲いかかってきた黒い粘体の波を両断した。
「店長!?」
滝川は鎌を振り回して戦う私を見て、驚きのあまり、折れたモップを手放して床に転がしてしまっていた。
黒い波はモーセを前にした時のように割れて、私に道を開ける。次は少女の気道を解放してやろう。私は鎌を振り抜いた勢いで、夏になると出てくる小蠅の如く店の中で虚空を舞い、少女の首を掴んでいる、黒い影の腕のように伸びた部分を斬り落とした。
「はっ……はぁ……はぁ……」
血走ったくまだらけの目で私を黙って見つめながら、少女は今まで止められていた分の呼吸を取り返すように、背中を膨らませては萎ませて息をしていた。
「さて、もうしまいにしよう」
私は有頂天になって、黒い影の魂を確実に破壊するつもりで鎌を横に振った。
柔らかい鶏肉を斬っている時の感覚の最中、一瞬小さなスナック菓子を砕いた時と同じ音がして、そのすぐ後、私の店を散々荒らしまわった正体不明の黒い影は、溢したコーヒーのように床に染み込むように消えて無くなってしまった。
「やれやれ、なんだったんだ、今の——って、あれ」
いつの間にか、私がこの手に持っていた鎌も、ギロチンも跡形もなくなっていた。さらに奇妙なことには——。
「ええ!? 元通りになってる!」
滝川がこう叫ぶのも無理はなかった。奇妙なことに、一度瞬きをしたのち、もう一度視界に我が店人参房が現れると、荒らし尽くされたその無惨な姿は嘘のように、黒い影が押し入ってくる前の姿に戻っていたのだ。特注のソファも、滝川が拭いていた途中の窓も、滝川があの影に立ち向かった時のモップも、全て壊される以前のままだった。
「これは一体——」
相変わらず顔色が悪い少女が、ガラス越しに傾き始めた陽の光を眺めている。
「あれは……あの黒い塊は、“フロイト”」
聞き慣れない言葉だ。少女は店を襲ったのち、痕跡すら残さずに消えたあれの正体を知っているらしい。
「フロイト?」
「ああ。あれ、フロイトは——」
少女の瞳は絶望で黴びたように、この煌々とした西陽を受けてもなお、濁っている。
「戦争で使われている、市民をも標的にした無差別兵器だ」
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