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しおりを挟む「記憶が、ーー」
カザス侯爵夫妻に招かれ、訪れた侯爵邸の応接間でわたしは母の手を握りしめながら先に続ける言葉を見失っていた。
あの日から三か月が過ぎた。
皮膚から吸収された毒物に似た薬はカリードの精神を深く侵した。
血液を巡り全身を著しく傷つけ、衰弱した身体は発火するほど熱を持ち、昏睡状態が長く続いた。
卑劣な暴力を受けた心の痛みがどれほどのものか、想像することもできない。
毎日祈っていた。
卒業式の日も、結婚式を挙げる予定だった日も。
晴れの日も、雨の日も。
祈っていた。
回復しますように。
目覚めてくれますように。
わたしにできることなんてそれくらいしかなかった。
面会の許可が下りてからはできるだけ会いに行った。
久しぶりに姿を見たときは、不安よりも安心で涙が込み上げた。
ーー脳裏に焼きついて消えない光景があっても、わたしはカリードを愛しているとわかったから。
青白く少し細くなった手を額に当てながら、そのあたたかさに心からそう思った。
短い時間しか過ごせなくても教わったマッサージを施したり、たくさん語りかけずっと待っていることを伝えた。
大丈夫。
きっと大丈夫。
そう、祈りながら。
そうして一月まえ、カリードが目覚めたと連絡をもらったときは母に抱きつき幼な子のように声を上げて泣いた。
だけどすぐには会えなくて。
今日やっと、それが叶う。
顔を見て、瞳を見て、伝えられる。
伝えたいことがたくさん、あるの。
「、ーーあの、それ、は、」
ーーそうして聞かされたのは、
「……説明させてほしい、クイン嬢」
お会いしてからのどこか戸惑ったようなおふたりの対応は気のせいではなかった。
気まずそうに話し始める様子に冷たい汗が背中をつたり、しんぞうが早鐘を打つ。
嫌な予感が急きたてる。
曰く。
カリードは目覚めてもしばらく意識混濁、言語不明瞭な状態が続いた。
起き上がれるようになったころ会話のなかで違和感を感じ、体調を見ながら根気強く続けた結果自身については曖昧ではあるが把握できてきたけれど。
カリードは。
あの日起こったことも、
婚約者であるわたしのことも、覚えていない。
という事実。
「…………恐らく副作用の類だろうと言われている。一時的なものだろうと。
まだ万全ではなく、今は日常生活を送れるようになることと、何より自分自身を取り戻すことが最重要だと、…私たちもそう思っているんだ…」
「それはもちろん当然のことだわウィリアム、アイリーン。カリードの心身が癒えることを願う気持ちはわたくしたちも一緒だもの。
…ウィリアム、…クインのことは、…少しも…?」
「……あぁ、私たちも何度も話してはみたのだが、……今、無理に記憶を呼び起こそうとしたり負担をかけるのは精神的によくないと……すまない、クイン嬢……」
負担。
頭を殴られたような衝撃を受けながらかろうじて首を振る。
ーーそんな。そんな、こと。
忘れてしまったの、カリード。わたしを。わたしのことを。どうして。でも、
苦しくて辛い記憶は失くしても、思いだせなくてもいいのかもしれない。
嫌な、記憶は。
でも、わたしは?
わたしのことも、そう、思っていたの?
あなたのなかでわたしは、消してしまいたい存在なの?
あなたには、それがーー。
「ーーおじさま、おばさまごめんなさい」
何を。違う、馬鹿なことを。自分のことばかり。副作用だと言ったじゃない。
毒にさらされて。
あんな恐ろしい目に遭って、一時は命まで危ぶまれていたのよ。それなのに。
傷つけられて、傷ついて、それでも戻ってきてくれた。
もう二度と。
あのやさしい声を。いとおしい瞳を。
もう二度と、
聞くことも、見ることも、できなかったかもしれないのに。
「最初にお伝えするべきでした」
「…?」
「…クイン…?」
必要なことなら。
「……よかった……」
カリードの笑顔が、また見れるのなら。
「……カリードが目覚めてくれてよかった……っ」
わたしのことなど、どうでも。
扉のまえでわずかに足が竦んだ。
「クイン、大丈夫…?」
「…はい。一目だけ姿が見れたら、それでいいの。お母様もそうでしょう?」
ほんとはあのまま暇を告げるつもりだったけれど、夫妻の提案にうなずいてしまった。
会いたいという気持ちに、抗えなかった。
朗らかな女性の笑い声。
『ーー…王宮侍医から紹介された人物がつき添っていて、彼女はとても優秀な薬師なんだ。
女性だということで断ろうとも思ったが、…拒否感は感じられないという判断で、治療を続けてもらっている』
彼の痛みを和らげ、彼を癒やすことができる。
ひそかな息をひとつ吐く。
夫妻がノックし、聞こえる声は待ち望んだ彼の声。
向けられた彼の表情が微かに顰められていても、
笑顔を、向けられなくても、
よかったと、思ったのは嘘じゃない。
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