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幽霊母ちゃん
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「これ以上いくら話したって、平行線だよ」
苛立ちを隠そうともせず、俺は彼女に言葉を叩きつけた。
「厚……、ちょっと待ってよ」
「とにかく、別れるか留学か。二つに一つだ。よく考えて選べばいい」
そう言い放ち、俺は席を立った。
結婚を前提に付き合っている彼女に、思いがけない海外留学のチャンスが転がり込んだのは、二週間前の事だ。なんでも、新聞社が主催した「異文化に関するエッセイコンテスト」とかいうので入賞し、その新聞社のスポンサーで一年間の海外留学に行く権利を得たらしい。
彼女に、どうしても行きたい、待っていて欲しいと言われ、俺は激怒した。俺も彼女もいい歳だし、そろそろ具体的な話を……、と考えていた矢先に、それは突然の裏切り行為のように思えた。
俺には、彼女がなぜ海外留学などしたがるのか理解できなかった。広い世界をこの目で見て、色々な人と出会い、様々な経験をしたい。そして、もっと柔軟で視野の広い人間になりたい。彼女は俺にそう説明した。しかし俺に言わせれば、今から俺と結婚して家庭を守り、子供を産んで育てるのにそんなもの必要ない。
俺がそう言うと、彼女はただ深い溜め息をついた。結婚する前からこんな調子で、家族としてやっていけるのだろうか。気まずい沈黙の内に、俺も彼女も同じ事を考えている空気が漂っていた。
「厚、もう少し私の話を……」
彼女が言いかけたその時だ。俺の携帯の呼び出し音が鳴った。見れば、知らない番号だ。俺は片手で彼女を制し、電話を取った。
「もしもし、こちらは田中厚様の携帯電話でしょうか」
事務的な感じの、女性の声。きっとセールスか何かだろう。俺は内心で舌打ちをした。
「そうですが、何か」
意図的にぶっきらぼうな声で答える。
「こちらは○○総合病院でございます。田中芳恵様とおっしゃる方が、事故でこちらの救急に搬送されております。緊急事態ですので、急ぎご連絡させていただきました。お身内の方でしょうか……」
俺は携帯電話を固く握りしめた。
田中芳恵。享年五十七歳。
俺が病院に駆けつけた時にはもう、母ちゃんの顔には白い布が被せられていた。自分の軽自動車を運転して買い物に行く途中の、ハンドル操作を誤っての事故だった。大きな事故ではなかったものの打ちどころが悪く、ほぼ即死状態だったそうだ。だが、苦しまなかったのはせめてもの幸いだと思う。
俺の父親は俺が生まれてすぐ死に、母ちゃんは女手一つで一人息子の俺を育てた。いつも元気で明るく活動的で、大らか――と言うより細かい事を気にしない大雑把なたちで、いつまでも長生きするような気がしていた。それなのに、人ひとりの人生が、こんなにあっさりと終わりを迎えるものだとは。誰にでも起こり得る事なのだと頭では理解できても、中々実感は湧かなかった。
俺は半ば無意識に、葬儀や埋葬などの必要な手配を進めていった。その間に現実感は少しもなく、涙を流すような事もなかった。思うにこういう非合理的に思える伝統的なしきたりの数々は、残された者の為にあるのだ。悲しむ間もなくやらねばならない事に気を取られているうちに、少しづつ、故人の死を受け入れる心の準備ができるのだろう。
埋葬を済ませ、遠方から来てくれた親類縁者を送り出してようやく一息ついた日、俺は母ちゃんが一人で暮らしていた実家に向かった。仕事はしばらく休みを取ってあるので、遺品整理やなんかの為にしばらく実家で過ごす事にしたのだ。
玄関を開けて居間に入った途端、何だか急に身体の力が抜けた気がした。誰もいない居間はなんだか所在なく、俺はとりあえずソファに身体を投げ出した。
目を閉じ、母ちゃんの事を考えてみる。思えば、まだ俺は涙のひとつもこぼしていない。薄情な息子だろうか。いや、ただ実感がないのだ。埋葬を済ませた今もまだ、どこか信じられずにいる。あの母ちゃんが、俺の母ちゃんが死んだなんて。もう、この世にいないだなんて。もしかして、これは夢じゃないのだろうか。
そんな、次々とやってくる切れ切れの思考の相手をしているうちに、俺はいつしか眠りに落ちていた。
「厚ー! 休みだからっていつまで寝てんの。片付かないから、いい加減起きてちょうだい!」
キッチンから、母ちゃんの怒鳴り声が響く。
うるさいなあ、もう。たまの休みくらい、のんびり寝させてくれたっていいじゃないか。俺は文句を呟きながら、ソファの上に身体を起こした。いつの間にか毛布がかけられている。
「寝るんなら、ちゃんとお布団で寝なさいよ。どうせまた遅くまでゲームしてたんでしょ」
「母ちゃん、俺いくつだと思ってるんだよ」
欠伸をしながら、居間と続きになっているキッチンのテーブルに着く。
「母ちゃん、朝飯」
「食べるの?」
「食べる」
「それならそれで、もっと早く起きなさいよ」
母ちゃんはブツブツ言いながら炊飯器の蓋を開け、飯をよそった。
「ほら、そこにおかずあるからそれ、自分でチンしなさいよ」
皿に載った卵焼きとメザシと母ちゃんオリジナルの名も無きおかずが、ラップをかけてテーブルに置いてある。俺は言われた通り、皿を電子レンジに入れた。
母ちゃんが、湯気の立つご飯と味噌汁を出してくれる。
のんびり朝飯を食べながらキッチンの壁にかかった時計を見ると、もう昼近い。休みとは言え、ちょっともったいなかったな。休み……、アレ? 慌ててカレンダーを見る。
――今日は、平日じゃないか! 祝日でもないよな!?
「や、やばい。仕事……!」
慌てて椅子から立ち上がった俺に、急須からお茶を注いでいた母ちゃんが言った。
「ちょっと厚、しっかりしなさいよ。会社はしばらく休みを取ったんでしょ」
「え?」
そうだっけ? あ、そうだそうだ。まだしばらくは色んな手続きやら遺品整理やらでゴタゴタするし、有給もたまってるし、まとめて休みを取ったんだった。俺は安堵の溜息をつき、椅子にかけ直した。
「ああ、焦った。一瞬、遅刻したかと……」
俺は再び、今度は勢いよく椅子から立ち上がった。椅子が背後で倒れて大きな音を立てた。
「ちょっと、厚! 行儀悪い……」
「母ちゃん!」
「なに」
「なんでいるんだよ!?」
母ちゃんは、昨日確かに埋葬したはずだ。
「いや、それがねえ……」
母ちゃんはズズズとお茶を啜った。
「ほら、母ちゃんもね、死んだ事は分かってるのよ。事故の時の事はあんまり覚えてないけど」
「それが、何で」
「ほら。これ見てちょうだい、これ」
母ちゃんはそう言って、小さな手を俺に差し出した。よく見ると――、その手はうっすらと透けている。
「ちょ、何だよこれ!?」
「母ちゃん考えたんだけどね。ほら、テレビでよくやってるでしょ、心霊特集とかいって……」
「は!?」
「この世に何か心残りがあると、死んだ後成仏できなくて霊になるらしいのよ」
「ちょ、えっ」
つまり……、ここにいる母ちゃんは……、
「幽霊って事か!?」
「どうも、そうみたいねえ」
母ちゃんはもう一口お茶を啜った。
「そんな他人事みたいに……」
俺は頭を抱えた。
「だ、だけど……。母ちゃんの心残りって、何なんだよ?」
「それが、思い出せないのよね」
「え?」
「何か、すごく気になってる事があったのよ。それは確かなんだけど、何だったか忘れちゃって」
「しっかりしてくれよ、母ちゃん。まだボケる歳じゃないだろ」
「そんな事言ったって、忘れちゃったものはしょうがないじゃない」
俺は呆れて溜息をついた。うちの母ちゃんはいつもこうだ。
「心残りか……。まあ普通に考えれば、その、俺の事だよな……。なんたって一人息子なわけだし」
俺は多少照れくさくて、母ちゃんと目を合わせないようにしながらそう言った。しかし母ちゃんは、豪快に吹き出した。
「やーだ! そんなんじゃないわよ。そりゃ、もしあんたがまだ小さかったら心残りだわよ。でもこんな立派なオッサンになった息子つかまえて、今更そりゃないわよ~」
「…………」
立派なオッサンで悪かったな。
「まあ考えてたよりちょっと早かったけど、人間いつかは死ぬんだし。それに、寝たきりになってあんたの足手まといになるよか、よっぽど良かったわ」
「な、何言ってんだよ母ちゃん。縁起でもない事言うなよ!」
俺はそう言ってからはたと気づいた。既に縁起でもない事になっている。
「と、とにかく……。その、何とかして成仏しなきゃいけないよな」
「うーん、まあそうなんだろうねえ。テレビで心霊研究家だか何だかの先生が、そんな事言ってたし」
「何か心残りがあって成仏できないって事は、それを果たせば成仏できるんだよな」
「理屈はそうよねえ」
「母ちゃん、もう少し焦った方がいいんじゃないのか。成仏できない霊はずっとこの世を彷徨うんだろ」
「そうねえ。まあでも、そのうち何とかなるでしょ」
母ちゃんは立ち上がり、流しに湯呑みを運んだ。そしてそれを洗いながら、俺の方を振り返って言った。
「いいから、早くそれ食べちゃいなさい。片付かないでしょ」
俺は、居間のソファでうとうとしている母ちゃんを、横目でちらりと見やった。食後にテレビを見ているうちに眠くなったらしい。その呑気な姿を見ていると、とても幽霊とは思えない。
母ちゃんの心残り。俺の事でないと言うのなら、何なのだろう。
考えてみても、分からないと言うよりは、何も思い浮かばない。母ちゃんは常に俺の「母ちゃん」で、俺はその関係性でしか母ちゃん――、いや、「田中芳恵」を考えた事がなかったのだ。俺は、俺の母ちゃんである以外の「田中芳恵」の事を何も知らなかった。
少し複雑な気分だった。母ちゃんは俺の母ちゃんである前に、田中芳恵という一人の人間で、田中芳恵は俺以外の何かに人生の未練を残しているのだ。その事実が、俺に少しだけ嫉妬に似た感情を起こさせた。
だが考えてみれば、母ちゃんがシングルマザーになった時は今の俺よりも若かったのだ。まだやりたい事がたくさんあったに違いない。でも、産まれたばかりの俺を抱えて諦めざるを得なかった……。
俺は、呑気に眠っている母ちゃんをじっと眺めた。
もし。もしもだけれど……。俺がいなかったら、俺の「母ちゃん」ではない田中芳恵には、もっと違う人生があったんじゃないだろうか。幸福な再婚をしていたかもしれない。進みたい道を選び、仕事に生きがいを見出していたかもしれない。一人きりで子育てに追われる日々の代わりに、色々な人と出会い、様々な経験をし、充実した人生を全うしたかもしれない……。
俺は勢い良く立ち上がった。
何としてでも見つけるんだ、母ちゃんの心残りを。そして、その願いを叶えてやらなくては。
そうだ。考えてみても分からないなら、他の方法でなんとかするしかない。俺は母ちゃんの部屋に向かった。何か手がかりを見つけよう。例えばそう、日記とか。
「はあ……」
無駄に散らかっただけの部屋を見回し、俺は溜息をついた。
あの母ちゃんに、日記なんていう繊細な少女のような習慣を期待した俺がバカだった。日用品以外で部屋にある物といえば、猫のカレンダー、温泉ツアーのパンフレット、もらったお土産のこまごました置物。編み物の道具や韓流スターのDVD。少しばかりの銀行や保険関連の重要な書類。使わなくなって服がかけてある健康器具――。
どれも、手がかりになりそうもない。
それらを眺めているうちにふと、部屋の隅の本棚が目についた。
本は、持ち主の興味を如実に反映するものだ。これはヒントになるかもしれない。俺はいそいそと本棚に向かい、並んだ本の背表紙を覗きこんだ。
女性週刊誌。料理のレシピ集、美容の本。芸能人の書いた小説――文学賞を取って最近話題になったやつだ。有名女流作家の小説や、ドラマ化されたベストセラー小説。「ガンにならない体をつくる」、「やるぞ! インターネット」、「五十歳からはじめるスマートフォン」、「ちょこっとガーデニング」、「ひとりぼっちで楽しく生きる」、「キノコの健康力」、エトセトラ、エトセトラ……。
何かしら共通のテーマに関連した本が多ければ、それだけ母ちゃんの関心が強いという事だ。つまりそのテーマが、「心残り」に関係ある可能性は高い。俺はそう考えていたのだが、生憎と母ちゃんの本棚は、まるで食べかけのお菓子のような情報の集大成だった。格別、何か一つの事に強い関心があったようには思えない。
結局この部屋から分かるのは、母ちゃんが新しいもの好きで、情報をすぐ鵜呑みにする、飽きっぽい性格だという事だけだ。
そうだ、アルバムはどうだろう。俺は押し入れを探り、アルバムを何冊か探し出した。母ちゃんに関わりのある人達を見てみれば、何か分かるかもしれない。そう、例えば、「初恋の人に会いたい」なんて、いかにもありそうな気がするぞ。
しかし長い時間をかけてアルバムをチェックした俺は、終いに疲れた目をこすってアルバムを放り出した。収穫はなかった。アルバムの写真には、母ちゃんと一緒に大勢の人達が写っていたが、特別に親しそうな人だとか、初恋の人らしき写真は見つからなかった。何か少しでもこう、ピンくとくるような人はいないかと注意してみたのだが、特に俺の目を引く写真はなかった。そもそも俺が生まれて以降の写真に映っているほとんどの人が、近所の人や母ちゃんの古くからの女友達など、俺も知っている人ばかりだった。アルバムにしても、最近の写真を収めた一冊以外は、長い事しまわれっぱなしだった様子だ。もし心を残すような相手がいるなら、時々写真を見るくらいはしただろう。
「あら、あんた何やってんの」
襖を開け、母ちゃんが部屋に入ってきた。
「手がかりを探してるんだよ」
「手がかり? 何の」
不思議そうな顔をする母ちゃんに、俺は呆れ返った。
「何の、って。決まってるだろ。母ちゃんの心残りが何なのか……」
「ああ、それね」
母ちゃんは大して興味もなさそうにあっさりと言った。
「で、何か分かったの?」
「全然」
俺は大きく伸びをして、こった肩をほぐした。
「母ちゃんもさあ、もう少し、思い出す努力をしてくれよ」
「うーん。考えてはいるんだけどねえ」
嘘つけ。今まで昼寝してたじゃないか。
「ほら、例えば、会いたい人がいるとかさ」
「そんな人がいれば、会ってるわよ」
「いやその、なんかこう感情的な理由で、会いたいけどずっと会えなかったとか……」
「え? だって会いたいなら会うでしょ?」
母ちゃんは首をかしげている。ダメだ。この線はなしだ。
「じゃあ、やりたかった事があるとか。海外旅行に行きたかったとか、富士山に登ってみたかったとか……」
「うーん。全く何もないって訳じゃないけど、それ程でも……、って感じなのよねえ。って言うか、そんな心残りになるほどやりたかった事なら、忘れたりしないと思うのよね」
「確かに……」
母ちゃんにしては的を得た意見だ。
「どうも、そういう事じゃなかった気がするのよ」
俺はがっくりと肩を落とした。
「そっか……。一体何なんだろうな……」
「まあ、そのうち思い出すわよ。なにもそんなに焦って、母ちゃんを追っ払おうとしなくてもいいじゃない」
冗談めかした母ちゃんの言い草に、俺はムッとした。人がこんなに頑張っているのに。
「違うだろ! 俺は母ちゃんの為を思って……」
「だって母ちゃん幽霊でも、別に困ってないわよ」
「だ、だけど! 人は死んだら成仏しなきゃいけないっていうのは常識だろ!? テレビの人もそう言ってたんだろ!?」
母ちゃんは、溜息をついた。
「どうもあんたはねぇ……、頭が固いわよね。融通がきかないと言うか、視野が狭いと言うか。奥さんになる人が苦労するよ。あんたのそういうとこ、母ちゃんちょっと心配なのよねぇ」
「ほ、ほっといてくれよ!」
「もうちょっとこう、臨機応変と言うか大らかにと言うか……、『なるようになるさ』みたいに考えられないもんかしらね」
「母ちゃんが大雑把過ぎるんだよ!」
俺が思わず怒鳴ると、
「そんな事言ったって……」
と、母ちゃんは少しだけ困った顔をした。
「母ちゃんはあんたが元気で幸せなら、細かい事はどうだっていいんだもん」
窓を開けてベランダに出ると、煙草に火をつけた。しばらく吸っていなかったので、頭が少しクラクラする。
見上げた夜空はよく晴れていて、星が綺麗に見える。成仏するとあそこへ行くんだろうか、などとふと思った。
――このままでも、いいじゃないか。
俺は一人、呟いた。
母ちゃんの言う通りかもしれない。よくよく考えてみれば、成仏しなきゃいけないなんて誰が決めたんだ。テレビに出てた心霊研究家だか何だかも、死んだ事がある訳じゃない。本当の所は何も分からないじゃないか。
母ちゃんにちょっと言い過ぎてしまった。それにすっかり忘れていたけれど、母ちゃんはもう、死んだんだ。成仏するって事は、本当にいなくなってしまうって事じゃないか。俺と母ちゃんだけの小さな家族は、それで終わりになってしまう。
そうだ。やっぱり、このままでいい。母ちゃんは、ずっとこの家にいればいい。何にも問題ないじゃないか。そうだよな。
明日、母ちゃんに謝ろう。
スッキリした気分で一服し終わると、俺は布団に入った。
翌朝、俺がキッチンに入ると、母ちゃんは目玉焼きを焼いているところだった。
「あら、珍しい。今朝は早いじゃないの」
そう言って振り返り、いつも通り笑う。昨日の事なんて気にしてないみたいだ。だけど……。
「あのさあ、母ちゃん」
「なに」
「昨日はさあ、ちょっと、何て言うか、その……。俺、言い過ぎたよ。悪かった」
母ちゃんは、まるで珍しい動物でも見るように俺を見た。
「ちょ、ちょっと。あんたおかしいんじゃないの? 大丈夫?」
「べ、別に。おかしくないだろ! 悪い事したなって思ったから謝っただけだよ」
俺は照れ隠しに乱暴に椅子を引き、テーブルに着いた。
「はいはい。気にしてないわよ」
母ちゃんはそう言うと目玉焼きを皿に移し、ベーコンと一緒に俺の前に置いた。コーヒーを淹れ、トーストを焼き、オレンジを切る。テキパキとした動作。そりゃそうだ。俺が就職して家を出るまで二十年以上、毎朝繰り返してきた動作なんだから。毎朝毎朝、こうして俺に朝飯を作ってきたんだ。そんな事を思いながら、俺は母ちゃんをぼんやりと眺めていた。
「ほら。ボケっとしてないで、冷めないうちに食べなさい」
「うん」
俺は立ち上がって冷蔵庫を開け、マヨネーズを取り出した。俺は目玉焼きにはマヨネーズ派だ。だが、ふと見ると、マヨネーズの残りが少ない。
「母ちゃん、マヨネーズもうない」
「一番下の段に買い置きがあるから、出してちょうだい」
そう言われ、俺はしゃがみ込んで冷蔵庫の一番下の段を探った。何だか色々な物がゴチャゴチャと詰め込まれている。俺は仕方なく、中の物を一つ一つ取り出し始めた。大きめの箱があって場所を取っている。何が入ってるんだろう。俺は何気なくその箱を開けてみた。
箱の中には、どら焼きが山ほど入っていた。
「母ちゃん、こんなにたくさん甘いもの食ったら糖尿になるよ」
俺の言葉に振り向いた母ちゃんは、
「あーっ!!」
と、いきなり大声を出した。
「な、何だよ、脅かすなよ母ちゃん」
「それよ! それ!」
フライ返しで、俺の抱えたどら焼きの箱をしきりに指している。
「これがどうかしたのか」
「すっかり忘れてたわ!!」
その言葉に、俺は口をぽかんと開けて母ちゃんを見た。
「ま、まさか心残りって……、このどら焼きの事じゃないだろうな!?」
ところが母ちゃんは、満面の笑顔を浮かべて言った。
「そうよ! そう! 頂き物なんだけど、すごいのよこれ。高級どら焼きってテレビで紹介されて、すごい人気なのよ。一個850円もするんですって! 食べに来いってあんたに電話しようと思ってたのよ。あんた大好きでしょ、どら焼き。ほら、子供の頃、出かけた時にはいつも買ってやったじゃない。そうするとあんたすごく喜んで……」
「母ちゃん!」
俺は母ちゃんを遮った。
「そ、そんな事で……、たかがどら焼き……、」
理不尽な怒りが、フツフツと胸に湧き上がってくる。
「だってあんた喜ぶと思って。それに早く食べなきゃ傷んじゃうでしょ。高いのにもったいないじゃない」
「そうじゃなくて! 心残りって、普通もっと違うだろ! 何かこう……」
「なんであんた怒ってんの」
「なんかさぁ、あるだろ、自分の事!」
母ちゃんが死んでから初めての涙が、俺の頬をこぼれ落ちた。俺にもようやく分かったのだ。俺は――、母ちゃんの人生そのものだった。
だけど、田中芳恵享年五十七歳は、それで幸せだったのか? 母ちゃんにとって俺は、それだけの価値があったのか?
「やあねえ、あんた今日変よ。ほら」
母ちゃんはまるで俺が小さい頃にそうしたように、タオルで俺の顔をゴシゴシと拭った。
「いい歳して、まるで赤ちゃん返りしちゃったみたいじゃないの」
だけど俺はもう、こみ上げる嗚咽を止められなかった。
母ちゃん。母ちゃん。母ちゃん。
まだ、いてくれよ。
寝たきりになったら、俺が面倒見るよ。足手まといなんかじゃない。ボケたっていい。幽霊だって何だっていいよ。だから……。まだ、行かないでくれよ、母ちゃん。
「あら」
母ちゃんが、ふと自分の手を見つめた。
はっとして目をやると、その手が少しづつ、少しづつ、透明になっていく……。
「心残りが消えてスッキリして、これでめでたく成仏って事なのねえ。上手くできてるわねえ……」
母ちゃんは呑気に言った。
「母ちゃん……!」
「ほらほら、しっかりしなさい。母ちゃん、心配になっちゃうじゃないの」
母ちゃんは、俺の背中をバンバンと叩いた。
母ちゃん。成仏なんかしないでよ。
嗚咽と共に喉元まで出かかった言葉を、俺は塊を飲み下すように飲み込んだ。
そうじゃない。俺が今、母ちゃんにしてやれる事――。
「母ちゃん」
顔の筋肉を無理やり動かして、笑顔を作る。
「……俺、大丈夫だよ。まあ、色々あるけどさ、頑張って、いつも元気で幸せでいるよ。心配いらないよ」
「……そう」
母ちゃんの顔も、くしゃりと歪んだ。
「そりゃ、良かった」
瞳に涙が滲んでいる。俺が初めて見る、母ちゃんの涙だった。だがその顔も、もうほとんど半透明になっている。きっとすぐに見えなくなってしまう。
「ちょ、ちょっと、さみしい、けど、さあ」
俺は鼻水をすすり上げた。
「や、やあねえ」
母ちゃんも、鼻水をすすった。
「……母ちゃん」
「なあに」
「……幸せだった?」
「幸せだったよ」
母ちゃんの姿が、どんどん消えていく。
「母ちゃん……、ありがとう」
一瞬の間を置いて、母ちゃんの最後の笑顔と言葉が俺に届いた。
「どういたしまして」
後には、どら焼きが残されているばかりだった。
俺は、涙で甘しょっぱいそのどら焼きを頬張った。母ちゃんには言わなかったけれど、俺は本当はどら焼きが好きだったんじゃない。子供だった俺は、たまの休みに母ちゃんと手を繋いで一緒に出かけるのが楽しかった。いつも仕事で忙しい母ちゃんが、一日中傍にいて、俺の他愛もない話に笑顔で頷いてくれる事が嬉しかった。母ちゃんが買ってくれて、母ちゃんと半分こにして食べるどら焼きが好きだったんだ――。
「留学の話ね、辞退する事にしたから」
「えっ」
話があると呼び出され、待ち合わせのカフェに出向いた俺に、彼女は開口一番そう言った。
「ど、どうして」
「どうして、って。こんな時に厚の事一人残していけないよ。お母さん、厚にとってたった一人の家族だったんだもんね……」
「…………」
「だけど、あたしも厚の支えになりたいから……。辛いだろうけど、気を落とさないで……、一緒に頑張ろう」
「待って」
俺は、彼女を遮った。
「留学、行ってこいよ」
「えっ!?」
「広い世界を見て、色んな人と会って、色んな経験をして……。楽しい思い出、いっぱい作ってこいよ」
俺は彼女に笑いかけた。
「だ、だけど……」
「俺は大丈夫だから。行きたかったんだろ? 行ってこいよ。後悔しないように」
彼女は、戸惑っている。しばらくの間無言で考え込んだ。
「……本当に、いいの?」
「ああ。一年くらい、待ってるよ。だけど……、一つだけ条件がある」
「条件?」
彼女は、不安げな顔で俺を見た。
「俺と家族になったら……、」
「家族になったら?」
「いつも元気で、幸せでいてくれること」
苛立ちを隠そうともせず、俺は彼女に言葉を叩きつけた。
「厚……、ちょっと待ってよ」
「とにかく、別れるか留学か。二つに一つだ。よく考えて選べばいい」
そう言い放ち、俺は席を立った。
結婚を前提に付き合っている彼女に、思いがけない海外留学のチャンスが転がり込んだのは、二週間前の事だ。なんでも、新聞社が主催した「異文化に関するエッセイコンテスト」とかいうので入賞し、その新聞社のスポンサーで一年間の海外留学に行く権利を得たらしい。
彼女に、どうしても行きたい、待っていて欲しいと言われ、俺は激怒した。俺も彼女もいい歳だし、そろそろ具体的な話を……、と考えていた矢先に、それは突然の裏切り行為のように思えた。
俺には、彼女がなぜ海外留学などしたがるのか理解できなかった。広い世界をこの目で見て、色々な人と出会い、様々な経験をしたい。そして、もっと柔軟で視野の広い人間になりたい。彼女は俺にそう説明した。しかし俺に言わせれば、今から俺と結婚して家庭を守り、子供を産んで育てるのにそんなもの必要ない。
俺がそう言うと、彼女はただ深い溜め息をついた。結婚する前からこんな調子で、家族としてやっていけるのだろうか。気まずい沈黙の内に、俺も彼女も同じ事を考えている空気が漂っていた。
「厚、もう少し私の話を……」
彼女が言いかけたその時だ。俺の携帯の呼び出し音が鳴った。見れば、知らない番号だ。俺は片手で彼女を制し、電話を取った。
「もしもし、こちらは田中厚様の携帯電話でしょうか」
事務的な感じの、女性の声。きっとセールスか何かだろう。俺は内心で舌打ちをした。
「そうですが、何か」
意図的にぶっきらぼうな声で答える。
「こちらは○○総合病院でございます。田中芳恵様とおっしゃる方が、事故でこちらの救急に搬送されております。緊急事態ですので、急ぎご連絡させていただきました。お身内の方でしょうか……」
俺は携帯電話を固く握りしめた。
田中芳恵。享年五十七歳。
俺が病院に駆けつけた時にはもう、母ちゃんの顔には白い布が被せられていた。自分の軽自動車を運転して買い物に行く途中の、ハンドル操作を誤っての事故だった。大きな事故ではなかったものの打ちどころが悪く、ほぼ即死状態だったそうだ。だが、苦しまなかったのはせめてもの幸いだと思う。
俺の父親は俺が生まれてすぐ死に、母ちゃんは女手一つで一人息子の俺を育てた。いつも元気で明るく活動的で、大らか――と言うより細かい事を気にしない大雑把なたちで、いつまでも長生きするような気がしていた。それなのに、人ひとりの人生が、こんなにあっさりと終わりを迎えるものだとは。誰にでも起こり得る事なのだと頭では理解できても、中々実感は湧かなかった。
俺は半ば無意識に、葬儀や埋葬などの必要な手配を進めていった。その間に現実感は少しもなく、涙を流すような事もなかった。思うにこういう非合理的に思える伝統的なしきたりの数々は、残された者の為にあるのだ。悲しむ間もなくやらねばならない事に気を取られているうちに、少しづつ、故人の死を受け入れる心の準備ができるのだろう。
埋葬を済ませ、遠方から来てくれた親類縁者を送り出してようやく一息ついた日、俺は母ちゃんが一人で暮らしていた実家に向かった。仕事はしばらく休みを取ってあるので、遺品整理やなんかの為にしばらく実家で過ごす事にしたのだ。
玄関を開けて居間に入った途端、何だか急に身体の力が抜けた気がした。誰もいない居間はなんだか所在なく、俺はとりあえずソファに身体を投げ出した。
目を閉じ、母ちゃんの事を考えてみる。思えば、まだ俺は涙のひとつもこぼしていない。薄情な息子だろうか。いや、ただ実感がないのだ。埋葬を済ませた今もまだ、どこか信じられずにいる。あの母ちゃんが、俺の母ちゃんが死んだなんて。もう、この世にいないだなんて。もしかして、これは夢じゃないのだろうか。
そんな、次々とやってくる切れ切れの思考の相手をしているうちに、俺はいつしか眠りに落ちていた。
「厚ー! 休みだからっていつまで寝てんの。片付かないから、いい加減起きてちょうだい!」
キッチンから、母ちゃんの怒鳴り声が響く。
うるさいなあ、もう。たまの休みくらい、のんびり寝させてくれたっていいじゃないか。俺は文句を呟きながら、ソファの上に身体を起こした。いつの間にか毛布がかけられている。
「寝るんなら、ちゃんとお布団で寝なさいよ。どうせまた遅くまでゲームしてたんでしょ」
「母ちゃん、俺いくつだと思ってるんだよ」
欠伸をしながら、居間と続きになっているキッチンのテーブルに着く。
「母ちゃん、朝飯」
「食べるの?」
「食べる」
「それならそれで、もっと早く起きなさいよ」
母ちゃんはブツブツ言いながら炊飯器の蓋を開け、飯をよそった。
「ほら、そこにおかずあるからそれ、自分でチンしなさいよ」
皿に載った卵焼きとメザシと母ちゃんオリジナルの名も無きおかずが、ラップをかけてテーブルに置いてある。俺は言われた通り、皿を電子レンジに入れた。
母ちゃんが、湯気の立つご飯と味噌汁を出してくれる。
のんびり朝飯を食べながらキッチンの壁にかかった時計を見ると、もう昼近い。休みとは言え、ちょっともったいなかったな。休み……、アレ? 慌ててカレンダーを見る。
――今日は、平日じゃないか! 祝日でもないよな!?
「や、やばい。仕事……!」
慌てて椅子から立ち上がった俺に、急須からお茶を注いでいた母ちゃんが言った。
「ちょっと厚、しっかりしなさいよ。会社はしばらく休みを取ったんでしょ」
「え?」
そうだっけ? あ、そうだそうだ。まだしばらくは色んな手続きやら遺品整理やらでゴタゴタするし、有給もたまってるし、まとめて休みを取ったんだった。俺は安堵の溜息をつき、椅子にかけ直した。
「ああ、焦った。一瞬、遅刻したかと……」
俺は再び、今度は勢いよく椅子から立ち上がった。椅子が背後で倒れて大きな音を立てた。
「ちょっと、厚! 行儀悪い……」
「母ちゃん!」
「なに」
「なんでいるんだよ!?」
母ちゃんは、昨日確かに埋葬したはずだ。
「いや、それがねえ……」
母ちゃんはズズズとお茶を啜った。
「ほら、母ちゃんもね、死んだ事は分かってるのよ。事故の時の事はあんまり覚えてないけど」
「それが、何で」
「ほら。これ見てちょうだい、これ」
母ちゃんはそう言って、小さな手を俺に差し出した。よく見ると――、その手はうっすらと透けている。
「ちょ、何だよこれ!?」
「母ちゃん考えたんだけどね。ほら、テレビでよくやってるでしょ、心霊特集とかいって……」
「は!?」
「この世に何か心残りがあると、死んだ後成仏できなくて霊になるらしいのよ」
「ちょ、えっ」
つまり……、ここにいる母ちゃんは……、
「幽霊って事か!?」
「どうも、そうみたいねえ」
母ちゃんはもう一口お茶を啜った。
「そんな他人事みたいに……」
俺は頭を抱えた。
「だ、だけど……。母ちゃんの心残りって、何なんだよ?」
「それが、思い出せないのよね」
「え?」
「何か、すごく気になってる事があったのよ。それは確かなんだけど、何だったか忘れちゃって」
「しっかりしてくれよ、母ちゃん。まだボケる歳じゃないだろ」
「そんな事言ったって、忘れちゃったものはしょうがないじゃない」
俺は呆れて溜息をついた。うちの母ちゃんはいつもこうだ。
「心残りか……。まあ普通に考えれば、その、俺の事だよな……。なんたって一人息子なわけだし」
俺は多少照れくさくて、母ちゃんと目を合わせないようにしながらそう言った。しかし母ちゃんは、豪快に吹き出した。
「やーだ! そんなんじゃないわよ。そりゃ、もしあんたがまだ小さかったら心残りだわよ。でもこんな立派なオッサンになった息子つかまえて、今更そりゃないわよ~」
「…………」
立派なオッサンで悪かったな。
「まあ考えてたよりちょっと早かったけど、人間いつかは死ぬんだし。それに、寝たきりになってあんたの足手まといになるよか、よっぽど良かったわ」
「な、何言ってんだよ母ちゃん。縁起でもない事言うなよ!」
俺はそう言ってからはたと気づいた。既に縁起でもない事になっている。
「と、とにかく……。その、何とかして成仏しなきゃいけないよな」
「うーん、まあそうなんだろうねえ。テレビで心霊研究家だか何だかの先生が、そんな事言ってたし」
「何か心残りがあって成仏できないって事は、それを果たせば成仏できるんだよな」
「理屈はそうよねえ」
「母ちゃん、もう少し焦った方がいいんじゃないのか。成仏できない霊はずっとこの世を彷徨うんだろ」
「そうねえ。まあでも、そのうち何とかなるでしょ」
母ちゃんは立ち上がり、流しに湯呑みを運んだ。そしてそれを洗いながら、俺の方を振り返って言った。
「いいから、早くそれ食べちゃいなさい。片付かないでしょ」
俺は、居間のソファでうとうとしている母ちゃんを、横目でちらりと見やった。食後にテレビを見ているうちに眠くなったらしい。その呑気な姿を見ていると、とても幽霊とは思えない。
母ちゃんの心残り。俺の事でないと言うのなら、何なのだろう。
考えてみても、分からないと言うよりは、何も思い浮かばない。母ちゃんは常に俺の「母ちゃん」で、俺はその関係性でしか母ちゃん――、いや、「田中芳恵」を考えた事がなかったのだ。俺は、俺の母ちゃんである以外の「田中芳恵」の事を何も知らなかった。
少し複雑な気分だった。母ちゃんは俺の母ちゃんである前に、田中芳恵という一人の人間で、田中芳恵は俺以外の何かに人生の未練を残しているのだ。その事実が、俺に少しだけ嫉妬に似た感情を起こさせた。
だが考えてみれば、母ちゃんがシングルマザーになった時は今の俺よりも若かったのだ。まだやりたい事がたくさんあったに違いない。でも、産まれたばかりの俺を抱えて諦めざるを得なかった……。
俺は、呑気に眠っている母ちゃんをじっと眺めた。
もし。もしもだけれど……。俺がいなかったら、俺の「母ちゃん」ではない田中芳恵には、もっと違う人生があったんじゃないだろうか。幸福な再婚をしていたかもしれない。進みたい道を選び、仕事に生きがいを見出していたかもしれない。一人きりで子育てに追われる日々の代わりに、色々な人と出会い、様々な経験をし、充実した人生を全うしたかもしれない……。
俺は勢い良く立ち上がった。
何としてでも見つけるんだ、母ちゃんの心残りを。そして、その願いを叶えてやらなくては。
そうだ。考えてみても分からないなら、他の方法でなんとかするしかない。俺は母ちゃんの部屋に向かった。何か手がかりを見つけよう。例えばそう、日記とか。
「はあ……」
無駄に散らかっただけの部屋を見回し、俺は溜息をついた。
あの母ちゃんに、日記なんていう繊細な少女のような習慣を期待した俺がバカだった。日用品以外で部屋にある物といえば、猫のカレンダー、温泉ツアーのパンフレット、もらったお土産のこまごました置物。編み物の道具や韓流スターのDVD。少しばかりの銀行や保険関連の重要な書類。使わなくなって服がかけてある健康器具――。
どれも、手がかりになりそうもない。
それらを眺めているうちにふと、部屋の隅の本棚が目についた。
本は、持ち主の興味を如実に反映するものだ。これはヒントになるかもしれない。俺はいそいそと本棚に向かい、並んだ本の背表紙を覗きこんだ。
女性週刊誌。料理のレシピ集、美容の本。芸能人の書いた小説――文学賞を取って最近話題になったやつだ。有名女流作家の小説や、ドラマ化されたベストセラー小説。「ガンにならない体をつくる」、「やるぞ! インターネット」、「五十歳からはじめるスマートフォン」、「ちょこっとガーデニング」、「ひとりぼっちで楽しく生きる」、「キノコの健康力」、エトセトラ、エトセトラ……。
何かしら共通のテーマに関連した本が多ければ、それだけ母ちゃんの関心が強いという事だ。つまりそのテーマが、「心残り」に関係ある可能性は高い。俺はそう考えていたのだが、生憎と母ちゃんの本棚は、まるで食べかけのお菓子のような情報の集大成だった。格別、何か一つの事に強い関心があったようには思えない。
結局この部屋から分かるのは、母ちゃんが新しいもの好きで、情報をすぐ鵜呑みにする、飽きっぽい性格だという事だけだ。
そうだ、アルバムはどうだろう。俺は押し入れを探り、アルバムを何冊か探し出した。母ちゃんに関わりのある人達を見てみれば、何か分かるかもしれない。そう、例えば、「初恋の人に会いたい」なんて、いかにもありそうな気がするぞ。
しかし長い時間をかけてアルバムをチェックした俺は、終いに疲れた目をこすってアルバムを放り出した。収穫はなかった。アルバムの写真には、母ちゃんと一緒に大勢の人達が写っていたが、特別に親しそうな人だとか、初恋の人らしき写真は見つからなかった。何か少しでもこう、ピンくとくるような人はいないかと注意してみたのだが、特に俺の目を引く写真はなかった。そもそも俺が生まれて以降の写真に映っているほとんどの人が、近所の人や母ちゃんの古くからの女友達など、俺も知っている人ばかりだった。アルバムにしても、最近の写真を収めた一冊以外は、長い事しまわれっぱなしだった様子だ。もし心を残すような相手がいるなら、時々写真を見るくらいはしただろう。
「あら、あんた何やってんの」
襖を開け、母ちゃんが部屋に入ってきた。
「手がかりを探してるんだよ」
「手がかり? 何の」
不思議そうな顔をする母ちゃんに、俺は呆れ返った。
「何の、って。決まってるだろ。母ちゃんの心残りが何なのか……」
「ああ、それね」
母ちゃんは大して興味もなさそうにあっさりと言った。
「で、何か分かったの?」
「全然」
俺は大きく伸びをして、こった肩をほぐした。
「母ちゃんもさあ、もう少し、思い出す努力をしてくれよ」
「うーん。考えてはいるんだけどねえ」
嘘つけ。今まで昼寝してたじゃないか。
「ほら、例えば、会いたい人がいるとかさ」
「そんな人がいれば、会ってるわよ」
「いやその、なんかこう感情的な理由で、会いたいけどずっと会えなかったとか……」
「え? だって会いたいなら会うでしょ?」
母ちゃんは首をかしげている。ダメだ。この線はなしだ。
「じゃあ、やりたかった事があるとか。海外旅行に行きたかったとか、富士山に登ってみたかったとか……」
「うーん。全く何もないって訳じゃないけど、それ程でも……、って感じなのよねえ。って言うか、そんな心残りになるほどやりたかった事なら、忘れたりしないと思うのよね」
「確かに……」
母ちゃんにしては的を得た意見だ。
「どうも、そういう事じゃなかった気がするのよ」
俺はがっくりと肩を落とした。
「そっか……。一体何なんだろうな……」
「まあ、そのうち思い出すわよ。なにもそんなに焦って、母ちゃんを追っ払おうとしなくてもいいじゃない」
冗談めかした母ちゃんの言い草に、俺はムッとした。人がこんなに頑張っているのに。
「違うだろ! 俺は母ちゃんの為を思って……」
「だって母ちゃん幽霊でも、別に困ってないわよ」
「だ、だけど! 人は死んだら成仏しなきゃいけないっていうのは常識だろ!? テレビの人もそう言ってたんだろ!?」
母ちゃんは、溜息をついた。
「どうもあんたはねぇ……、頭が固いわよね。融通がきかないと言うか、視野が狭いと言うか。奥さんになる人が苦労するよ。あんたのそういうとこ、母ちゃんちょっと心配なのよねぇ」
「ほ、ほっといてくれよ!」
「もうちょっとこう、臨機応変と言うか大らかにと言うか……、『なるようになるさ』みたいに考えられないもんかしらね」
「母ちゃんが大雑把過ぎるんだよ!」
俺が思わず怒鳴ると、
「そんな事言ったって……」
と、母ちゃんは少しだけ困った顔をした。
「母ちゃんはあんたが元気で幸せなら、細かい事はどうだっていいんだもん」
窓を開けてベランダに出ると、煙草に火をつけた。しばらく吸っていなかったので、頭が少しクラクラする。
見上げた夜空はよく晴れていて、星が綺麗に見える。成仏するとあそこへ行くんだろうか、などとふと思った。
――このままでも、いいじゃないか。
俺は一人、呟いた。
母ちゃんの言う通りかもしれない。よくよく考えてみれば、成仏しなきゃいけないなんて誰が決めたんだ。テレビに出てた心霊研究家だか何だかも、死んだ事がある訳じゃない。本当の所は何も分からないじゃないか。
母ちゃんにちょっと言い過ぎてしまった。それにすっかり忘れていたけれど、母ちゃんはもう、死んだんだ。成仏するって事は、本当にいなくなってしまうって事じゃないか。俺と母ちゃんだけの小さな家族は、それで終わりになってしまう。
そうだ。やっぱり、このままでいい。母ちゃんは、ずっとこの家にいればいい。何にも問題ないじゃないか。そうだよな。
明日、母ちゃんに謝ろう。
スッキリした気分で一服し終わると、俺は布団に入った。
翌朝、俺がキッチンに入ると、母ちゃんは目玉焼きを焼いているところだった。
「あら、珍しい。今朝は早いじゃないの」
そう言って振り返り、いつも通り笑う。昨日の事なんて気にしてないみたいだ。だけど……。
「あのさあ、母ちゃん」
「なに」
「昨日はさあ、ちょっと、何て言うか、その……。俺、言い過ぎたよ。悪かった」
母ちゃんは、まるで珍しい動物でも見るように俺を見た。
「ちょ、ちょっと。あんたおかしいんじゃないの? 大丈夫?」
「べ、別に。おかしくないだろ! 悪い事したなって思ったから謝っただけだよ」
俺は照れ隠しに乱暴に椅子を引き、テーブルに着いた。
「はいはい。気にしてないわよ」
母ちゃんはそう言うと目玉焼きを皿に移し、ベーコンと一緒に俺の前に置いた。コーヒーを淹れ、トーストを焼き、オレンジを切る。テキパキとした動作。そりゃそうだ。俺が就職して家を出るまで二十年以上、毎朝繰り返してきた動作なんだから。毎朝毎朝、こうして俺に朝飯を作ってきたんだ。そんな事を思いながら、俺は母ちゃんをぼんやりと眺めていた。
「ほら。ボケっとしてないで、冷めないうちに食べなさい」
「うん」
俺は立ち上がって冷蔵庫を開け、マヨネーズを取り出した。俺は目玉焼きにはマヨネーズ派だ。だが、ふと見ると、マヨネーズの残りが少ない。
「母ちゃん、マヨネーズもうない」
「一番下の段に買い置きがあるから、出してちょうだい」
そう言われ、俺はしゃがみ込んで冷蔵庫の一番下の段を探った。何だか色々な物がゴチャゴチャと詰め込まれている。俺は仕方なく、中の物を一つ一つ取り出し始めた。大きめの箱があって場所を取っている。何が入ってるんだろう。俺は何気なくその箱を開けてみた。
箱の中には、どら焼きが山ほど入っていた。
「母ちゃん、こんなにたくさん甘いもの食ったら糖尿になるよ」
俺の言葉に振り向いた母ちゃんは、
「あーっ!!」
と、いきなり大声を出した。
「な、何だよ、脅かすなよ母ちゃん」
「それよ! それ!」
フライ返しで、俺の抱えたどら焼きの箱をしきりに指している。
「これがどうかしたのか」
「すっかり忘れてたわ!!」
その言葉に、俺は口をぽかんと開けて母ちゃんを見た。
「ま、まさか心残りって……、このどら焼きの事じゃないだろうな!?」
ところが母ちゃんは、満面の笑顔を浮かべて言った。
「そうよ! そう! 頂き物なんだけど、すごいのよこれ。高級どら焼きってテレビで紹介されて、すごい人気なのよ。一個850円もするんですって! 食べに来いってあんたに電話しようと思ってたのよ。あんた大好きでしょ、どら焼き。ほら、子供の頃、出かけた時にはいつも買ってやったじゃない。そうするとあんたすごく喜んで……」
「母ちゃん!」
俺は母ちゃんを遮った。
「そ、そんな事で……、たかがどら焼き……、」
理不尽な怒りが、フツフツと胸に湧き上がってくる。
「だってあんた喜ぶと思って。それに早く食べなきゃ傷んじゃうでしょ。高いのにもったいないじゃない」
「そうじゃなくて! 心残りって、普通もっと違うだろ! 何かこう……」
「なんであんた怒ってんの」
「なんかさぁ、あるだろ、自分の事!」
母ちゃんが死んでから初めての涙が、俺の頬をこぼれ落ちた。俺にもようやく分かったのだ。俺は――、母ちゃんの人生そのものだった。
だけど、田中芳恵享年五十七歳は、それで幸せだったのか? 母ちゃんにとって俺は、それだけの価値があったのか?
「やあねえ、あんた今日変よ。ほら」
母ちゃんはまるで俺が小さい頃にそうしたように、タオルで俺の顔をゴシゴシと拭った。
「いい歳して、まるで赤ちゃん返りしちゃったみたいじゃないの」
だけど俺はもう、こみ上げる嗚咽を止められなかった。
母ちゃん。母ちゃん。母ちゃん。
まだ、いてくれよ。
寝たきりになったら、俺が面倒見るよ。足手まといなんかじゃない。ボケたっていい。幽霊だって何だっていいよ。だから……。まだ、行かないでくれよ、母ちゃん。
「あら」
母ちゃんが、ふと自分の手を見つめた。
はっとして目をやると、その手が少しづつ、少しづつ、透明になっていく……。
「心残りが消えてスッキリして、これでめでたく成仏って事なのねえ。上手くできてるわねえ……」
母ちゃんは呑気に言った。
「母ちゃん……!」
「ほらほら、しっかりしなさい。母ちゃん、心配になっちゃうじゃないの」
母ちゃんは、俺の背中をバンバンと叩いた。
母ちゃん。成仏なんかしないでよ。
嗚咽と共に喉元まで出かかった言葉を、俺は塊を飲み下すように飲み込んだ。
そうじゃない。俺が今、母ちゃんにしてやれる事――。
「母ちゃん」
顔の筋肉を無理やり動かして、笑顔を作る。
「……俺、大丈夫だよ。まあ、色々あるけどさ、頑張って、いつも元気で幸せでいるよ。心配いらないよ」
「……そう」
母ちゃんの顔も、くしゃりと歪んだ。
「そりゃ、良かった」
瞳に涙が滲んでいる。俺が初めて見る、母ちゃんの涙だった。だがその顔も、もうほとんど半透明になっている。きっとすぐに見えなくなってしまう。
「ちょ、ちょっと、さみしい、けど、さあ」
俺は鼻水をすすり上げた。
「や、やあねえ」
母ちゃんも、鼻水をすすった。
「……母ちゃん」
「なあに」
「……幸せだった?」
「幸せだったよ」
母ちゃんの姿が、どんどん消えていく。
「母ちゃん……、ありがとう」
一瞬の間を置いて、母ちゃんの最後の笑顔と言葉が俺に届いた。
「どういたしまして」
後には、どら焼きが残されているばかりだった。
俺は、涙で甘しょっぱいそのどら焼きを頬張った。母ちゃんには言わなかったけれど、俺は本当はどら焼きが好きだったんじゃない。子供だった俺は、たまの休みに母ちゃんと手を繋いで一緒に出かけるのが楽しかった。いつも仕事で忙しい母ちゃんが、一日中傍にいて、俺の他愛もない話に笑顔で頷いてくれる事が嬉しかった。母ちゃんが買ってくれて、母ちゃんと半分こにして食べるどら焼きが好きだったんだ――。
「留学の話ね、辞退する事にしたから」
「えっ」
話があると呼び出され、待ち合わせのカフェに出向いた俺に、彼女は開口一番そう言った。
「ど、どうして」
「どうして、って。こんな時に厚の事一人残していけないよ。お母さん、厚にとってたった一人の家族だったんだもんね……」
「…………」
「だけど、あたしも厚の支えになりたいから……。辛いだろうけど、気を落とさないで……、一緒に頑張ろう」
「待って」
俺は、彼女を遮った。
「留学、行ってこいよ」
「えっ!?」
「広い世界を見て、色んな人と会って、色んな経験をして……。楽しい思い出、いっぱい作ってこいよ」
俺は彼女に笑いかけた。
「だ、だけど……」
「俺は大丈夫だから。行きたかったんだろ? 行ってこいよ。後悔しないように」
彼女は、戸惑っている。しばらくの間無言で考え込んだ。
「……本当に、いいの?」
「ああ。一年くらい、待ってるよ。だけど……、一つだけ条件がある」
「条件?」
彼女は、不安げな顔で俺を見た。
「俺と家族になったら……、」
「家族になったら?」
「いつも元気で、幸せでいてくれること」
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