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兄夫婦が死んだ日
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「ラスト半分だ! 苦しくても顔を上げろ! 腕を振れ! 身体を起こせ! 最後まで気を抜くんじゃないぞ!」
私立暁海学園――小中高一貫のスポーツに力を入れた女子校のグランドに、オレこと日暮暦《ひぐらしこよみ》の声が木霊した。
オレと反対の位置で走る部員たちにも、ちゃんと声が届くようにメガホンを通した発声だ。
「ほら西野! 腕触れ腕! 姿勢が前傾になってる、起こせ! フォーム乱した方が疲れるぞ!」
10人くらい並んで走っている中で、一番フォームがボロボロになって走る、小鹿色の髪をした少女、西野琴美に激を飛ばす。
見た感じ、一番疲れているようだが、最下位にいるわけではない。
「ふふ、暦コーチは本当に鬼畜さんですね。琴美ちゃんは生粋の短距離選手なのに、長距離のみんなと同じ距離走らせるなんて」
オレの隣には艶があり、流れるような黒髪の少女――東条帆莉がバインダーとストップウォッチを片手に控えている。
今現在走っている生徒は体操着だが、マネージャーを務めるこの子は青いジャージ姿だ。
「短距離は短距離で体力がいる。一〇〇メートル、二〇〇メートルを全力で走りきるな」
「もちろんそうかもしれませんけど……あまり琴美ちゃんをイジメないでくださいね?」
「東条、人聞きの悪いことを言うな。オレはただ――」
パワハラやらイジメやら、オレが学生の頃よりも敏感になった今の世で、冗談であってもそんなことを軽々しく言ってほしくない。
なので少し注意しようと、オレの胸元くらい背丈の少女に小言を言おうと見下ろしたところで、思わず言葉が詰まる。
「――ただ、何ですか?」
ストップウォッチを握る右手の人差し指で、長い髪を耳に引っかけながら、まだ幼さが残る顔を真っすぐオレに向けていた。
あと数日で中学二年生だって言うのに、こいつは妙に色っぽさがあるんだよな……。
「……オレは西野に期待している。あいつは成長すれば必ず全国で活躍する選手だ。行く行くは日本の代表にだってなれるかもしれない。だから――」
「あーはいはい、コーチの琴美ちゃん贔屓はいいですよ。(もう少し胸が強調できれば――)」
「けして贔屓ではない。有望な選手に期待してるだけだ。あとなんか言ったか?」
「いいえ。他の子たちもちゃんと見てあげないと『コーチは琴美ちゃんのことが好きなんだ』って噂を流しちゃいますよ?」
「バカか。オレが子供相手に恋愛感情なんて抱くと思うか?」
「抱かないんですか?」
「当たり前だ。オレは年上好きだ」
「…………(バカっ)」
「なんか言ったか? 聞こえなかったぞ」
「知りませ~ん」
何なんだ? いきなりヘソを曲げて。
このくらいの子は本当にわからん。
親御さんたちはさぞ大変だろう。
「なんでもないなら、ちゃんと見てろ。押し忘れなんてしたらみんなにどやされるぞ」
「わかってますよ。私だってもうすぐ一年もマネージャーをやるんです。そんなミスしません」
ぷいっとオレから顔を逸らし、東条はゴールへと向かって来る生徒たちに視線を向けて、白線上に胸が重なった瞬間にストップウォッチを押していく。
カチ……カチ、カチカチカチ……カチ、カチ――。
十人全員がゴールを踏むと、東条はすぐにストップウォッチのタイムを確認して、バインダーの各自の名前にタイムを書き留めていく。
「走り終わった後はすぐに止まらない。軽くでもいいから足動かせ」
ぜぇ、ぜぇ――とみんな荒々しく息を吐いて、息を整えようとしている。
長距離選手として実績を積んでいる子たちは、オレが言う前から歩いているけど、他の種目の子たちは膝に手を付いたり、腰に手を当てて空を見上げたり、各々少しでも楽になろうとしているのだろう。
「おら、西野! 地面に寝っころがるな! いつも言ってるだろ!」
そんな中で、一番辛そうに走っていた西野が、砂ぼこりが舞うほどに乾いたグランドに大の字になって寝ていた。
苦しそうに胸が上下に浮き沈みしている。
「はぁ、はぁ、はぁ、んっ……うっさいな、このパワハラコーチ! あたしがどんな格好で休もうとあたしの自由じゃん! いつもいつも長距離走らせて……この鬼! 鬼畜! 悪魔! 悪代官! えっと……変態!」
「鬼でも鬼畜でも悪魔でも悪代官でもない。オレはコーチだ。あと変態はやめろ、本気で! 職を失ったらどうする責任取るつもりだ、お前っ」
誤解だとしても保護者にオレが変態なんて伝わってみろ、即刻クビだ。
そうなれば当然無職!
兄さんのようにやりたいことがあるわけでも、何においても結果を出せる人間じゃないんだ。
もうすぐ30歳になるのに、転職なんてしてられるかっ!
寮監&陸上部のコーチ、他ではないなかなか高額の給料をもらっている。しかも、教え子を全国大会まで導けば、ボーナスも給料もアップ!
定年までしがみつくぞ、オレは!
「せ、責任って……女子中学生にどんな責任取らせるつもりよ! このセクハラ大臣!」
西野はバッと身体を起こすと、良く日焼けした褐色の顔を茜色に染めて、砂を投げつけてきた。
おっと……新調したばかりのジャージになにしやがるガキっ!
砂の軌道を読んで回避しつつ、西野を睨みつけた。
「何を考えてるかは知らないが、お前程度じゃ責任なんてとれないからな。言動に注意しろって言ってるんだ。女子校で男が働くってのがどんなに大変なことか、お前たちはわかってないだろ」
教師陣や他の部活の顧問にも男性はいるが、みんな他人の目を気にしている。
年頃の女の子が大勢いる学び舎で問題を起こそうものなら、今後の人生に大きな汚点になる。下手をすれば一時は刑務所暮らしになるかもしれない。
だから、オレたち男陣はみんな神経を尖らせて、生徒たちとの距離を注意深く測っているのだ。
なのに、気楽に〝変態〟だとか〝セクハラ〟だとか言ってほしくない。人生にかかわるから、マジで!
「なっ、あ、あたしだって責任の一つや二つとれるしっ」
「ほぉー、どんな責任を取ってくれるんだ? お前がオレを養ってくれるのか?」
「や、養うって……ば、バッカじゃん! どうしてあたしが、あんたのこと……養わなきゃなんないのっ!」
夕暮れのせいか、それとも西野自身の問題か、顔が真っ赤になっている。
「んもぉ! 知らない! こっち見んなロリコン!」
西野は立ち上がると、隠すように握っていた砂を再度オレに投げつけてきた。
「それはさすがに聞き捨てならねぇぞ! おい、こら!」
ロリコンはまずい! ロリコンは! ホントにやめてくれぇ。
オレは心の中で泣きそうになりなら、西野を黙らせるために詰め寄ると――
「きゃあぁぁ! ついてくんな! 誰か警察っ!」
――悲鳴を上げられた。しかも警察までっ!
「シャレにならねぇ! みんな待てよ! 呼ぶなよ!」
オレは生徒の誰かが早まらないように片手を向けて静止を呼びかける。
長距離を走り終えたばかりの子たちは、苦笑いを浮かべたり、勝手にやってろっといった感じでそもそも興味なさげだったり、反応は色々だった。
東条だけは不満そうに頬を膨らませて、オレを睨んでいた。
な、なんだよ? やるか?
西野を黙らせることを忘れ、身構えると、東条はプイッと顔を逸らす。
……だからなんなんだ。
ホント、年頃の娘さんがいる親御さんたちは大変だ。
◇
今日のメニューが終わり、ダウンが始まった。
「長距離走らせておいてまだ走らせるなんて、人でなし!」と怒りながらも、西野もまた走っている。
そんなことを言われて困るんだよ。
運動を始める前にウォーミングアップするように、クールダウンも重要なことだ。
運動によって興奮している神経や筋肉を鎮静させる働きがあったり、筋肉の中に溜まった疲労物質を排出したり、硬くなった筋肉を緩めたりと色んな効果が期待できる。
そのことは散々説明しているはずだが……毎回文句ばっかりで、お頭の弱い子だ。
「琴美ちゃんは本当に元気ですね」
「あれは元気と言うのか? アホだと思うんだが」
「ダメですよ暦コーチ、女の子にそんなこと言ったら」
先程まで不機嫌そうだったが、すっかりいつもと同じ様子になった東条は、これまたいつも通りオレの横で、みんなの様子を一緒に眺めている。
「だが、ダウンの重要性は何度も説明しているのに、毎回文句ばっかり……ニワトリ程度の脳みそしか入ってないんじゃないか?」
三歩歩いたら忘れてるだろ、あれは。
「それ、本人に言ったらダメですよ。(あれはそういうのじゃないんですよ。ただ構って欲しくて甘えてるだけなのに、コーチは本当に何もわかってないですよね)」
何やら小声でボソボソと言っている。
いつもはハキハキと喋るのに、たまにこうなるから聞き取れない。
「なに言ってるか聞こえないぞ」
「なんでもありません」
そりゃ自分よりも一回り以上年上のおっさんに、話せないことはあると思うが、お前の相談なら乗るからな?
助かってる分くらいは返すからな?
「まぁ、悩みがあるなら相談しろ」
「暦コーチ……(相談していいならしたいけど、それってもう……)」
またか。
この一年で信頼はそれなりに得たと思うが、やっぱり相談してもらえるほどではないらしい。
好きな男でもできたのだろうか?
いや、でも、ここは女子校だし。
休日もほとんど部活で潰れて、出会いの場なんてないだろう。
「直接言いずらかったら、メールでもいいからな?」
今時の子は告白なんかも携帯で済ませるほど、身近なものらしい。
もしかしたら、そっちの方が気楽かもしれないと、そう提案しておく。
「あ、ありがとうございます……(そうやって優しくするから……)」
まだボソボソ言ってる。
やっぱり思春期の子は難しいなぁ。
まぁ、所詮はよその子だ。他人のオレが必要以上にお節介をやく必要もない。相談してくるなら、解決のために知恵を貸すが、頼まれてもないのに無理に聞き出すこともない。
「ちょっと! 帆莉に何してんの、この――三十路!」
「こら西野! 30手前のデリケートな時期のお兄さんに向かって、三十路ってなんだ三十路って!」
今現在二九歳、来年度で30歳になるオレはそれなりにナーバスな時期である。
にもかかわらずこのガキャ。
「うっさい! ほら、帆莉こっち」
ダウンだと言うのに、オレたちの元へ全力で走ってくると、そのまま東条の手首を掴んで、オレから距離を取らせようとする。
「あっ、琴美ちゃんいきなりは危ないって」
グッと腕を引かれてバランスを崩した東条は、転びそうになるものの、西野が咄嗟に支えて事なきを得る。
「いいから、あんなのの近くに居たら妊娠させられちゃう!」
「ふざけるな! 誰がそんな事するか!」
オレの人生を終わらせるつもりか!
そんな大声で言いやがって!
他の部活の生徒が見てるだろ!
まだ陸上の子たちなら、オレの人格を知ってくれているし、いつものことだと流してくれるが、よその部活の子たちはそうはいかない……かもしれない。
「しないって言うなら、今後帆莉に近づかないで!」
「ちょ、琴美ちゃん、それは――」
「大丈夫、帆莉はあたしが守るから」
何が何でもオレを変態の悪者にするつもりかっ。
くっ、力尽くにでも黙らせてやりたいが、今のご時世そうもいかない。
また有名な高校野球部の監督が、生徒に体罰をしていたとかで大きなニュースになっていた。
今後の人生を考えれば我慢だ……我慢……。
「(琴美ちゃん、いくらなんでも強引だよ)」
「(うるさい! あたしのいないところで二人っきりで、いつもいつもっ)」
「(私は選手じゃなくてマネージャーなんだから、当たり前でしょ)」
「(そんなの知らない。バーカバァーカ)」
何やら二人でコソコソ話している。
相変わらず仲がいいなこの二人は。
そんな姿を見ていると不思議と苛立ちも収まっていく。
「はぁ……ダウンが終わったなら、さっさと着替えろ、下校時刻まで時間が――うん?」
次の指示を出していると、ズボンのポケットに入れていたスマホが小刻みに震えた。
オレはすぐに取り出して画面を見る。
そこには一文字〝母〟と表示されていた。
どうやら母さんから電話みたいだ。珍しい。
「あぁー! 学校でスマホいけないんだぁ!」
「うっせ。オレは学生じゃないし、教師でもないんだよ」
「はぁ、なにそれ! ルールくらい守れしっ」
「大人には急な要件とかがあるんだよ。連休の帰省や誕生日でもないのに親から電話ってのはな、誰かの不幸だったりするんだよ」
オレには90歳を超える祖母ちゃんと爺ちゃんがいる。
もしかしたらどっちかがぽっくり逝ったかもしれない。
なんてのはさすがに冗談だ。確かに90歳を超える高齢だが、今年も年始に合って元気だったことは確認している。なにもしなくても後10年は簡単に生きそうな人たちだ。
そんな人たちが数ヶ月やそこらで死んだりするはずがない。
「何か用? まだ仕事中――」
通話ボタンをタップして、要件は仕事の後に聞く――そんな旨を伝えようとした時だ。
「え…………」
初めて聞く母の泣きじゃくる声。
その声で告げられたのは信じられないことだった。
「兄さんと義姉さんが……死んだ?」
あり得ない。
だって、二人はまだ三四歳で、持病もなく元気一杯で、娘が三人いて幸せな家庭を築いているはずなのに――。
「死んだ? 兄さんと義姉さんが?」
無意識のうちにオレはまた呟いていた。
スマホの向こう側では、泣き崩れる母さんの声だけが聞こえてくる。
冗談やドッキリだとは思えない。
「…………」
スマホを持つ手から力が抜けて、まるで吊り物のように腕が垂れ下がる。そして手のひらからスマホを抜け落ちた。
オレの異変に気付き、西野と東条を中心に部員の子たちが近づいてきて、何か言ってくるが、何も聞こえない。
頭の中が真っ白になった。
焦った表情を浮かべている部員たちにかける言葉は――ない。
私立暁海学園――小中高一貫のスポーツに力を入れた女子校のグランドに、オレこと日暮暦《ひぐらしこよみ》の声が木霊した。
オレと反対の位置で走る部員たちにも、ちゃんと声が届くようにメガホンを通した発声だ。
「ほら西野! 腕触れ腕! 姿勢が前傾になってる、起こせ! フォーム乱した方が疲れるぞ!」
10人くらい並んで走っている中で、一番フォームがボロボロになって走る、小鹿色の髪をした少女、西野琴美に激を飛ばす。
見た感じ、一番疲れているようだが、最下位にいるわけではない。
「ふふ、暦コーチは本当に鬼畜さんですね。琴美ちゃんは生粋の短距離選手なのに、長距離のみんなと同じ距離走らせるなんて」
オレの隣には艶があり、流れるような黒髪の少女――東条帆莉がバインダーとストップウォッチを片手に控えている。
今現在走っている生徒は体操着だが、マネージャーを務めるこの子は青いジャージ姿だ。
「短距離は短距離で体力がいる。一〇〇メートル、二〇〇メートルを全力で走りきるな」
「もちろんそうかもしれませんけど……あまり琴美ちゃんをイジメないでくださいね?」
「東条、人聞きの悪いことを言うな。オレはただ――」
パワハラやらイジメやら、オレが学生の頃よりも敏感になった今の世で、冗談であってもそんなことを軽々しく言ってほしくない。
なので少し注意しようと、オレの胸元くらい背丈の少女に小言を言おうと見下ろしたところで、思わず言葉が詰まる。
「――ただ、何ですか?」
ストップウォッチを握る右手の人差し指で、長い髪を耳に引っかけながら、まだ幼さが残る顔を真っすぐオレに向けていた。
あと数日で中学二年生だって言うのに、こいつは妙に色っぽさがあるんだよな……。
「……オレは西野に期待している。あいつは成長すれば必ず全国で活躍する選手だ。行く行くは日本の代表にだってなれるかもしれない。だから――」
「あーはいはい、コーチの琴美ちゃん贔屓はいいですよ。(もう少し胸が強調できれば――)」
「けして贔屓ではない。有望な選手に期待してるだけだ。あとなんか言ったか?」
「いいえ。他の子たちもちゃんと見てあげないと『コーチは琴美ちゃんのことが好きなんだ』って噂を流しちゃいますよ?」
「バカか。オレが子供相手に恋愛感情なんて抱くと思うか?」
「抱かないんですか?」
「当たり前だ。オレは年上好きだ」
「…………(バカっ)」
「なんか言ったか? 聞こえなかったぞ」
「知りませ~ん」
何なんだ? いきなりヘソを曲げて。
このくらいの子は本当にわからん。
親御さんたちはさぞ大変だろう。
「なんでもないなら、ちゃんと見てろ。押し忘れなんてしたらみんなにどやされるぞ」
「わかってますよ。私だってもうすぐ一年もマネージャーをやるんです。そんなミスしません」
ぷいっとオレから顔を逸らし、東条はゴールへと向かって来る生徒たちに視線を向けて、白線上に胸が重なった瞬間にストップウォッチを押していく。
カチ……カチ、カチカチカチ……カチ、カチ――。
十人全員がゴールを踏むと、東条はすぐにストップウォッチのタイムを確認して、バインダーの各自の名前にタイムを書き留めていく。
「走り終わった後はすぐに止まらない。軽くでもいいから足動かせ」
ぜぇ、ぜぇ――とみんな荒々しく息を吐いて、息を整えようとしている。
長距離選手として実績を積んでいる子たちは、オレが言う前から歩いているけど、他の種目の子たちは膝に手を付いたり、腰に手を当てて空を見上げたり、各々少しでも楽になろうとしているのだろう。
「おら、西野! 地面に寝っころがるな! いつも言ってるだろ!」
そんな中で、一番辛そうに走っていた西野が、砂ぼこりが舞うほどに乾いたグランドに大の字になって寝ていた。
苦しそうに胸が上下に浮き沈みしている。
「はぁ、はぁ、はぁ、んっ……うっさいな、このパワハラコーチ! あたしがどんな格好で休もうとあたしの自由じゃん! いつもいつも長距離走らせて……この鬼! 鬼畜! 悪魔! 悪代官! えっと……変態!」
「鬼でも鬼畜でも悪魔でも悪代官でもない。オレはコーチだ。あと変態はやめろ、本気で! 職を失ったらどうする責任取るつもりだ、お前っ」
誤解だとしても保護者にオレが変態なんて伝わってみろ、即刻クビだ。
そうなれば当然無職!
兄さんのようにやりたいことがあるわけでも、何においても結果を出せる人間じゃないんだ。
もうすぐ30歳になるのに、転職なんてしてられるかっ!
寮監&陸上部のコーチ、他ではないなかなか高額の給料をもらっている。しかも、教え子を全国大会まで導けば、ボーナスも給料もアップ!
定年までしがみつくぞ、オレは!
「せ、責任って……女子中学生にどんな責任取らせるつもりよ! このセクハラ大臣!」
西野はバッと身体を起こすと、良く日焼けした褐色の顔を茜色に染めて、砂を投げつけてきた。
おっと……新調したばかりのジャージになにしやがるガキっ!
砂の軌道を読んで回避しつつ、西野を睨みつけた。
「何を考えてるかは知らないが、お前程度じゃ責任なんてとれないからな。言動に注意しろって言ってるんだ。女子校で男が働くってのがどんなに大変なことか、お前たちはわかってないだろ」
教師陣や他の部活の顧問にも男性はいるが、みんな他人の目を気にしている。
年頃の女の子が大勢いる学び舎で問題を起こそうものなら、今後の人生に大きな汚点になる。下手をすれば一時は刑務所暮らしになるかもしれない。
だから、オレたち男陣はみんな神経を尖らせて、生徒たちとの距離を注意深く測っているのだ。
なのに、気楽に〝変態〟だとか〝セクハラ〟だとか言ってほしくない。人生にかかわるから、マジで!
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夕暮れのせいか、それとも西野自身の問題か、顔が真っ赤になっている。
「んもぉ! 知らない! こっち見んなロリコン!」
西野は立ち上がると、隠すように握っていた砂を再度オレに投げつけてきた。
「それはさすがに聞き捨てならねぇぞ! おい、こら!」
ロリコンはまずい! ロリコンは! ホントにやめてくれぇ。
オレは心の中で泣きそうになりなら、西野を黙らせるために詰め寄ると――
「きゃあぁぁ! ついてくんな! 誰か警察っ!」
――悲鳴を上げられた。しかも警察までっ!
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東条だけは不満そうに頬を膨らませて、オレを睨んでいた。
な、なんだよ? やるか?
西野を黙らせることを忘れ、身構えると、東条はプイッと顔を逸らす。
……だからなんなんだ。
ホント、年頃の娘さんがいる親御さんたちは大変だ。
◇
今日のメニューが終わり、ダウンが始まった。
「長距離走らせておいてまだ走らせるなんて、人でなし!」と怒りながらも、西野もまた走っている。
そんなことを言われて困るんだよ。
運動を始める前にウォーミングアップするように、クールダウンも重要なことだ。
運動によって興奮している神経や筋肉を鎮静させる働きがあったり、筋肉の中に溜まった疲労物質を排出したり、硬くなった筋肉を緩めたりと色んな効果が期待できる。
そのことは散々説明しているはずだが……毎回文句ばっかりで、お頭の弱い子だ。
「琴美ちゃんは本当に元気ですね」
「あれは元気と言うのか? アホだと思うんだが」
「ダメですよ暦コーチ、女の子にそんなこと言ったら」
先程まで不機嫌そうだったが、すっかりいつもと同じ様子になった東条は、これまたいつも通りオレの横で、みんなの様子を一緒に眺めている。
「だが、ダウンの重要性は何度も説明しているのに、毎回文句ばっかり……ニワトリ程度の脳みそしか入ってないんじゃないか?」
三歩歩いたら忘れてるだろ、あれは。
「それ、本人に言ったらダメですよ。(あれはそういうのじゃないんですよ。ただ構って欲しくて甘えてるだけなのに、コーチは本当に何もわかってないですよね)」
何やら小声でボソボソと言っている。
いつもはハキハキと喋るのに、たまにこうなるから聞き取れない。
「なに言ってるか聞こえないぞ」
「なんでもありません」
そりゃ自分よりも一回り以上年上のおっさんに、話せないことはあると思うが、お前の相談なら乗るからな?
助かってる分くらいは返すからな?
「まぁ、悩みがあるなら相談しろ」
「暦コーチ……(相談していいならしたいけど、それってもう……)」
またか。
この一年で信頼はそれなりに得たと思うが、やっぱり相談してもらえるほどではないらしい。
好きな男でもできたのだろうか?
いや、でも、ここは女子校だし。
休日もほとんど部活で潰れて、出会いの場なんてないだろう。
「直接言いずらかったら、メールでもいいからな?」
今時の子は告白なんかも携帯で済ませるほど、身近なものらしい。
もしかしたら、そっちの方が気楽かもしれないと、そう提案しておく。
「あ、ありがとうございます……(そうやって優しくするから……)」
まだボソボソ言ってる。
やっぱり思春期の子は難しいなぁ。
まぁ、所詮はよその子だ。他人のオレが必要以上にお節介をやく必要もない。相談してくるなら、解決のために知恵を貸すが、頼まれてもないのに無理に聞き出すこともない。
「ちょっと! 帆莉に何してんの、この――三十路!」
「こら西野! 30手前のデリケートな時期のお兄さんに向かって、三十路ってなんだ三十路って!」
今現在二九歳、来年度で30歳になるオレはそれなりにナーバスな時期である。
にもかかわらずこのガキャ。
「うっさい! ほら、帆莉こっち」
ダウンだと言うのに、オレたちの元へ全力で走ってくると、そのまま東条の手首を掴んで、オレから距離を取らせようとする。
「あっ、琴美ちゃんいきなりは危ないって」
グッと腕を引かれてバランスを崩した東条は、転びそうになるものの、西野が咄嗟に支えて事なきを得る。
「いいから、あんなのの近くに居たら妊娠させられちゃう!」
「ふざけるな! 誰がそんな事するか!」
オレの人生を終わらせるつもりか!
そんな大声で言いやがって!
他の部活の生徒が見てるだろ!
まだ陸上の子たちなら、オレの人格を知ってくれているし、いつものことだと流してくれるが、よその部活の子たちはそうはいかない……かもしれない。
「しないって言うなら、今後帆莉に近づかないで!」
「ちょ、琴美ちゃん、それは――」
「大丈夫、帆莉はあたしが守るから」
何が何でもオレを変態の悪者にするつもりかっ。
くっ、力尽くにでも黙らせてやりたいが、今のご時世そうもいかない。
また有名な高校野球部の監督が、生徒に体罰をしていたとかで大きなニュースになっていた。
今後の人生を考えれば我慢だ……我慢……。
「(琴美ちゃん、いくらなんでも強引だよ)」
「(うるさい! あたしのいないところで二人っきりで、いつもいつもっ)」
「(私は選手じゃなくてマネージャーなんだから、当たり前でしょ)」
「(そんなの知らない。バーカバァーカ)」
何やら二人でコソコソ話している。
相変わらず仲がいいなこの二人は。
そんな姿を見ていると不思議と苛立ちも収まっていく。
「はぁ……ダウンが終わったなら、さっさと着替えろ、下校時刻まで時間が――うん?」
次の指示を出していると、ズボンのポケットに入れていたスマホが小刻みに震えた。
オレはすぐに取り出して画面を見る。
そこには一文字〝母〟と表示されていた。
どうやら母さんから電話みたいだ。珍しい。
「あぁー! 学校でスマホいけないんだぁ!」
「うっせ。オレは学生じゃないし、教師でもないんだよ」
「はぁ、なにそれ! ルールくらい守れしっ」
「大人には急な要件とかがあるんだよ。連休の帰省や誕生日でもないのに親から電話ってのはな、誰かの不幸だったりするんだよ」
オレには90歳を超える祖母ちゃんと爺ちゃんがいる。
もしかしたらどっちかがぽっくり逝ったかもしれない。
なんてのはさすがに冗談だ。確かに90歳を超える高齢だが、今年も年始に合って元気だったことは確認している。なにもしなくても後10年は簡単に生きそうな人たちだ。
そんな人たちが数ヶ月やそこらで死んだりするはずがない。
「何か用? まだ仕事中――」
通話ボタンをタップして、要件は仕事の後に聞く――そんな旨を伝えようとした時だ。
「え…………」
初めて聞く母の泣きじゃくる声。
その声で告げられたのは信じられないことだった。
「兄さんと義姉さんが……死んだ?」
あり得ない。
だって、二人はまだ三四歳で、持病もなく元気一杯で、娘が三人いて幸せな家庭を築いているはずなのに――。
「死んだ? 兄さんと義姉さんが?」
無意識のうちにオレはまた呟いていた。
スマホの向こう側では、泣き崩れる母さんの声だけが聞こえてくる。
冗談やドッキリだとは思えない。
「…………」
スマホを持つ手から力が抜けて、まるで吊り物のように腕が垂れ下がる。そして手のひらからスマホを抜け落ちた。
オレの異変に気付き、西野と東条を中心に部員の子たちが近づいてきて、何か言ってくるが、何も聞こえない。
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