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誘いの夏
22
しおりを挟む僕はトイレに行きたくなり、布団から這い出る。
トイレまでの距離は遠かったけれど、さすがに朝まで我慢できそうにない。
僕は覚悟を決めて、トイレに行くことにした。
長い廊下は暗く、僕の歩く足音がギシギシと床を軋ませていた。
咲本がどの部屋で寝ているのかしらないけれど、彼は今頃平気で寝ているに違いない。
僕は早々にトイレを済ませ、急いで居間へと引き返す。
閉じていた襖を開いた僕はそこで、足が完全に止まっていた。
髪の長い女の影が、障子に映し出されていたのだ。
女は俯き加減で、正座しているような姿勢を取っている。
目の前にある信じられない現象のせいか、僕は金縛りにあったように動けなかった。
部屋には女のものと思われる、すすり泣きが響いている。
「なんで泣いてるの?」
僕が発した言葉かどうか分からない。だけど、すすり泣きが止まった。
「あの人は……あの人はどこ?」
女の囁く声が聞こえてくる。力のない寂しげな声だった。
「あの人って誰?」
女が顔を上げる。だけど、障子越しの影でしかなく、表情は分からない。
「あの人は、一緒に来てくれたのに……もういない……」
「何でいなくなったの?」
「寂しい……寂しくてたまらない……」
悲痛な心の叫び。心に迫るような物憂げな声に僕は、可哀想だと思ってしまっていた。
「僕もずっと寂しかった。誰も僕の気持ちなんて、分かってくれなくて……」
気付けば、僕までもが泣いていた。女のすすり泣きも聞こえ、この人は僕の気持ちが分かってくれるんだとすら思った。
「一緒にきて……私と」
女が手招きをする。ゆったりとした手の動きが、障子の影に映された。
さっきまで動けなかった僕の体は、途端に動けるようになっていた。女の影に向かって足が一歩一歩と前に進んでいく。
澄子さんが、障子の前に立っている。
僕はその横を抜け、障子を開いた。
咳き込む声と一緒に、僕の意識が覚醒する。
僕は何故か自分の胸を押さえ、何度も呼吸を繰り返していた。
ゼーハーゼーハーと、苦しそうな声が自分から出ているのに、苦しいという感覚はない。
僕の意識とは関係なく、胸を押さえていることからして、まるで夢を見ているようだった。
それに服装が麻の浴衣を着ていることからして、僕ではないのは確かだ。
ふと、視線が障子に向けられる。そこには、僕がさっき見たのと同じ女の影があった。
「ああ、来たのか」
僕ではない声が発せられた。
きっと幽霊も、人に取り憑くとこんな感じなんだろう。そんな不思議な感覚を僕は体験していた。
「待たせたね。友人には手紙を送った。彼には世話になったからね。これでもう、思い残す事はない」
それから僕の視線が、部屋の色々な箇所へと向けられる。
和箪笥や掛け時計は僕が見た時よりも、新しいのか綺麗だった。
枕元には盆に乗せられた口吸いが置かれている。
この人物こそが影女に連れて行かれたとされる、曽祖父の兄なのかもしれない。
「この家の長男として生を受けたのに、僕はなんの役にも立てなかった。それが申し訳ない」
それから申し訳なさそうに「穀潰しだ」「僕はここにいる価値がない」と呟くこの人物に、僕まで辛い気持ちになってくる。
きっと相当苦しかったはずだ。
病気である身体的な辛さに加えて、長男としての責務やもどかしさに、常に胸を痛めていたのかもしれない。
「早く……一緒に来て……」
女が手招きする影が障子に映る。
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