去りし記憶と翡翠の涙

箕田 悠

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第四章

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「お前……何で泣いてるんだ? そんなに傷つくような事言ったか?」

 不安げな表情のヒスイに、「幸せだなと、思っただけです」と天野は笑った。まさか傷ついてるのではないかと、心配されるとは驚きだった。
 不意を突かれたように唖然としたヒスイは「自然と流す嬉し涙は初めて見た」とポツリと溢す。

「もしかしたら、見たことあるかもしれないけど……透き通ってて、綺麗なんだな」
「舐めてもいいですよ」

 天野が笑みを浮かべたまま、縁側の前で立ち止まった。初夏から本格的な夏に変わりそうな、湿り気を帯びた熱い風が頬を撫でていく。
 ヒスイと向かい合うと、天野は目を閉じる。遠くの方で蝉が喧《やかま》しく鳴いているが、それすらも素晴らしい音色のように聞こえるほどに、天野の心が沸き立っていた。
 恋をして世界が変わった。見るもの、聞くもの、感じるもの。全てが違った世界のように思えてしまうほどに――
 天野の肩に優しく手が置かれると、甘い金木犀の香りが濃くなった。近づいてきているのが分かり、胸が高鳴っていく。

「あっ!!」
「ヒスイとお兄ちゃん!!」

 驚いたように叫ぶ声に、天野は慌てて目を開く。置かれていた手が瞬時に離れていき、ヒスイがばつが悪そうに視線を俯かせていた。


「仲直りしたの?」
「顔が近かったけど」

 不思議そうに首を傾げている二人に言い訳も出来ず、天野は熱を持った頬を持て余す。

「……朝食の用意するから手伝って」

 そう言い残すとヒスイは、さっさと背を向けって立ち去っていく。

「心配かけてごめんね。大丈夫だから」

 天野は気を取り直すと、怪訝そうな二人に笑顔を向ける。

「仲直りできて」
「良かったね」

 二人が顔を見合わせて笑い合う。

「お兄ちゃんは」
「ここにずっといるの?」
「うん。ずっと……ずっといる」

 天野は自分に言い聞かせるように呟き、庭に目を向ける。
 夏が差し迫っているこの庭の桜の木は、青葉を茂らせ涼しげに影を落としていた。綺麗に花を咲かせていた紫陽花は、花弁を減らし物寂しい雰囲気に変わってしまっていた。
 季節の移ろいを感じさせられるこの庭は、天野にとってはヒスイとの思い出の一風景だ。
 これから先もこの縁側で、細やかな幸せと静かな時を噛み締めたい――

「ヒスイさんに怒られちゃうから行かないと……二人は座って待てて」

 天野は名残惜しげに視線を逸し二人にそう言い残すと、ヒスイのいる炊事場へと足を向けた。

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