去りし記憶と翡翠の涙

箕田 悠

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第四章

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 湯船から上がると、天野は縁側に腰を下ろした。いつか最後になるかもしれないこの光景を、胸に焼き付けておきたかった事もある。生憎の空模様で、綺麗な思い出とまではいかなそうだった。
 ヒスイが引き下がらない限りは、早い段階でミヨとミコと共に森から出されてしまうはずだ。

――ヒスイは何を思ってこれから生きていくのだろう。

 幸朗を失い、天野も失うことになる。ヒスイは本当にそれで良いのか。天野からしてみれば、それは耐えられないことだった。
 どんなに辛い記憶を奪われようとも、孤独だった過去の記憶は全て拭いきれてはいない。恭治の家で感じた家族に対する憧れ。父に見向きもされない寂しさ。泰子も結婚して島に嫁いでしまった。
 たとえこの森を出たところで、自分はヒスイと同様に孤独の身となってしまう。孤独は恐怖だ。目の前に広がる闇が孤独を示唆しているようで、いつかは天野を呑み込んでしまいそうに思えた。背筋に悪寒が走る。
 たまらず天野は立ち上がると、自分の部屋に戻り制服のポケットから小さな布袋を取り出す。中には翡翠色の指輪と金剛石ダイヤモンドの指輪が入っている。
 これは母の形見で、本当は嫁入り道具として泰子に渡すつもりでいた。でも泰子はそれを拒み、結納金を工面してくれただけで十分だと言って頑として受け取らず、天野が持っていた物だった。
 天野は部屋を出ると、通りがかりに浴場に立ち寄り水の音を確かめる。中から水が床を打つ音が聞こえ、天野は急ぎ足でミヨとミコの部屋へと向かった。
 二人の部屋の前で天野は青ざめた顔で深呼吸を繰り返すと、「入るよ」と微かに震えた声で問いかける。
 そっと襖を開くと二人が驚いたように、こちらを見つめた。二人は豪奢な着物から、寝巻である浴衣を着ていてこれから就寝するところだったようだ。

「お兄ちゃんが来るなんて」
「珍しいね」

 天野が二人の部屋に入ったのはこれが初めてで、二人が驚くのも無理はなかった。早まる心臓を持て余し、天野は部屋の襖を後ろ手に閉める。

「二人にお願いがあるんだ」

 天野は二人の目の前に正座して腰を下ろす。布袋から指輪を取り出すと、掌に乗せ二人の目の前に差し出した。

「うわー」
「綺麗だね」

 目を輝かせ、二人が食い入るように見つめた。

「……これをあげる代わりに、頼まれてくれないかな?」

 ミヨとミコをだしに使うのは気が引けるが、此処まで来たらこうする以外に方法が見つからなかった。自分はとてつもなく汚い人間だと、自己嫌悪から天野は奥歯を噛みしめる。
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