去りし記憶と翡翠の涙

箕田 悠

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第三章

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 いつ婚姻が行われるか分からない不安のせいか、泰子は日増しに痩せ細っていた。真面目に通っていた女学校にも顔を出さず、部屋に引き篭もる日が続いている。
 父の帰りを待っている時間はないようだった。抜け殻のようになっていく泰子の痛々しい姿を見ていられず、天野は苦渋の決断を下す。
 泰子には気を落とさないようにと伝え、女中には泰子の様子を気にかけるようにと指示を出した。
 何処に行くかは敢えて伏せておく。万が一、父に漏れてしまってはこの計画は白紙に戻ってしまうどころか、今すぐにでも婚姻を執り行おうとするだろう。
 天野は急いで懇意の仲である親友の里中さとなか 恭治きょうじに電報を打つと、汽車に乗り込む。
 都内から三時間ほど汽車を乗り継ぎ、本州から船で渡っていく。長旅を終え降り立った地は、本州から離れた場所に位置し、漁業が盛んな島だ。
 この島は母が療養する以前から、父が船を収めていたこともあり何度か家族で訪れていた。
 天野が幼い頃。家族旅行という名の、仕事の下見で父に連れられてきたのだ。あの頃の方が、まだ父は自分たちに目を向けていたような気がする。今では一人娘を悪魔のような男に渡して、政略結婚させようとするほどに、人として落ちてしまったが――
 電報が先に届いていたようで、降り立った港には恭治がそわそわした様子で出迎えてくれる。 
 父の跡を継ぐために、漁師をしていた恭治は天野の華奢な体付きとは対照的でがっしりとしていて逞《たくま》しい。
 キリッとした眉に快活そうな目元、男らしい顔つきで力強さに満ち溢れていた。

「久しぶりだな。なかなか葉書を寄越さないから、てっきり嫌われてしまったかと思ったよ」

少し戸惑うようにはにかんだ恭治が、天野の肩を叩く。

「すまない。こっちもいろいろ忙しくて……それより急に来てしまった事を詫びるよ」

 天野は静かに頭を下げると、慌てた様子の恭治が「やめろよ」と言って顔を顰めた。

「同じ釜の飯を食った仲じゃないか。そんな気遣いは俺たちの間には不要だ」

 恭治の笑顔に心に熱いものが込み上げ、思わず言葉に詰まってしまう。

「相変わらず、女々しい奴だな。お前はいつもそうやって、泣きそうな顔をしている」

 恭治が少し困ったように、眉根を寄せた。そんなに自分は女々しく見えるのだろうか。天野は少しだけ気落ちしてしまう。

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