去りし記憶と翡翠の涙

箕田 悠

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第三章

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 やっと泰子が顔を上げ、泣き腫らした目元で天野に視線を向ける。泰子の気の強そうな目元が今は涙で光っていて、天野の心が押しつぶされそうになってしまう。

「お父様が……高松家の達久さんとの婚約を勝手にお決めになったの」

 泰子は悔しげに唇を噛み締めると、再びベッドに突っ伏してしまう。
 あまりの事に天野は言葉を失い、青ざめた顔を俯ける。
 高松家は公家であるため、膨大な土地と財産を持っていた。達久はそこの嫡子男で次期、家督を継ぐことになる。そんな家の長男と婚約するとなれば、天野家にとっても大きな利益となるだろう。
 ただの公家の長男ならば、泰子も此処までふさぎ込んだりはしない。問題なのは、達久という男の素性だ。
 彼は噂になるほどの嗜虐的思考の持ち主で、女性に対して暴行を加えて殺しかけたという話もある。嘘か真か分からなかったが、天野の学友も時々、噂話として持ちかけてくることがあった。
 火のないところに煙は立たない。もし本当なのだとしたら、大切な妹がそんな男の所に嫁ぐだなんて、兄として見過ごすわけにいかなかった。

「大丈夫だ。僕がなんとかするから」

 泰子の背を擦り、優しく訴えかける。今は気休めの言葉しかかけられないが、本気でどうにかするつもりだった。今まで幾度となく、背を押してくれた気性な妹の窮地に引腰になるわけにはいかない。

「お兄様……無茶はなさらないで……私は平気ですから」

 青ざめた顔でさめざめと泣きくれる泰子は、言葉とは裏腹に酷く怯えていた。こんな時でさえ、自分よりも兄を思いやる妹に、心臓を鷲掴みにされたかのように苦しくなる。
 女学校でも達久の事は、噂になっているのだろう。そうでなければ、男に興味のない泰子が知るはずはない。
 天野は父に対する憎しみを、無理やり奥歯を噛み締めて押し殺す。泰子の手前、自分までも取り乱さないようにと自制心を必死に働かせた。

「本当に大丈夫だから、何も心配する事はないよ」

 天野は力強く泰子の肩を抱くと、「絶対なんとかしてみせるから」と自分にも言い聞かせるように囁いた。
 翌日。天野は早速、父を探し回った。決めたのは父であることは間違いないし、達久という男の素性を知っていてそんな決めたのであれば、断じて許すまじきことだった。
 父は自国までに留まらず、海外の輸出にまで触手を伸ばそうとしているようで、この時既に海外に飛んでしまっているようだった。
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