去りし記憶と翡翠の涙

箕田 悠

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第二章

27

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 ふらつくような足を動かし、進路を右へと変えていく。
 少しだけ気が軽くなったせいだろうか、体への負担を余計に感じてしまい、ザラついた木の幹に何度も手を付きながら歩みを進めていく。
 初夏の日差しが容赦なく降り注ぎ、汗は顎から雫となって伝い落ちていた。革靴によって踵は既に擦りむけ、ヒリヒリとした痛みが走っている。
 荒い呼吸を繰り返し、少しの希望を胸に抱き懸命に足を動かしていく。
 少しずつ土が湿っぽい物に変わっていき、踏みしめる度に僅かに沈むような感覚がある。
 やっとの事で開けた場所に出ると、思わず目を見開いた。前方に柳の木と、広い池のようなものが見えてきたのだ。
 水がある事に全身から安堵と歓喜が湧き上がり足の痛みも忘れ、もつれるように近づいた。
 次第に輪郭を露わにした全貌に、さっきまでの喉の渇きや足の痛みすらも凌駕するような衝撃を受け、茫然として立ち尽くす。
 水面に点々と浮かび、桃色に広げられた花弁。その花弁の周りを包み込むような円状の切れ目の入った葉。優美に浮かぶその花は、睡蓮だった――
 突如として激しい目眩と、頭痛が襲いかかり思わず頭を抱え込み低く呻く。
 あまりの痛さに涙を流し、しゃがみこもうと膝を曲げた途端に頭痛が治まった。
 ゆっくりと顔を上げ、もう一度池を見つめる。
 此処に来た時のことを思い出し、天野は自嘲気味に笑みを零す。

――そうだ。此処には……全てを終えて死に来たのだ。

 全ての記憶を取り戻したのだと分かり、一歩また一歩と池に近づいていく。

――天野 蓮介

 死んだ母親が睡蓮の花言葉である「清純な心」であって欲しいと付けた名前だ。
 父親を裏切り、妹を逃した。後悔はしていないが、親不孝であることには違いない。
 母が付けてくれた名前に反して、ずっと父親を恨んできた。心だけでなく、公家の息子に身を捧げ体までもが穢れてしまっている。
 だからこそ、この場所にたどり着いた時、天野はやっと救われるのだと涙を零した。
 最期の場所がこの池に浮かんだ母が愛したであろう睡蓮の花と共に、この身を朽ち果てることが出来るのだと――
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