去りし記憶と翡翠の涙

箕田 悠

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第一章

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 包丁を持ったまま立ち尽くす天野を、ヒスイが後ろから覆いかぶさってくる。
 天野は驚きと緊張で、全身が硬直する。心臓が早鐘を打ち、頬が熱い。
 すぐ間近に感じるヒスイの低い体温に、まるで熱を奪われしまいそうな距離の近さにたじろいでしまう。
 包丁を持った天野の右手にヒスイの手が添えられ、「こう持つ」と耳元で不機嫌そうに呟かれた。

「……っ……はい」

 緊張で喉が詰まる。ヒスイの綺麗な横顔は、きっと眉根を寄せていることだろうと見なくても分かった。
 今度は左手を取られ、きゅうりに添えられる。

「押さえてないと、危ない事ぐらい分かれよ」
「……す、すみません」

 声が上ずり、どう取り繕うとも動揺が隠せそうにない。
 間近にいるヒスイに気を取られ、自分が何をしているのかすら分からなくなってしまう。
 微かに漂う金木犀の様な甘い香りは、ヒスイから発せられるものなのだろうか。
 ヒスイがせっかく付きっ切りで教えてくれているにも関わらず、心ここにあらずの状態で操り人形のように天野はされるがまま手を動かしていく。

「分かった?」

 不機嫌な声と共に、ヒスイが離れた。
 半分ほど綺麗な丸い形に切られているきゅうりが、まな板の上に残されている。

「何ボサッとしてんの?」

 ヒスイの声に、天野の体がビクリと跳ね上がった。思った以上に動揺していて、心臓が激しく脈を打ち続けている。

「顔赤いけど」

 ヒスイは焼き魚を皿に乗せつつ、不機嫌そうな視線を天野に向けてくる。

「……大丈夫、です」

 乾いた唇で呟き、天野は覚束ない手付きで残りのきゅうりを切った。

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