去りし記憶と翡翠の涙

箕田 悠

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第一章

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「――そういう事だから」

 ヒスイが話を締めてしまったことで、天野は現実に引き戻される。

「そういう事って……」

 肝心の男のその後がまだわからないままだ。気になって口を開きかけると、ヒスイは「寝る」と言い残し立ち上がった。

「明日は畑の仕事をしてもらうから」

 ヒスイは振り返ることなく天野に言い放つと、薄暗い廊下に姿を消してしまった。
 こうなってしまっては取り付く島もない。仕方なく天野も腰を上げる。
 あてがわれた六畳ほど和室には、文机に和箪笥、畳まれた布団が置かれていた。
 皺のついた葉書は机の上に載せ、宝石はなくしたらいけないと和箪笥の小さな引き出しにしまい込む。
 他の引き出しも開けてみると、中には着物が何着か畳まれて入っていた。
 ここに来る人間の為に、わざわざヒスイが用意しているのだろうか。そもそも、この家は元々は誰の物なのだろう。管理がちゃんと行き届いているのは、ヒスイが気を配っているからなのか。
 自分の事も疑問だらけなのに、今の現状ですら疑問だらけだ。頭の中が混乱して、吐き気が込み上げてくる。
 一旦落ち着こうと、文机の前に腰を降ろすとくしゃくしゃの葉書を手に取る。
 滲んだ文字がまるで、自身の頭の中みたいで読み解けない。もどかしい気持ちに苛立ちばかりが、募ってしまう。
 苛立ちをぶつけるように、天野は文机に葉書を乱暴に置く。
 それでも憤りが消えることはなく、虚しさばかりが胸をしめていた。

 あまり眠れないまま朝を迎え、早朝の冷たい風に身を震わせながら天野は炊事場に向かった。
 ヒスイは既に起きていて、朝食の準備をしていた。

「おはようございます。早いですね」

 天野が驚いた声をあげると、ヒスイは振り返りもせず「いつも通りだから」と不機嫌さを声に滲ませている。 

「手伝います」

 昨日と同様に天野はヒスイの隣に並び、「何をすればいいですか?」と問いかける。

「じゃあ、それ切って」

 手に菜箸を持ち魚を焼いていたヒスイが、まな板の上に置かれたきゅうりを顎で示す。
 天野は言われたとおりに、きゅうりを切ろうと包丁を手に持つ。今まで包丁を持った記憶が無かった。
 思ったよりもずっしりと重たい刃物に、微かに手が震えてしまう。
 まな板に置かれたきゅうりと対峙すると唾を飲み込み、恐る恐る刃を降ろしていく。

「ちょ、ちょっと待て!」

 ヒスイが慌てたように、火を止めると天野に詰め寄ってくる。
 翡翠色の瞳が見開かれ、天野はハッとして息を呑む。

「まさか、包丁すらまともに握れないなんて……」

 ヒスイが驚きと呆れが入り混じった声を上げた。
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