去りし記憶と翡翠の涙

箕田 はる

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第一章

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「ヒスイでいい」

 青年に連れ添いながら廊下を歩いていると、ボソリと呟かれた。

 一瞬なんのことだか分からず黙っていると「呼び方」と投げやりに言われてしまう。

 ヒスイという名前は、翡翠色の瞳を持つこの妖怪にはぴったりなように思えた。

「分かりました。僕の事は……」
「天野で良いんじゃない? 葉書にはそう書いてあるんでしょ」
「……そうですね」

 その名が自分であるのか分からないが、呼び方に悩むよりかは良い。
 ヒスイに連れられ、各部屋を案内される。短く「ここが厠」「ここが炊事場」とヒスイがわざわざ説明していく。
 妖怪なのに、意外と丁寧で人間らしいなとなんだか不思議な気持ちになってしまう。
 思っていたよりも、屋敷内は広々としているようだった。この立派な日本家屋にヒスイ一人が暮らしているのであれば、管理が大変なように思えてならない。
 長い廊下を進んでいくと襖の閉じられた部屋が連なっていて、奥が壁でやっと行き止まりが見えてくる。

「ここは俺の部屋だから、絶対に入るなよ」

 連なる部屋の一番奥の扉の前で、ヒスイは射すくめるような視線を向けてくる。

「掃除もここはしなくていい。と、いうよりも……お前は食事の用意や掃除は出来るのか?」

 天野は少し考え込み、炊事のやり方を思い出そうと試みるも失敗に終わった。

「……出来ません」

 諦めて沈痛な面持ちで答える。
 案の定、ヒスイが一瞬驚いたように目を見開き「本当に使えないな」と溜息を吐き出した。

「すみません……」

 天野は謝りつつ、少しでも記憶を手繰り寄せようと思考を巡らしていく。
 まさか炊事が全く出来ないとは、どんな坊っちゃんだと恥ずかしい。
 それでも頭の中が靄がかかったようで、何も思い出す事ができない。焦燥感ばかりが募っていき、思わず唇を噛みしめる。

「……まぁいいや。今までと変わらないと思えばいい」

 ヒスイは渋面を作り、無理やり自分を納得させているようだった。
 一通り案内を終えると、「疲れた」と言ってヒスイが縁側に腰を降ろした。つられるように、ヒスイの隣に腰を下ろす。
 目の前に広がる中庭には、咲き乱れる桜が花びらを散らし春の陽光を一身に浴びていた。
 鶯の鳴き声や蝶が舞っている姿に、心が研ぎ澄まされ美しいと素直に思えた。
 隣に座っているヒスイは足をぶらぶらさせて、中庭を見つめている。
 それにしても、人間界の事をやたら詳しいうえに見た目も人間のようだった。
 短い銀髪が風に揺れていて、存在感を強く放っているようにも見える。

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