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5章 お爺ちゃんと聖魔大戦
440.お爺ちゃんのアップデート
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妻の教室が終わるのを見計らって声をかける。終了時間を把握してたのか、いつの間にか長井君もついてきていた。
「あら、出迎え?」
「そんなところだ。少しお話がしたくてね」
「コールで言ってくれたらいいのに」
「コールは実態がないと受け取ってくれないだろう?」
「? コールは直通でこっちにも届くわよ?」
「そうなの?」
「呆れた。あなた我が家の頃から何も成長してないのね」
たしかにゲーム内でも登録しているコールは使える。
けど家にいた時は……ああ、だからか。
「それはうっかりしていた。由香里がわざわざ私のために電話型のコール設備を整えてくれていたんだ」
習慣とは怖いものだ。ゲームでは当たり前のようにやれていた機能。それは現実でも当たり前のように出来るのに、何処か別物のように感じていた。
コール、メッセージ、チャット。これらはゲームのシステムだと思い込んでいたのだ。
「あの子らしいわ。あなた、思い込みが激しいもの」
場所を変え、外からの光がよく差し込むカフェで休息を取る。
コミュニティセンター内にあるカフェらしく、従業員もご近所さんだ。
「こんな所あったんだ。全然知らなかった」
「あなた、知ってることの方が少ないじゃない」
「だっけ?」
「そうよ。私が言わなかったのもあるけど、言っても聞く耳持ってくれなかったわ」
むくれる妻に、当時の自分へ叱咤を送る。
「でも、こうやって活動してるのはここ最近の出来事なのだけど」
妻がぺろっと舌を出した。
私は騙された、と大仰な態度を取った。
そこへどこかで見たことのあるウェイターさんが私達にコーヒーを持ってくる。
「寺井さん、ここで働いていたんですか?」
「出会うなり開口一番それですか? いえ、今日は奥さんの趣味のお付き合いですよ。笹井さんには熱湯だけでも良かったかもしれませんね。繊細な豆の味なんてわからないでしょう?」
「失礼な。これでも舌には多少自信があるんですよ?」
「本当ですかぁ?」
この人は会うなり憎まれ口を叩いてくるな。
ちょっと小馬鹿にしてくるのも頂けない。
正直苦手だ。けれどそれらはゲーム内の裏返し。
文字通り彼に煮湯を飲ませた経緯からなるものかと受け取る。
「相変わらず仲が良いのね」
「そうみえる?」
「ええ、とても。せっかく二人の時間なのに、私を放っておいて仲良くしてるんだもの。妬けちゃうわ」
「ほらー、あなたが突っかかってくるから妻が不安がってるでしょ。どう責任とってくれるんですか」
「そうやってフォローを後回しにするからいけないんですよ。まず第一にフォロー、第二にフォロー。三四がなくて終始フォローです」
「ふふ、ほんと可笑しい。まるで即興の漫才を見ている気分だわ」
「だって、笹井さん?」
「いっそデビューします?」
「誰が見てくれるんですか。こんな老人の漫才なんて」
そんな茶番を挟んでると、寺井さんの頭にお盆が勢いよく振り下ろされた。
その場で蹲る寺井さんを横目に、妻が声をかける。
「リンダさん。もうキッチンの方は平気なの?」
「あんたらが騒がしいからって気を利かせて皆帰ったわ」
「概ねそこで蹲っている人が因縁ふっかけて来なければ概ね平和だったんですけどね」
「そりゃこの人が悪いね。どうも笹井さんに並々ならぬ恨みがあるようだ。リアルにまで持ってくるって相当よ?」
寺井さんを引き摺ってキッチンに引っ込むリンダさん。
妻はその様子を見てくすくす笑っていた。
オシドリ夫婦の典型だ。私も釣られて笑う。
「それで、お話ってなあに?」
「うん、実はね……」
思い切って本題に切り込む。
彼女は回りくどい話が好きじゃないので、率直にこれからどうするかを切り詰めた。
長井君の話は突拍子もない事だったようで奥さんに掛け合ってみるわとコールを繋げていた。
この場でもかけられるんだ、コールって。
すぐに繋がったようで、何やら話し込んでいる。
会話が弾んでいるようで何より。
ただやっぱり蚊帳の外にされると少しむず痒い。
さっきの妻も私にそんな感情を抱いていたんだろうか?
「話はついたわ。長井君は女性部一丸となって食い止めることに決定したから」
「それは良かった」
「それと施設のお話だけどね。実はリンダさんからこんな提案を受け取っていたのよ」
「リンダさんから?」
妻が受け取っていたパンフレットを開くと、そこには私たちの世代を集めたVR空間とリンクした施設を開発中とのお知らせがある。
今まさに私が話題に上げた、肉体限界の予感を想起させる内容だ。
寺井さん夫婦は私たちよりもさらに年上。
もうとっくに体を悪くしてる頃だろう。
VRでは元気な姿を見ているから、リアルは全然知らないけど。
「実はリンダさん、クランに参加したあたりからお具合が悪いらしくて、気持ちに身体がついてこないと嘆いてらしたのよ」
「そうなの? 全然見えないけど」
「アナタだってリアルとVRでは別人よ? 自覚ある?」
「それは確かに。向こうの私はリアルより活発だ。飛んだり跳ねたりしているものね」
「だからこっちでも出来るって思い込んでしまうらしいわ」
「流石にそれは……」
私でもない……とは言い切れないか?
「分かってる、て顔ね?」
「思い当たる節はあるよ。もしリアルでも同じくらい動けたらきっと最高だろうなと」
「そこでここを見て」
「?」
妻がパンフレットのある場所を指し示す。
そこにはリアルアバターを使った催し物の数々が開催予定とされている。
実際の肉体データをもとに設定されたステータスを使ってのスポーツをするようだ。いろんな競技が並べられており、もしそれを実際に開催したとして、参加者がいるものか怪しい限りだ。
「これがどうしたの?」
「VRなのにリアルの肉体設計のまま応じるゲームってなかなかないじゃない? 普通ゲームならリアルの肉体を逸脱して成立するものだわ」
「確かにね」
「でもリンダさんはリアルの肉体を使っての競技参加に拘った。この意味はわかる?」
「いや」
「もう、鈍いわね。リアルの身体の動かし方をここでお勉強するためのものじゃない。ゲームのアバターがあるように、リアルの肉体はただの器ではないのよ?」
「器って……まるでレムリアみたいな物言いだね?」
「彼らも過去にきっとそういういざこざがあったんじゃないかと踏んでるのよね、私は。それはともかく、どうするの? ここでうじうじ現実の肉体の限界を言い訳にVRに逃げるか、こっちに参加して充実した老後を送るか考えてみても良いんじゃない?」
妻の強い眼差し。
パンフレットには参加者の名前がどんどんと増えていく。
その中の幾つかには同級生のものもあった。
「君は既に参加する予定であると?」
「女性部は全員参加する予定よ。みんなが夫に話を持ちかけてるところね」
「今聞いたんだけど?」
「だって貴方コールしても出ないじゃない」
「ええ……」
「やっぱり。コールを完全に使いこなしてないわね。これじゃあ宝の持ち腐れだわ」
「わっ」
息の吹きかかる距離で、すぐそばに妻の顔。
おでこをぶつけた状態で、意識がのせられたメッセージが届く。
「やっぱり、アップデートされてないじゃない。今すぐして、早く」
「はい!」
急かされるように、リアルの肉体に鞭を打つ。
脳内に記憶を巡らせて、蓄積されたデータを読み込んだ。
少しぼんやりしていた脳内がはっきりとしてくる。
まるで誰かに操作されていたような状態から、私のデータは新しく塗り替えられた。
「あっ」
と、同時。何かとの接続が切れた気がした。
ずっと何かに見守られていた気配が遠ざかる。
それが悲しくて涙が止まらない。
「何泣いてるのよ。ほら、ハンカチ」
「うん、ごめんなさい」
妻から手渡されたハンカチを借り、目元を拭う。
そして妻からだろう着信履歴がありありとその場に焼きついた。
「コール、送るわよ?」
「うん」
刻まれる文字数。
そこに意識を合わせて受信を押す。
『繋がった?』
『うん』
一度コールを切り、妻は満足そうに微笑んだ。
「よし、一体どこの誰だか知らないけど厄介なことをしてくれたものだわ」
「私は……誰かに何かをされていた?」
記憶はない。
ただ、それがあったから今まで活躍できていたようなそんなふうに思うことさえある。
しかしアップデートされた今、それより勝る感情が渦巻いた。
「あなたはあなたよ、笹井裕次郎」
「私は私」
「ヨシ。ではコーヒーを味わいましょう。猫舌のあなたにもちょうど良い温度になったと思うわ」
「うん……苦くない? これ」
「エスプレッソだもの。でも苦いだけじゃないわ。若干甘みもあるでしょ?」
「わからないなぁ」
「じゃあ普通の頼む?」
「エメラルドマウンテンで」
「それ、缶コーヒーじゃない?」
妻の疑問の声。
しかしキッチンの奥からは「あるよ」の声。
カフェとはいえ軽食以外もガッツリご飯も取り揃えてる豪華ぶり。VRじゃなきゃ胃もたれを起こしそうなメニューが横切った時は若干肝を冷やした。
「あるって」
「良かった。出張先でよくお世話になってたんだよ」
「あなたからそっちのお話を聞くのって初めてかも」
「楽しいお話じゃないからね。どうせなら娘たちの笑顔で癒やされたい。男親はそう思ってしまうものだよ」
「由香里以外は知らないおじさんが来たって言われてたわね」
「やめてくれよ、君までそんなことを言うのは」
「あらごめんなさい。既に誰かに言われてたかしら?」
「はい、お待ち」
妻にはコーヒーカップを。
そして私の前には缶コーヒーが置かれた。
あなたにはこれがお似合いですよと言わんばかりの顔で寺井さんがほくそ笑む。
「これだよこれ」
皮肉もなんのその。プルトップを真上に上げてから喉に流し込めば勤続時代を思い出す懐かしい味がした。
「少し分けていただける? こっちもあげるから。ウェイターさん、カップをいただけるかしら?」
「今すぐにお待ちしますよ」
私と妻とで態度を変えるウェイター。
クビにされてしまえ、と強めの念を送る。
そして私達の前に置かれたカップに、それぞれのコーヒーを注いでシェア。
豆を挽いたエメラルドマウンテンはまた別の味。
妻は缶コーヒー派では無いので、若干難しい表情をしていた。
「なんか違うね、暖かいと」
「貴方よくこんな酸味が強いの飲めるわね?」
それぞれの評価がズレている。
やはりコーヒーは缶よりも焙煎したものの方が数倍も美味しいらしい。
私は断然こっち派だな。酸味が強いというが、このキレがまた良いのだ。酸味をキレというのもTVからの受け売りだ。
穏やかな時間が流れる。
こうやって二人で会う時は他愛のない話で盛り上がろうという気分だった。
なんせ今後はコールでのやり取りが頻繁になるのだから。
「あら、出迎え?」
「そんなところだ。少しお話がしたくてね」
「コールで言ってくれたらいいのに」
「コールは実態がないと受け取ってくれないだろう?」
「? コールは直通でこっちにも届くわよ?」
「そうなの?」
「呆れた。あなた我が家の頃から何も成長してないのね」
たしかにゲーム内でも登録しているコールは使える。
けど家にいた時は……ああ、だからか。
「それはうっかりしていた。由香里がわざわざ私のために電話型のコール設備を整えてくれていたんだ」
習慣とは怖いものだ。ゲームでは当たり前のようにやれていた機能。それは現実でも当たり前のように出来るのに、何処か別物のように感じていた。
コール、メッセージ、チャット。これらはゲームのシステムだと思い込んでいたのだ。
「あの子らしいわ。あなた、思い込みが激しいもの」
場所を変え、外からの光がよく差し込むカフェで休息を取る。
コミュニティセンター内にあるカフェらしく、従業員もご近所さんだ。
「こんな所あったんだ。全然知らなかった」
「あなた、知ってることの方が少ないじゃない」
「だっけ?」
「そうよ。私が言わなかったのもあるけど、言っても聞く耳持ってくれなかったわ」
むくれる妻に、当時の自分へ叱咤を送る。
「でも、こうやって活動してるのはここ最近の出来事なのだけど」
妻がぺろっと舌を出した。
私は騙された、と大仰な態度を取った。
そこへどこかで見たことのあるウェイターさんが私達にコーヒーを持ってくる。
「寺井さん、ここで働いていたんですか?」
「出会うなり開口一番それですか? いえ、今日は奥さんの趣味のお付き合いですよ。笹井さんには熱湯だけでも良かったかもしれませんね。繊細な豆の味なんてわからないでしょう?」
「失礼な。これでも舌には多少自信があるんですよ?」
「本当ですかぁ?」
この人は会うなり憎まれ口を叩いてくるな。
ちょっと小馬鹿にしてくるのも頂けない。
正直苦手だ。けれどそれらはゲーム内の裏返し。
文字通り彼に煮湯を飲ませた経緯からなるものかと受け取る。
「相変わらず仲が良いのね」
「そうみえる?」
「ええ、とても。せっかく二人の時間なのに、私を放っておいて仲良くしてるんだもの。妬けちゃうわ」
「ほらー、あなたが突っかかってくるから妻が不安がってるでしょ。どう責任とってくれるんですか」
「そうやってフォローを後回しにするからいけないんですよ。まず第一にフォロー、第二にフォロー。三四がなくて終始フォローです」
「ふふ、ほんと可笑しい。まるで即興の漫才を見ている気分だわ」
「だって、笹井さん?」
「いっそデビューします?」
「誰が見てくれるんですか。こんな老人の漫才なんて」
そんな茶番を挟んでると、寺井さんの頭にお盆が勢いよく振り下ろされた。
その場で蹲る寺井さんを横目に、妻が声をかける。
「リンダさん。もうキッチンの方は平気なの?」
「あんたらが騒がしいからって気を利かせて皆帰ったわ」
「概ねそこで蹲っている人が因縁ふっかけて来なければ概ね平和だったんですけどね」
「そりゃこの人が悪いね。どうも笹井さんに並々ならぬ恨みがあるようだ。リアルにまで持ってくるって相当よ?」
寺井さんを引き摺ってキッチンに引っ込むリンダさん。
妻はその様子を見てくすくす笑っていた。
オシドリ夫婦の典型だ。私も釣られて笑う。
「それで、お話ってなあに?」
「うん、実はね……」
思い切って本題に切り込む。
彼女は回りくどい話が好きじゃないので、率直にこれからどうするかを切り詰めた。
長井君の話は突拍子もない事だったようで奥さんに掛け合ってみるわとコールを繋げていた。
この場でもかけられるんだ、コールって。
すぐに繋がったようで、何やら話し込んでいる。
会話が弾んでいるようで何より。
ただやっぱり蚊帳の外にされると少しむず痒い。
さっきの妻も私にそんな感情を抱いていたんだろうか?
「話はついたわ。長井君は女性部一丸となって食い止めることに決定したから」
「それは良かった」
「それと施設のお話だけどね。実はリンダさんからこんな提案を受け取っていたのよ」
「リンダさんから?」
妻が受け取っていたパンフレットを開くと、そこには私たちの世代を集めたVR空間とリンクした施設を開発中とのお知らせがある。
今まさに私が話題に上げた、肉体限界の予感を想起させる内容だ。
寺井さん夫婦は私たちよりもさらに年上。
もうとっくに体を悪くしてる頃だろう。
VRでは元気な姿を見ているから、リアルは全然知らないけど。
「実はリンダさん、クランに参加したあたりからお具合が悪いらしくて、気持ちに身体がついてこないと嘆いてらしたのよ」
「そうなの? 全然見えないけど」
「アナタだってリアルとVRでは別人よ? 自覚ある?」
「それは確かに。向こうの私はリアルより活発だ。飛んだり跳ねたりしているものね」
「だからこっちでも出来るって思い込んでしまうらしいわ」
「流石にそれは……」
私でもない……とは言い切れないか?
「分かってる、て顔ね?」
「思い当たる節はあるよ。もしリアルでも同じくらい動けたらきっと最高だろうなと」
「そこでここを見て」
「?」
妻がパンフレットのある場所を指し示す。
そこにはリアルアバターを使った催し物の数々が開催予定とされている。
実際の肉体データをもとに設定されたステータスを使ってのスポーツをするようだ。いろんな競技が並べられており、もしそれを実際に開催したとして、参加者がいるものか怪しい限りだ。
「これがどうしたの?」
「VRなのにリアルの肉体設計のまま応じるゲームってなかなかないじゃない? 普通ゲームならリアルの肉体を逸脱して成立するものだわ」
「確かにね」
「でもリンダさんはリアルの肉体を使っての競技参加に拘った。この意味はわかる?」
「いや」
「もう、鈍いわね。リアルの身体の動かし方をここでお勉強するためのものじゃない。ゲームのアバターがあるように、リアルの肉体はただの器ではないのよ?」
「器って……まるでレムリアみたいな物言いだね?」
「彼らも過去にきっとそういういざこざがあったんじゃないかと踏んでるのよね、私は。それはともかく、どうするの? ここでうじうじ現実の肉体の限界を言い訳にVRに逃げるか、こっちに参加して充実した老後を送るか考えてみても良いんじゃない?」
妻の強い眼差し。
パンフレットには参加者の名前がどんどんと増えていく。
その中の幾つかには同級生のものもあった。
「君は既に参加する予定であると?」
「女性部は全員参加する予定よ。みんなが夫に話を持ちかけてるところね」
「今聞いたんだけど?」
「だって貴方コールしても出ないじゃない」
「ええ……」
「やっぱり。コールを完全に使いこなしてないわね。これじゃあ宝の持ち腐れだわ」
「わっ」
息の吹きかかる距離で、すぐそばに妻の顔。
おでこをぶつけた状態で、意識がのせられたメッセージが届く。
「やっぱり、アップデートされてないじゃない。今すぐして、早く」
「はい!」
急かされるように、リアルの肉体に鞭を打つ。
脳内に記憶を巡らせて、蓄積されたデータを読み込んだ。
少しぼんやりしていた脳内がはっきりとしてくる。
まるで誰かに操作されていたような状態から、私のデータは新しく塗り替えられた。
「あっ」
と、同時。何かとの接続が切れた気がした。
ずっと何かに見守られていた気配が遠ざかる。
それが悲しくて涙が止まらない。
「何泣いてるのよ。ほら、ハンカチ」
「うん、ごめんなさい」
妻から手渡されたハンカチを借り、目元を拭う。
そして妻からだろう着信履歴がありありとその場に焼きついた。
「コール、送るわよ?」
「うん」
刻まれる文字数。
そこに意識を合わせて受信を押す。
『繋がった?』
『うん』
一度コールを切り、妻は満足そうに微笑んだ。
「よし、一体どこの誰だか知らないけど厄介なことをしてくれたものだわ」
「私は……誰かに何かをされていた?」
記憶はない。
ただ、それがあったから今まで活躍できていたようなそんなふうに思うことさえある。
しかしアップデートされた今、それより勝る感情が渦巻いた。
「あなたはあなたよ、笹井裕次郎」
「私は私」
「ヨシ。ではコーヒーを味わいましょう。猫舌のあなたにもちょうど良い温度になったと思うわ」
「うん……苦くない? これ」
「エスプレッソだもの。でも苦いだけじゃないわ。若干甘みもあるでしょ?」
「わからないなぁ」
「じゃあ普通の頼む?」
「エメラルドマウンテンで」
「それ、缶コーヒーじゃない?」
妻の疑問の声。
しかしキッチンの奥からは「あるよ」の声。
カフェとはいえ軽食以外もガッツリご飯も取り揃えてる豪華ぶり。VRじゃなきゃ胃もたれを起こしそうなメニューが横切った時は若干肝を冷やした。
「あるって」
「良かった。出張先でよくお世話になってたんだよ」
「あなたからそっちのお話を聞くのって初めてかも」
「楽しいお話じゃないからね。どうせなら娘たちの笑顔で癒やされたい。男親はそう思ってしまうものだよ」
「由香里以外は知らないおじさんが来たって言われてたわね」
「やめてくれよ、君までそんなことを言うのは」
「あらごめんなさい。既に誰かに言われてたかしら?」
「はい、お待ち」
妻にはコーヒーカップを。
そして私の前には缶コーヒーが置かれた。
あなたにはこれがお似合いですよと言わんばかりの顔で寺井さんがほくそ笑む。
「これだよこれ」
皮肉もなんのその。プルトップを真上に上げてから喉に流し込めば勤続時代を思い出す懐かしい味がした。
「少し分けていただける? こっちもあげるから。ウェイターさん、カップをいただけるかしら?」
「今すぐにお待ちしますよ」
私と妻とで態度を変えるウェイター。
クビにされてしまえ、と強めの念を送る。
そして私達の前に置かれたカップに、それぞれのコーヒーを注いでシェア。
豆を挽いたエメラルドマウンテンはまた別の味。
妻は缶コーヒー派では無いので、若干難しい表情をしていた。
「なんか違うね、暖かいと」
「貴方よくこんな酸味が強いの飲めるわね?」
それぞれの評価がズレている。
やはりコーヒーは缶よりも焙煎したものの方が数倍も美味しいらしい。
私は断然こっち派だな。酸味が強いというが、このキレがまた良いのだ。酸味をキレというのもTVからの受け売りだ。
穏やかな時間が流れる。
こうやって二人で会う時は他愛のない話で盛り上がろうという気分だった。
なんせ今後はコールでのやり取りが頻繁になるのだから。
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