新選組秘録―水鏡―

紫乃森統子

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第2部

第十八章 幻詭猥雑

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   第十八章 幻詭猥雑


「何で私の手習いに佐々木さんが付きっきりなんですかね……」
「それは無論、私がお前の身元保証人……いわゆる後見人というものだからだ」
「私、それ初耳ですけど、冗談もほどほどにしてくださいよ」
「何故冗談なのだ。私は正真正銘、お前の後見人だ。不審あらば土方君に尋ねてみるが良い。或いは梶原殿や会津公に確かめてもらっても構わんぞ」
 広沢の言いつけ通り、伊織はこの日から毎日二刻の手習いを日課として実践し始めた。
 そこで早速文机に向かっているわけだが、この通りの様である。
 伊織が手習いを始めると同時に、どこからともなく現れた佐々木が、頼みもしないのにじっと傍で監督をしているのだ。
 そこで口を開けばこの調子。
「あの、佐々木さん。申し上げ難いんですが、すごく目障りです」
 さっきから筆を構えたきりで、半紙は真っ白なまま。
 それもこれも、瞬きすらもせずに穴の開くほど凝視してくるこの男の所為。これが梶原や広沢ならば程好い緊張感になるのだろうが、佐々木只三郎だから始末が悪い。
「一人にしてもらったほうが集中出来るん……」
「この先、読み書きも思うに任せぬでは、お前も何かと難儀することも多かろう。ここは一つ練習と思って私と文通を……」
「聞いてねえな、おっさん」
 左後方に陣取って、でんと肩をいからせて座す佐々木は、それでもまだ伊織の言葉に耳を貸そうとしない。
 僅かに恥らう様子を見せつつ、佐々木は徐に自らの懐を漁り始めた。
「じ、実はこのようなこともあろうかと、既にお前への文を認めておいたのだ! まず手始めにこの私の文に返書を……!」
 そわそわと落ち着きのない口調と共に、佐々木は漸く懐中から探り出した文を、ぬっと突き出した。
「思いの丈を綴ってみたのだ。些か気恥ずかしくもあるが、これがお前の為になるならば、じっくりと読んでもらいたい!」
「あんたホントどこまでも人の話を聞かない人だな!?」
「ささ、照れずに受け取るが良い!!」
 と、頼み込む物言いをしながら、佐々木はがっしりと伊織の左手に文を捻じ込んだ。
 伊織よりも一回りも二回りも大きい、節くれ立った手で押し付けられると、固辞したい思いとは裏腹に、うっかり文を受け取ってしまう。
「うわ、ちょっと要りませんってば! 持って帰って竈の火付けにでも使ってくださいよ!」
 慌てて突き返そうとした伊織の腕が、間髪入れずに佐々木に掴みとめられた。
 ぐっと力の籠もった佐々木の手に驚き、伊織は間近に迫る佐々木の双眸を反射的に見返した。
 文字通り、その距離は目と鼻の先。
「え、佐々木さん?」
 予想に反して、その目はいつもの悪ふざけや馬鹿馬鹿しい戯れなど一瞬にして払拭してしまうような凄味のあるものだった。
「このまま、黒谷に留まるが良い。おまえがそう決意すれば、この会津で女子として過ごすことも叶おう。私が後ろ盾にあれば、国許の城で奥付きの女中となるも夢ではないのだぞ?」
 それは、およそ佐々木らしくない言葉であった。
 確かに、佐々木只三郎実兄・手代木直右衛門は会津藩重臣。口添えや後押しがあれば、城に上がることも或いは可能だろう。
 が、伊織が妙に思うのは、そことはまた別の次元の問題である。
「……っていうか、佐々木さんは、そのー……」
「何だ? お前が口籠るとは珍しいではないか」
 いつも鬱陶しいくらいに纏わりついて来る男が、一体どういう風の吹き回しだろうか。
 もしも佐々木の言うように会津の城へ出仕すれば、恐らく佐々木とは金輪際会うこともなくなるだろう。
 無論、会津に帰るつもりは毛頭ないが、この男を振り切れるのならば、それはそれで美味しい話だ。
「そうですか? じゃ、国許帰って女中でも仰せつかりましょうかね」
 と、伊織が冗談で返した途端。
 それまで厳然たる面持ちだった佐々木の顔が、突如仰天したように崩壊した。
「ぐぬ……っ!! ば、ばか者め!! お前を会津へなど、誰が行かせるものかっ! そこでお前が出すべき答えは、そうではないだろう!? 何故そこで「只三郎様のお側を離れたくはありませぬ!」と申して縋り付いてこぬのだ!!」
 がっしりと伊織の両肩を掴んだ佐々木は、唾を飛ばして怒鳴る。
「一日も、いや一刻も早くお前が女子に戻り、私の許へ来ることを切願しておると申すに……っ!!」
「ははぁ、要するに先程のお話は、単にカマをかけただけですか。姑息なことを」
 何となく、どうせそんなことだろうと思ってはいたが、最早呆れ果てて罵倒する言葉も萎みがちになる。
 相変わらず凄まじい眼で見つめてくる佐々木を払い除け、伊織は投げやりな吐息をすると、再び文机に向かった。
「用が済んだなら早くどっか行って下さいね。きっちり二刻やらないと、まーた広沢さんにどやされちゃうんですから」
「ぬっ、しかしお前、仮名の写しなぞよりも、やはり実用性のある文の遣り取りで覚える方が……」
「だから佐々木さんが相手じゃ嫌だって言ってるじゃないですか」
「そ、そんなきっぱりと私を傷付けるでないわ!!」
 むっとした顔の佐々木を、伊織は横目で睨みつけた。
 すると佐々木はしゅんと肩を窄めて項垂れ、しおしおと力なく溜息をこぼす。
「分かった。そうまで申すのならば、文の相手に私の知人ではどうだろうか。奴はなかなか書に通じているぞ。奴を見本にすれば、すぐにお前も上達できよう」
 と、口ではそう言いつつも、その表情は明らかにむくれている。
 佐々木としては、伊織に助力したい一心で言ってくれているのだろう。
 常日頃、何かと迷惑を蒙ってはいるが、佐々木は時々本当に有り難い助けとなってくれることもまた事実だ。
「……でも、佐々木さんの知り合いじゃあ、何だかなぁ」
 世の中には「類は友を呼ぶ」という言葉も存在する。
 その知人とやらがまともな人であれば申し分ないのだが、万が一、佐々木と類似した人物だった場合を考えると、酷く不安にもなる。
(知り合いって、蒔田さんかな?)
 佐々木と同じく見廻組であり、実は備中浅尾藩の殿様でもある蒔田広孝ならば、伊織の書の練習に付き合ってくれそうではある。それに何より、少なくとも佐々木よりは人間がまともである。ついでに殿様ということで信頼も置ける存在だ。
「言っておくが、蒔田ではないぞ?」
「は? 違うんですか? だったら他に誰が……」
 佐々木の知人といえば、即座に念頭に浮かぶのが蒔田だが、それ以外といえば土方や近藤など、伊織にとっても身近な存在が思いつくのみ。
 首を捻ると同時に、思っていたよりも佐々木について何も知らないのだな、と伊織は思う。
「うむ。山岡鉄太郎、という男がいるのだが……。近藤や土方も奴のことは知っているはずだぞ。何しろ浪士組として江戸から京に上る時に、浪士組の取締りを務めた男だからな」
「はぁ、山岡鉄太郎……」
 名を繰り返してみて、伊織はふと脳裏に閃くものを見た。
「! そ、それもしかして! 山岡鉄舟!?」
 聞き慣れたのは、鉄舟という号のほうだが、通称は確か、鉄太郎といったはずである。
 書と剣、そして禅に秀でた高名な人物であり、いずれ世が戊辰戦争に突入する頃、江戸城無血開城実現に尽力し、明治期には侍従として明治天皇に仕える男だ。
 佐々木の言うように、彼は文久三年の浪士組結成にも深く関わっており、近藤や土方らの試衛館道場の人々もその名を知らぬはずはない。
 突然に大声を上げた伊織に、佐々木も流石に意表を突かれたのか、僅かに顎を引く。
 だが、伊織にしてみればこれまた幕末の偉人との新たな出会いの予感なのである。これで興奮せずにいられるはずもなかった。
「なぁんだ、山岡鉄舟なら書の達人じゃないですか! そういうことなら喜んで文通しますよ!」
 先刻までとは打って変わって満面笑顔と転じた伊織は、寧ろ自ら佐々木の手を取って目を輝かせた。
「よ、喜んで、だと!? おまえ、山岡を知っているような口振りだが……」
 腑に落ちないといった顔で問いかける佐々木に、伊織は二つ返事で是と返す。
「ああ、勿論知ってますよ。会ったことはないですけどね」
「ふぅむ……土方か近藤からでも話を聞いたのか?」
 顎を擦って首を捻る佐々木の態度から、伊織も漸く怪訝に思われているらしいことを悟る。
 伊織が元々この時代の人間だと思っている佐々木にしてみれば、そう考え付くのが当然のことであろう。
 伊織が今よりはるか百年以上も先の未来からこの時代へと迷い込んだ事実は、あの土方や近藤でさえ、未だ理解しきれていない様子でもある。
 佐々木にこの事実を打ち明けたとて、それは到底理解を得るには至らないだろう。
 それ以前に、そんな身の上話を打ち明けるような相手でもない。
 伊織は咄嗟に文机に向き直り、手早く筆を構えた。
「じゃ、あの、早速お手紙書きますから。後は佐々木さん、宜しくお願いしますね!」
 少々強引に話を纏めた伊織に対し、佐々木は面食らったような面持ちで「ああ」と一つ頷いた。
「最初はやっぱり初めまして~とか、そういう感じでいいんですかね。それとも拝啓とか入れたほうがいいですか? うーん、それだと堅いなぁ……」
 これから山岡鉄舟に宛てた書状を認めるに当たって、伊織はあれこれと考え、思いつくまま佐々木に疑問符で話しかける。
 それもこれも、山岡という人物を伊織が何故知り得るのかを深く詮索されるまいとした防御壁。
 何しろ、嘘を嘘で固めるのは大の苦手とするところなのだ。
 余計な嘘を吐かぬに越したことはない。
 が。
 佐々木を相手に、そんな心配はどうやら無用のものであったらしい。
 伊織が既に山岡と文を交わす心積もりでいると知ると、佐々木は多少目許を険しくして文机を挟んだ正面に回りこんだ。
「お、おい。どうでも良いんだが、この私を差し置いて山岡と恋を囁きあうような仲には、ゆめゆめなるでないぞ……!?」
「……ほんとどうでも良いですね」
「!?」
 またしても復活の兆しを見せた佐々木の妙な悋気はさらりと聞き流し、伊織はゆるゆると筆で硯を撫でる。
 すると、伊織が俯き加減に見る、まだまっさらな料紙の中央に、佐々木の顔がぬっと割り込んだ。
「真面目に聞かぬかっ! 此度の山岡との文の取り成しはだな、おまえの向上心に感銘を受けたからこそ…!」
 低い文机の上に、佐々木は無理矢理その頭を乗せ、やや苦しげに必死の声を上げる。
 が、伊織は硯で扱いたばかりの筆を、容赦なくその顔面にべしゃりと乗せた。
「煩い」
「ぬおおおっ!? 墨がっ……!」
「さて、早くにそこを退きませんと、次は眼球に墨を塗りまするぞ」
 このところ、佐々木の不気味な行動にも当初より大分慣れてきたせいか、その対応の酷薄さにも磨きがかかる伊織である。
 勿論本当に眼球を狙うつもりは毛頭ない。
 だが、このままでは手紙も手習いも一向に進まないので、脅しのつもりで再び墨をたっぷりと含ませた筆を手に構えた――
 が、佐々木が慌てて退くより一寸早く。
「伊織殿ぉおおおお!! いるか!? いたら返事をせよーー!」
 難波歩きもどこへやら、大いに取り乱して部屋に現れたのは、どちらかと言えば普段は温厚なはずの梶原平馬であった。
「あれ、梶原さん。いますよ、どうしたんで……」
「たたた大変だ!」
 整髪は乱れ、その形相は稀に見る蒼白さであった。

     ***

 壬生村。
 新選組屯所。
 局長初め数名の幹部や隊士が不在なだけだというのに、そこはいつもより味気ないものに思えた。
 普段通りに稽古に励む声、巡察から戻った様子の隊士たちが屯して汗を流す水場。
 漫ろに屯所内を歩き回る斎藤がいた。
 時折、すれ違い様に挨拶をしていく隊士もいたが、斎藤は軽く声を返すに留め、歩みを止めることはなかった。
 その斎藤の足が、正面からやってきた人影を目にすると同時に徐々に歩調を緩め、やがて立ち止まった。
「やあ、斎藤君」
 一見文弱を感じさせるその笑顔は併し、少し視線を体躯へとずらせば剣で鍛えた頑健な様子も見て取れる。
 今は体調を崩していると聞くが、道理で顔色はあまり思わしくないようだ。
 それでも尚、にこやかに話しかけてきたその人に、斎藤は丁重に会釈した。
「具合は良いんですか、山南さん」
 二本は佩いていないものの、きっちりと袴を着けた姿の山南は、困ったように笑う。
 本来土方同様に副長という身分のはずの山南は、池田屋事変での留守居を境にすっかり鳴りを潜めている。
 ここも屯所内とは言え、副長室からは遠く、この二人が顔を合わせて話をする場面というものも最近では殆ど見られなくなっているように感じた。
「高宮君が、黒谷へ行ったそうだね」
「…………」
 不意に山南が雲の多い空を仰ぎ、当たり障りのない話題が持ち出す。
 だが、斎藤はあえて黙して山南の横顔を見た。
 斎藤からの相槌が入らなくとも、山南は然して気にも留めない様子で続けた。
「いやぁ、驚いたよ。突然だったからね。あの子にとって、ここは居辛い場所なんだろうか」
「さあ、どうでしょう。いずれにせよ、今黒谷へ出仕しているのは一時的なものです。局長のお戻りと同時に屯所へ戻って来ることになっているようですが」
 ほんの僅か、その眦が寂しげに下げられていることに斎藤は気付く。
 山南の何気ない一言に含まれた「居辛い場所」というのが、妙に実感の籠もった響きを醸し出していた。
 それは、高宮伊織が居辛いか否かよりも、もっと別な次元を示す言葉のように。
「高宮は元々会津の人間だそうですし、寧ろ会津藩で召抱えられるのが普通なのでは?」
「ははは、確かにそう言われてみればその通りだ。――でも、不思議だね」
「? 何がですか」
「あんなに土方君に引っ付いていたのに、このところの高宮君は、どうも距離を置きたがっているように見える」
「それは……」
 少なくとも伊織に黒谷出仕の決心をさせた決定打は、葛山の一件であろう。
 葛山を処断したのは土方であり、それが亀裂となったことはまず間違いない。
 と、斎藤は心中で答えるに留め、口に出すことは控えた。
 だが、山南にはその心中が読めたとでも言うのか、或いは既に予見していたとでも言うのか、小さく吐息してみせた。
「私も、高宮君の戸惑う気持ちはよく分かるつもりだよ。このまま戻らない方が、あの子にとっては幸せなことなのかもしれない」
 小声で、しかし、一語一句は明確に告げ、山南は斎藤に向き直る。
「つまらない話で引き留めてしまったね。これで失礼するよ、すまなかったね」
 そう言って、山南は出会い頭と全く同じ笑みを浮かべると、斎藤の脇をすり抜けるように歩き出した。

     ***

「ピヨ丸様ぁああああ!!」
「おーーーい、ピヨ丸様ーーー!」
「ぬぅう、雛鳥め、いずこぞ!」
 広い広い黒谷の屋敷内に、大声を張り上げながら縦横無尽に駆け巡る三人の姿があった。
 バタバタと足音も憚らずに血相を変えて駆け抜けていく様子は、火事場をも連想させる。
 板張りの廊下を並んで駆ける三人とは、先頭から会津藩大目付役・梶原平馬、次に新選組隊士であり現在は公用方にて見習い中の高宮伊織、その後続に見廻組与頭勤方の佐々木只三郎。
 中でも最も泡を食った様子の梶原の手には、空の鳥籠がしっかりと携えられている。
 よくよく中を覗き込んでみれば、綿のような羽が夥しく散乱していた。
 伊織の元へ駆け込んできた時、梶原は「大変だ大変だ」と騒ぎ立てるばかりで、何がどう大変なのかさっぱりだったが、その手にある鳥籠で、大凡を察知したのだった。
「ぴ、ピヨ丸様の綿羽がこれほど散乱しているのだ、何者かに襲われたに違いない!」
 顔面蒼白になって訴えかける梶原は、廊下の真ん中で突如足を止めた。
 お陰で、後続の伊織は危うくその背に追突しそうになり、もっと危うきは、更に後続の佐々木がここぞとばかりに両手を広げて伊織に追突しようとしたことである。
 間一髪で身を捩り、佐々木の追突を免れたわけだが、その瞬間に見た佐々木の悲しげな目はなかなか忘れ難い悲壮さを漂わせていた。
「伊織殿、このまま三人纏まって探していても埒が明かぬ。私はこのまま屋内を捜す。主らは表を捜してみてはくれぬか」
 勢いついて急停止し損ねた佐々木が、もう一歩で梶原にぶつかるだろう、というところで、梶原も機敏な条件反射でもって片手で佐々木を弾き飛ばす。
 大柄な佐々木を苦もなく突き飛ばすのだから、梶原もツワモノである。
「頼む、伊織殿。ピヨ丸様の安否が分かるまで、この事決して殿のお耳に入れてはならぬぞ!」
「わ、分かりました。それじゃ、見つけたらすぐに報せてくださいね」
 伊織は梶原と目を合わせ、軽く頷き合うと颯爽と踵を返して表へ飛び出した。佐々木を残して。
「ぬあああああっ、待て! 待たぬか私もおまえと共に行くぞぅううおおお!!」
「佐々木さんは屋根裏でも探してくださーい」
「そういうことだ、頼んだぞ佐々木殿。では!」
 しゅっと袴の裾を翻し、梶原もまた素早くその場を去って行ってしまった。

     ***

 ピヨ丸失踪事件勃発。
 梶原に指示されるがまま、伊織は戸外へ飛び出して、本陣敷地内の隅々にまで目を凝らして歩く。
 ピヨ丸も肥後守の愛鳥と言うわりには、普段からわりと自由気侭に飛び跳ね歩いていそうな印象がある。
 黒谷の門前でうっかり足蹴にしてしまいそうになったのがつい昨日のことであるだけに、「失踪」と決め付ける事には些か抵抗を感じる伊織である。
(けど、あの鳥籠の綿羽……猫にでも襲われたのかも……)
 血痕らしき物は見当たらなかったが、ごっそり抜け落ちた綿羽は、あまり穏やかな量ではなかった。
 もし猫にでも襲われたのだとしたなら、きっと今頃は猫の美食と化しているであろう。
 そんな予感もチラつくのだが、一旦梶原に協力を示した以上は、たとえ猫の腹を掻っ捌いてでもピヨ丸の姿を探し当てねばなるまい。
 伊織はきょろきょろと忙しなく辺りを見回しながら、歩を進めた。
 厳かな構えの本堂の縁下。
 中庭の池の畔や石灯籠の隙間。
 果ては植え込みや垣根の合間まで。
 ここかと思しき場所には、迷わず首を突っ込んでその姿を探した。
 だが。
 敷地を既に二、三週もし、既に一刻が過ぎても、ピヨ丸の姿はどこにも見つけられないままであった。
「やばいなー。いよいよ猫の腹の中かもなぁ……」
 急ぎ足だった歩調も、とうに歩き疲れてズルズルと引き摺るような足取りに変化する。
 そうして、もう何度も探した本堂脇の縁側の前で、伊織の足は静かに止まった。
「………」
 伊織の視界に、日向の縁側にゆるりと寛ぐ妙な女の姿が映り込んだのだ。
 もう何度も顔を合わせているのに、依然としてその実態を把握しきれない謎の女。
 いや、正確に言えば伊織もそこそこ知っている人物でもあるのだが。
 ピロピロと暢気に口笛を吹きながら、縁側に腰掛けて両足を宙にぷらぷら投げ出す様子は、とてもこの時代の武家の女子とは思えない。
「……何やってんですか、時尾さん」
 少し姿が見えないと思ったら、またこんなところで出くわそうとは。
 唖然として深く考えもせずに声をかけてしまったが、時尾も然して驚く素振りは見せずに伊織のほうへ首を廻らせる。
「あらー、また会ったわね。元気?」
 時尾はさも奇遇、と言いたげに陽気な挨拶で笑いかけてくる。
 だが、この高木時尾という女、伊織の勘では明らかにこちらの居場所を知った上で姿を現している。
 そんな確証は何処にも無いのだが、それでも伊織の直感がそう確信させていた。
「元気ですけど……、時尾さんこそ、こんなところで何をしてんですか」
 至って平静を装って言葉を交わす伊織だが、何となく時尾のほうへ歩み寄ることは出来なかった。
 ごく明るく気さくな振る舞いを見せる時尾に対して、何故か得体の知れない不安感を覚えるのだ。
 壬生寺の境内で会った時以上に、伊織自身のすべてを見通されているようで、多少身構えてしまう。
 この人の存在そのものに、引っ掛かるところが多すぎる。
 それゆえに、会えば質問攻めにしてやりたいとも思うのだが、謎が多すぎて何から問うてやれば良いのか迷ってしまう。
 そして結局何も明確にはならないまま、時間はなあなあに流れてしまうのだ。
 今も、ピヨ丸の捜索を続行するべきか、或いはまたも突然に現れた時尾に何らかの反応を示すべきか……伊織はやや迷いも覚える。
「あの、時尾さん」
「え、なぁに」
「ピヨ丸っていう名前の妙な雛鳥、見かけませんでした?」
 と、伊織が問うが早いか、鋭利な目をした鷹が時尾の肩に舞い降りた。
 鋭い目と爪、広い両翼、茶色味の強い体毛。
 どう見てもそれは伊織の探す雛鳥ではない。
 成鳥ではあっても、体躯はそう大柄でもないので、きっとまだ若い鳥なのだろう。
 野生の鷹かとも思ったが、どうやら時尾に懐いている様子なので、時尾の飼う鷹なのかもしれない。
 時尾の肩からこちらをじっと見据える鷹は、若いながらに立派な猛禽の目をしている。
「あの、その鳥……」
 あなたが飼っているのか、と続けようとしたが、それを待たず時尾が口を開いた。
「ピヨ丸様ならここにいるわよー?」
 と、肩に乗せた鳥に、その細い手を添える。
「は?」
「目の前にいるじゃない。この子がピヨ丸よぅ」
「いや、あの、ですから私が探しているのは殿の御愛鳥の、もう少しチマい雛鳥で……将来は多分そんな立派な猛禽じゃなくて、ニワトリか何かになるんじゃないかなっていう、そんな感じの雛で――」
 身振り手振りでその身体的特徴を表現しつつ、伊織はどうにかピヨ丸の全体像を伝えようとする。
 が。
 時尾は半分苦笑しながら、縁側からストンと降り立った。
「しっつれいねぇ! 会津藩主は勿論、諸大名はニワトリを飼ったりしないわよ!」
「えっ、いや、でもそれちょっと語弊があるんじゃあ……。大名でニワトリ飼ってる人いたら逆に失礼ですよ」
「いーい? 大名といえば鷹! 殿様の鷹狩りってよく聞くでしょ? 大名って言ったら鷹なのよ! それ以外は認めないわよ私」
「……。へぇー、そう……」
 それは単に時尾の超個人的な固定観念だと思うのだが、随分と熱い口調なので、伊織もそれ以上突っ込みを入れる気にはなれなかった。
 だが、それとこれとは別問題なのが、ピヨ丸の件である。
「確かに、何の雛だか詳しいことを聞いてはいませんでしたけど、ピヨ丸って本当に鷹なんですか?」
「間違いないわよ。ピヨ丸は私が狩の途中で拾った子なんだから」
「そ、そうだったんですか?」
「そうよ! 国許で照姫様に獲物を献上しようと思って狩に出かけた時にね、巣から落っこちてたのを私が拾って帰ったんだから」
「照姫様……藩公の義姉君に? えっ、いやちょっと待って!? 狩!? あんたが!?」
 伊織の記憶が確かなら、時尾は照姫付の祐筆とかいう、比較的おっとりしっとりした感じの役目じゃなかっただろうか。
 それが狩猟に出かけるほどに男勝りだとは、誰が想像するだろう。
 いや、言われてみれば初対面のあの夜の刀捌きを見れば、殿御顔負けの気性と気概を持っているだろうとは予測もしていたが。
 まさか自ら野山を駆って狩猟に興じる趣味をも持つとは。
「じゃ、本当にそれがピヨ丸……?」
 時尾が満面の笑みで深く頷く。
 驚愕の尾を引きつつも、伊織は梶原の持っていた空の鳥籠を思い浮かべる。
 中に散らばっていたあの綿羽の量。尋常ではないように見えたが、今のこの鷹の姿を見てみれば、成長に合わせて抜け落ちたと考えれば合点もいくように思えた。
 まだあんぐりと口を開いて鷹を凝視する伊織を面白げに眺め、時尾は腕を真横にすっと持ち上げる。
 と、ピヨ丸もまた時尾の動作に呼応して、肩から腕へと飛び移った。
「もう少し遊んでおいで」
 時尾がそう話しかけると、ピヨ丸は幾度か両翼を羽ばたき、やがて宙へと跳躍した。
「あっ!? ちょっと、早くピヨ丸を梶原さんに返さなきゃいけないのに…!」
「まあまあ、堅いこと言わないでよ。自由に放してやったからって、野に帰るような子じゃないわよ。雛から人の手で育てられたんだから」
「そ、それはそうかもしれないけど、梶原さんが……」
 ピヨ丸が飛び立ってから、伊織はようやく慌てたが、その姿は既に本堂の軒より遙か上空である。
 確かに時尾の言うように、放ったわりには伊織の視界から消えて遠く離れていく気配はない。
 放浪癖の目立っていた雛時代からは考えにくいことだったが、時尾の居場所を中心に、緩やかに大きく弧を描きながら、悠々と空を滑っているだけだ。
 この様子なら、呼べばすぐに降りてくるだろう。
 だが、それにしても。
「ピヨ丸ってこんな躾の行き届いた鳥でしたっけ……」
 ところ構わず出歩く鉄砲玉のような雛だったのに、成鳥になった途端にこの利口っぷり。
 少々首を傾げたくもなったが、時尾は依然として余裕の笑みを浮かべたまま手庇をつくり、鷹の飛行を眺めている。
 生憎と曇り空だが、これが快晴の空だったなら、雄鷹飛翔の光景は実に勇壮なものに映っただろう。
 時尾の横顔を見遣り、伊織もまた上空の鷹を仰ぎ見た。
 そして、ふと――。
「――あれ?」
 伊織は何かが奇妙なことに気付き、見上げた視線を即座に時尾へと戻した。
(……ピヨ丸には、見えている?)
 伊織以外の者にはその姿も声すらも感じ取ることが出来なかったはずだというのに。
 ピヨ丸はごく当然のように時尾の肩で休み、時尾の声によって空へ羽ばたいた。
「動物には、見えてるみたいよ」
「!」
 伊織は疑問を抱きはしたものの、一言も口にしてはいない。
 伊織の素振りだけで、こちらの言いたいことが分かってしまったようだ。
 時尾は、徐に伊織に向き直る。
 その顔は、穏やかではあった。だが、決して笑ってはいなかった。
「清水寺でね、あなたを突き飛ばしたのは私みたいなのよね」
「!? っえ、はぁっ!?」
「でも、わざと突き飛ばしたわけじゃないから、誤解しないでよ」
 もう幾月も前のことになるが、元々、この京都に来たのは現代に通っていた高校の修学旅行だった。
 あの夕暮れに訪れた清水寺の舞台に起きた事は、忘れようにも忘れられない出来事である。
 恐らく、その場に居合わせた友人や、他の生徒たちにとっても、少なからず衝撃的だったはずだ。
 春の夕暮れ。茜に染まる空と、新緑に溢れた京の山々、それに、この幕末の時代とは違う京の風景。
 入京の嬉しさにはしゃいで、舞台から身を乗り出した瞬間、何かに背中を突き飛ばされた。
 あの一瞬は、思い返すにまだ新しい記憶。
 高所から落下する時の、臓腑がひゅうっと縮むような感覚を思い出し、伊織は思わず胃の腑のあたりを押さえた。
 だが、時尾は伊織の様子には目もくれず、何かを思い切ったように口を開いた。
「この時代に、高木時尾はもういないわ。だけど、その代わりに高宮伊織がいる。あなたのいた平成という時代には、もう高宮伊織はいない。その代わりに、高木時尾がいる」
「………」
 幕末に生き、先の日本など知るはずもない人間の口から飛び出した、「平成」という元号。
 生きているのか、或いは死んでいるのか。
 それは、何も時尾に限ったことではない事に、伊織はようやっと気が付いた。
 現代の――、平成の今頃、この時尾と同様、高宮伊織という人物も死んだことになっているのだろうか。
 清水寺のあの舞台から転落した事実を思えば、そう解釈されていても何らおかしくはないはずだ。
「つまり、私とあなたは時代を超越して入れ替わった――ということになるわね」
「! ちょっと待って時尾さん、それ一体どういう――、じゃあ今、あんたは平成にいるってことなの!?」
「そうよ。身体だけは、ね」
 どこか超然とした態度の時尾は、軽く頷く。
「身体だけ……?」
 では、今こうして目の前にいる人物は? と、伊織は疑念に眉宇を顰めた。
「話すと少し、長いわよ?」
 伊織が梶原のもとへと急いでいることを気に留めてか、時尾はちらりと上空の鷹を見て言う。
 だが、ここで時尾の話を聞かなければ、次の機会がいつ訪れるか分かったものではない。
 伊織は動揺に逸る胸中を抑え、時尾の話を促すように、静かに頷いた。

【第十九章へ続く】
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皆さま、ご訪問いただきありがとうございます。 最初2/10に非公開の予告文を書いていたのですが読んで くださる方が増えましたので2/20頃に変更しました。 古い作品ですが、有難いことです。😇       - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - " 揺り篭 " 不倫の後で 2016.02.26 連載開始 の加筆修正有版になります。 2022.7.30 再掲載          ・・・・・・・・・・・  夫の不倫で、信頼もプライドも根こそぎ奪われてしまった・・  その後で私に残されたものは・・。            ・・・・・・・・・・ 💛イラストはAI生成画像自作  

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

赤い鞘

紫乃森統子
歴史・時代
 時は幕末。奥州二本松藩に朱鞘を佩いた青年がいた。名を青山泰四郎。小野派一刀流免許皆伝の、自他共に認める厳格者。  そんな泰四郎を幼少から慕う同門の和田悦蔵は柔和で人当たりも良く、泰四郎とは真逆の性格。泰四郎を自らの目標と定め、何かとひっついてくる悦蔵を、泰四郎は疎ましく思いつつも突き放せずにいた。  やがて二本松藩の領土は戊辰戦争の一舞台となり、泰四郎と悦蔵は戦乱の中へと身を投じることとなる…。

だんだんおかしくなった姉の話

暗黒神ゼブラ
ホラー
弟が死んだことでおかしくなった姉の話

服を脱いで妹に食べられにいく兄

スローン
恋愛
貞操観念ってのが逆転してる世界らしいです。

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