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第2部
第十六章 水天彷彿
しおりを挟む壬生寺の境内に響く蜩の声も今ではその数を減らし、いつになく物悲しい。
茜に染まる空から霏々と降る、晩夏の雪のような声だった。
葛山を呼びに行ったであろう山崎の背を見送って以後、伊織はふらりと屯所から出た。
山崎に伴われて、何も知らずに土方の許へ来るだろう葛山の姿を思い描けば、哀れと嘆かずにはいられない。
土方はきっと、いつもの怜悧さでもって単刀直入に申し渡すことだろう。
切腹を命じられた葛山は、一体どんな顔で、どんな思いで、どんなことを言い返すのだろう。
それを傍で確かめる気には、とてもなれなかった。
だが、屯所を出てきた理由は、何も葛山のことばかりではない。
山崎の言い分にも溜飲の下がらない思いが蟠り、土方への不信も消え去りはしなかった。
だからだろうか、何故か己自身が新選組の屯所内にいるのが、妙に異な事のように思えて仕方なかったのだ。
昼日中は境内に遊ぶ子供たちの声が賑やかに聞こえるものだが、それも夕刻になるとぽつりと途絶えてしまう。
一人、拝殿の石段に座り込んだまま、伊織は両手で頭を抱え込んで膝に突っ伏した。
「……会津、帰ろうかなぁ」
そう呟いたことに、深い理由はない。
元居た現代の会津と、幕末という時代の今の会津。そのどちらに帰るのかと問われれば、きっとそれにも答えることなど出来ないだろう。
自らの力で現代に帰ることは出来ず、かと言って今の会津藩へ帰ろうとも身寄りはない。
伊織はもう一度、深い溜息を吐いた。
「そうだよ、帰って来いよーぉ」
「!?」
境内には誰の姿もなかったはずが、不意に伊織の独り言へ相槌を打つ声が返った。
ぎょっとして顔を上げてみれば、それはいつぞやの――。
「!!! あ、あんた…っ!」
「やーねぇ。あんた、じゃなくて時尾ですけど?」
「そそそそんなの知ってるよ! っじゃなくて! な、ちょっ…あんた…!?」
境内に人が足を踏み入れた気配もなかったのに。
何故、どうやって此処に現れたのか。
そう言おうとしたのが、時尾の余りに唐突な出現に虚を突かれ、伊織の舌の根も上手くは回ってくれなかった。
仰天する伊織を、時尾は正面から微苦笑で眺め下ろしていたのだ。
姿を現したと思えばすぐに消え、毎回意味の分からない言葉を残して去っていく。
名は、高木時尾。
会津藩士高木小十郎の娘である。
ぱくぱくと口を開閉する伊織を面白げに眺め、時尾はすとんと石段に腰を下ろした。
「悩んでるみたいねぇ。何をそんなに塞ぎこんでるのよ、私で良ければ聞いてあげるわよ~」
「……あからさまに楽しそうに聞かないでくれますかね」
「やーね、真面目に聞くったら。私はあの高木時尾よ? 強いのよ?」
「なんでそんな自信家なんですか、あんた……」
時尾が強いという事実は、確かに初対面の一件で実証済みだ。黒谷から屯所へ帰る伊織を襲った刺客を一瞬にして仕留めてしまったことがある。
(高木時尾が強いなんて、聞いたことないけど)
会津では武家の女も嗜み程度に武芸を学ぶのが常だが、それにしてもあの時の時尾の腕は人並み以上のような気がする。
身動きの取り難そうな振袖姿のくせに、やけにすばしっこいのも特徴的だ。
が。
「悩み相談に強さは要りませんけどね」
「あら、随分冷たい。信用なさいってば、私とあなたの仲じゃない」
時尾は数回、実に意外そうに目を瞬くと、ぐりぐりと肘で伊織の腕を押し突く。
妙に気安いのも気になるが、それはそうと、どこからどう見ても生きた人間そのものなのだ。
容保ら会津の人間が口にしていたことを鵜呑みにすれば、今ここにいる時尾は亡霊の類に入るのではなかろうか。
死んだ、と明言していたのがそこらの下級藩士程度なら単なる噂と片付けることも出来るだろう。
しかし、それは藩主たる松平容保、そして大目付の役に就く梶原平馬の言葉なのだ。
伊織の真横に並んで座るその姿は、疑う余地もなく血脈を有する人間である。
伊織が女物の着物を纏えば、恐らくこれと見分けなどつかないだろうその容姿を、まじまじと凝視した。
「……あのー」
「なにかしら?」
にっこりと微笑む彼女に、多分普通なら衝撃的であろう質問を投げつけるのは、気が咎めないでもない。
だが、まずは問わねば、他の何を尋ねても溜飲など下らない気がした。
「時尾さん、って、……死んでますよね」
「あー……」
伊織が下から覗き込むように尋ねれば、時尾は一拍置いてその微笑を掻き消した。
さすがに、質問が直球過ぎたかもしれない。
時尾の表情は真顔といえば真顔。しかし、どこか強張った風にも見て取れる。
「うーん。まあ……」
真面目な面持ちで、返る答えも歯切れが悪い。
伊織が思わず直截な質問を詫びようと思った、その矢先。
伊織の謝罪が飛び出るより早く、時尾の口が動いた。
「あんまり死んでないかもしれない」
「はぁ!?」
「うん、死んでるような、死んでないような? でも、ここの時代では死んでるような?」
「ハァア!!?」
時尾自らも深く悩みあぐねている様子で真剣に言っているのだが、どういう意味かはさっぱりだ。
時尾本人が思い切り首を傾げているとは、一体どういうことなのか。
疑問を解消するどころか、謎はさらに深まってしまった。
ここの時代では死んでいるようなもの。だが、死んでいるというわけでもない。
聞かされる言葉のすべてが矛盾しているように思うのだが、それは果たして気のせいだろうか。
「時尾さん……もしかして、あんたも自分で自分が良く分かってない……とか?」
「えー? ううん、分かってるんだけどねぇ、何かこう……説明が難しいのよね。面倒くさいや」
けろっと朗らかに笑った顔は、その天衣無縫な気性を思わせる。
「ま、それは兎も角。今の問題はあなたでしょ。どう? 会津に戻る決心はそろそろ固まったかしら?」
「えっ。あ……いや、それは……」
今し方ふと考え付いたことを、即決出来るはずがない。
思わず言葉を濁すと、時尾はふっと軽い吐息をこぼした。
「……あの鬼副長の土方って人が、信用出来なくなってきた?」
「!」
当たらずも遠からず。
突然触れられた心中の靄が、ざわりとうねり立つ感覚が走った。
まだ何も相談らしいことなど話していないのに――。
殊更凝然とする伊織の横で、時尾はまだ笑っていた。
「土方歳三、大好きなんでしょ?」
「す、好きは……好き、ですけど。でも! 恋とかそういうものじゃないですからね!?」
「やーね、誰もそんなこと聞いてないわよ。あんた結構自ら墓穴掘るほうでしょ」
揶揄するような口調は兎も角、時尾の言うことは、一先ず正しい。
この時代へ迷い込む以前、新選組という組織は勿論のこと、この後天地を揺るがす戦において、敗北を知りつつ戦い抜く土方の信念やその生き方に憧れ、尊敬の念をも抱いていたのだから。
それで土方という人間を好きかと問われたなら、そうだと答えるより他にない。
だが、今は――。
「現実に、土方さんのやっていることを目の当たりにしたら、憧憬が少しずつ崩れていくような気がして――」
確かに柴の葬儀で見た土方に対しては、自らの憧憬を疑う余地などなかった。
だが、その死に感銘を受けたと思しき彼は、今回の建白書事件の首謀者を赦免して、葛山一人に責任を負わせようとしている。
「長い目で見れば正しいことなのかもしれません。でも、正直、それは称賛出来ることじゃないと思うんです」
「そうねぇ、私も同意見だわね」
うん、と時尾は一つ大きく頷く。
一体、どこからどこまでを知っているのかと不思議に思うが、反応を見るからには事のあらましは一通り知っている様子だ。
「だけど。土方歳三に関わる事は大抵知っているんじゃなかった? そうなることを知ってて、それでも嫌悪するの?」
「そりゃあ、知ってはいましたけど……。単なる出来事として伝え聞くのと、実際にこの目で見るのとでは、何か違うんですよ」
「馬鹿ねー、当たり前じゃない。本で読む出来事なんて、たった一文、あるいは多くて数行。へえ、そんなことがあったんだ、って軽く流せるし、読み飛ばすことだって出来るもの。今のあなたみたいに実際にその場に居合わせたら、軽く流したり、まして読み飛ばすことなんて出来っこないのよ」
至極当然のことを言われているわけなのだが、やけに引っ掛かるのは、やはり時尾が元の時代での伊織を知っているような口振りだからだ。
全てを見透かされている気がして不気味にも思う。
だが、日頃隊内で迂闊に口に出来ない事も、時尾にならばすんなりと吐き出せてしまう自分がいる。
「……時尾さんて、変な人ですね。人をあなたの生まれ変わりだとか言ってみたり、妙に腕が立ったり。少なくとも、あなたに限っては、私の印象とはかけ離れてますよ」
「ふっふー。まあ、生まれ変わり云々ていうのは、あれは私の直感なんだけどね?」
直感。なるほど、確信があって言っていたわけではないのか、と伊織は僅かに肩透かしを食らわされた気分になった。
「でも、あなたが私の来世の姿であっても、そうでないとしても、どちらにしてもあなたは会津の人間よ。そうでしょ?」
否めるはずもないことを念押しでもするかのように疑問符で問われ、伊織も肯いた。
会津人の伊織が会津へ戻るのは当然で、寧ろ今新選組に身を置くことのほうが可笑しなこと。
そう言いたげな様子が手に取るように分かった。
「会津で私の代役を務めて貰えないかしらねぇ」
ほんの僅かに肩を落として呟いた時尾が、その後、ごくか細い声で何事かぼやいたようだったが、声は神木から飛び立った烏の声に掻き消されてしまった。
***
最早藍色一色となった空を仰いで、伊織は壬生寺の濡れ縁に寝転んでいた。
相談に乗ると言って現れたはずの時尾は、結局会津藩への出仕を頻りに勧誘しただけで、またふらりとどこかへ去ってしまった。
境内には、カアカアと喧しい烏が幾羽か、そして伊織だけである。
「…………」
このところ、もやもやと考え込むことが多すぎて、いい加減自分でも辟易しているのだが。
「……あー、誰か頭を指圧してくれ……」
げっそりとしゃがれた声で搾り出す独り言は、虚しく秋口の風に吹き攫われた。
「……プー」
特に意味はない。
閑散とした境内に一人きり、さらに鬱憤や懊悩も極限まで達しつつある今、何もかも放棄したくなって呟いただけである。
意味のない発言、というより、寧ろ単なる発声だ。
が。
「……俺で良ければ指圧してやるが」
伊織は文字通り飛び起きた。
まさか背後の御堂から、思いがけない人物が出てこようとは考えもしなかったのである。
「ささささ斎藤さん……!!? いつからそこに!?」
「おまえが来る少し前から。随分長い独り言だったんで、出るに出られなかっただけだ。盗み聞きをしようと思っていたわけではないからな」
ガタガタと若干建てつけの悪そうな引き戸を開け、斎藤がぬっと顔を覗かせた。
そういえば謹慎部屋を脱出した斎藤を探していたような事も、この時に漸く思い出した。
「謹慎中のくせに、こんなところで何してるんですか」
「そういうおまえこそ、何を一人で延々と溢しているんだ」
先に尋ねたのはこちらだというのに、斎藤は構わず怪訝な眼差しと共に尋ね返す。
「挙句、パーとかプーとかわけの分からん声まで出して。気が滅入ってるなら酒くらい付き合うぞ」
「パーは言ってませんよ、プーだけですよ! やめてください恥ずかしい!」
「随分お悩みのようだが、指圧くらいなら請け負ってやるぞ」
と、斎藤は感情の影すら見えない面持ちで、伊織の眼前に親指を立てた両手を突きつける。
「い、いえ! 結構です」
斎藤にしては珍しく御親切なことだが、いざ伊織の頭部を目掛けて親指を突き立てようとする人を目の前にすると、丁重にお断りしたい衝動に駆られた。
何となく、斎藤の無表情さが怖いのだ。
ともすると、頭ばかりか無言で眼球に親指を突っ込まれそうな危険がありそうな気がする。
ぶんぶんと乱暴に首を振ると、斎藤はぴたりと動きを止めて数拍後、微かに舌打ちをした。
(何故舌打ち!?)
と、思ってみても、実際には何となく聞けない。
斎藤はすぐに指圧体勢の腕をおろすと、さっさと御堂の階を降りた。
「あの、斎藤さん」
「何だ」
斎藤の背を見せられ、つい呼び止めてしまった。
斎藤も声をかけられなければ、そのまま去って行ってしまうつもりだったのだろう。下駄を引っ掛けたところで立ち返り、伊織を見据えた。
「あのう……」
「……何だ」
呼び止めたまでは良かったが、何故呼び止めてしまったのかも分からずに、伊織は僅かに戸惑った。
「あ、あのですね。さっき、……私、ずっと一人、でしたか?」
咄嗟に出た質問だったが、我ながら的を射たなと思った。
すると、やはり斎藤は一層に眉宇を顰める。
「一人だった……が、しかし。誰かと話をしているかのような、見事な独り言だったと思う」
やはり。
時尾と話をしていたところも、一部始終聞いていたらしい。
だが、問題の時尾の声も姿も、斎藤にはまるで見えていなかったのだろう。
そうでなければ、斎藤からこんな回答が返るはずはない。
「そう、ですか。……呼び止めてすみませんでした」
「葛山のことで何か副長と反りが合わん様子だが、反感を持つくらいなら、大人しく会津へ引き揚げることだな。幸い、折り良く誘いも頂けただろう」
土方へ異を唱える者は、要らない、ということなのだろうか。
斎藤の言う事は単純明快で、真意を理解するに苦しむ事はない。
だが、同時に溜飲の下がらない思いも蟠った。
「斎藤さんは、土方さんの判断はすべて正しいと思うんですか?」
「そもそも、正しさだけで纏まってくれる集団ではないだろう。人によって、正しいと思う事はまちまちだ。皆が正しさだけを追い求めればどうなるか、容易に想像がつく。少々正道から外れていても、それを正当化しなけりゃ今の形を保つ事が出来ないんだろう。その役を副長が買って出た。それだけのことだ」
「…………」
「無軌道な者たちを束ねるには、見せしめも必要だ。葛山が犠牲になることで、建白書に名を連ねた連中は助かり、それ以外の者は処断を恐れて異を唱えなくなる。それが本来の新選組じゃないのか? おまえがどうしても嫌だというなら、おまえは監察としても副長の小姓としても失格だ。佐々木さんの妾になるか、会津の国許に引っ込んだ方が良いだろう」
自ら進んで嫌われ役を買って出ている。
土方にそんな節がないわけでは、ない。
いくら烏合の衆を纏め上げるためとはいえ、やり過ぎれば一層に団結を欠き、本末転倒になりかねないではないか。
事実、よくよく考えてみれば歴史に知る新選組は、敵対の浪士を取り締まるのと同等の数の――いや、或いはそれ以上――、同志を粛清している。
裏切りに鉄槌を下す場合もあるだろう。無論、それ自体は否定はしない。
だが、今回のように、明らかにやり過ぎだと感じることが今後も頻々とあるならば、土方の傍に居続けることは難しい気がするのだ。
胸に去来する物が複雑に過ぎて、伊織は結局、斎藤に言い返すことは出来なかった。
***
「私は反対ですからねっ!」
盛大な膨れっ面で断固反対を唱えたのは、沖田だった。
「だいたい高宮さんも何を言い出すんですか! 池田屋の後日、これからもずっと宜しくって言ったのは高宮さんですよ!? どうして今更屯所を出て行こうだなんて……!」
「すみません、沖田さん」
「すみませんじゃないでしょう!? 土方さんも何か言ってあげてくださいよ!」
駄々を捏ねる沖田とは対照的に、土方は無言だった。
いつもの腕組みに瞑目、眉間にはたっぷりと皺を寄せている。
「局長が江戸からお戻りになる頃までには、隊に戻ります。勝手を申しまして、恐縮です」
土方には丁重に話し、そうして伊織は憤慨する沖田にも申し訳なく笑みを向ける。
そして、土方が漸く口を開いた。
「納得がいかねぇな」
睥睨と共に突き返された答えは、酷く苛立ちを感じさせるものだった。
これほど険阻な面持ちの土方と見合うのは、いつ振りだろうか。
だが、沖田はここぞとばかりに土方に寄り添い、揃って文句を並べ立てる。
「そうですよね土方さん! 納得がいかねぇな!」
「総司、おめぇはちょっと黙ってろ! この剣呑な雰囲気が崩れるだろうが!」
「崩しましょうよ、そんなもの! 最近屯所の空気が悪いから、だから高宮さんが会津に帰るなんて言い出すんですよ!」
と、沖田が懸命に崩そうとしたらしい場の空気も、その沖田自ら捲し立てた言葉で再び張り詰めたものになった。
「俺もおめぇが大人しく国許に帰るってんなら、許してやらねぇこともねぇ。だがな、今更になって会津へ里帰りか? 隊士が足りねぇってな、この時期に?」
「人手不足は承知の上です。でも、私は本来会津の人間なんです。会津藩へ出仕することを理由に暇乞いしても、おかしな話じゃありませんし……それに」
そこで、伊織は一旦区切った。
それから暫時置いて、
「今のままでは、私自身の志というものを見失いそうなんです」
と告げた。
これまで、自らの信念だとか志というものは、土方のそれと等号で表されるか、或いはそれにごく近いものだと思っていた。
ごく当たり前のように、隊士である以上は自らもまた新選組と同道するのだと思っていた。
だが、統率を担う土方に不信を抱いた今、それらは伊織自身の志とは異なるものなのだと思えてしまう。
そんな否定と同時に、隊のためなら血の粛清を躊躇い無くやってのける土方と同じ信念を自らが持っているなどとは、思い上がりも甚だしいような気がして止まない。
憧憬の人と共に過ごした僅かな時間が齎した錯覚のようなものだろう。
本来、出逢うはずもなかったその人と、一分一厘の狂いもなく志を同じく出来ると思い込んでいた節も、無いとは断言出来なかった。
「会津への出仕のためならば、隊規に抵触こそしても、違反とはならないはずです。他藩ならば兎も角、この新選組を預かる、一雄藩なんですよ? 隊を抜けたいとまでは言っていません。ほんの少し、会津の、それも国許でなく守護職屋敷への出仕です」
「……おめぇの厄介なところは、その出自が会津ってところだな」
土方の顔が、一層苦々しく歪められる。
だが、それは伊織にとっては心外な反応だった。
「どうして会津が厄介なんですか! 局長なら、きっとそんな風には仰らないと思います!」
「近藤さんはなぁ! おめぇが女子だと思うからこそ、ここに置く事をあんだけ反対したんだ。佐々木の妾話にふらふらと乗っちまうくらいにな。そりゃあ、今のおめぇの申し出を近藤さんが聞きゃあ、喜んで送り出すだろうよ」
「じゃあどうして土方さんも事ある毎に、私に会津に帰れと言ったりするんですか!? ええ、ええ、そりゃあ私は女ですよ! 剣も満足に振るえなけりゃ、監察の任務だって中途半端ですよ! けどねぇ、そんな使い道のない女を雇って、土方さんは結局のところどういうつもりなんですか!?」
「どうもこうもねえだろう!? 俺ァおめぇが行くあてがねえっつぅから傍に置いてやってんだろうが!」
「だったらなんで納得がいかないなんて言うんですか! 会津に大人しく帰れと言ってみたり、いざ会津の様子をこの目で見てきたいと申し出れば引き止める! 納得がいかないのは私のほうです……!」
言う毎に声量を増すやり取りは、伊織の声を最後に沈黙を見た。
傍で沖田が唖然としていたが、今伊織の視界にそれは入っていなかった。
度重なる不満や苛立ちと相俟って、これまで無意識に蓄積されてきたらしい矛盾を責め立てるのを止めることが出来なかった。
監察として育てるようなことを言ってみたり、かと思えば、僅かな弱さや失態を目にすると、二言目には必ず会津が出てくる。
伊織は土方の面前に改めて腰を据え、その顔をじっとねめつけた。
逸らすつもりの無い伊織の視線の先で、土方のそれがするりと泳いだ。
「納得のいくお返事を頂けるまで、ここを一歩も動きませんからね」
「ほほぉ、そりゃ好都合。返事をしなきゃ隊に留まるわけだな」
空々しく仰け反ってみせる土方。
伊織も一瞬ぎくりとしたが、それでも引き下がれないのは己のなけなしの意地だったかもしれない。
頑固に一指たりとも動かそうとしない伊織に辟易してか、土方は聞こえよがしに吐息する。
「なら良い。会津に戻って出仕したところで、てめぇに何が出来るのか……そこでよくよく考えるこったな」
呆れ果てたような口調で言い残し、土方は悠然と部屋を後にして行った。
***
部屋を出てから、途端に早足になる土方の背後を、沖田が慌てて追いかけた。
「土方さん! 良いんですか、あんな中途半端に投げ出して。高宮さんのことだから、きっと本当にあのまま動かないつもりですよ?」
「るせー。腹が減るか厠に行きたくなりゃ自然と動くだろうさ。ちょうど今夜にゃ葛山も切腹だ。部屋にいりゃあ、奴の最期も見ずに済む。あいつにゃ都合良いんじゃねえか?」
大体、会津会津とよく口にしているが、伊織が会津の何某を親に持つのかを聞いた試しもない。
加えて、屯所にやって来たその日に自ら、百ン十年もの未来からやって来たと宣言するような奴なのだ。
「今は自ら会津出身と言ってりゃ誰も彼も信用してくれるように思ってんだろうが、いざ突き詰めて出自を糺されたら、何て答えるつもりなんだ、あの馬鹿は……清水寺の舞台から生れ落ちてきました、とでも言いやがんのか? ああ?」
苛々と徐々に歩幅の広がっていく土方に、沖田はいそいそとついていく。
「あー、そういえばそうですねぇ。高宮さんて、武家の出なのかな? 農民……には見えなかったし、町方って感じでもなかったですね」
清水寺で奇妙な格好の女子を拾った、その日を思い起こしつつ、沖田は言う。
身に纏うのは異人の着る物に酷似していたし、落下のためにあちこち傷は出来ていたものの、放浪で疲弊した様子もなかった。
「…………」
「…………」
「で、どうするつもりなんです?」
「どうするってなぁ、何のことだ」
ふと真顔で尋ねた沖田の視線に、土方は青筋を浮かせて睥睨を返す。
非常に苛立った、凄むような目である。
送り出すのを渋る理由が何であれ、兎に角面白くない事は、誰の目にも一目瞭然だった。
伊織にとっては唯一掛け替えの無い故郷であっても、会津側から見れば出自の明白でない伊織は不審人物であるに違いない。
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思い切り疑問符で満ちた表情に、土方は先の質問を即座に取り下げた。
どうやら乳臭いのは沖田も同様らしかった。
「どうしても、って言うなら一月や二月、黒谷に預けてみるのも仕方ねえ。それでちったぁ現実を知って来るだろ」
やれやれ、と凝った肩を回しながら、土方は言う。
何か言い返そうとする沖田を尻目に、土方はそのまま廊下を歩き出した。
***
(……か、厠が私を呼んでいる!!!)
その頃、伊織は引っ込みのつかなくなった我が身と必死に格闘していた。
土方は愚か、沖田までもが退出して行ってしまった今、勝手にこの場を離れれば即ちこの勝負、伊織の敗北となる。
すぐに土方か沖田のどちらかが戻って来るだろうと高を括っていたのだが、その予想は見事に外れてしまったらしい。
(ど、どうすれば……!)
どう足掻こうにも、人間の体とは無情なものである。
一つ二つと脂汗が滲もうかという、その時。
僅かに開いていた襖の向こう――廊下の板張りに、すっと黒い影が差した。
「ひ、土方さん! やっと戻って来たんですね!? ちょ、すいません、この勝負、厠休憩入れて良いですかっ!!」
咄嗟にそれが土方の影と思い込み、伊織は賺さず叫んだ。
が、しかし。
「ぬうっ?? 厠なら私もついて行くぞ」
「!!!!?」
襖をぐいと押し開けて覗いたのは、土方ではなかった。
今時分、一体何用あっての来訪なのか、見廻組の佐々木だ。
(……こっ、この私が佐々木さんの気配を嗅ぎ取れなかったなんて――!)
いつもならばこの大変人且つ大迷惑な佐々木が近付けば、自ずと寒気を感じるはずである。
それなのに。
「さ、佐々木さんでしたかっ! これはこれは……とんだご無礼を。土方さんならここにはいませんよ……」
「ふふ。会って早々厠に誘うとは、なかなか大胆ではないか。流石に些か驚いたぞ?」
「誘ってません……っというか、今のは忘れてさっさと帰ってくだ……」
「さあ、では参ろうか」
伊織の言葉はまるで耳にも入っていない様子。
スタスタ歩み寄ってきたかと思えば、がしりと腕を掴み上げ、意気揚々と厠へ向かおうとする。
「うう……!」
突き飛ばしたいのは山々であったが、何しろ伊織もそろそろ限界である。
「さ、佐々木さん! あとでお礼しますから……私が戻るまで替わりにここで正座しててくださいっ!」
「ぬお!? なに、正座だと!?」
言うと同時に、伊織は佐々木の腕を引っ張り、その場に座らせる。
伊織の行動が不意をついたのか、佐々木は仰天しながら畳に引き据えられた。
「絶対身動きしないでくださいね!!!」
止めにびしっと言いつけ、伊織は即座に部屋を飛び出した。
「ぬああっ待て! 私を置いて行くのか伊織ーーー!!?」
「黙って座ってろ限界なんじゃああああああ!!!」
***
敷地の片隅にある厠の戸を閉め、伊織はふっと一息つく。
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(戻るの嫌だけど……)
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「あ……」
ふと顔を上げた先に、廊下を引き立てられていく葛山の姿が目に映った。
両脇を隊士に固められ、葛山の足取りはまさに引き摺るようである。
途端に、「切腹」の二文字が伊織の脳裏を占めた。
既に暴れた後なのだろうか、その顔は遠目にも生気の失せた様子が窺える。
ほんの一刻も経てば、無残に骸となる定めの者の姿だった。
廊下を引き摺る裸足の音が、やけに響く。
瞬間、止めに入ろうかと思ったが、やめた。
勿論、葛山だけを槍玉に挙げるこの仕打ちに納得しているわけではない。
だが今、伊織一人が止めに入ったところで、土方は粛清を取り止めはしないだろう。
下手に騒ぎ立てれば、葛山の恐怖をより一層大きなものにするだけだ。
そう思うのが、真に葛山への同情故なのか、それとも単に、志に迷う今の伊織自身が持つ、優柔不断さ故なのか。
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***
灯火は、幽けく揺らぐ。
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「い、伊織はどこに行きやがったんだ……」
どういう経緯があったというのか、佐々木はじんわりと涙ぐんでいる。
そうして、じっと灯火を見詰めていたのだ。
「土方君。私は……私は、何かしたのか?」
「そっ、そりゃ俺が訊きてえよ!!」
「私はただ、伊織と共に厠へ行こうとしていただけだ! なのに何故、伊織は戻って来ぬのだっ!?」
「厠ァ!?」
なるほど、それは確かに戻って来ないはずだ。
こんなにも原因は明らかであるのに、佐々木は全く気付こうともしない。
そればかりか、やるせない思いをぶちまけるかのように、佐々木は土方の膝に突進した。
「土方ァ!! さては貴様が伊織を隠したのだな!? あれは私の妾(予定)なのだぞっ!?」
「ぎゃーー!! 佐々木、てめぇ! 両膝抱え込むんじゃねえっ動けねえだろうが!!」
「伊織を出すのだ、さあ、出るものすべて出すが良い!!」
「馬鹿かてめぇええええ!! だ、大体なあ、あいつぁこれから黒谷に出仕するんだそうだ! 残念だったな、今後は此処に来ても伊織はいねぇ!」
はっはっは、と何故か高笑いで返すと、膝に絡みついた佐々木がぴたりと固まった。
そうして、ゆっくりと顔を上げた佐々木の目には、恐ろしいまでの期待が爛々と溢れているようだった。
「黒谷……?」
「あ、ああ……」
「会津藩本陣へ、か?」
「……だそうだが」
土方が若干怯みながらも肯定すると、佐々木はニヤリと口角を上げた。
「ヒッ!?」
「会津に戻る、か……フフ」
佐々木は、たっぷりと含み有りげに怪しく笑う。
そうして、屯所には漆黒の夜の帳が降りるのであった。
【第十七章へ続く】
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そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
晩夏の蝉
紫乃森統子
歴史・時代
当たり前の日々が崩れた、その日があった──。
まだほんの14歳の少年たちの日常を変えたのは、戊辰の戦火であった。
後に二本松少年隊と呼ばれた二本松藩の幼年兵、堀良輔と成田才次郎、木村丈太郎の三人の終着点。
※本作品は昭和16年発行の「二本松少年隊秘話」を主な参考にした史実ベースの創作作品です。
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『 ゆりかご 』 ◉諸事情で非公開予定ですが読んでくださる方がいらっしゃるのでもう少しこのままにしておきます。
設樂理沙
ライト文芸
皆さま、ご訪問いただきありがとうございます。
最初2/10に非公開の予告文を書いていたのですが読んで
くださる方が増えましたので2/20頃に変更しました。
古い作品ですが、有難いことです。😇
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" 揺り篭 " 不倫の後で 2016.02.26 連載開始
の加筆修正有版になります。
2022.7.30 再掲載
・・・・・・・・・・・
夫の不倫で、信頼もプライドも根こそぎ奪われてしまった・・
その後で私に残されたものは・・。
・・・・・・・・・・
💛イラストはAI生成画像自作
ママと中学生の僕
キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。
赤い鞘
紫乃森統子
歴史・時代
時は幕末。奥州二本松藩に朱鞘を佩いた青年がいた。名を青山泰四郎。小野派一刀流免許皆伝の、自他共に認める厳格者。
そんな泰四郎を幼少から慕う同門の和田悦蔵は柔和で人当たりも良く、泰四郎とは真逆の性格。泰四郎を自らの目標と定め、何かとひっついてくる悦蔵を、泰四郎は疎ましく思いつつも突き放せずにいた。
やがて二本松藩の領土は戊辰戦争の一舞台となり、泰四郎と悦蔵は戦乱の中へと身を投じることとなる…。
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