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第2部
第十五章 萎靡沈滞
しおりを挟む後日、黒谷の会津藩本陣へと呼び出された永倉らと局長の近藤は、即日和解となった。
無論、容保の配慮あってのことで、呼び出した場では、酒席を設けての話し合いだったという。
脱退を覚悟の上で罪状書を提出した永倉らではあったが、容保にその肩を宥められた。
そこに加えて近藤も、今回の建白書に訴えられた事柄を真摯に受け止め、自らの行動を改めるよう努力すると約束した。
結果、今回の事件は大事に至ることは無く済んだのだ。
と、伊織は後日になって梶原からの文によって知った。
文には和解の委細について述べられたほかに、再度会津へ戻るように勧める文面もあったが、それに伊織が返書を出す事はなかった。
***
「なんにせよ、無事に和解できたようで、良かったですよねぇ!」
まだ日の入り前の午後、伊織はそれとなく尾形の許を訪れた。
土方への報告をした尾形に話しかけるには、まずこの話題。
考えるでもなく自然に口をついて出た話に、静かに顔を上げた尾形はにこりともしない。
すっかり気心も知れたように、すいすいと部屋に入った伊織は尾形の隣に腰を降ろした。
そうして、その尾形の膝元にある行李。そこに視線を落とす。
はて、こんな頃に手荷物の整理だろうか。
まあ、確かに一見、尾形はそういうことにもきっちりしていそうな印象はあるのだが。
それにしては、単なる行李の中身の整理整頓とは少々雰囲気が違う。
整理するというよりも、中身をひっくり返していると言ったほうがぴたりと来る。
「? 何ですよ、探しものですか?」
首を傾げて尋ねてみるが、尾形はじっと伊織の視線を押し返すようにこちらを見ている。
「……なんですか?」
何となく凝視される理由が分かるように思え、伊織は苦笑した。
尾形のことだから、きっと伊織が斎藤とともに黒谷へ行ったことは既に知っているはずだ。
それについて何かお小言があるのかもしれない。
「別に私は何もしていやいませんよ? ただ斎藤さんが……」
「俺は暫く、京を離れる事になった」
「はい?」
「江戸へ行く」
「はあ、江戸へ……」
江戸と聞いて、ああ東京のことかと今更ながらにふと考えさせられた。
徳川政権下のこの時代、東京は江戸と呼ばれる、天下の将軍様のお膝元である。
(尾形さんが、江戸にねぇ……)
また急な話だが、監察の職務の一環であろうか。
徒然と思い至り、伊織はまた一つ尾形の顔を覗き込んだ。
「私は留守番なんですか? 江戸行きは尾形さんだけ? どうしてまたこんな突然?」
答えを迫るようでいて、一つ一つ答えを待つ間もなく質問を並べると、尾形はげっそりと息を吐く。
「俺は近藤局長の供として東下するだけだ。先達ての池田屋や御所での戦闘で、随分隊士も数を減らしたからな」
やれやれと七面倒臭そうに吐息しつつ、尾形は言う。
そこで、伊織はぽんと膝を打った。
「ああ、隊士の補充のため、ですか!」
事実、尾形の言うように元々多いとは言えぬ数の隊士が、戦死や脱走などを理由にぐんと頭数を減らしていた。
新たな隊士を募る為に江戸へ下るのだと聞けば、それも深く頷ける。
なにぶん、この数では組織として存続するには難しいところまで陥りかけているのだ。
「今回は局長と俺と、武田さん、それと、永倉さんが江戸へ行く事になった。お前は留守番だな。ははは」
「武田さん!? うわあ、尾形さん、武田さんにはくれぐれも気を付けてくださいね?」
江戸行き人員の中に武田がいると知り、何故か若干胸の空く思いがする。
それならば留守番で良かったかもしれない。
と、伊織が微笑を浮かべれば、尾形は瞬時にその面を強張らせる。
「俺をお前と一緒にするな。何なら今からでも役目を代わってやってもいいんだぞ」
「え、イヤですよ。私は京に残りますんで、心置きなく武田さんとの道中を楽しんで来てくださいな?」
「……お前、俺が帰ったら覚えてろ」
そもそも、流石に武田も尾形には手出しするまいと思うからこそ言える軽口なのだが、尾形は心底から苦々しい表情をする。
それが面白くて、伊織のほうは思わず口許が綻んでしまうのだが。
非常に面白くなさそうに眉間を狭める尾形は、さっさと荷物の整理に手を動かし始めた。
「でも……」
ふと、伊織は表情を引き締めた。
「なんだ、まだ何かあるのか」
「いえ、ただ永倉さんも一緒、というのがちょっと意外な気がしませんか? あんな一件の直後ですし……」
一件、とは、勿論永倉が筆頭に立っての近藤糾弾事件の事を指す。
和解したのは言うまでもないのだが、一応は罰として、加担した者全員に謹慎処分が課せられている。
その中で永倉を江戸行きの要員に加えるとは、原田たち他の加担者の中に新たな不満は生まれないのだろうか。
むむ、と首を傾げた伊織を、尾形は軽く笑って一蹴した。
「局長は、筆頭に立った永倉さんを同行させる事で、今回の件を水に流す意を表しているんじゃないのか?」
笑うといってもこの男、声に出して大笑するわけがあるはずもなく、口の端を上げて見せただけである。
それでも、尾形の言うところは伊織にも素直に理解出来た。
少なくとも永倉も原田も、近藤にとっては江戸の試衛館で過ごす頃からの同志。
いくら鉄の隊規があるからと、みすみす古株の同志を処断しようなどとは考えないだろう。
永倉を連れて行くことで、他に謹慎している者たちにもこれ以上の処分がないことを暗に示しているのかもしれない。
「流石は局長だな、会津公の前につらつらと罪状を並べ立てられたというのに、お咎めはほんの数日の謹慎だけとはな」
「そうですよねぇ、懐が深いというか、何というか……。みんなが局長についていきたいと思わせられるのは、そういうとこが大きいんですかねぇ?」
「ま、お前も局長のような男になれるように頑張ることだな」
ご丁寧にも語尾に鼻で笑う音を聞かせ、尾形はまた手元に注意を向け出す。
「ええ全くですね。尾形さんもあれくらい寛大な人柄だったら、弟子の私もやりやすいんですけどね」
言われっ放しも悔しいと、伊織も負けじと撥ね付ければ、尾形はきりきりと冷ややかな視線を送って寄越した。
その口からまた嫌味が飛び出さないうちに、伊織は颯爽と腰を上げる。
「じゃあ暫くは尾形さんともお別れですね! 江戸のお土産、楽しみにしてますから~!」
言うだけ言うと、伊織はさっさと背を向けて、部屋の敷居を跨ぐ。
その背に掛けられた尾形の一言は、返す返すの揶揄ではなく、不在中の身辺の注意を促す言葉であった。
***
間もなくして、九月五日の早朝。
近藤を先頭にした一行は江戸へ向けて壬生屯所を後にしたのだった。
新たに隊士を募る目的と同時に、禁門の変以来、朝敵となった長州を征伐するに当たって、将軍に上洛を要請する目的もある旅だった。
土方と共に最前で見送りに立った伊織だが、近藤に直接声を掛けられることはなかった。
だが、尾形は笠を片手の旅装束で、こちらへ詰め寄ると、こっそりと耳打ちした。
「俺が帰るまでは副長に指示を受けているように。いいか、絶対に変な行動を取るのはやめろ」
「はあ、変な行動?」
例えば何ですかそれは、と問えば、尾形は一層怪訝な面持ちになる。
「たとえば、俺の居ぬ間に俺の褌とか着物とかを借りたりとかだな」
「……安心してください。尾形さんの褌なんか気持ち悪くて締められません」
「俺の居ぬ間に、俺の愛用の布団で佐々木さんとごにょごにょしたりとかだな……」
「尾形さん、もう帰ってこなくていいですよ」
佐々木と誰がごにょごにょだ。
と、胸の悪くなる気分も最高潮に達しようというものだ。
餞別に何か一発平手打ちでもしてくれようかと思った、その矢先。
「どれ、小僧。暫しこの尻ともお別れだな。どれどれ」
「んぎゃぁ!!! た、武田、てめえ……!」
もぞり。と、腰の辺りに触れる感触に総毛立ち、伊織は咄嗟に目前の尾形の背後に回って威嚇する。
近藤や土方の居る前だというのに、本当に油断も隙もない。
多少涙目になりつつ尾形の羽織にしがみつくと、縋ったその人が一際大きな咳払いをするのが聞こえた。
「あー……、武田さん。こいつも一応、これでいて俺の弟子ですんで。そういうことは俺を通して頂かないと……」
「お、尾形さん…! 一日も早いお帰りを……!」
ついさっき帰るなと言ったばかりだが、何だかんだ言って、やはり弟子として可愛がってくれているのだろうと思えば、素直に別れは惜しくなる。
が。
「こいつはちょっと値が張りますから。武田さんだったら、ちょいと勉強さしてもらいますけど……」
「ふうむ、尾形君、金を取るのか?」
「ててててめぇら……!」
何をいけしゃあしゃあと言い出すのか、この師匠は。
うっかり感激してしまったあの瞬間を返せと言わんばかりに、尾形を睨み上げる。
すると尾形も、にやりと得意顔で見下ろしてくる。
「ち、ちくしょう……もう絶対帰ってくんな……!」
「ふん、お前なんか佐々木さんに食われてしまえ」
「ここここのやろう……! 尾形さんこそ、道中で武田さんに食われてしまえ!」
今に噛み付かんばかりの罵声を浴びせると、尾形は急に笑みを消した。
「と、ここまでは冗談だが、お前も一応監察方の一人だ。隊を裏切るような行為はしないだろうとは思うが、行動には充分に注意することだな」
「えっ……ああ、それは勿論。大丈夫ですよ」
不意を突くように出し抜けに言われ、とんと調子を狂わされてしまう。
勢いのままに返答すれば、尾形は漸く屯所の門を潜り出たのだった。
それまで副長の土方や山南と談じていた近藤も、一通りの話を終えたのか颯爽と馬の背に跨る。
その馬の嘶く声が起こると、見送りに出た全員が「行ってらっしゃいませ」の声を上げた。
「では皆、留守を頼んだぞ」
「気ィつけて行けや」
腕組みのまま近藤と目配せし合い、土方が素っ気無くも彼らしい見送りの言葉を投げ掛ける。
江戸。
近藤にも土方にも、故郷と呼ぶべき土地。
近藤はそこで懐かしい顔触れにも会うことになるのだろう。
そう思うと、何か一時、伊織も心の温まる思いがした。
馬上の近藤と、それに付き従う数人の隊士の一行を見送り、伊織はふと傍らの土方を見た。
「土方さ……」
本当は、近藤と共に江戸へ行きたいのではないか。
そう尋ねようとして、伊織はふと口を噤んだ。
別に、訊くまでもないことだ。
訊いたとして、だからどうにかなることでもない。
考え直した伊織に振り向く土方の視線を曖昧にやり過ごすと、代わって土方が口を開いた。
「あんだよ、その同情めいた眼差しぁよ?」
「いえ、何でも……。尾形さんがいない間はまた土方さんの小姓に専念するんだなぁ、と思って」
その場を繕う伊織のあやふやな笑顔にも、土方は一つ眉を顰めただけであった。
***
近藤が永倉や尾形を連れて江戸へ発ってからも、原田等の謹慎は続行されていた。
形ばかりの罰とは言え、狭い謹慎部屋で大の男達が肩を寄せてじっとしているのは、傍目からも窮屈そうに窺えた。
伊織はと言えば、土方から何の指示も無い為に、暇つぶしに屯所の庭の掃き掃除している始末。
先日、会津藩本陣を訪ねていった折の梶原の言についても多少考えるところはあるが、詳細を聞こうにも、同席していた斎藤本人が謹慎中なのだ。
会津の隠密の件に関しては、関係のない者の動座する謹慎部屋で話すことも出来ない。
それで結局、ふらふらと適当に屯所の庭を掃き掃除、という状況だ。
(尾形さんもいないし、斎藤さんも謹慎、土方さんは構ってくれないし……)
もどかしい気分で一杯である。
落葉の時期にはまだ早く、たった一人で掃除しても、庭などすぐに綺麗になってしまう。
こうなれば、いっそ謹慎部屋に遊びに行ってみようか。
いやしかし、いって斎藤の顔を見れば、いよいよ会津が気になるに違いない。
幾度かそんな考えを往復した末に、伊織は箒を放り出した。
そうして、庭からちらちらと窺っていた、謹慎部屋に向けて駆け出したのだった。
「原田さーーん! 私もそこに入っていいですかー?」
縁側から呼びかけてみれば、中の隊士たちも相当に暇なのだろう。
すぐに障子は開け放された。
「おっ、何だよ、ちょうど暇してたんだよ~! 良いとこに来たじゃねーか!」
ひょっこりと顔を出すなり、原田は満面の笑顔で、いそいそと伊織を出迎える。
何度も繰り返し思うが、本当に手持ち無沙汰らしい。
「私も暇持て余してるんですよ、土方さんが何にも仕事言いつけてくれないから……」
「っだよ、じゃあ高宮さぁ、俺と代わってくんねぇかあ?」
「は? 代わる?」
縁側から上がり込む伊織の肩をがっしりと組み、原田は多少声を潜める。
勿論それは代わって謹慎を受けてくれ、という意味であることはすぐに察しがついた。
部屋を覗けば、何ともむさ苦しい空気が満ち満ちている。
大の男が何人も狭い部屋でごろごろしているのだから、それも当然と思えたが。
「身代わりは御免ですよ、それじゃあ原田さんばかりか私まで切腹させられるじゃないですか!」
肩に乗せられた原田の手をぱしりと払い除け、伊織はそこで軽く諌める。
「今回謹慎だけで済んだことに感謝して、罰は甘んじて受けてください?」
ぴしりと人差し指を向け、縁側のすのこの上に座り込むと、原田はむっすりと頬を膨らませてみせる。
「ちぇー、何でぇ何でぇ、お前だけは俺の味方だと思ってたのによ~」
「そういう心にもないことを言わないでくださいったら。私はどっちかって言うと土方さんの味方ですよ?」
「…だろうよなぁ」
膨れっ面で肩を竦める原田は、さも見越しているかのようにおざなりに言い返す。
縁に留まって、それ以上中へ踏み入ろうとしない伊織だが、原田はその隣にまで出て来て、再び胡坐を掻いた。
「しかしよ、近藤さんはこれ以上の沙汰なんぞねぇように言ってたが……」
原田が、俄かに声に深刻な色を交えた。
「土方さんもちゃんとそれに同意してんだろうな?」
「え?」
原田の疑問がすぐには飲み込めず、伊織は思わず聞き返した。
「今回だって、結構な事しでかしたと思うんだけどよ? 会津の殿様のお陰で丸く収まったって言っても、土方さんはこんな処罰で納得してんのかねぇ?」
「局長が許したんですから、土方さんだって文句は言えないんじゃないですか?」
局長の下した決断に、副長である土方が勝手に罰を増すことなど有り得るのだろうか。
原田のように単純そうな男がこうまで考える様子を目の当たりにすると、何となくではあるが妙に心に引っ掛かりが出来る気がした。
「そんなの考えすぎじゃないんですか? 原田さんらしくもない!」
いくら土方でも、古参の同志を局長の不在中に勝手に処断するような事はあるまい。
そう軽く笑って原田の肩を小突くのだが、どうにもその顔は晴れなかった。
「まあ、それもそうだな。んじゃまあ、謹慎が解けるのをじっと待つしかねえか~」
「そうそう、こんなとこに籠もってるから変なこと考えちゃうだけですよ!」
「だぁからおめぇよ、俺とちょっと入れ替われって!」
「それは出来ませんけどね!」
笑い飛ばしながら、伊織の視線は室内を窺う。
そこにいるはずの斎藤の姿を探してみたのだが。
「……あ、れ? 斎藤さんは?」
「は? 斎藤? ……って、あれぇ!? 何だよあの野郎! さっきまでそこの隅に座禅組んでたんだぜ!?」
「え、座禅!? なんで!?」
「俺に聞くなよ! 知らねぇよ!」
確かに部屋の隅で座禅を組んでいたらしい事実にも疑問が湧いたが、それ以上に。
斎藤と会津との繋がりを鑑みると、また何かあったのではないかと、咄嗟に勘繰ってしまう。
「一人で抜け出しやがったな、あの野郎!」
「ま、まさか! きっと厠にでも……!」
「おい、葛山。斎藤の奴ぁいつからいなくなったか分かるか?」
詰まらなさそうな声で室内の仲間に問う原田だが、ごろりと横になったままの葛山は、知らないと言うかのように首を横に振るばかり。
「ちぇーっ、なんだよなぁ、あいつ! 出かけるなら俺も誘えってんだ!」
拗ねた原田の眉尻は、見る間に捻り上げられた。
謹慎の室内から姿を消しているのは、どうやら斎藤だけであるらしいのが、殊更に気掛かりである。
「私、斎藤さんを探してきますよ」
「あ、んじゃ俺も手伝うか?」
伊織の当然の申し出に、原田は待ってましたと言わんばかりの笑顔になる。
無事に済んだとはいえ、自分が謹慎中だと本当に分かっているのか疑問である。
「原田さんは駄目ですよ。斎藤さんなら何となく心当たりありますから。私一人で結構です」
口早に断ると、原田の面持ちは再び膨れっ面に切り替わった。
「そんな顔しても駄目です! 斎藤さんだって、早いとこ連れ戻さないと……!」
まさか謹慎を破ったとして更なるお咎めも無いだろうとは思う。
だが、それでも斎藤が動くとなると、何かがあるような予感がしてならなかった。
ぴしゃりと明快に断られた原田は詰まらなそうにしたままであったが、伊織はそれには見ぬ振りでくるりと背を向けた。
***
「斎藤さーん、おーい」
と、屯所の内部をあちこち探しても、それらしき影は見えない。
結局、屯所内にはいないだろうと見切りをつけ、門外へと足を向けた時。
「伊織」
大声でもなく呼び止める声があった。呼び方からして、声の主が斎藤でない事は明らかだ。
隊の中で「伊織」と名前で呼ぶのは、あの人しかいない。
「――土方さん」
振り返った中庭に、袴も付けぬ略装のその人がいた。
土方は、呼んだきり二の句を告ごうとはせず、呼びかけに振り向いた伊織をじっと見据えていた。その様子はいやに神妙で、静かな覇気を漂わす。
伊織は咄嗟に、何かあるな、と感じ取った。
「どうか、したんですか?」
まさかもう、斎藤が謹慎部屋から姿を消した事に気付いているのか。瞬間的にそんな危惧を覚えたが、土方は無言のままに右手を浮かせ、招く仕草を見せるのみ。
折角斎藤を連れ戻そうとしたところだが、土方に呼び止められては応えないわけにはいかない。伊織は微かに首を傾げたが、招かれるままに土方のほうへと踵を返した。
「何です、そんな怖い顔して。まさか局長がいなくって寂しくなったとか?」
試しにからかうような物言いをしてみるも、土方の表情が変わることはなかった。
ぴんと張り詰めた目許は一切弛む気配を見せず、一瞬見上げたその目が、冷酷な気を放っている事に気付いた。
(――――)
普段とは違う、少なくとも近藤の出立前には無かった峻嶮さが垣間見えた。
「部屋に戻れ。話がある」
言葉短にそう告げた土方に、伊織はただ事ならぬ緊張を感じつつ、黙したままに頷いた。
***
「来よったか、田舎武士が」
「山崎さん!? はァ!? ちょ、いきなり何なんですか失礼な!」
土方に従って副長室へ戻れば、そこには既に待ちかねたような面構えの監察方隊士・山崎烝が座していた。
出会い頭の一言に、刹那的に緊迫感そっちのけで言い返したものの、山崎の表情もなかなかに剣呑だった。
それでも、唐突に「田舎武士」発言は聞き捨てならない。伊織が会津出身と知った上で言うのだから尚更納得もいかないというものだ。
「久しく言葉を交わさない間に、山崎さんたら随分お口が汚くなりましたね」
「やかまし。エエからそこ座り」
「……」
ぴしゃりと跳ね返された時点で、伊織は肚に据えかねるものが沸々と湧き上がるのを感じた。が、土方もどちらに加勢するでもなく静かに定位置へ着いたため、やっとでそれ以上の諍いを避けようという気になれた。
着流しのまま脇息に凭れて、土方はやおら煙管を吹かし始める。一見寛いだ風に見える一挙一動にも、いっかな緊張感は抜けない。
暫く放っておかれたかと思えば、急に改まって話があるなど、伊織が怪訝に思うのも無理はない。
勘ではあるが、どうやらあまり楽しい話題ではなさそうでもある。
何となく居た堪れないが、伊織はやがて土方の正面にすっと膝を折った。
ぷかりと煙を一筋吐き、それから土方は伊織へと視線を移ろわす。
「おめえ、建白書のことで何かしなかったか」
「……はあ、建白書……」
出された話題に空とぼけた返事をするが、勿論この瞬間に、土方が何を言わんとしているかを察する。
書状に連名云々の話でないことは確かだ。
山崎が同席していることも併せて考えると、どうやら黒谷へ赴いたことでも露見したか。
「別に土方さんの迷惑になるようなことはしてないですけど」
「うそこけェ」
当たり障りないようにと答えた伊織の舌の回りきらぬうちに、山崎が口を挟む。
さも何か掴んでいるかのような言い方に、伊織もぐっと声を詰めた。
が、迷惑になるようなことをしていない、というのは自信を持って言えることだし、それで恐縮せねばならない理由も特にない。
それに、だ。共に黒谷へ赴いた斎藤を呼ばずに伊織ばかりを捕まえて、何を責めようというのか甚だ心外でもある。
すっと息を吸い込み、伊織は大仰に吐息した。
「どうせまた、ちょろちょろ勝手に動くな、とか、言いたい事はそれなんでしょう?」
土方からのお小言など、いつも大抵そんなことである。今回もまた同様なのだろうと見当を付ければ、続けざまに土方からも盛大な溜息が吐き出された。
「違ぇ」
「? ……んじゃ、何なんですか」
「…………」
憮然と問い返すと、土方の面持ちが雰囲気を変えた。
「処分を決めた」
言った土方の声は、厳かにさえ聞こえた。だが、処分という穏やかでない響きが、この時伊織には何故かぴんと来なかった。
「処分? だって、謹慎処分なんでしょう?」
「ばァか。たったそんだけで他の隊士に示しが付くと思ってやがんのか」
ぎろりと凄まれ、そして漸く、処分という言葉の重みを実感し始める。
「葛山に切腹してもらう」
切腹。淀まず告げた土方に、伊織は咄嗟に隣の山崎を振り返った。
「切腹、て……なんでそんな。だいたいどうして葛山さんだけが?」
そんな話を切り出されようとは露ほども思わなかった。
土方は涼しげな顔で黙しているし、山崎は山崎でいやに苦い面持ちをする。
「えろうすんまへん、副長。もっと早くに気ィ付くべきでしたわ」
「いや、んなこたァ俺だって同じだ。事は原田や永倉が中心になってんだからな」
などと、二言三言言い交わす二人を、伊織はじりじりと交互に見入る。
「斎藤が会津に取り成してくれたお陰で、大事にならずに済んだようなもんだ。本当なら、奴らァ、脱退ぐれぇは覚悟の上だったろうな」
「ほんまですわ。あんだけ挙って隊抜けられたら、こら一大事でっせ。おまけに古参が揃って~、やさかいに」
「原田や永倉に腹を切らせるわけにはいかねえ。あいつらも一応隊の軸だからな」
「……だからって、葛山さん一人に切腹させるんですか」
思わず口をついて出た伊織の合口に、土方はいともあっさりと「そうだ」と返した。
全員同じに謹慎処分、何もこれだけで良さそうなものではないのか。と、俄かに土方への反感が湧いた。
土方の纏う気配に違和感を覚えたのは、このためだったか。道理で雰囲気が違うはずだ。
非合理な脱退は切腹。それは隊規に定められていることで、覆されない約定。
両者とも何気なく話しているが、脱退とは即ち死である。
だが、異見することも許されないことなのだろうか。局長の在り方に対して諫言することさえ、隊規に触れると言うのか。
永倉や原田とて、心底から新選組という組織や局長本人を思うからこそ、事を起こしたのではないのか。それすら寛恕の余地無しというならば、それこそ土方の独裁によって成り立つも同然。
諫言は確かに受け容れ難い。耳にすんなりと馴染んでくれるものでもない。あえて苦言を呈することは、同時に誠実さの表れでもあるのではないか。
近藤もそれをよく理解したからこそ、寛大な処分に留めたのだとばかり思っていたが、それは果たして違うのだろうか。
切腹などさせれば、そうして改めて築かれた信頼関係をも水泡に帰してしまう。
そう言い返そうかどうか悶々と悩んでいる最中、土方がさらに一声上げた。
「監察が一人減る。その上、尾形君も不在だ。総じて人手不足だからな、おめえにも今後は多少働いてもらうようになるかもしれねえ。そのつもりでいてもらおう」
「私……一人で、ですか」
思いもかけない言葉に、伊織はそれまでの煩悶も忘れ、茫然とした。
それはつまり、これまでの「見習い」を脱して、一人前に監察方として働くという意味に違いない。いざ面と向かって命ぜられると、弛んだ気が引き締まるような思いさえ湧いた。
たった今反感を覚えたばかりだというのに、それでもやはり、一人材として認められたと思えば嬉しいと思うのだから不思議なものである。
「コイツ一人で動かして、ほんまに大丈夫でっしゃろか? ちんけな失態しよるのとちゃいまっか?」
「……山崎さん、何か私のこと非常に嫌ってませんか」
「嫌っとんちゃうわ。鬱陶しいねん」
「……尾形さんに言われるなら、まだ納得もいくんですけど。私、山崎さんに何かしましたっけ?」
これでも隊中ではひっそりと生きているつもりなのに。
すると山崎は、やけに顰蹙顔でねめつけてくる。
「おー、尾形も同じこと言うに違いあれへんな」
「ひ、土方さんも何か言ってやってくださいよ…。なんでこの人こんなに悪態つくんですか……」
「あー……。…というわけだ、伊織。おめぇも漸く一人前ぇになったってぇことで……励め」
「! うわ、土方さん加勢無し!? 何ですか、その小憎らしい顔!」
「ああん?! てめぇ、小憎らしいたぁ何だっ! いいか、俺ァ確かに憎まれ役だがなぁ、てめぇにゃ感謝されて調度良いぐれぇだろが!」
いつもながらの鋭い眼差しでねめつけられ、伊織はぐっと声を詰らせる。
「そりゃ……感謝は、してますけど」
小声で返せば、伊織自身、何故か言葉に実感が沸かない。
感謝はしている。その心に嘘は無いつもりだが、その感謝の念に重く纏い付くものを払い切ることは出来なかった。
笑うことも出来ずに憮然としていると、土方はやがて手の甲を軽く振ってみせる。
「あー、もういい。おい、山崎君、葛山を呼んで来てくれ」
沙汰を出すつもりなのだろう。土方は眉間の皴も深々と告げると、二人に同様に退室を命じた。
***
珍しく土方のほうから話を振ってきたかと思えば、またしても血腥い話だ。
最近の隊内は、どうにも居心地の良いものではなかった。
少なくとも、伊織が新選組に生活するようになった当初とは比較にもならないほど、重苦しい雰囲気が立ち込めている。息苦しさを覚えずにはいられない。
同時に副長室を退いた山崎の後について行きながら、伊織は微かな吐息を漏らした。
例の面子が謹慎する一室へと続く廊下を、山崎は何を躊躇うでもなく早足で歩いていく。
いくら土方の下した命令とはいえ、これから切腹を申し付けられる者に忖度するだとか、そうでなくとも哀れむくらいの気持ちは起こらないのだろうか。
「山崎さんは平気なんですか」
「何が」
何気なく出た伊織の問いに、山崎は足を止めることも振り向くこともなく返す。立ち止まる気がないと見て、伊織も一旦止めかけた足をまた山崎の歩調に合わせた。
「これじゃあ、わざわざ局長のいなくなるのを待ってから、沙汰を出したみたいじゃないですか」
「待っとったんやろ?」
至極当然とばかりの即答に、伊織は俄かに眉宇を強張らせた。
「待っとったんや。局長のおらんようになるんを」
山崎は今一度、強く言い切った。
近藤の江戸出立を見計らって、その後すぐに出された沙汰。
山崎の言う通りなのかもしれなかった。
出す気になれば、土方は何時でも切腹を申し付けることが出来た。なのに、局長が江戸へ発つまでは処分など気振りも思わせなかった。
「ちょっと待ってくださいよ」
自分でも無意識に足が止まった。
山崎も、伊織の声が一段低くなったことに気付いてか、廊下の中央で立ち止まり、首を廻らせるだけでこちらを窺い見る。
「それじゃあ、土方さんの独断じゃないですか」
近藤の取り決めた処分に納得がいかないのなら、即刻近藤へ異議を唱えれば良いのに。いや、大将である近藤に無断で隊士の処分など、そもそもするべきではない。
あの土方に異を述べられる存在など、実質、局長である近藤を除いてこの隊内にいるわけがないのだ。隊の幹部として名を連ねる山南も、ここ最近では近藤と土方という双頭の影に隠れている感が否めない。
近藤が不在ならば、少なくとも山南との間で相談くらいあって然るべきと思うのだが、元々温厚な山南に意見を求めれば、切腹など反対するのは目に見えている。
土方は、そうと知りながら相談を持ち掛けるような男ではない。
山南にしてみても、土方を論破こそ出来るだろうが、それだけで土方の行動を阻止するには及ばないだろう。
「……土方さんの、思うがままじゃないですか」
「せやな」
いとも容易く頷いた山崎は、酷く冷静であった。
その冷静さが何故か気に食わない。同じく土方の下に身を置く者として、山崎の胸中が解せなかった。
「そんなの……納得がいきません」
隊内の生殺与奪の全権を、土方が握っている。局長の近藤が江戸から戻った時に、葛山を切腹させたと知ればどう思うだろうか。
局長を差し置いて、副長が自らの独断で処分を下すという行いは、隊規違反にはならないのだろうか。
ますます曇る伊織の表情を涼しげに眺め、山崎は突如、ぴしゃりと語気強く言い放った。
「オマエは自分が既にしくじっとる言うのんが、まるで分かってへん」
俯いてぶつぶつと呟いていた伊織が弾かれるように顔を上げれば、山崎はいつの間にか真っ直ぐこちらへと向き直っていた。
「は……? しくじる、って、どういう……」
明保野亭での刃傷沙汰は失態にも数えられるが、会津藩への取り成しに協力したことは間違ってはいない。
そう信じていた伊織にとって、山崎の叱責は腑に落ちないものだった。
きょとんと顔を見上げれば、山崎は呆れ果てたように吐息する。
「監察っちゅうのはな、あんなん起こらんように内部も見張っとらなあかんねん。隊士に規律守らすのも任務や。そういう監察の葛山が謀反に手ぇ染めとんのや、あいつが切腹すんのも当然や」
ついでに、本来ならば、同じ監察方でありながら葛山の不審に気付けなかった自らも同罪。そしてたとえ下っ端であろうと、伊織もまた監察方の一員である限り、咎はあるのだ。
山崎は堰を切ったように、息巻いた口調でそう言い迫った。
確かに、正論のような気がした。
建白書の一件を謀反と呼ぶのは少々大袈裟にも思えたが、それも山崎の言うように小規模な謀反であることには違いない。
正論には何を言い返しても無駄な気がした。いや、それ以前に、山崎の気迫に圧されて、とても反論出来るだけの気概は持てなかった。
「副長を酷薄と思うんは間違いや。少なくとも、監察の人間にとったらな」
最後、山崎はそう言い加えると、その場に伊織を残してさっさと踵を返して行ってしまった。
葛山の謹慎する部屋へと向かうその背には、何の迷いも窺うことは出来ない。
伊織は暫しその場に立ち尽くし、山崎の後姿が死角に入った後もなお、凝然としていた。
***
葛山は今日のうちに沙汰を下され、早ければ明日、いや、もっと早ければ日暮れ前にはその身に白刃を突き立てることになるのだろう。
ぼんやりと考えながら、伊織はふらりと廊下の柱に凭れた。
(そうだよ、実際に私が知ってる新選組の歴史だって、葛山さんは切腹することになってた。でも……)
でも、土方のこの判断は、果たして正しいのだろうか。
要は、葛山一人を見せしめのために自尽させようというのだ。
規則は規則。
規則を破れば果ては皆同じ。
土方の裁量によって生死を分かつことになるのだ。
――ならぬことは、ならぬもの。
そんな言葉が伊織の念頭に浮かんだ。
故郷会津の地に、伊織の生まれた現代までも伝えられる、会津藩校日新館の教えに見られる言葉だ。
それは、幼い頃から耳に馴染んだ教え。
先折、土佐藩と会津藩との問題で自害した柴司も、きっと毎日のように聞かされてきたことだろう。
そういう柴の最期に感銘を受けて、葬儀では落涙さえした土方だ。
それなのに――。
已むに已まれぬ事情から責任を取って切腹に臨んだ柴とは違い、葛山は見せしめのために土方から自刃を申し付けられる。
この違いは何なのだろうか。
そもそも、土方は何故、柴の葬儀で涙を流したりしたのだろう。
柴の潔さに本物の武士道というものを見出したからなのか、或いは、落涙の理由はもっと別なところにあるものなのか。
懊悩は尽きなかった。
「私……ここにいて、良いのかな……」
ふと零れた独り言は、ひっそりと静まり返る板張りの廊下に、響く間もなく吸い込まれた。
【第十六章へ続く】
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