新選組秘録―水鏡―

紫乃森統子

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第十一章 秋霜烈日

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 元治元年、六月十日。
 その朝、武田観柳斎の隊と警護のために常駐している会津藩士五名ほどが、東山へ巡察に向かった。
「……なんか、嫌な予感がする」
 門からぞろぞろと出発していく隊士たちを縁側から見送りながら、伊織は呟いた。
「おめえの報告にあったからあいつらを出したんじゃねえか。予感だとかってぇな腑抜けた事を言ってねえで、引き続き町ん中を探って来い」
「それはまあ……、そうですけど」
 むすっと機嫌の悪そうな口振りは、土方である。
 確かに昨日、尾形と出向いた東山が怪しいとは報告した。
 となれば、土方が隊士たちを巡察に向かわせるのは当然のこと。
 だが。
 何か、心に引っ掛かる。
 それが一体何なのかは今一よく判断できないのだが、また一波乱起こりそうな、そんな予感がするのだった。
「人のことに感けてんじゃねぇ。おめぇにゃ他の任務があるんだろうが」
 伊織の煮え切らない様子にますます機嫌を損ねたのか、土方は軽く伊織の背を小突く。
「わかったらとっとと女装しろ」
「ええー? また女装ですか?」
 慣れない着物は歩き難いし、それに、女の姿でいるというだけで妙なおまけも付いてくる。
 男にちょっかいを出されるのは正直苦手だし、出来れば男装をしたい。
 そう言ってみると、土方はますます鋭い眼差しを投げてきた。
「利き腕負傷して、万が一にも斬り合いになったら勝てんのか、てめぇは」
「……斬り合いにならないようにすれば問題ないですよね」
 何も、男の姿であっても帯刀しなくて済む方法ぐらい、ある。
 ふふん、と得意げに鼻を鳴らした伊織だったが、土方は怪訝そうに一睨した後、嘲笑うかのような口調で一蹴した。
「町人に化けるってえなら、銭のことも京弁もしっかり身についてんだろうな?」
「…………」
「女装で決まりだな。暫く尾形君の女でも演じてろ」
 あっさりと勝敗を決められ、がっかりした意思表示として伊織は溜め息を吐く。
「……うーん、でも、なんか胸騒ぎがするんですよね」
 女装の面倒さは一先ず折れるとしても、何かを忘れているような、そういうもどかしさを感じずにはいられない。
 再び話を振り出しに戻したが、その途端に土方の威圧するような視線が注がれる。
 多分、
「ぐだぐだ言ってねえでさっさと行け」
 という意味だ。
 伊織が結構いろいろ重要なことを知っていることぐらい、土方は身をもって承知なはずなのだから、少しくらい気に留めてくれても良さそうなものを。
 わかってはいるが、改めてつれない鬼の副長様である。
「わかりましたよ、行きますよ。行けばいいんでしょう」
 わざと仏頂面を作って、伊織は土方の脇をすり抜けた。

     ***

「私を暫く尾形さんの女にして下さい」
 土方へのささやかな当て擦りのつもりで言うと、尾形はあからさまに渋い顔をした。
「お前、男だろう。そういう事を軽々しく言ってるから佐々木さんにケツを狙われるんだぞ……」
「けッ、ケ……! ヒイイ、くわばらくわばら……!!」
 尾形の妙に的確な突込みにより、返り討ちに遭う。
 意外にも、尾形が他の誰より一番頻繁に佐々木の話題を持ち出してくるような気がする。
 昨日、助言が有難かった余りとはいえ、こともあろうに佐々木に抱擁を許してしまったばかりなのだ。
 普段ならば絶対に有り得ないであろう事だが、それ故に尾形の言葉も何となく生々しく感じてしまう。
「滅多なことを言うもんじゃありませんよ、尾形さん……!」
「お前もな」
 薄ら寒い眼差しを寄越しつつ、尾形は胡坐を掻いたままで足袋を履き始めた。
 伊織も既に女装済みだが、今日のところは自力で着付けをこなしてみた。
 そういつもいつも土方にばかり頼ってはいられないし、第一、男に着物を着付けてもらうのはかなり気恥ずかしいものがある。
 結果、まあ完璧にとまではいかずとも、それなりに見られる出来栄えにはなったのだった。
「それで、今日はどこに行くんですか?」
「そうだな……」
 ふと顔を上げ、尾形は少しの間黙り込む。
 特にどこを探れと指示が出されたわけでもなく、範囲は京の都中なのだ。
 出かける先は選り取り見取り。
 今伊織に問われて初めて、尾形もそれを考えた様子である。
「まだ決まってないなら、もう一度東山に行きませんか?」
「あそこには巡察の隊が出ているだろう。俺たちが行く必要はもうない」
「でも、何か気にかかるんですよ。明保野って名前、前に聞いたことがあるような……」
「料亭の名だ、別に耳にしていたっておかしくはない」
「いや、そうじゃなくて……」
 土方さえ相手にしないものを、尾形が相手にしてくれるわけはない。
 これ以上は話しても無駄だろう。
 そう気持ちを切り替えて、伊織は一つ息をつく。
「分かりましたよ。じゃあ結構です、私一人で行きますから!」
 堅物相手に問答している間も惜しく、伊織はきりりと眦を吊り上げた。
 考えても見れば、尾形と行動を共にするよりも、その方が余程動きやすい。
 一方尾形は、やや蔑んだ眼差しを寄越したが、そんな視線ももう慣れたもの。
「副長の指示に背くつもりか。暫くは俺と一緒に……」
「すみませんが、私は私で一応考えるところもあるんです。そういつもいつも人に従うばかりでは、いざという時に出遅れますから」
 尾形の話を遮り、伊織はぴしゃりと言ってのけた。
 ぽかんと口を開ける尾形を上から見下ろし、少々尊大な言い方になったかもしれない。
 自らの発言を伊織がそう省みたのは、踵を返した後になってからだった。

     ***

(土方さん、尾形さん、ごめんなさい!)
 心で何度か詫び言を繰り返し、伊織は普段の小袖に義経袴という出で立ちで往来を急いだ。
 先に出発した武田観柳斎らがどの道を東山へ向かったかは不明だが、伊織は兎に角後を追った。
 堀川の辻より五条通りに出、一旦伊織は足を止める。
 東西へ真っ直ぐに伸びた通りを東山方面に目を凝らすも、浅葱色の集団を見つけることは出来なかった。
 空に薄く幕を張ったような、灰色の雲が出始め、どことなく伊織の心中も言い知れぬ焦燥が過ぎる。
(なんだろう……)
 前髪を揺らす風も、いやに生温い。
 出動隊が武田の隊であることが、気になるのだろうか。
 隊の内部でも、あまり良い噂を聞かない人物である。
 しかし。
 それとも違う気がしてならなかった。
 ただ、闇雲に心が急いた。
 何か、あった気がする。
 もうあと少しのところまで、答えは出掛かっている気がするのに、今何が起ころうとしているのか、それが何故か思い出されて来なかった。
(兎に角、行かなきゃ……)
 伊織は腰の脇差を差し直し、人の波の間隙を縫って五条通りを駆け出した。

     ***

 昨日、尾形に連れられて訪れた明保野亭へと、足の向くままに直走る。
 しかしさすがに、東山の急勾配の坂道を走り続けることは出来ず、坂道の中ほどからは歩かざるを得なかった。
 それでも歩むことは止めず、渇いた喉に詰まる生唾を、ごくりと呑み込んだ。
「――新選組である! 中を改める!!」
 もうあと五、六間ほど先に、明保野亭の門構えが見えるだろうというところで、聞き覚えのあるいやに高飛車な声音が耳を突いた。
 武田だ、とその一声で分かる。
 だが。
 門に近付こうにも、伊織の行く手には、群がる人々の背中が壁を作り出していた。
 声音からも感じ取れる、武田の居丈高な振る舞いに、居合わせた通行人たちが遠巻きにしているのだ。
 背を伸ばし、踵を浮かせ、人垣の向こう側を窺おうとするものの、この場からではまだ少し距離があり過ぎる。
「なんや、まあた新選組や。感じ悪いなあ……」
「こないだの残党狩りやて?」
「見てみい、あの偉ぶり方ァ。ほんま、イヤやわ」
 声を潜めて口々に交わされる、嫌悪の言葉。
 池田屋での活躍以後、京の町の人々の陰口は、一層深みを見せている様子さえ見られる。
(……まあ、あの武田さんじゃあ、そう言われても仕方ないか)
 隊士として内心肩身の狭さも感じるが、武田のあの傲然とした態度を見せ付けられては、陰口も何だか尤もな事に思えてしまうのが悲しい。
 羽織を着ずに駆け付けたのは幸いなことであった。
「ちょっとすみません。通してもらえますか!」
 他人の着物を掻き分けるようにして、伊織は閊え閊えしながらも強引に前へと押し進む。
 まだ特に異変はないようだが、兎に角近くで武田隊の様子を確かめるため、伊織は身を低くして最前へと進み出た。
 割合と大きな門構えの明保野亭を取り囲み、浅葱羽織が幾重にも重なっていた。
 中には隊服を着用しない者も数名あったが、彼らは会津藩より派遣されてきた藩士だ。
 ちょうど店の主人が門前に出てきたところであるらしく、武田がやけに踏ん反り返って何のかのと言っている。
 武田は特に大柄なほうでもないのだが、目一杯に背を仰け反らせると、それなりに威圧感のある顔だ。
 武田の尊大な態度そのものは見ているこちらまでも気恥ずかしくなるほどだが、それ以外にはその場に異変はない様子。
(――私の思い過ごし、だったかなあ)
 悪い予感も、外れることがあっておかしくはない。
 何事もないようならそれに越したことはないのだから。
「…………」
 一瞬、ふと気の抜けた伊織の目が、まだ数間先の武田のそれと合った。
(うっわ……目ぇ合っちゃったよ……)
 思わず視線を逸らしたが、あちらからの視線は一向に外されない。
(やだな……話しかけないで下さいよね、武田さん……)
 こんな人だかりの中で、あれの仲間だと知られては少々困る。
 それでなくとも、日常、武田にはあまり関わらないよう努めているのだ。
 祈るような気持ちでそっぽを向き、それとなく周囲の人陰に身を隠そうと試みる伊織。
「――む? お前は確か、土方副長の小姓……高宮ではないか!? そんなところで何をしている?」
(やっぱり話しかけてきちゃったよ!! 来るんじゃなかった……!)
 監察の面目丸潰れではないか。
 それにしても、何という目敏さ。
 武田はすぐさま踵を返し、こちらへと大股に歩み寄った。
「なーにをしておるのだ」
 徐に眉根を引き寄せ、武田は上から覗き込むようにして伊織を眺める。
 今更逃げ隠れするわけにも行かず、苦笑った、その時。
「そうか、いや、何も聞くまい。お前もこの私の後に付き、学びたいと思うのだろう? そうだろう。なかなか見所があるではないか?」
「――は?」
 にやにやと寒気のするような薄ら笑いを浮かべ、武田は見事に的外れな事を言い出した。
 その上、なんと表現すべきか、含みのある視線が送って寄越されるのだ。
 甚だ気色の悪い笑みである。
「ならば何も遠慮をすることはないぞ! さあ、隠れておらずにこちらで我々に加わると良い」
「え、ちょっと待っ……!」
 意見を述べようと開口するや否や、武田は伊織の右腕を引き、有無を言わさず手前に引き摺り出した。
 その掴まれた右腕の、まだ治り切らぬ傷口に鈍痛が走る。
 伊織が痛みに顔を引き攣らせるのも構わず、武田は加減も無く強引に隊へと引き連れて行った。
「ちょっと離して下さいよ! まだ傷が完治してないんですからっ!!」
 一、二歩遅れを取りながら歩かされ、伊織は痛みに耐え兼ねた。
 だが、不用意に腕を引き戻す事も叶わず、言葉で抗議するのが精一杯。
「武田さん。放してあげて下さい。怪我をしているようですよ」
 この馴れ馴れしい手に噛み付いてやろうかと思い至ったところで、穏やかに窘める者が割って入った。
 途端に腕を引く力も緩み、伊織は暴挙に出ずに済んだのである。
 見れば、間に声をかけてきたのは、きりりと小奇麗な風貌の、青年だった。
 武田と同行していた様子のその人は、隊服を着用していないところから察するに、会津藩士の一人だろう。
「彼の右腕、包帯を巻いていたのを見掛けたことがありますから。可哀想ですよ」
 見たところ、沖田あたりと同年だろうか。
 槍を片手に抱え、温厚な口振りとは対照的に、真剣な表情で諌めている。
 その人が、この時伊織には仏のように映った。
「なに、怪我だと?」
 他者からの忠告を受け、武田もやや気分を損ねたように眉間を狭くしたが、自身もまた思い改めたのだろう。
 程なく握力を緩めて、伊織の腕を解放した。
「そうですよ! 医師からも暫くは大事に、と言われてるんです。なのにあんなに思い切り引っ張らなくても……!」
 ここぞとばかりに面責する伊織。
 だが、青年はその伊織にもまた一言添えた。
「あなたもこそこそしているから、そういう目に遭うんだぞ」
「…………」
 そう言われても、監察方なので。
 とは、口が裂けても言えない。
 口籠った伊織の隣では、武田が忌々しげに舌打ちをした。
 と、次の瞬間、伊織は自らの腰の辺りに、何か妙な違和感を覚えた。
「――!!?」
 撫で回すような人の手の感覚。
 そして、それはおよそ間違いなく、傍らの武田のものに違いなかった。
「ちょちょちょ……ッ!? 何すんだ、あんた!!」
「ふん。怪我があるならば先に申し出れば良いものを! まあせいぜい我らの足手まといにならぬ事だ!」
 腰の違和感はすっと遠のいたものの、武田は何食わぬ顔で悪態をつく。
 驚きと憤りとで、開いた口すら塞がらない。
 やはり、この男には近付くのではなかった。
「ええと、高宮君……とか言ったな。気を付けたほうが良さそうだな、あなたは」
 愕然とする伊織に、そう耳打ちする青年。
「噂に聞いただけだが、あの人、男色の傾向があるらしい」
 気まずそうな声音で警告を囁く青年を、伊織は苦渋の面で見上げた。
「ろ、ろくでなしが……」
「え、いや、私にそう言われても……」
 ははは、と苦笑いの青年を見てもまだ、伊織の胸中はむかむかと憤りが満ち溢れていた。
「武田隊長! あれを……!」
 その最中、隊を成す一人が焦慮の声を上げた。
 呼び立てられた武田と同様に、伊織と青年もまた即座に反応する。
「あっ! 貴様っ!! 逃すか! 待てい!!」
 怒鳴り散らす武田の、その先。
 明保野亭の周囲を巡る外塀の上を、男が乗り越えようとしている瞬間が目に飛び込んだ。
 新選組の包囲から脱出でも試みたのか、武田の声が轟くと、男はあからさまに慌てふためいて手足を縺れさす。
「長州の残党だ! 逃がすな!! おい、柴、高宮っ、奴を追え!!」
「え、何、いきなり私……」
 武田の命令に戸惑う伊織の側から、青年が駆け出していたことに気付いたのは、数拍後のことだった。
「……柴?」
 青年の名だろう。
 そう見当を付け、伊織もまた柴の後を追う事にした。
 が、駆け出したその刹那。
 塀の上の顔がちらりと視界を掠めた。
「―――あ!?」
 喫驚が伊織の口を付いて出た時には、既に柴は真下に駆け込み、槍を構えていた。
「柴さん駄目です!!! その人は……!!」
 昨日の、土佐藩士。
 伊織の声がそう告げる間もなく、柴の手槍が塀上へ突き上げられるのを、伊織は蒼白の面で凝視した。
「ようし、でかしたぞ! そのまま引き摺り降ろせ!」
 武田の得意気な声音を他所に、伊織は愕然と立ち尽くした。
 何が、でかした、だ。
(馬鹿が……!)
 地べたに引き降ろされた、手負いの土佐藩士は、今も苦悶の表情で呻いている。
「柴さん、武田さん! その人は違う! それ以上手を出しては駄目だ!!」
 血の気の引く思いを振り切り、その場に張り付いたように動かなかった足を、無理矢理に走らせた。
「何だ、高宮。邪魔をするな!!」
 それでもまだ、隊士を従えた武田は威喝する。
「聞け! この人は土佐藩士だッ!!」
 武田に劣らず声を張り上げると、その場の空気が俄かに響動く。
「おい、あんた、土佐の人だろう! どうして逃げようとしたんだ! これじゃあ刺されたって文句も言えないぞ!?」
 蹲る例の土佐藩士を仰向けさせ、伊織は今し方の傷を探る。
 その肩をぐっと押し上げれば、脂汗の浮く男の顔が間近に見えた。
「しっかりしろ! すぐに医師を呼んでもらう。どこに槍を受けた!?」
 男の腕が、その腹部を毟るように掴み閉めている。
「す、すまん……。腹を、やられた」
 疼痛に耐えながら、切れ切れに開口する。
 なるほど、見れば幸いにも急所は外れているらしい。
 だが、傷を押さえた指の間からは、諾々と鮮血が湧き出している。
 鉛を含んだように微かな翳りのある、血潮。
 その流れ出る様に、伊織は一瞬息を詰めた。
 赤というよりもまだ鮮烈な韓紅の色は、あの日の惨劇を今も髣髴とさせる。
 首筋に、いやに冷たい汗が滲み出た。
「は、早く医師を……!!」
「え……し、しかし、本当にこの男、土佐の……?」
 蘇り来る戦慄を呑み込んだ伊織に、柴は更なる問いを投げ掛ける。
「本当です。この人、以前にお会いした事が……」
 と、そこまで言いかけ、慌てて口を噤んだ。
 これを皆の面前で公言するわけにはいかないではないか。
「こ、言葉でわかるじゃないですか! この人の口調、長州とは違いますよ」
 咄嗟に声になった苦し紛れの理由に、柴も武田も、若干怪訝にこちらを窺う。
「……あのう、そんお人ォ、確かに土佐のお方ですわ。うっとこにもようお通いくれはるんで、間違いあれへんと……麻田時太郎様いわはります」
 おずおずと武田の前に進み出て、伊織の弁護をしてくれたのは、当の明保野亭の主人である。
 その進言に信憑性を感じ取ったか、武田の面持ちは一瞬にして青褪めた。
「だから言ったでしょう。ご主人、すみませんが至急医師を呼んで下さい。それと、土佐藩邸にも連絡を……」
 連絡を取れ、という伊織に、蒼白になった武田が目を引ん剥いた。
「ま、待て、我らだけの判断で藩邸に報せるのは如何なものか! まずは局長なり副長なりに……」
「これだけ大勢の前で失態を演じて、何を言っているんですか!? 罪もない人を捕らえよと、柴さんに命じたのはあなただっ! 藩邸へ報せるのは当然じゃないですか!?」
 往生際悪く別論を立てた武田が、伊織の目には酷く気疎い存在に見えてならなかった。
 その伊織の背後には、ただ呆然と己の所業に打ち震える、柴の姿があった。

     ***

「予感は、的中したみたいですよ、土方さん……」
 薄曇りの夕刻。
 伊織は局長室にいた。
 正面に座し、深い腕組みで瞑目する近藤と、苦虫を噛み潰したような表情の土方。
「勝手な行動を取った上、傍にありながら気付くのが遅れ、止める事が出来ませんでした」
 明保野亭での顛末を報告し、伊織はそう言って素直に謝罪を申し述べる。
 両者も、黙したままで一連の報告に耳を傾けていた。
「土佐藩士、麻田時太郎は一命こそ取り留めた様子ですが、傷はどうも深いようです。無事に回復すれば良いのですが……」
 手を下した柴、その命を下した武田には、一時の謹慎処分が出されていた。
 伏し目がちにしていた伊織は、そろりと近藤の顔を窺う。
 すると、漸く近藤が双眸を開いた。
「確かに、土佐藩が相手では運が悪かったなあ」
 土佐藩主、山内容堂公は、公武合体派として、幕府とは友好関係にある。
 その藩士に害を為したとなれば、少なからず問題視すべきことだ。
 加害当人の柴は会津藩士。
 責めは当然会津藩そのものにも掛かる。
 下手をすれば国際問題にまで発展しかねない。
 恐縮に肩身を窄めた伊織に反して、近藤の口調は一層ゆるやかに鷹揚なものであった。
「しかし、幸い死なせることもなく済んだ。それにその麻田とかいう男も、何も後ろめたいことがなければ、我々から逃げるような真似はしなかったはずだろう」
「それは、そうですが……」
「どう考えても、非は五分五分としか思えんなあ」
 近藤の意見には、伊織としても同意だ。
 麻田が何故逃げなければならなかったのか、それは当人に問うより他に知る術はない。
 だが、とうに藩邸へ移った麻田に面会する事は、到底難しいだろう。
「まあ、場の状況から言っても、そうそう大袈裟な事にゃあならねえだろうよ」
 はっと詰めた息を押し出すように、土方が吐息した。
「そうだと良いんですが……」
 二人がそう言うならば、最早麻田の回復を祈るよりない。
 悪い予感はこの事件であったか。
 と、そう判明しながら、蟠りは一向に消える気配は感じられなかった。
「失礼します」
 開け広げた局長室の縁側に姿を現したのは、昼間伊織が行動を分かったきりの、尾形だった。
 声をかけると共に、尾形は素早く膝を折り、叩頭する。
「ど、どうしたんだね、尾形君」
 その突然の行動に些か目を見開く近藤。
 その隣にいて、土方もまた反応を示した。
「おい、伊織。見てみろ。尾形君は、おめえの監視が行き届かねえことをあれほど気に病んでるみてえだぞ」
「うるさいですね、土方さん。だから私だってさっき謝ったばっかじゃないですか」
 変に言いがかりを付ける土方を横睨みすると、土方からも同様に睥睨が返される。
 土方の場合、伊織の身勝手な行動に腹を立てているらしい。
「局長、副長。今回の事、明保野亭に土佐藩士が出入りしている事実を知りながら、報告を怠った私にも責任があります」
 土方と伊織の睨み合いなど気にも留めず、尾形はそう言って詫びた。
「まあまあ、今回はどう考えても不審な行動に出た麻田というのが悪いようだ。尾形君が気にすることでもあるまい」
 おっとりと寛容な言葉が、近藤の口から紡がれると、尾形もやっとでその面を上げる。
「そうだそうだ、紛らわしい土佐の野郎が悪ぃんじゃねえか? 君の不手際といやあ、コイツの監視不足ぐれえなもんだろう」
「土方さんって、本当、何て言うかいちいち嫌な言い方する人ですよね……だから佐々木さんにケツを狙われるんですよ……?」
 遠まわしな責め方に内心むっとした伊織は、昼間尾形に言われた言葉を、そっくりそのままぶつけてみる。
「んなっ……!! 馬鹿野郎! ふざけんな、俺は狙われてねえ!! 断じて!!」
「あんまり怒鳴ると、今度土方さん名義で佐々木さんに恋文出しますからね!! 怒ってばっかなんだもん、土方さんて!」
「けっ! 書けるもんなら書いて見やがれ! 手習いなんざやったこともねえくせに!」
「おいおいまた喧嘩かー? トシももういい加減に……」
「ああ、そういえば……」
 辟易した近藤が仲裁に入ると間もなく、尾形が一人寒々しいまでの冷静さで口を挟んだ。
「高宮、武田さんにもケツを触られたそうだが……無事だったのか?」
「ギャア! 尾形さん何で知って……!?」
「いや、武田隊の奴らが面白おかしく、そして逞しく噂をしていたから……」
「ヒイイ! た、逞しいまでの噂!?」
「ブプーーーッ! おい尾形君、そいつぁ本当か?」
「本当のようです」
「困ったもんだな。最近はどうも男色が流行っているみたいだからなあ……」
 近藤も近藤で、やけにのんびり話すから困ったものである。
「で、高宮。無事だったのか?」
「無事ですよ! しつこいなあ尾形さんも!!」
 執拗に尋ねる尾形に一喝すると、それまで無表情だった尾形の顔が一変し、妙に怪訝なものになる。
「何ですか、その疑いの眼差しは!?」
「…………」
 伊織の頭の先から、折った膝頭までを、尾形はじろりと眺める。
「……いや、別に」
 たっぷり怪しむ目線を寄越しておきながら、何が別に、なのか。
「私は無事だって言ってるじゃないですか! その目、やめてくださいよ!?」
「俺の観察力をなめるなよ」
「だから無事だってえのが聞こえねえのかよ!」
 ついつい口調も土方化した時、ようやっと近藤が宥めに入った。
「あー、高宮君、君も少し落ち着いたらどうだね」
 しかし。
 尾形は更に言い攻める。
「そうだぞ高宮。あまり向きになって弁解するあたりがますます怪しい」
「て、てめえ……!!」
「おお、怖い弟子だ。師匠をてめえ呼ばわりとはな……」

 新選組側では、特に問題として見ることもなく、また数日が過ぎ行く。
 その後の長州残党の捕り物も、特に大きな問題もなく着々と進んでいた。
 だが――。

「麻田が切腹――!!?」
 もたらされた報に、鸚鵡返しに驚愕の声を上げたのは、土方。
 麻田時太郎自刃の報は、会津藩へと渡り、さらに新選組にも届くこととなった。
 その報せを受けた近藤の口から、たった今、重々しく打ち明けられたのであった。
 その場に居合わせた伊織と、山南も即座に瞠目した。
「柴に受けた傷が悪化したらしい。その上での切腹だそうだ」
 聞かされる詳細に、土方の手にした煙管が細く軋む。
「何でわざわざ切腹なんてしやがった! 丸く収まるモンも収まらねぇじゃねえか!」
「これでは、会津藩も何らかの形で責任を取らざるを得ないだろうね」
 渋い面持ちで、山南もこの展開に不安を唱えた。
 次いで近藤から、山南の言を肯定するかのような一言が繰り出されると、一同の表情は更に険しくなった。
「麻田自刃の責任は会津に有り、と、土佐藩はそういう態度らしい」
 全員の視線が、伏しながら移ろった。
「じゃあ、会津藩は、どう……?」
 それに対処するつもりなのだろうか。
 伊織がそれを問いかけると、近藤は更に眉間を狭めて言った。
「会津公は、柴司にも同様に切腹をお命じになるらしい」
 伊織は、愕然となった。
 どう熟考したところで、非は麻田のほうにこそ大きいではないか。
 不審な素振りを見せたがゆえに斬り付けられた。
 それで何故、柴にまで切腹をさせなければならないのか。
「そんな! 柴さんに咎は無いも同然じゃないですか!? 納得がいきませんよ!」
「ああ、俺も伊織に同感だなァ。土佐側の理不尽な言い掛かりにしか聞こえねえ」
 珍しく、土方も伊織の意見に同調する。
「しかし、会津藩は呑まざるを得ないのじゃないかい? 山内容堂公は、公武合体派の大名だ。今機嫌を損ねて不仲になるわけにもいかないのでは?」
「……山南さんの言う通りだ。兎も角、会津公の決定に我々が徒に異義を唱えるのも難しい話だからな」
 近藤のこの一言を最後に、一同は沈黙した。
 脳裏に浮かぶのは、事件直前に間近で見た、柴の顔。
 優しく、真面目そうな印象だったのを思い起こす。
 否、ただの印象で終わる事ではなく、実際にそういう人なのであろうことは、伊織には容易に察しがついた。
 会津猪、と歌に詠まれるほど、会津には謹厳実直な人間が多い。
 それは、元々が会津人であるだけに、伊織にはよく分かっていた。
「――納得がいきません」
 つい、本音が口をついて出る。
 だが、それはここにいる誰もが同じ思いだ。
 けれどそれを差し止める権限を持たぬがゆえに、それ以上、誰も伊織に賛同を唱える者はいなかった。
 暑く、重苦しい空気が部屋中に満つ。
 尚も、伊織は声にした。
「どうして罪もないのに切腹なんかしなきゃいけないんですか!? 責任なら、何も切腹以外だって取りようはあるんじゃないですかっ!?」
 憤りが、全身に迸る。
 それでも、さっきまでは共に声を荒げた土方でさえ、今は歯噛みをするのみ。
 公武合体など、いずれなくなる派閥だ。
 山内容堂とて、いずれは官軍となる藩主。
 その機嫌を取るために、何故咎なき会津の藩士が腹を切らねばならない。
 憤りが過ぎ、打ち震える声で、伊織は呟いた。
「――私、容保公にお目通りしてきます」

【第十二章へ続く】
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時は幕末。二月前に父を亡くした少女、天野美湖(あまのみこ)は、ある日川辺で一枚の写真を拾った。 落とし主を探すべく奔走するうちに、拾い物が次々と縁をつなぎ、彼女の前にはやがて導かれるように六人の志士が集う。 広がる人脈に胸を弾ませていた美湖だったが、そんな日常は、やがてゆるやかに崩れ始めるのだった。 京の町を揺るがす不穏な連続放火事件を軸に、幕末に生きる人々の日常と非日常を描いた物語。

土方歳三ら、西南戦争に参戦す

山家
歴史・時代
 榎本艦隊北上せず。  それによって、戊辰戦争の流れが変わり、五稜郭の戦いは起こらず、土方歳三は戊辰戦争の戦野を生き延びることになった。  生き延びた土方歳三は、北の大地に屯田兵として赴き、明治初期を生き抜く。  また、五稜郭の戦い等で散った他の多くの男達も、史実と違えた人生を送ることになった。  そして、台湾出兵に土方歳三は赴いた後、西南戦争が勃発する。  土方歳三は屯田兵として、そして幕府歩兵隊の末裔といえる海兵隊の一員として、西南戦争に赴く。  そして、北の大地で再生された誠の旗を掲げる土方歳三の周囲には、かつての新選組の仲間、永倉新八、斎藤一、島田魁らが集い、共に戦おうとしており、他にも男達が集っていた。 (「小説家になろう」に投稿している「新選組、西南戦争へ」の加筆修正版です) 

幕末レクイエム―誠心誠意、咲きて散れ―

馳月基矢
歴史・時代
幕末、動乱の京都の治安維持を担った新撰組。 華やかな活躍の時間は、決して長くなかった。 武士の世の終わりは刻々と迫る。 それでもなお刀を手にし続ける。 これは滅びの武士の生き様。 誠心誠意、ただまっすぐに。 結核を病み、あやかしの力を借りる天才剣士、沖田総司。 あやかし狩りの力を持ち、目的を秘めるスパイ、斎藤一。 同い年に生まれた二人の、別々の道。 仇花よ、あでやかに咲き、潔く散れ。 schedule 公開:2019.4.1 連載:2019.4.7-4.18 ( 6:30 & 18:30 )

沖田氏縁者異聞

春羅
歴史・時代
    わたしは、狡い。 土方さまと居るときは総司さんを想い、総司さんと居るときは土方さまに会いたくなる。 この優しい手に触れる今でさえ、潤む瞳の奥では・・・・・・。 僕の想いなんか蓋をして、錠を掛けて捨ててしまおう。 この胸に蔓延る、嫉妬と焦燥と、独占を夢みる欲望を。 どうして俺は必死なんだ。 弟のように大切な総司が、惹かれているであろう最初で最後の女を取り上げようと。 置屋で育てられた少女・月野が初めて芸妓としてお座敷に出る日の二つの出逢い。 不思議な縁を感じる青年・総司と、客として訪れた新選組副長・土方歳三。 それぞれに惹かれ、揺れる心。 新選組史に三様の想いが絡むオリジナル小説です。

赤い鞘

紫乃森統子
歴史・時代
 時は幕末。奥州二本松藩に朱鞘を佩いた青年がいた。名を青山泰四郎。小野派一刀流免許皆伝の、自他共に認める厳格者。  そんな泰四郎を幼少から慕う同門の和田悦蔵は柔和で人当たりも良く、泰四郎とは真逆の性格。泰四郎を自らの目標と定め、何かとひっついてくる悦蔵を、泰四郎は疎ましく思いつつも突き放せずにいた。  やがて二本松藩の領土は戊辰戦争の一舞台となり、泰四郎と悦蔵は戦乱の中へと身を投じることとなる…。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
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