新選組秘録―水鏡―

紫乃森統子

文字の大きさ
上 下
10 / 29
第1部

第九章 旗幟鮮明

しおりを挟む
   


 闇が身に纏い付く。
 永劫に続く、漆黒の闇。
 暗黒の帳に包まれているだけなのか、或いは元々、闇しかない空間なのか。
 どちらとも判別できなかった。
 足元は、まるで中空を彷徨うように微かな圧と浮力を感じ、そこに大地と呼べるものがあるのかどうかも判然としない。
 その感覚は、あの時と酷似していた。
 果てない闇を潜り、あの時は自分が死に向かっていると信じて疑わなかった。
 ――還り道。
 ああ、こんなところにあったのかと、伊織は微かに笑んだ。
 このまま浮遊感に任せて進んでいけば、いずれは元の時代に辿り着くのかもしれない。
 それに抗う気など、今は少しも起こらなかった。
 だが、厚い靄がかかった思考に、何時からともなく呼び声が届いていた。
 現世からのものか、それとも過去世からのものなのか。
 声の主が男か女か、大人か子供か、それすらも区別することは出来なかった。
 聞こえようによっては、父親か母親か、はたまた友人の声のようにも思えた。
「懐かしいなぁ……」
 掠れて弱然としていたが、声が出せたことに意外さを覚える。
 すると、伊織の声と入れ替わるように、その声は立ち消えになった。

     ***

「ほー? 一日と離れへん屯所が、懐かしいて?」
 ぱちりと目覚めれば、そこはもう、伊織の見慣れた新選組屯所だった。
 祇園の会所でもない。
 室内に灯が燈されているから、少なくともまだ夜は明けていないようだ。
 仄暗い視界に、山崎の顔が浮かんだ。
「……あれ? なんで屯所にまで戻って――?」
 池田屋の二階で土方と合流したところまでしか、正直覚えていない。
「島田さんがここまで運んでくれたんだ。後で礼を言っておけ」
 山崎の隣に、尾形の顔があった。
 どうやら二人が付き添っていてくれたらしいのだが、運んできたという島田の姿は見当たらない。
 軽く掛けられていた薄掛けを払い除け、伊織は慌てて上体を起こした。
 自分だけ置いて、島田は向こうに戻ったに違いない。
 池田屋は、今頃どうなっているだろう。
 自分よりも先に昏倒していた沖田は、どうしたのだろう。
 会津藩は、ちゃんと来てくれたのだろうか。
「すぐに池田屋に戻ります!」
 僅かに眩暈がしたが、そこは気力で立ち上がった。
 と。
 おや、と伊織は気付いた。
 身体が軽い。
(あぁ、そうか。防具を外されたから……)
 やはり着け慣れぬ防具は重かったし、動きにくく暑かった。
 そこにあの緊張が重なり、体のほうが限界に至ったのだろう。
 いくら決意が固くとも、倒れるのも無理はないように思う。
 ただ、同時に不甲斐ないな、とも思うが。
「まだ熱は下がっていない。そんな状態で戻っても邪魔になるだけだ」
「でも……!」
 気になるのだ、と繋げようとした矢先、尾形は強引に伊織の腕を引き降した。
 拍子に、ごろりと見事に布団の上に転がされてしまった。
 意外と尾形も膂力はある。
 その上、熱のせいなのか、思うように抵抗する力が出し切れなかったのだ。
「いっ、たァー……」
「ほれ見てみィ! 新米監察のくせに無茶しよるからや! 表舞台大好きか、オマエは!」
 再び仰向けになる伊織を上から見下ろし、山崎は唾棄するように言い捨てる。
 この人はどうしてこうも口が悪いんだろうか。
「そんな言い方って、山崎さん……」
 文句の一つも返してやろうと思ったのだが、またしてもそこで尾形が遮った。
「お前はもう出るな。ここからはもう表の隊士たちに任せろ」
 顔を覗けば、ただ感情の色のない無機質な表情だけだ。
 伊織の取った行動に、何を思っているかなど、さっぱり窺えない。
 そこを行けば山崎などは非常に分かり易いのだが。
 尾形の無表情は、いつもながら冷たく感じる。
「敵を斬ったらしいが、お前の顔を見た者を取り逃がしはしなかっただろうな」
「してません。すべて斬った……と、思います」
 正直に言ってしまえば、緊張は頂点に達していたし、言わば極限状態だったのだ。
 あまり覚えていない。
 だが、伊織の返答を聞くとすぐに、尾形の表情も僅かながら和らいだようだった。
「ならいい。……良くやった、褒めてやる」
 だからもうここで寝ていろ、とやや命令口調で諭された。
 そうして軽い安堵の目を向ける尾形を、伊織はまじまじと見つめる。
 尾形が褒めてくれるとは、思っても見ないことだ。
「どうしたんですか、尾形さん。熱でもあるんですか」
「熱があんのんはオマエや! 安心しィ、俺は褒めたらん!」
 反して山崎はいちいち刺々しく突っかかるが、それでも伊織の運びこまれた部屋から出て行く気配はない。
 山崎は山崎なりに気に掛けてくれているのだろう。
 と、伊織はそう思うことにした。
「勝手に自分ばっかり出てって、済みませんでした」
「庭に出たっきりだったからな、これでも心配したんだ。それは反省してもらおう」
「まあ、分かればエエ」
 尾形の言うことは分かる。
 だが人が素直に詫びれば、山崎の返しは実に高慢、且つ素っ気ない。
 なんて可愛げのない。
 内心山崎に反抗していると、思いがけず島田が入ってきた。
「梅粥、作って来たんだが、食うか?」
 ほかほかと暖かそうな湯気の立ち上る器を盆に乗せたまま、ゆっくりと伊織の床の傍らに胡坐を掻いた。
 池田屋に戻ったのではなかったらしい。
「俺が作ったんだぞー。ちゃんと食わなきゃ、また倒れるからなぁ」
 床に上体だけを起こした伊織に、島田はにんまりと微笑んだ。
 ほれ、と器を差し出されると、断ることも憚られて素直に受け取る。
「ありがとうございます」
「熱いから気をつけるんだぞー?」
 こくりと頷いて、匙で一つ掬う。
 白い粥飯に、梅肉の紅が綺麗だった。
 一口含めば、とろりと喉を滑り落ちる。
 美味しい。
 あの地獄が、今は幻のように思えてならなかった。
 こうしていつもの屯所に戻り、暖かな食事があり、見慣れた顔に囲まれる。
 それはどうも対極過ぎて、こうしていることが不思議にさえ思えた。
「うまいか?」
「……料理上手なんですね、島田さんて」
 これほど美味しいものを食べたのは、幕末に来て、いや、もしかしたら生まれて初めてかもしれない。
 決して大袈裟なことではなかった。
「熱で舌がおかしくなっとるん違うか」
「おい山崎、それ、俺に失礼じゃないか?」
 むむ、と拗ねたような島田を見て、思わず顔が弛んだ。
 しかし、それは間もなく自然と消え去った。
「島田さん、向こうに戻らなかったんですか……? 沖田さんは? 池田屋は今、どうなってます? 新田さんとか、無事だったんですよね? 会津の救援は……」
 気にかかることは山とあった。
 放っておけば止め処も無く質問を繰り出してしまいそうになる。
 だが幸いにも、島田はそうと感じ取って言葉を挟んでくれた。
「俺たちが到着した後に、会津からも援兵が来た。後は心配ないだろう」
 心配ない、と言う割には、どうも島田の顔色が優れないようだった。
 視線で先を促すように顰蹙すると、島田はようよう続きを語る。
「……奥沢はもう駄目だった。新田と安藤は辛うじて助かったが、……あれはどうにも危ないな」
「沖田さんは」
「祇園会所にいる。……なに、こっちは心配いらんさ。医者もそう言ってたからなあ」
 安堵が込み上げた半面、苦い思いが胸中を掠めた。
「……そうですか」
 それ以外に言葉など出なかった。
 沖田が無事だとはいえ、奥沢が斃れ、安藤新田の両名も危ないとなれば素直に喜べるはずがない。
「それと……」
 もう一つ、島田は重く口を開く。
「藤堂も重傷だ」
「藤堂さんが……?」
「ああ。意識はあるし、命にも別状はないと聞いたが……」
 島田の蒼褪めた顔を眺めて、伊織はふうっと息を吐いた。
 池田屋の中で会うことはなかったが、藤堂が重傷を負うのも前から知っていることだ。
「……額を、割られたんですよね?」
「なんだ、知ってたのか」
 抑揚も無く呟けば、島田はきょとんと呆けたように返した。
 手にした器に視線を落とし、伊織はもう一度深く呼吸をする。
 何となく、落ち着かないような、寂しいような、それでいて何処か心がすっきりしたような、不思議な感覚だった。
「とにかく、今日はそいつを食ってゆっくり休んだほうがいいぞ」
 頭の上に、島田の大きく暖かな掌が乗り、わしわしと撫でた。
「まったく。もォ余計なことせんといて貰おか」
「そうだな。それに、今から池田屋に行くと多分佐々木さんもいるぞ」
「……尾形さん、それは脅しですか」
 尾形の口にした人名にぞわりと鳥肌が浮き立った。
 事件も山場を越えたことだし、多少身体が不調でも土方の隊に戻ろうと思ったが、尾形のそれは断念の決定打となったのであった。
「屯所に戻るのは、夜が明けてからだそうだ。一応俺が師匠なんだ。たまには言うことを聞いてもらわねば困る」
「……分かりましたよ、寝てますよ、もう行きませんよ」
「分かればよろしい」
 口を引き結んで頷いた尾形だったが、しかし、この夜が明けるまで、伊織の傍から彼が離れることはなかった。

     ***

 翌日、日が蒼空の高みに昇った頃に、新選組隊士たちは揃って凱旋した。
 よく晴れた、実に清々しい日だ。
 昨日よりは幾らか風も出ているのが嬉しい。
 一晩眠れば熱も引き、伊織は留守部隊の山南らと共に門前で出迎えた。
 無論、尾形などの監察方一同もずらり揃っている。
 屯所に帰りついたその軍勢は、目を覆いたくなるほどの物々しさであった。
 近藤隊の面々は、皆が血飛沫で赤黒く染まっていたし、殆どの隊士の浅葱羽織が、深紅に染め替えられている。
 そんな団体が、口々に快哉を叫ぶ様は圧巻である。
 この蒼穹には、およそ似つかわしくない。
 これで京の街中を闊歩してきたというのだから、街人は余程に度肝を抜かれたであろうことが偲ばれた。
「お帰りなさい」
 一団の中に土方の姿を見つけると、伊織は出迎えの列から外れて飛び出した。
 すると、それまで晴れがましくも感じられた土方の表情が、ぐっと強張る。
「こンの、大馬鹿がッ!! なんっで寝てねェんだよ!! ああ!?」
「すッ、すいません! でももう治りましたって!」
「ふざけんな! 俺がどんだけ迷惑蒙ったか分かってんのかよ!?」
 顔を合わせた途端に怒声が鳴り響いた。
 それは覚悟はしていたけれども、何も全隊士の前で公然と怒鳴ることもないではないか。
 と、伊織は心密かに憤慨した。
「まあまあ、そう怒るな、トシ。高宮君も大健闘だったんだから……」
 先頭の馬上から、近藤の穏やかに窘める声が入るが、当の土方は耳も傾けずにくどくどと説教する始末。
「とにかくおめェはどんだけ心配掛けたら気が済むんだよ!? あれほど勝手な真似すんじゃねえって言っただろうが!」
「ほらほら土方さん、血圧上がりますよ?」
 耳にたこが出来るかと思うくらい、聞き慣れた土方の説教の途中で、もう一人口を挟んだ者があった。
 ふと声を辿って振り向けば、しっかりと地に足をつけて歩く沖田の姿。
 思わず、伊織も顔を綻ばせた。
「沖田さん! 良かった、元気になったみたいですね!」
「そういう高宮さんこそ!」
 お互いに僅かな時差で昏倒した者同士、回復を確かめ合ってしっかと手を握り合う。
 沖田の熱も大分引いたようだ。
 あとは。
「あー……、俺も見たかったなァ、高宮の大奮闘劇ィ」
「おーよ、凄かったぞー! 敵という敵をばっさばっさと右に左に斬り捨てて、さらに階段上から浪士一人蹴落としたんだからなー! 漢だよな!」
 額に分厚く包帯を巻きつけた藤堂と永倉の会話。
 永倉の傷は昨夜見た左手のものだけだったらしく、溌溂としているが、藤堂のほうは聞いた通りにかなりの重傷のようである。
 戸板の上に横たえられて運ばれて来たのだから、その程度は伺うまでもない。
「藤堂さん……、傷、早く治して下さいね?」
 どう声をかけて良いか、一時迷ったが、素直に口に出るまま話しかけた。
 血を流し過ぎたのか、顔色は蒼く唇の色も冴えない。
 元々が細面であるためか、より一層に具合が悪そうに見えてしまう。
 けれど、藤堂はそれでも笑った。
「なに深刻な顔してんのさー。大丈夫だよ、ホントはもう歩けるし。何なら起きて歩いて見せようか」
「いえ、そのまま寝ててください」
 不安げに顔を覗けば、藤堂は本当に身を起こそうとし、伊織は即座に止めにかかった。
「なに、信じてないでしょ!? 本当にもう大丈夫なんだって!」
「駄目です! 寝てないと血が出ますよ!!」
 戸板の上で揉み合うと前後を持つ隊士が大慌てでそれを力の限り支えようとする。
「それにしてもよー、総司と高宮がぶっ倒れた時の土方さん、見せてやりたかったよなァー!!」
 豪快な笑い声を上げつつ輪に加わるのは、原田だ。
 思い出し笑いのようだが、その笑い方が可笑しくて、伊織もつられてくくっと笑ってしまった。
 一体、自分が倒れたときの土方はどんな顔をしていたのだろう。
 原田がこんな風に爆笑するのだから、傑作だったに違いない。
 そこまでしっかと見届けておけばよかった。
 沖田にとっても興味深い話であったようで、横からにょっきりと顔を突っ込むと原田を問い詰め出した。
「なになに? 土方さん、どんなだったんです!?」
「死んじまった~! って泣いてやんの」
 思い出し笑いを続けつつも、原田はそこだけははっきりと真剣な声音で言う。
 原田を囲んで一同大爆笑だ。
「てめぇ、原田!!! 泣いてねえ! 嘘言ってんじゃねえよ! 汁粉なんか絶対奢ってやらねーからなッ!!」
「ええー、副長、俺には奢ってくださいよ! 俺はバラしてないじゃないですか」
 土方は炎が上がるほど顔を真っ赤に染めて叫び、島田は心底悲しそうに鬼副長に懇願する。
 島田もその証人であったらしいのだが、土方は厳しくもその異議申し立てを棄却した。
 原田のうっかり発言は、連帯責任である、と。
 屯所に盛大な笑い声が響くのは、随分と久しぶりに感じた。
 この隊士たちと肩を並べることの楽しさも、その厳しさも、ほんの少し理解出来た気がした。

     ***

「沖田さん、具合どうですか?」
 またその翌日になって、伊織は改めて沖田の寝起きする部屋を訪ねた。
 昨日皆が戻ったその後直ぐに、会津藩士らが多数押し掛けてきており、屯所内はいつもよりもやや手狭に感じる。
 報復に備えての警護だとか言う名目であるようなのだが、肝心の改めに遅刻しておいて何を今更、というのが伊織の本音だった。
 多分それは土方も同じだろうと思われる。
 しかし、それでも一応、伊織にとってみれば時代は違えど同郷の者たち。
 懐かしい会津の訛りが時たま耳に聞こえるのは、嬉しいような切ないような入り組んだ気持ちになった。
 訪ねた沖田の様子は、もう殆ど普段と変わらない。
「もうすっかり良いですよ!」
 と、本人も笑顔で言っている。
 その顔を見て、伊織はもう一度改めて安堵した。
 今は土方の厳命によって、伊織も沖田も揃って寝巻き姿だ。
 朝一番に下された命令が、「寝てろ」だった。
 その土方の隙をついてこうして沖田の部屋にまで忍んで来たのだ。
「本当に起きてて平気なんですか? 土方さんに怒られますよ?」
 全開になった縁側にだらだらと両足を投げ出す沖田の隣に、静かに腰を降ろす。
 気遣いのつもりで言ったのだが、沖田は片眉を上げて不本意そうにこちらを見た。
「それはお互い様じゃないですか。私よりも、副長室を脱走した高宮さんのほうが危険ですよ?」
「う、いや、まあ、そうかも……」
「でも、戻らないでくださいよ? 私も暇で死にそうだったんで、相手してください」
「じゃあ、連帯責任でお願いします」
 言うと、昨日の顛末が思い出されてしまった。
 沖田もぷっと噴き出す。
 そして笑いを噛み殺したままの奇妙に歪んだ顔で、沖田が尋ねた。
「土方さんに医者に行くように言われませんでした?」
「言われました、散々! 沖田さんも?」
「言われましたけど断りました~」
 昨日一日、土方と話せば二言目には医者医者で、正直うんざりしていたのだが。
 なるほど、沖田もその被害者だったのは頷ける。
 だが、それは伊織に言わせれば笑い事ではない。
「沖田さんは、本当にちゃんと診てもらったほうがいいんじゃないですか?」
 今後、沖田が患うであろう病を思えば、医者通いを勧めるのは当然のことだ。
 沖田の身を案じるがゆえの言葉なのだが、哀しいかな、それは当人には伝わらない。
「イヤです。私はお医者が嫌いなんですから! 高宮さんこそちゃんと診てもらいなさいよ」
「えッ!? イヤですよ! 怖いですもん!」
 ぎくりと肩を縮めてしまう。
 医者が怖いとは子供染みた事を言うと思われるかもしれないが、江戸時代の未知なる医学には、ちょっとした不審を抱いてしまう。
 誤魔化すように、伊織は傍に放られていた団扇を手に取ると、やや乱暴に煽いだ。
 そうして同じように縁側へと足を投げ出す。
 ふと空を仰げば、快晴だった。
 雲も千切れた綿屑のように点在するのみで、陽光はぎらぎらと照り付ける。
 夏の日は高い。
 太陽は庇の上を軌道に、天の真上へと昇っている。
 こんな厚い夏の日は、屋内にいるのが一番涼しくて済むのだ。
 時折その辺を通る隊士や会津の藩士たちに挨拶をされるが、その度に二人で快く労いをかけた。
 見る人見る人、皆汗だくになっているのがわかる。
 こうしてじっとしていても身体が汗に濡れるのだから、立ち働く者の汗は文字通り滝のようだった。
 そんな光景も、暑さのためか多少揺らめく。
 ふと、伊織は煽ぎ疲れた手を休めた。
「夢、見てたみたいなんですよね。気を失ってた時」
「……ふうん。私は覚えてないなぁ。気がついたら会所でしたから」
 沖田がちらりとこちらを窺う視線があった。
 だが沖田はまたすぐに庭先に視線を戻し、伊織もそれに目を合わせることはしなかった。
「一瞬、元の時代に戻れるのかと思ったんです。ここに来た時と同じような感覚だったから」
 訥々と話すと、沖田は一度外した視線を再び伊織の横顔に移した。
「でも、気がついたら、屯所にいたんですよ」
 結局、ただの夢だったんです、と区切り、そこで漸く沖田を振り向いた。
 沖田は投げ出していた足の片膝を胸に引き寄せ、じっと伊織の顔を覗き込む。
 平素とは違う、少々几帳面な面差しだ。
「それで? がっかりしました?」
「…………」
 がっかりしたかと訊かれて「いいえ」とは言わないが、何故か素直に、はい、がっかりしました、とも言う気にはなれない。
 少しずつ、ここに慣れてきているからであるかもしれない。
 けれど理由はそれだけではないことに、今の自分は気がついている。
「戻れたとしても……。今の私では、未来の世の中で何事も無かったように生きていくことは出来ないと思うんです」
 人を殺めることを犯罪と見做す世の中に、どう存在して良いのか分からない。
 新選組の一隊士として、敵とは言え人命を屠った事実は未来に帰っても消えることはない。
 要するに、残るのも戻るのも不安、ということなのだ。
「池田屋でも、沖田さんの様子がおかしかったのに気付いたから、先に駆け付けたんですけど……。初っ端から奥沢さんたちが倒れてるの見たら、何だか、……敵は斬り捨てて当然、なんて思って」
「あれ、なんだ、私のこと心配して来てくれたんですか?」
 途切れ途切れ話す合い間に、沖田は突如けろりとして問うた。
 そうして、軽やかに笑い声を上げる。
「あっはっはっ! 私もいやに懐かれちゃったなぁー。でも駄目ですよ、一応、飼い主は土方さんなんですからねー?」
「……飼い主って。私は犬ですか?」
 くくく、と笑いを抑えている沖田に、雰囲気はくるりと変えられてしまった気がする。
 人が真面目に話をすれば、すぐにこれだ。
 しかしややあってから、沖田は目尻を下げて改めて微笑んだ。
「いえ、頼もしい……というか、強くなりましたねぇ、高宮さんも」
 言って、沖田はぐりぐりと伊織の頭を撫で回した。
 島田の手よりは一回り近く細いが、節くれ立った手指の感覚は剣術家のそれである。
「私って、意外と新選組に向いてるのかも」
「そんな風に思えるまでになったんですねぇー」
 撫でる手は休めずに、うんうんと頷く。
 最近、褒められたり怒られたり、実に極端なことが続いているような。
「大丈夫ですよ。何処に戻れなくたって、もう立派にここで生きていけますって!」
 沖田の眼差しが、暖かい。
「自分の存在に、迷いさえしなければ、ね」
 付け足された沖田の一言に、今度はしっかりと答えた。
「今回の事件でやっと、本当の意味で諦めがつきましたよ。夢は、元の時代への最後の未練だったのかもしれません」
 話を締めくくりながら、伊織は妙な新鮮味を味わった。
 人を殺めて間もないというのに冷酷かもしれないが。
「向こうにも家族や親しい人たちがいるけど、今はここにも大事なものがありますから。ここにいるなら、私はそれを大切にしたい」
 そこで、頭上から手が離れた。
「大事なもの? それって私ですか?」
「……は?」
 大真面目に尋ねた沖田の意外な言葉に、瞠目した。
「だって、自分から土方隊についたのに、私のことが心配で助けに来てくれたんでしょう? そしたら大事なものって、私のことじゃないですか」
「え。まあ、沖田さんも含まれますよ? 勿論土方さんや局長も大事です。あ、尾形さんたちも、ね」
「あ、なーんだ。新選組のみんなが大事ってことかー」
 どうやら何か誤解していたようで、沖田は愉快そうに笑う。
 その通りだ。
 今や、ここは家族も同然だった。
 少なくとも、今の伊織にとっては。

     ***

「馬詰がいねえだと?」
 山崎と尾形の報告を聞くなり、土方は畳に煙管を突き立てた。
 おかしいとは思っていた。
 会所での点呼にも顔は見なかったし、それ以後も一度として父子共々姿を見かけない。
 どさくさに紛れて脱走したに違いなかった。
 しかし。
「あー、畜生!」
 苦虫を噛み潰す思いで、土方は唸った。
 何だってこんな時に脱走などするのか。
 隊士の数も少なく、その上何かと込み入ったこんな時期に。
 池田屋での事件以後、京都に潜伏する長州勢の残党狩りをせねばならない。
 その手勢を割いてまで、隊規違反者を追うべきなのかどうか。
「追いまっか?」
 何食わぬ顔で伺い立てる山崎の声が、尚苛立たしい。
 留守でいたくせに、もう少ししっかりと見張っていることは出来なかったのか。
「……くそッ! しょうがねえ、放っておけ。たかだか馬詰二人の為に隊士を割ける余裕はねえ!」
「ほな、そういうことで」
 これも土方の苦渋の決断だというのに、山崎は特に気にするでもなく、ただ言われればそれを汲む。
 いや、それで良い。良いのだが、何となく気に入らなかった。
 腹の立つのを抑えに抑え、土方はこめかみに手を当てる。
 それと前後して。
 傍らで何かが豪快に砕け散る音が響いた。
「あ。申し訳ありません、割ってしまいました」
 見れば、沢庵大根丸ごと一本を手にした無表情の尾形と、その傍らで無残にも粉々に割れた壷。
「…………」
「すみません」
「……何してんだ、おめぇもよ?」
「腹が減ったもので」
 さっきから一言も口を開かないと思えば、少し目を離した隙に。
「腹が減ったからって、人の隠して置いた壷見つけて中身食ってんじゃねえよ!」
「副長こそ何処に何隠しとんねん。アホか」
「揃いも揃ってどうなってんだよ監察方はァ!?」
 怒りの矛先を尾形に向けるも、当人は顔色一つ変えずに先ずはぼりぼりと土方の大切な沢庵を食し、続いてやおら破片の片付けに入った。
 いくら緊張が一つ解けたからと、これはさすがに土方もぐったりと気落ちした。
 平素のこれさえなければ、監察方は優秀な人材揃いなのに。
「んで、さっきから気になってんだが」
 土方は奥歯を噛み締めながら、ついでとばかりに山崎に尋ねる。
「俺ァたった小半刻、部屋を開けただけだ。ところがどうだ。出る前にはそこに養生してた伊織が、戻った時にゃ忽然と消えてやがる」
 これはどういうことだか、と。
「……副長も過保護すぎんのとちゃうか。大方、隣の部屋にでもおんねやろ」
 面倒臭そうな答え方をした上に、山崎は胡乱な眼差しでぺッと唾を吐き捨てる。
 土方の脳内で、何かが音を立てて崩壊した。
「てッ、てめェ……! 汚ぇなゴラァ、やまざきゃァアー!!!」
「ああもう、やかましい。さっき沖田はんと何や仲良うしたはったで」
「あんのガキども……!」

     ***

 京都の夏の匂い。
 それは初めて味わうものだった。
 きっとこれから、もっと多くのことをこの身に刻んでゆく。
 伊織は畳の上にだらりと横たわる沖田へ向けて、はたはたと団扇の風を送った。
「沖田さん、これからもよろしくお願いしますね」
 控え目に声をかければ、沖田はむくりと顔を上げて、ニッと前歯を見せる。
「こちらこそー」
 平穏の時。
 ……で、あるはずだった。
 遠雷にも似た足音が突如として起こり、次の瞬間にはその穏やかな空間を瓦解させるかのごとく、鬼が現れた。
「てめーェらァーッ!! まとめて医者に行けってんだよ! 切腹だコラ!!」
「ギャア! すいません! 連帯責任連帯責任!」
 虫の居所の頗る悪そうな土方に縮み上がり、伊織は即刻その場に平謝りを繰り返した。
 ところが沖田は。
「わー。なまはげが出たー」
 と、面白そうに笑うばかり。
 さすがだ。
(私もまだまだ頑張らないと……)
 沖田のように泰然自若と振舞うことが出来るのには、まだ果て無く修行が要るだろう。
「誰がなまはげなんだよ!」
「ちょっと土方さん、機嫌悪いからって八つ当たりしないでくださいよ」
「うるせェ! てめーらは心配ばっかりかけやがるし、どっかの馬鹿親子は脱走するし、山崎は唾吐きやがるし!!!」
「あはは。唾吐かれたんですか?」
 山崎は兎も角、馬鹿親子というのは馬詰らのことだろう。
「それって馬詰さんですよね? 脱走したの。息子さんのほうが、何処かの子守女中を孕ませちゃったらしいですよ」
 と、確か記憶にあるのだが。
 すると、土方も沖田もぱちくりと数回瞬きをした。
「おい、本当のことなのか、そいつは」
「え、確かそうだと思いましたけど……」
「へえー、馬詰君、そうだったんだ。これは土方さんもぐうの音も出ないや」
 土方の過去の所業を示してか否か、沖田は意味深に含み笑う。
「一部の隊士にからかわれたりしてたらしいですから、肩身狭くなっちゃったんでしょうね」
「……だっから、てめーも何でこういつもいつも後になってから教えやがんだよっ!」
 後から教えるのは、一応伊織なりに配慮してのこと。
 だが、その部分も理解して貰うまでの道程はまだ遠そうである。

     ***

 寝巻きから単衣に着替え、伊織は沖田と連れ立って屯所の裏門へと歩いていた。
 いつまでも医者へ行けと言ってきかない土方に、二人仲良く部屋を放り出されたのだ。
 外は茹だるような暑さだ。
「どうでもいいですけど、私、お医者の宛てなんてさっぱりなんですけど?」
「……私も知りませんね。ちょうど良いじゃないですか、何処かで暇を潰して来ましょう」
「沖田さん、それも連帯責任でお願いしますよ?」
 だらりだらりと足を引き摺るようにして、時折額の汗を拭う。
 外に出てまだ間もないのに、汗はもう流れ落ちるほどである。
 京都の夏、侮り難し。
 下駄の音も、心成しかずるずるとだらしなく鳴る。
「でも、どこに行きますか? この暑さではあまり遠くには行きたくないですよ?」
「そうですねえ、氷でも食べに行きましょうか。お天道様もちょっとお休みしてくれると助かるんですけどね」
 沖田の笑顔も外に出た途端に、だらけ出している。
 氷菓子、それならば良い暇つぶしになるかもしれない。
 もし医者へ行かなかったと発覚したらまた怒られるだろうが。
「でもね、高宮さん」
 と、沖田が右腕を掴んだ。
 怪我を負ったほうの腕だ。
 完治こそしていないが、今はもう痛みも引いていたし、無理に動かさなければまた剣を握ることも出来るようになる。
 実際に右腕に不自由は出ていないし、少しの間佐々木の剣術稽古を休めば良い。
 しかし、沖田は伊織の袖を捲り上げ、上腕に巻かれた包帯を眺めた。
「怪我はちゃんと診てもらいなさいよ?」
「……はあ」
 意識を失ったままの状態で処置されたから良かったが、傷口を縫われているのは察しがついた。
 時々引き攣るような感覚がある。
「そのうち抜糸もしなきゃならないでしょうから、行きますけど」
 けれどその抜糸もまた、痛かったりするのだろうな、と想像して寒くなる。
 暑いのもうんざりだが、こういう想像で寒くなるのももっと嫌だ。
 自分で医者の診断を聞いたわけではない。
 運んでくれた島田から又聞きしただけだ。
 それは伊織に限らずこの沖田も同様だし、土方も事後報告の中で診断を聞いただけである。
 だからあれほどに心配するのだろう。
「剣が使えなくなっては困りますからね。この次にはちゃんと行きますよ」
 まだ一歩を踏み出したばかりで腕が利かなくなるのは御免だ。
 いくら江戸時代の医術が怖いといっても、これは考えを改めざるを得なかった。
 うん、と一人自分に言い聞かせるために頷く。
「高宮さんが稽古休んだら、佐々木さん、寂しがるでしょうねぇ」
「乗り込んで来たりしたら、嫌ですね……」
「長州の報復より、佐々木さんの襲撃に備えたほうが良さそうですよねっ! アハハハ」
 のんびり、悠々とした口調で沖田は笑った。
 決して楽ではない、ここでの生活。
 けれどこうして隣にいてくれる人がいる。
 そして、心配してくれる人がいる。
 共に笑い合う人がいる。
 それは何も、特別なことではないのだけれど。
 大変なことのほうが多いし、乗り越えねばならない壁も、まだ山積している。
 それでも、ここが自分の居場所であると信じる。
 ここ以外に身を寄せる宛てもないし、ここ以外にこれほど自分を受け入れてくれる者もない。
 帰ろう、とはもう思わなくなっていた。
 ここで生きて、皆を守ろう。
 出来得る限り。
 もう帰れない、否、帰ることのないであろう未来のためにも。
 ここにいる沖田や、土方や近藤の意志を、その道を、しかとこの目で見届けよう。
 そのために、強くなろう。
 てれてれと先を歩く沖田の背中を見つめた。
「ほらほら、早く来ないと御代は高宮さん持ちですよ?」
 強い日差しの下、悪戯っぽく笑う沖田の顔が振り向くと、伊織も知らずと口の端が綻んでいた。


【第十章へ続く】
しおりを挟む
感想 1

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

晩夏の蝉

紫乃森統子
歴史・時代
当たり前の日々が崩れた、その日があった──。 まだほんの14歳の少年たちの日常を変えたのは、戊辰の戦火であった。 後に二本松少年隊と呼ばれた二本松藩の幼年兵、堀良輔と成田才次郎、木村丈太郎の三人の終着点。 ※本作品は昭和16年発行の「二本松少年隊秘話」を主な参考にした史実ベースの創作作品です。  

淫らに、咲き乱れる

あるまん
恋愛
軽蔑してた、筈なのに。

『 ゆりかご 』  ◉諸事情で非公開予定ですが読んでくださる方がいらっしゃるのでもう少しこのままにしておきます。

設樂理沙
ライト文芸
皆さま、ご訪問いただきありがとうございます。 最初2/10に非公開の予告文を書いていたのですが読んで くださる方が増えましたので2/20頃に変更しました。 古い作品ですが、有難いことです。😇       - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - " 揺り篭 " 不倫の後で 2016.02.26 連載開始 の加筆修正有版になります。 2022.7.30 再掲載          ・・・・・・・・・・・  夫の不倫で、信頼もプライドも根こそぎ奪われてしまった・・  その後で私に残されたものは・・。            ・・・・・・・・・・ 💛イラストはAI生成画像自作  

ママと中学生の僕

キムラエス
大衆娯楽
「ママと僕」は、中学生編、高校生編、大学生編の3部作で、本編は中学生編になります。ママは子供の時に両親を事故で亡くしており、結婚後に夫を病気で失い、身内として残された僕に精神的に依存をするようになる。幼少期の「僕」はそのママの依存が嬉しく、素敵なママに甘える閉鎖的な生活を当たり前のことと考える。成長し、性に目覚め始めた中学生の「僕」は自分の性もママとの日常の中で処理すべきものと疑わず、ママも戸惑いながらもママに甘える「僕」に満足する。ママも僕もそうした行為が少なからず社会規範に反していることは理解しているが、ママとの甘美な繋がりは解消できずに戸惑いながらも続く「ママと中学生の僕」の営みを描いてみました。

赤い鞘

紫乃森統子
歴史・時代
 時は幕末。奥州二本松藩に朱鞘を佩いた青年がいた。名を青山泰四郎。小野派一刀流免許皆伝の、自他共に認める厳格者。  そんな泰四郎を幼少から慕う同門の和田悦蔵は柔和で人当たりも良く、泰四郎とは真逆の性格。泰四郎を自らの目標と定め、何かとひっついてくる悦蔵を、泰四郎は疎ましく思いつつも突き放せずにいた。  やがて二本松藩の領土は戊辰戦争の一舞台となり、泰四郎と悦蔵は戦乱の中へと身を投じることとなる…。

だんだんおかしくなった姉の話

暗黒神ゼブラ
ホラー
弟が死んだことでおかしくなった姉の話

服を脱いで妹に食べられにいく兄

スローン
恋愛
貞操観念ってのが逆転してる世界らしいです。

処理中です...