新選組秘録―水鏡―

紫乃森統子

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第1部

第五章 和気藹々

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 足音を忍ばせて、副長室へ向かう人影。
 夜の闇に紛れるようにして、影は副長室の中に滑り込んだ。
「お呼びですか、土方副長」
 若い男の精悍な声が、土方に向けて発せられた。
 土方は縁側で句作に興じていた手を止め、男を振り返った。
「ああ。君に少し頼みたいことがある。面倒だろうが、今のところ、君以外に適任者はいない。頼まれてくれるか、尾形君」
 土方は副長らしい威厳を見せ、真顔で言う。
 新選組副長助勤、尾形俊太郎に。
「……頼みたいこと、とは?」
 尾形は小首を傾げる真似で一応そう尋ねるが、元より土方の頼みを断る気などない。
 土方はそんな尾形を見透かしたように、せせら笑った。
「君のように頭の良い男なら、何の頼みかくらい、もう気付いているんじゃないのか?」
 尾形は身じろぎもせず目だけを伏せ、低く返答する。
「──わかりました。引き受けましょう」

     ***

 同じ頃。
 屯所の庭では、先日中止になった伊織の歓迎会が盛大に催されていた。
 この夜は久しぶりに晴れ間も出て、星も見える。
 それゆえに、総員一致で会場を庭にすることに決めたのだった。
「おらおら、高宮も呑めよ! おめーの歓迎会なんだからよぉ~!!」
「あ~、原田さん、私はお酒は呑めないんですよ」
 誰よりも先に出来上がった原田に絡まれ、伊織はたじたじになりながら原田の酌を断る。
「いけないよ原田君。高宮君も困ってるじゃないか」
 人の良い笑顔でのんびりと助け船を出すのは、今夜の主催でもある山南だ。
 いつもの調子で優しく穏やかに原田をたしなめるが、あまり効果はない。
「あんだよ~! そんな事言わずに山南さんも呑めよ~!!」
 原田は、酔った赤ら顔で山南にも絡みつく。
 だが、山南は特別嫌な顔をするでもなく、軽く笑って原田の酌を受けた。
 その隙に、伊織は原田の酌攻撃を免れる。
 乾杯の前に一通りの紹介を受けたのだが、一人一人と話をしてみるのも悪くない。
「高宮、こっちこっち! 左之助なんか放っておけよ!」
 手招きして伊織を呼んだのは、永倉新八。
 伊織は呼び声に応じてすぐさま永倉の側へと寄っていった。
「原田さんはああなると厄介だからな~。構ってたらキリがないよ?」
 永倉と酒を酌み交わす藤堂平助が苦笑する。
 伊織はそれに乾いた笑いで答えると、永倉と藤堂の間に座り込んだ。
 今夜の宴会に顔を出している隊士は、近藤・土方を除く江戸試衛館からの古参ばかりのようだった。
 皆、副長助勤の職にある者たちばかりで、その顔触れは錚々たるものだ。
 ほとんどが二十代前後半の若さだというのに、迫力が違う。
 土方や近藤のそれとはまた少し別種のものだが、それぞれ何でもない笑顔の中にも、一つ猛者たる気概が見える。
 これが新選組。
 改めてそう思わせる光景でもあった。
「それにしても、高宮って可愛い顔してるよな。本当に男か?」
 いつの間にかしげしげと伊織を覗き込んでいた永倉が、感心したように言った。
「あれぇ、永倉さん、ひょっとしてソッチの気があるの?」
 横から藤堂がからかい笑う。
「馬鹿、違うよ! 女みてぇだと思っただけだろ!!」
「なぁんだ、俺てっきり、永倉さんの好みなのかと思った」
「うるせーなー、呑め! いいから呑め!!」
 原田に限らず、やはりこちらの二人も酔いは回っているようだ。
 そこへ、沖田が首を突っ込んで来た。
「楽しそうですねぇ! 私も混ぜてくださいよ!」
 明るく大きな声で言う沖田の顔も、やはりと言うか、ほんのり赤みが差している。
(あちゃー……。沖田さんまで酔ってるよ)
 誰かまともに会話が出来そうな者はいないかと、伊織は周囲を見回した。
 山南は相変わらず原田にまとわりつかれているし、永倉や藤堂、沖田もこの調子だ。
 他には、一人木に背を預けて杯を煽る斎藤一と、もう既に酔いがまわってうとうとしている井上源三郎。
 今にも夢の世界に入りそうな井上に話しかけるわけにもいかないが、斎藤にはもっと話しかけるわけにいかない。
 杯を干しては酒を酌み、そしてまたそれを干す。
 ひっきりなしにそれを繰り返しているかと思えば、急に手を止めてブツブツと独り言を言い始める。
 よく見れば、斎藤の目は恐ろしいくらい座っているのだ。
 そんな人に話しかけるのは、危険すぎる。
(なんだか、癖の悪い人ばっかりだな……)
 ここに土方がいればまだ違うのだろうが、伊織は少しだけ肩身の狭さを感じてしまう。
 身の置き場がないような気がするのだ。
 そうしてもう一度、居並ぶ面々を眺める。
 と、ある一点で伊織の視線が凍った。
 いるはずのない人間と目が合ったのだ。
 恨めしそうに伊織の目をじとっと見つめてくるその人から目を放せぬまま、暫し瞠目する。
 そしてその均衡を破れぬままに、伊織は傍らの沖田の肩を叩いた。
「どーしました? 高宮さん?」
 酒のせいで、とろんと眦を下げた沖田が振り向くと、伊織は青ざめた顔で訴えかける。
「おっ、お、おぉッ……、お……さん! あれ、ななな何でっ!」
「え? おっさん?」
 一方向を見つめて固まる伊織につられて、沖田もそちらに目を向ける。
 そして、沖田は急に弾けたように笑いだした。
「あははははははっ!! 本当だ! おっさんがいますね!!」
 沖田の言う『おっさん』。
 それは佐々木只三郎。
 その隣には、蒔田広孝。
「そうじゃなくて! どうしてあの二人が来てるんです!?」
 沖田はふざけて『おっさん』と言うが、佐々木は土方よりも二つ年上なだけである。
「沖田さんっ! あの二人を呼んだのは誰です!?」
 げらげら笑う沖田を激しく揺さぶり、伊織は怒鳴る。
 これ以上変な酔っぱらいに絡まれては、たまらないのだ。
「えっえぇ~? 私は知りませんよぉー? あはははは、おっさん!!」
 笑いのツボに入ったのか、伊織がどんなに揺さぶっても沖田の笑いは止まらない。
 これだから酔っぱらいは嫌だ、と伊織は思う。
「あ、すまないね。お二人は私がお呼びしたんだよ」
 くたくたになった原田に張り付かれたまま、山南が口を挟めた。
「えっ……。や、山南さぁん……」
(余計なことを……)
 山南に悪気がないのはわかるが、伊織にとってはあまり有り難くない賓客なのだ。
 先日垣間見た彼らの本性が、嫌でも思い出されてしまう。
 そんなこんなで内輪もめをするうちに、伊織は突如、もの凄い勢いで腕を引かれた。
 その反動で、笑いっぱなしの沖田が地面に転がる。
 何の執念か、それでも沖田は笑い続けた。
 だが、伊織に沖田を構っている余裕など与えられなかった。
「こっ、こんばんは……佐々木さん……」
 何を言えばよいか分からず、伊織は無難に挨拶したが、佐々木はしっかりと腕を掴み、相変わらず無言でじっとりと視線を浴びせかけてくる。
「うわー、高宮さんて佐々木さんとそんな関係だったわけ?」
 珍しい物でも見るように、藤堂が好奇の眼差しを向ける。
「おーい左之助! 高宮持ってかれちまうかもしんねーぞ!?」
「あぁーん? 知らねぇよ~。俺、山南さんがいればいいや~」
「はははは。気持ち悪いよ、原田君」
 周りはさっぱり助けに入る様子もなく、見物を決め込んでしまっている。
 この状況を打破すべく、伊織は勇気を出して佐々木の目を真っ向から睨みつけた。
「私に男色の趣味はないので、無闇に触ったり見つめたりしないでください!」
(言った! 言ってやった!)
 内心で自分を褒めつつ、伊織は殊更鋭く佐々木を見返す。
 すると佐々木は腕を放さないばかりか、伊織の肩にぽすんと顔を伏せた。
「伊織が私に会いたがっていると聞いたから、来たというのに……」
「!? 山南さんッ! そんなこと言ったんですか!?」
「え? あぁ、そうだね。私はニワトリかな」
(何言ってるの、山南さん!!?)
 平然としている割に、山南も大分酔っているらしい。
 質問の答えになっていない上に、もはや会話にもなっていないのだから。
「聞いているのか、伊織。私を無視しないでくれ」
「うわ、ちょっと! おでこでグリグリするのはやめてください!!」
 伊織の肩に額を擦りつけるように甘える佐々木も、相当に酒が入っている。
 そこへ、今まで一人で酒を呑んでいた斎藤が、颯爽とこちらへ向かってきた。
 そして、伊織の真横でぴたりと足を止めると、目だけを動かしてこちらを見る。
「──プッ。クスッ」
 それだけで斎藤は横を通り抜け、一人で屯所の中へ入って行ってしまった。
(斎藤さん!?)
 唖然とする伊織。
「あっはははははっ!! みなさん面白いですねーぇ!!」
「平助! 俺ら、まだまだ呑みが甘いぜ!」
「さささ、永倉さん! どうぞもう一献!」
「伊織ィ! 私を抱いてくれ!!」
「ヒィッ!! 蒔田さんッ、これ、早く持って帰ってください!!!」
「そう言わずに、佐々木を抱いてやってくれ……。可哀想な奴なんだ。このままでは浮かばれぬ……」
「佐々木さんは生きてますよ!!」
 もはや収集はつかなくなっていた。
 今夜の主役は自分であるはずなのに、と伊織はどことなく切なさまで覚える。
 この中に、まともに話が出来る者など一人もいない。
 そこで伊織は絡みつく佐々木を押し退けて、さっと立ち上がった。
「土方さんを呼んできます!」
 この事態を収拾できるのは、もう土方しかいない。
 土方の顔を見れば、皆も少しはしゃきっとするだろう。
「伊織が私を苛めた!! 蒔田っ、伊織が……!」
 伊織に突き放された佐々木は蒔田の腕にしがみつき、ごちゃごちゃと嘆き始める。
 それを蒔田はもちろん、山南や原田も一緒になって佐々木を慰め出し、伊織の佐々木に対する仕打ちを避難し出した。
「高宮君、一度くらい抱いてあげればいいじゃないか……」
「おらおら元気出せよ~、佐々木さんよォ! 何なら俺が抱いてやろうか?」
「伊織! 佐々木の最期の願いだ!! 叶えてやっては貰えまいか!!?」
「だから佐々木さんは生きてるでしょうが!! 当分死にゃあしませんよ!」
 群がるへべれけの波をかき分けて、伊織は屯所の中へと駆け込んだ。
 急ぎ足で玄関を上がったところで、伊織は正面から人とぶつかってしまった。
「ふぎゃッ!!?」
 鼻を思い切りよくぶつけてしまい、反射的に手で押さえ、目の前に立ちはだかる障害物を見上げる。
「話がある。部屋に戻れ」
 土方だった。
 夜の帷の効果も手伝って、その声はいつにも増して単調に聞こえた。
「あっ、ハイ。……でも、あのう、みんなすごく酔ってて……」
「放って置け。もう大人しくなるだろ」
 土方はあっさりと伊織の報告を受け流し、さっと身を翻すと、奥へと戻り始めてしまった。
 何かいつもと様子の違う土方に、伊織は庭の酔いどれたちを気にしつつ、その後に続いた。

     ***

 暗い廊下を黙って副長室まで歩み戻り、伊織は土方に言われるまま部屋に入った。
 明かり取りの灯で薄ぼんやりと照らされる室内に、見たこともない若い男の姿があった。
(誰だろう……)
 首を傾げたものの、その疑問を口にする間もなく、土方が男の名を呼ぶ。
「尾形君、こいつがさっき話した伊織だ」
(──尾形?)
 無表情に伊織と目を合わせた尾形は、軽い挨拶程度に会釈すると、再び土方に目を向ける。
 伊織は吸い寄せられるように尾形の正面に座り、恐る恐る尾形に話しかける。
「尾形俊太郎さん?」
 すると、それまで表情のなかった尾形の顔色が、やや驚きを示した。
 やはり言葉はなかったが、それに代わって土方が口を開く。
「よく知ってたな。まったく、おめぇにゃ驚かされる」
 感嘆を押し隠したような呆れ顔で言い、土方もどっかりと腰を据えた。
「伊織。当分の間は、尾形君の下についてもらう。単独行動は厳禁だ。異存はねえな」
「尾形さんの下に?」
「本格的な監察の見習いだ」
「やっぱり、やるんですか。監察……」
 監察方になれば、当然のことながら重大な責任がついてまわることになる。
 それが自分には少し不釣り合いに思えて、伊織にはあまり気の進むものではなかった。
 その背を後押しするように、土方は言う。
「おめぇにしか出来ねぇこともある。それにな、俺の小姓やるだけで、タダ飯が食えると思うな」
 この一言には異を唱えることなど出来るはずもなく、伊織は神妙に土方に従う姿勢を見せた。
「ともかく、ある程度の働きが見込めるようになるまで……、尾形君。こいつは君に任せる。頼んだぞ」
「わかっています」
「ただ、先の約束もある。剣だけは佐々木のところに習いに行かせる」
 伊織はがっくりと肩を落とした。
 監察見習いと平行して土方の小姓も勤め、なお剣の稽古も受けねばならない。
 大忙しになるであろう今後を思うと、つい溜め息の一つも吐きたくなる。
「嫌なら佐々木に売ってやってもいいが……?」
 土方に足下を見られ、伊織は慌てて姿勢を正す。
「嫌だなんてとんでもない! 頑張って勤めさせていただきます!」
 伊織のこの返答に、土方は満足げに口元を弛め、ただ一度頷いて見せた。
 伊織は尾形に向き直り、その双眸にぴたりと視線を合わせると、深く座礼した。
「よろしくご指導の程、お願いします」
「……よろしく」
 あまり愛想が良いとは言えない尾形であったが、土方の信任あってまず間違いはない人物のようだ。
(とりあえず、仲良くなろう……)
 と、伊織は思う。
 感情を臆面にも出そうとしない尾形に一抹の不安を抱きながらも、伊織は新選組の一員としての覚悟を新たにするのであった。
 そこでふと、歓迎会のその後が脳裏を掠めた。
 土方の言うように今頃は大人しくなっていれば良いが、そうでなければ一体誰があの呑んだくれたちを撤収させるのか。
「……土方さん」
 伊織は土方の顔を窺う。
 土方も呼応して伊織の目を見た。
「庭の酔っぱらい、どうにかなりませんか……」
 申し訳なさそうにこぼした伊織から目をそらし、土方は不快そうに舌打ちする。
「ったく。仕方ねえな」
 土方は嫌々ながらも立ち上がり、伊織と尾形の二人を残して庭へと出ていった。
 土方が副長室を出た後も、二人は暫く口を聞くこともなく、気まずい雰囲気の中にいた。
(何を話せばいいんだろう……この空気、嫌だな)
 伊織とは目も合わせず鎮座する尾形の様子は、どことなく話しかけ難い。
 かと言って尾形は副長室を退室する気配もなく、目を伏せたまま座り続けている。
「……高宮。で、いいか?」
「えっ、はい。――って、は?」
 突然沈黙を破った尾形の問いに、伊織は軽く狼狽える。
「呼び方のことだ。姓で呼んだほうが良いのか、それとも副長のように伊織と呼んだほうが良いのか……」
「あ、あぁ……。いえ、お好きなほうでどうぞ?」
「じゃあ、高宮と呼ばせてもらうかな」
「はぁ」
 初対面で若干身構えているせいもあるのかもしれないが、どうも尾形相手だと調子が狂ってしまう。
 だが、今後は師となる人物だ。
 会話くらい普通に出来なくては。
「……えーと、土方さん遅いですね。ちょっと様子を見に行きませんか?」
「今顔を出せば、今度こそ佐々木さんに食われるぞ? 来てるんだろう?」
「ええ、来てますよ……って! 気味の悪いを言わないでくださいよ!?」
 表情を変えずにさらりと言われたため、伊織もうっかり聞き流してしまうところであった。
「女装したお前に惚れて熱を上げているらしいが、まだ念友にはなってないのか?」
 気味が悪いとはっきり言っているのに、尾形は尚あっさりと恐ろしいことを言う。
 『念友』という語句を用いるあたり、伊織が女子だとは気付いていないようだが。
「まだも何も、私と佐々木さんが念友になることは一生ありませんって」
「そうなのか? 罪作りだな、お前」
「人聞きの悪いことを言わんでください」
 尾形の揶揄にむすっと眉を顰めると、尾形の表情に初めて変化が表れた。
 苦笑を浮かべた尾形は、少なくともさっきまでの無表情より親しみ易い。
「悪い、冗談だ。そう拗ねるなよ」
「まったく。どういう人なんですか、あなたは!」
 尾形は一拍置いて、再び真顔になる。
「暫くは基本的に俺と行動することになる。だから女装も当面お預けだ。その間に佐々木さんの熱も引くだろうよ」
 伊織が言葉を返す前に、尾形は続ける。
「ま、剣の稽古はしっかりつけてもらえ。何しろあれでいて小太刀日本一と言われる男だからな」
「あ、それ知ってます! でも何だかがっかりしましたよ。ああいう人だったとは……」
「まあ、そう言わずに、しっかり学ぶことだ」

     ***

 翌早朝、伊織は土方よりも早くに起床し、まずは顔を洗いに庭の井戸へ足を運んだ。
「!?」
 井戸の前まで来て、伊織は我が目を疑った。
 互いの背に背を預けつつ、井戸にもたれかかって眠りこける、見廻組の二人。
「……何なの、この二人……」
 呆気にとられ、思わず声に出して呟いた。
 その伊織の声で、佐々木が気だるそうに目を覚ます。
「うー……伊織、もう少し優しく起こしてはくれぬか……」
 宙を泳ぐようにして、佐々木の手が伊織の袴に伸びた。
 唖然として思考の止まりかけていた伊織は、迂闊にもその手に気付かず、次の瞬間凄い力で袴ごと引っ張られてしまった。
「うおわぁッ!!」
 引っ張られたかと思うと、今度は地に膝を着いた伊織に、佐々木が前のめりになって寄りかかる。
「重ッ!! ちょっと! こんなところで一晩寝てたんですか!?」
 伊織は、まだ半分夢の中の佐々木を必死で支える。
「伊織……。私を抱い……」
 その刹那、伊織の腕力が限界を超越した。
 自分よりもずっと大きな佐々木の身体を容赦なく突き飛ばす。
「永眠してしまえ!!」
 井戸を諦め、伊織は本能の命ずるままに副長室へと取って返した。

     ***

「土方さんッ!!!」
 思い切りよく障子戸を引き開けたため、戸は数寸柱から跳ね返る。
 その騒々しさに、土方は不機嫌極まりないといった様子で目を覚ました。
「っるせえな……何だよ」
「何だよじゃないですよ! どうして昨日のうちに佐々木さんと蒔田さん帰さなかったんですか!!?」
「あー?」
 やはり鬱陶しそうに上体を起こす土方の傍に寄り、伊織は益々声を荒げる。
「あの二人、井戸で寝てたんですよ、井戸で!!」
「いいじゃねえか。井戸ぐれぇ貸してやれ」
「良かないですよ! 危うく襲われるとこだったんですから!」
 怒り心頭でまくし立てる伊織に、土方も寝起きのやや掠れた声で怒鳴り返す。
「仕方ねぇだろ! 俺だって昨日、おめぇのとばっちりで佐々木に食われかけたんだぞ!!?」
「だったら抱いてあげれば良かったのに!」
「馬鹿かてめぇは!! そんなに嫌なら井戸に投げ入れて来い!」
「嫌ですよ! 井戸が使えなくなっちゃうじゃないですか!!」
「やあ、賑やかだねぇ」
 激しい口論を繰り広げる伊織と土方に、第三者がほのぼのとした声をかけた。
 山南である。
 昨夜は原田のせいで結構酒が進んでいたはずなのに、今はそれを全く予想させない清々しい顔だ。
「あっ、山南さん! おはようございます」
 伊織は咄嗟に山南へ向き合うと、笑顔で挨拶する。
 元は山南が招いた要らぬ客人を巡る悶着だが、山南本人に悪気のないことを知っているため、何も文句は言えなかった。
 そういう伊織の態度が気に入らなかったのか、土方は苦々しく溜め息をついて、また布団に潜り込んでしまった。
「アッ!! 土方さん! ふて寝ですかっ!?」
 話はまだ終わっていない、と土方を起こそうとしたが、山南によって宥めすかされた。
「まあまあ高宮君。まだ時間も早いし、いいじゃないか」
「でも……」
「それよりも、さっき尾形君が君を探していたんだが、行ってあげたらどうだい?」
 尾形という名に、伊織はぴくりと反応する。
 こんな早朝から、一体何の用だろうか。
 これを境に、伊織はこれまで頭の中を占領していた佐々木の一件を追い出す。
「尾形さんは、今どちらに?」
「さっき井戸のところで会ったよ」
 山南が答えてすぐに、伊織は首を竦める。
「私がさっき行った時は、佐々木さんと蒔田さんが寝ているだけでしたよ?」
 ちょうど入れ違いになってしまったのかと思ったが、山南はそれ以上に不可解そうな表情になった。
「おかしいな……。私が行った時には、尾形君しかいなかったと思うが……」
 二人が一様に腑に落ちないでいると、何故か土方の奇声が上がった。
「ンぎゃあッ!!!」
 びくっとして声の方を見ると、ちょうど土方が布団から這い出てくるところであった。
「なななな何で俺の布団にッ!!?」
「土方君。お主ばかり狡いぞ……」
 目にしたその光景には、伊織も山南も開いた口が塞がらなかった。
 土方の布団から顔を覗かせる、佐々木の姿。
 そして枕元には、じっと正座する蒔田。
 ついさっきまで井戸にいたはずなのに、どこから副長室へ忍び込んだのか、甚だ疑問である。
 というより、気味が悪い。
 土方が腰を抜かすのも解る気がする。
「えーと、尾形さんは井戸にいたんでしたっけ……」
 言いながら、伊織は取るものも取り合えず、副長室を後にした。
 今見た奇怪な出来事を、見なかったことにして。

     ***

「尾形さーん!」
 庭に降りた伊織は、辺りを見回しながら尾形の名を呼ぶ。
 ようやく朝稽古に出てきた隊士の姿もちらほらと見られ、流れる空気にはほんのりと朝食の炊き出しの匂いが混じる。
 井戸の周囲にまで来て、伊織は尾形の姿を見つけた。
 と同時に傍まで駆け寄り、頭を下げて挨拶する。
「おはようございます。山南さんからここにいるって聞いて来たんですが、こんな早くから何かあるんですか?」
 尋ねた伊織を鋭利な目つきで見、尾形は淀みなく言った。
「四条河原町へ出かける。宴会で腑抜けたその顔を洗って、早急に支度してもらおう」
 昨夜言葉を交わした時とは違い、尾形の顔は完全に監察のそれになっていた。
 尾形の厳粛な態度が伊織にも緊張を伝え、自然と表情が引き締まる。
「四条河原町……。わかりました。すぐに準備します」
 伊織の胸中が、不意に波立つ。
 いよいよ近づく大事件は、あまりにも有名だった。
 その日が今急に、近寄る足並みを速めたような気がした。


【第六章へ続く】
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