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第1部
第四章 二者択一
しおりを挟む「くれぐれも、佐々木殿に失礼のないようにな?」
伊織の心境などまるで無視するかのように話は進み、この日、伊織は佐々木と二人で会うことになった。
その全ては、今目の前で事前注意を申し渡す近藤の取り計らいだ。
土方からはあれ以来、この事については何の言葉もなかった。
「心得ました」
項垂れたままで返答すると、近藤は伊織の傍にまで来て励ますかのように肩を叩いた。
「佐々木殿のところでならば、君も無理な男装などせずに済むんだ。普通の女子として暮らすことが出来る。何よりじゃないかね」
そう言った近藤の顔に、悪意は感じられない。
土方の言っていた通りに、全ては伊織に良かれと思って勧めているのだ。
近藤にしろ佐々木にしろ、その心遣いは有り難いとは思う。
だが、伊織にとってそれは、自分が新選組の厄介者なのだと思い知らされているようで辛いことでもあった。
本来、いるはずのない人間。
いてはならないはずの人間。
この時代には、不必要な人間。
そんな解りきったことが、今更重く肩にのし掛かる。
「局長」
「何だね?」
「局長は、私がお邪魔ですか」
真っ直ぐに近藤の目を見据えた。
「……急にどうした?」
近藤の表情が、僅かに狼狽のそれに変化する。
「私が新選組にいては、目障りですか」
逸らすことなく近藤を見つめ、すると近藤もまた険しい眼差しで伊織を見た。
「──正直なところ」
伊織は次の句を待って、固唾を飲む。
「新選組に女子は要らぬ」
一片の迷いもなく言い切った近藤を、この時ばかりは憎いと思った。
行く宛も頼る宛もない自分を、他人に押し付けるような真似をするのか、と。
形だけとは言え、妾として差し出されようとしている我が身が、道具のように扱われているような気さえした。
下唇をきつく噛みしめ、ふいと顔を背けると、伊織は物も言わずに局長室を出ていった。
迎えの者は既に表に待機しており、伊織はその足で見廻組の佐々木只三郎の元へと赴いた。
見廻組の屯所は二条城のさらに北にあり、壬生の新選組屯所からは幾らか距離がある。
だが、駕籠を使った上に、道中も土方や近藤のことばかり考えていた伊織には、退屈する暇などなかった。
***
「わざわざ呼び立てて済まなかったな。疲れただろう?」
着いてすぐ、佐々木自らが出迎えたことに伊織は少々驚いた。
普通、佐々木くらい地位のある者ならば、出迎えなど下の者に任せて奥座敷で悠々と待つものじゃないだろうか。
「佐々木様御自らのお出迎え、畏れ多く存じます」
近藤に念を押された通りに、伊織は駕籠を降りてすぐ、深々と頭を下げる。
しきたりや作法など全くと言って良いほど知らなかったが、丁寧な言葉遣い、控え目な態度を心がければ、まず失礼には当たるまい。
「はっはっはっ! そう畏まらずに楽にするといい。平素のお前で構わぬ」
そう言って佐々木は笑い飛ばしてくれるが、それは別段有り難いとは感じなかった。
(平素の私なんて知りもしないくせに……)
伊織が僅かに表情に出した反発心も、佐々木の目には留まらなかったようで、伊織はそのまま屋敷内へと通された。
「私のほうから出向くつもりだったのだが、話が纏まるまでは内密にと頼まれてな。いやしかし、隊内では男装までしていたとは驚いたぞ」
長い廊下を歩きながら、佐々木の声が幾分弾んでいる。
男装のことを明かしたのは、きっと近藤だろう。
とっくに知れていたのなら、今日も男装のままで来れば良かった、と伊織は後悔を覚えた。
ただ黙って後をついていくと、前を歩いていた佐々木が急に立ち止まった。
伊織は危うくその背に追突しそうになり、慌てて身を引く。
「うん? ……あぁ、来たのか」
前方から、佐々木ではない声がした。
大きな背が壁になっていて、伊織は声の主を確認すべく、佐々木の背後からひょっこりと顔を覗かせた。
「よく来たな」
元々細い目をさらに細めて笑いかける蒔田の姿がそこにあった。
伊織は咄嗟に居住まいを正すと、改めて蒔田にも挨拶の口上を述べる。
が、蒔田は聞き終わる前に素早く伊織の腕を掴むと、佐々木の傍から引き離した。
「蒔田さんっ!?」
「お、おい! 蒔田、何を……!?」
伊織に加えて佐々木も、蒔田の突飛な行動に目を見張った。
当の蒔田はそれに構うでもなく、伊織の耳元で何事か囁き始める。
「お前、それなりの覚悟は出来ておるのだろうな?」
声が漏れぬように大袈裟なほど声を潜めてはいるが、蒔田の目はちらちらと佐々木の様子を伺っている。
覚悟? と伊織が声の調子を落とさずに問い返すと、蒔田は賺さず掌で口を塞いだ。
「んがッ!?」
「気付いていないようだな、お前。良いか、佐々木と二人きりになるならば今ここで覚悟を決めておけ」
「んンッ!!?」
蒔田の忠告の意味が判らず、伊織は息のかかるほど近くにある蒔田の顔を凝視した。
覚悟、と言うからには余程の重大事なのだろうが、それが何なのかまでは蒔田は言おうとしない。
「いいな、私の今の忠告は口外するな。特に佐々木には絶対だ」
物静かで落ち着いた人だとばかり思っていた蒔田がやけに強く言うので、伊織はよく理解も出来ぬまま、二、三度首を縦に振る。
それでやっと蒔田の手が離れた。
「蒔田、些か手荒に過ぎるのではないか?」
見た目にもはっきりと、佐々木が不愉快そうに非難する。
「あ、あの、私は大丈夫ですから……。蒔田様も、お気遣い感謝致します」
「いや、礼には及ばぬ。まあ、その……、ゆっくりして行くといい」
何か釈然としないものを伊織の胸中に残して、蒔田はそそくさと去っていく。
「蒔田が何を言ったかは知らぬが、気にするな。どうも今朝から様子がおかしいのだ」
「はあ、そうですか……」
気にするなと言われても、そう簡単には片付けられない。
伊織の知らないところで何かがあるのには間違いないのだから。
何に対する覚悟が必要なのか、せめてそこまで教えてくれれば良いのに、蒔田が半端に忠告をしてくれたお陰で、困惑は増していくばかり。
当然ながら得体の知れぬものへの覚悟など決められるべくもなく、伊織は巨大な疑問を抱えたままで佐々木との座談に臨むこととなった。
***
「少しは考えてみてくれただろうか?」
向き合って席に着くや、佐々木がいち早く口を開いた。
「あ、……えぇっと……」
考えるも何も、これまで伊織の頭の中を占領していたのは、土方や近藤のことばかりだ。
彼らの一挙一動、一言一句に気を取られて、実際に申し出を受けるか否かまでは良く考える間もなかった。
「……申し訳ございません。まだ何も」
「あ、あぁ。そうか、そうだな。いや、いいんだ。今日返事を出せというわけではないからな」
どことなく焦っているような佐々木を、伊織は怪訝に思った。
先程までと少し様子が違うような気がするのだ。
部屋に入るまでは確かにあった威厳のようなものが、今は何故か感じられない。
いや、全く威厳がないわけではないが、それが著しく低下している。
「あ、暑いだろう? 今、戸を開けよう」
閉めていた障子戸を開け、その先に広がる庭をぐるりと見渡す。
伊織は、そうした佐々木の様子を、座ったまま窺っていた。
(何をそわそわしてるんだろう?)
佐々木の落ち着かない有様は、土方と対峙していた時に比べると別人のようだ。
今日は暑いどころか少し肌寒いくらいなのに、障子戸は全開にされている。
「伊織」
「はい」
暫く庭を眺めた後、佐々木は背を向けて立ったまま、生真面目な調子で伊織の名を呼んだ。
そうしてすぐにこちらを向くと、佐々木は伊織の間近まで詰め寄り、座り込んだ。
「私では不服だろうか?」
「は?」
「私では、お前の主人は務まらぬだろうか?」
思い詰めたような眼差しでじっと見つめられ、伊織は狼狽して目を泳がせた。
突然そんなことを尋ねられても、答えられる道理がない。
土方が言うには、適任であるらしいが。
「──あの、一つお伺いしてもよろしいでしょうか」
「何だ?」
「何故そこまで、私のような者にお気遣いくださるんでしょうか」
同郷というだけで引き受けるには、少々荷が重くはないか、と問うと、佐々木は暫く黙り込んで思案するような素振りをする。
「……近藤局長に頼まれたのではないですか?」
そんな風に疑ってしまうくらい、折りよい出来すぎた申し出だ。
「……賢いな」
低音の声で言って、佐々木はふっと笑う。
「近藤殿に頼まれたというので、大方当たりだ。土方君は大反対だったが……、今ではそうでもないようだしな」
伊織は悔しさに口を歪めた。
策を弄してまで、新選組から追い出したいのか、と。
佐々木はそんな伊織の心中を見抜くかのように、すかさず付け加える。
「だがな、近藤殿を恨むのは角違いだぞ。これはお前の選択だ。誰も無理強いなどはせぬ」
「だったら! 私が新選組に残ると言えば、局長はそれを認めてくださるんでしょうか」
にわかに気色ばんだ伊織を、佐々木が肩を抱いて宥める。
「お前の主はお前が決めろ。土方君を選ぶか、私を選ぶか。お前の出した答えならば、私は快くそれを認めよう。それは近藤殿とて、同じことだ」
土方を選ぶか、佐々木を選ぶか。
それは即ち、新選組で男として生きるか、佐々木の元で普通の女子として生きるか、という分岐点だった。
「男になるか、女でいるか……」
それは漠然としながらも、大きな分かれ道であった。
佐々木に肩を支えられながら、伊織は瞑目した。
突きつけられた選択肢は、二つ。
命令されるでなく、自ら選ばねばならない道。
伊織の耳元で、佐々木は一層低く囁く。
「お前のためを思えばこそだが、私は力ずくでもお前を我が物にしたいくらいなのだ。それを忘れるな」
***
部屋から出ると、そこには何故か蒔田がうろうろと二人の話の終わるのを待っていた。
「蒔田様、いかがなされましたか?」
伊織が声をかけると、蒔田はぴたりと足を止める。
そこで伊織は先刻の蒔田からの忠告を思い出した。
「蒔田様、ちょっと……」
と、今度は伊織が蒔田の袖を引いて佐々木の側を離れた。
「おい、さっきから二人で何なんだ?」
佐々木は訝しげに二人を見るが、当の二人はそれには一言も答えずにヒソヒソと密談に入る。
「特に何もありませんでしたよ? 何だったんですか、さっきの覚悟というのは?」
「そ、そうか。何もないなら良かった」
蒔田はほぅっと胸を撫で下ろし、改めて伊織に耳打ちを始めた。
「実を言うとだな、昨晩佐々木から相談を受けてな……」
「はぁ……、相談ですか?」
「お前に惚れたと言い出したのだ」
「…………はい?」
「いやいや、驚かずに聞いてくれ。佐々木が妙に真剣だったのでな、まさか間違いを起こしはしないかと心配していたのだ」
「…………」
「とにかく、無事で良かった!」
「……って、ええ!?」
呆然と聞いていた伊織は、ようやく蒔田の話の内容を正しく理解する。
思わず素直に驚愕の声を上げた伊織を引き寄せて、佐々木が二人の間に割り込んだ。
「おい! 何の話だ!?」
「ああ、何でもない。気にするな」
蒔田は一方的にそう言いおいて、またしても一人さっさと場を離れて行ってしまった。
「ち、ちょっ! 蒔田様!! 一人にしないでくださいよー!!」
蒔田を引き留めようと延ばした腕さえも佐々木に捕まえられ、厄介なことに再び二人きりにさせられてしまう。
部屋での佐々木の様子がおかしかった原因は、それか、と伊織は思う。
だが、佐々木が何も言わないところを見ると、蒔田の心配は不要のものだったのだろう。
「一体何だ。何を言われた?」
佐々木にどうこうしようという気はなくとも、先程とはまた違った意味で気まずい。
聞くのではなかったと悔やむが、聞いた後ではどうにもならない。
ここはやはり、深く追求される前に壬生に帰ってしまおう、と伊織は考えた。
「あのぅ、私、これで失礼します。お忙しい中、お時間を頂いてありがとうございました」
「……そうか? 場所を変えて今少しゆっくり話せればと思ったのだが……」
「いや、そのー……、これから用事がありますので」
「残念だな。では壬生まで馬で送ろう」
「い、いいえ!! 歩いて帰れますから!」
「ならば私も歩いて送ろう」
「あぁもう、何と言いますか、送ってくださらずとも……」
際限のない問答を繰り返しながら屯所の門にまで来ると、通りの向こうから馬の蹄の音が騒々しくこちらへ近づいてきた。
「──沖田さん!?」
埃を巻き上げて馬を駆ってくるその姿を見て、驚いた。
近藤も土方も、今日伊織が佐々木を訪ねることは、沖田にすら話してはいなかったはずだからだ。
「高宮さん!」
呆然とする伊織の前まで来て馬から飛び降りると、沖田が血相を変えて肩に掴みかかった。
「佐々木さんのお妾になるって、本当なんですかっ!?」
「えっ!?」
「さっき土方さんに聞いてびっくりしましたよ!! ひどいじゃないですか、私に黙って出ていくなんて!」
「え、ちょっと沖田さ……」
「近藤先生も土方さんも狡いんだよなぁー! こんな大事なこと勝手に決めちゃうんだもの!!」
状況がよく飲み込めずにいる伊織の目の前で、沖田が一方的にまくし立てる。
「だいたい、何だって急にそうなったんです!? 高宮さんはそれでいいんですか!?」
「沖田さんっ!!」
いつまでも止まりそうにない沖田を一喝し、無理矢理に遮った。
沖田は眉を顰めたまま、紡ぎ出しかけていた言葉を喉元で詰め、伊織の目を見やる。
「今日は佐々木様にお会いしに来ただけですよ。そうと決まったわけじゃありません」
沖田が気に入らなそうに口を曲げ、横目で佐々木を睨みつけた。
「ということは、これからそう決まる可能性もあるんでしょう。言っておきますが、私は反対ですから」
沖田の剣呑な視線を受けても、佐々木は余裕の表情でそれを見返す。
きっぱりと反対姿勢を見せてくれることは、伊織にとって嬉しいことではあった。だが、それが元で佐々木と近藤らの仲に亀裂が生じてしまうのではないかと、些か心配になってしまうほど、沖田の態度は頑としている。
「沖田君、これは伊織の問題であって、周りがとやかく言って良いものではあるまい?」
「そ、れは……っ!」
佐々木の尤もな意見に圧されて、沖田が悔しげに唸る。
「あの、沖田さん。佐々木様の仰るとおりですが、お気持ちは嬉しいですよ。私ももう失礼するところですから、お話は屯所に帰ってから……」
伊織が宥めようとかけた言葉の終わらぬうちに、沖田は再びひょいと馬上に跨った。
「帰りますよ、高宮さん!」
「え、あ、では佐々木様、私もこれで……」
慌てて挨拶を述べようと佐々木に振り返った伊織の体を、沖田はこれまた軽く馬上に引っ張り上げ、自らの腕の間に納めた。
そして、一礼もせずに馬を歩み出させてしまったのだった。
高くなった視界で、おろおろと佐々木の方を見返す伊織。
沖田は手綱を操る素振りで、それをも遮った。
「お、沖田さん、ご挨拶もなしでは幾ら何でも……」
失礼に当たるのではないか、と言いかけたところで、沖田がむすっと前方を見据えたままに声を低めた。
「冗談じゃありませんよ。せっかく今夜みんなで高宮さんの歓迎会を開く準備してるのに!」
「……はい!?」
沖田の口から飛び出した意外な理由に、目を丸くした。
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「原田さんとか永倉さんとか、みんな楽しみにしてるんですからね!」
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「そうですよー。主催はなんと山南さんです」
「えっ!! 山南さんが!?」
山南敬助、新選組総長の立場にある人で、江戸の試衛館時代からの古参だ。
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だから嬉しいよりも驚きが先に立つ。
「あ、でも念を押しておきますが、女子であることは絶対秘密ですよ? 山南さんが知ったら、絶対佐々木さんに引き渡すことに賛成されちゃいますから」
「はぁ、そうですね」
栗色の馬の背に揺られて屯所へと戻る伊織の中に、佐々木の助言が繰り返される。
主を選ぶ。
どちらにしても、今の自分には主の庇護を受けてしか生きる道はない。
一人で生きて行くには、伊織は右も左も知らなさすぎた。
それこそ、遊郭に身を売らずに済んでいるだけ、恵まれているのかもしれない。
空は徐々に灰色の雲で覆われ始めていた。
***
壬生の屯所に着くと同時に、曇天からぱらぱらと雨が落ち始めた。
「さて、それじゃあ今夜、準備が出来次第私が迎えに行きますから」
先に馬から降りた沖田が伊織の手を取る。
その介添えを受けてやっと地に足をつけた伊織は、さっさと馬を引いていこうとする沖田の背を呼び止めた。
「あの! 沖田さん!」
「……何か?」
首だけで振り返り、伊織と目を合わせる。
「私、今度はちゃんと自分の意志で決めますから!」
「…………」
「女でいるか、男になるのか!」
真剣に言った。
沖田が迎えに来てくれたのは、これで二度目。
助けてくれる、守ってくれるからと言って、自分に都合の良い方を選ぶことは簡単だ。
より近くに差し伸べられた手を掴むことも、造作無い。
近藤も土方も佐々木も、命令すればいとも手易く伊織の処遇を決めることが出来る。
なのに、それをしなかったのは何故か。
そのことが、今になってようやく伊織にも理解出来た。
雨足は強さを増し、沖田や伊織の体にも不規則に打ちつける。
「自分で決めます。後に二言は付けません」
自分でも不思議になるくらい、力の入った言葉だった。
選ぶことの意義はここにある、と伊織は思う。
生きる道を自身で選ぶことは、全てに責任を持つということ。
責任を持つことは、選んだ後に不平不満を持たないこと。
人は、命令されたことには、とかく反発を覚えるものだ。
そしてそれは、人に言われるがままにしか行動できぬ主体性のない人間ほど、その傾向がある。
これまでの自分が、まさにそれだと思った。
その意味で近藤は、伊織が土方の側にあるに適するか否かを量り、土方もまた結局はその考えに同意したのではないか。
そして佐々木という最良の逃げ道を用意してくれたのは、偏に近藤の優しさだ。
「……仕方ないですねぇ。じゃあ歓迎会もお預けですね」
沖田は結んでいた口を緩めてにっこり笑うと、再び手綱を引いて厩の方へと歩いて行った。
その後ろ姿を暫く眺め、伊織もまた副長室へと踵を返した。
***
「何ずぶ濡れになってんだ」
副長室に入るなり、土方が伊織の身なりを見てそう言った。
「すみません。途中で雨に降られてしまいました」
「まぁいい。早く着替えろ」
ぶっきらぼうに言い捨てて、土方はふいと背中を向ける。
悪天候のために室内が薄暗いせいか、やけに重苦しい空気を纏っているように見える。
伊織は衝立の陰に入ると、雨水を含んで重くなった着物を脱ぎ捨てた。
袴に足を通しながら、伊織はもう一度口を開く。
「これから局長のところへ行ってきます」
土方の返事はない。
それでもちゃんと聞いているものと践んで、伊織は続けた。
「今朝、局長に女子は要らないと言われて、すごく失礼な態度をとってしまったんです。それをお詫びして、今日の報告もしてきますから」
女装を解くと共に胸に忍ばせていた鉄扇も外し、一本の脇差しに変える。
着替えを済ませて衝立から出ると、伊織は土方の背に再度局長を訪ねる旨を伝え、副長室を後にした。
障子戸を閉める寸前、土方がちらりとこちらを見たのがわかったが、敢えて振り返らなかった。
局長室はすぐ隣にある。
少し大きな声を出せば、土方の耳にも届くかもしれないが、今は雨音もあるため、声は漏れても内容までは聞き取れないだろう。
「局長、高宮です」
戸を開ける前に、中の近藤に声をかける。
すると中から了承の答えが返り、伊織は局長室の中へと足を踏み入れた。
「やあ、雨に濡れはしなかったかね?」
近藤の温厚な笑顔が迎え入れた。
今朝の一件などまるで気にした風もなく見えるが、それに甘えてうやむやに流すことは出来ない。
伊織はその場に正座し、近藤に向かって頭を下げた。
「今朝は、申し訳ありませんでした」
詫びた後も、そのままの姿勢を保つ。
「いや、それはいいさ。俺も少しきつい言い方をしたからなぁ。で、それより、どうだった?」
近藤はあっさり水に流し、報告の方を急かした。そちらの方が近藤には気になるところなのだろう。
伊織は顔を上げ、真顔で近藤の目を見つめた。
近藤の柔和な表情につられて目元が弛みそうになるが、気を引き締め直してそれを堪える。
「そのことなのですが、早々にも佐々木様へお返事をしたいと思います」
伊織が言うと、近藤が少し大袈裟なくらい驚いてみせた。
「もう、君の答えは出ているのか?」
「はい」
「そうか、だったら今夜にでもどうだろう?」
心なしか満足げな表情だ。
多分ではあるが、近藤の予想している結果がどちらであるか、想像はつく。
「……で、どうするんだ?」
うずうずと答えを聞きたがる。
心が決まったと判れば、次に結論を聞きたくなるのは当然の流れだ。
だが、伊織はまだ誰にも話すつもりはなかった。
「それは、今夜の席でお話したいと思います」
「俺にもまだ教えてくれんのか?」
近藤が残念そうに眉を寄せたが、それでも伊織は決意を明かさなかった。
「局長には特に、皆さんの前でお話したいので」
「……わかった。それじゃあ早速、佐々木殿をお呼びするが、いいかね?」
「お願いします」
***
雨は夜になっても止まなかった。
だが、近藤の招きに応じて、佐々木は蒔田と連れ立って壬生村にまで足を運んできたのだった。
伊織は出迎えはせず、山南の部屋にいた。
室内には総長の山南と伊織、そして沖田の姿。
降り続く雨のせいでジメジメと厭な空気だが、三者は顔をつき合わせて談笑していた。
「せっかく山南さんが歓迎会を開いてくださるというのに、本当にすみません」
「いや、いいよ。こっちも内緒にしていたからね」
おっとりと肉付きの良い顔を優しく弛めて山南が言う。
話は沖田から婉曲して伝わり、山南もそれを理解してくれているようだった。
「来て早々、見廻組に移る話があったなんて、ちっとも知らなかったな」
「そうなんですよ! 私も今日知ったばかりなんですから!」
「ははは……、すみません」
申し訳なさそうに首を掻くと、山南も沖田も同様に伊織の非を否定してくれた。
「彼らのことだ、話が決まるまでは黙っているように言われたんだろう?」
「高宮さんが謝ることないですよ。でも気を付けてくださいよ? 佐々木さんって、一見ちょっと変な人ですけど、実はすごく変な人ですから!!」
のほほんとしているようでいて、やはり二人はいろいろと見抜いている。
だが、伊織はこの二人にも選択の結果は伏せていた。
打ち明けて、その結論についてとやかく言う二人ではないと思ってはいる。
それでも、もし何か言われようものなら、それが自分一人で出した答えではなくなってしまうような気がしたのだ。
「それじゃあ、そろそろ行ってきますね」
もうもてなしも済んだ頃だろうと見て、伊織は膝を立てた。
「ああ、佐々木様と蒔田様によろしく頼むよ」
山南は笑って片手を軽く挙げたが、沖田は意味ありげに伊織を見、
「このまま真っ直ぐ、佐々木さんに会いに行くんですか?」
と問う。
「はい、このまま行きます」
伊織がにっこり返すと、沖田も微笑んで軽く頷いた。
それだけで、沖田には伊織の答えが充分に判ったのだった。
***
局長室では、近藤、土方、佐々木、蒔田の四人がすでに待ちかねていた。
伊織がそこに現れると、四人は一様に言葉を失くした。
「お呼び立てしておきながら、お待たせして申し訳ありませんでした」
男装姿のままで、伊織は居並ぶ顔触れを眺める。
「男装?」
佐々木が譫言のように呟いた。
その直後、近藤が険しい顔で伊織に確認する。
「それが君の選択か? 高宮君」
「はい。女子の道は捨てます」
真っ直ぐ近藤を見返して言ってから、土方の顔を窺った。
土方ときちんと目を合わせたのは、随分久しぶりなことのようだった。
「一度信じたものは、最後まで信じ通そうと思います」
真剣な視線が絡み合うこと暫し、先に折れたのは土方のほうだった。
ふっと笑って目をそらし、
「好きにしろ」
と一言。
そこでやっと伊織も笑った。
近藤も、そんな二人の様子に呆れたように息を吐き、伊織を見る。
「君がそう言うのなら、もう特別扱いはしないぞ。新選組にいる以上、他の隊士と同等の扱いをするが、いいんだね?」
言葉は厳しいが、その顔は穏やかなものだ。
伊織はそれに大きく頷き、同意する。
その横で、佐々木と蒔田がコソコソと諍いを起こしていることに三人は気付いた。
「蒔田、お主、伊織に何か良からぬことを吹き込んだのではあるまいな!?」
「な、何を言うか! 私はお主の惚れた晴れたの話など、少しもバラしてはおらんぞ!」
「やはり!! 昼間コソコソしておったのは、それか!!!」
「いやいや、すまぬ! ちっとも話した!!」
蒔田の懐に掴みかかる佐々木の怒りは、傍目にも凄まじいものであった。
初めこそ声を抑えていた言い合いも次第に激化し、人目も憚らぬ口論となる。
「蒔田!! 伊織が土方を選んだのはお主のせいだぞ!? どう責任を取ってくれるのだ!!」
「馬鹿を言うでない! 伊織はお主の気持ちを知って尚、土方君を選んだのだ! 責任も何も、単にお主の失恋ではないか!!」
「しッ、失恋と言うな!!! 切なくなるではないかっっ!!」
「唾を飛ばすな! 汚い!」
近藤が見るに見かねて仲裁に入ろうとするが、口論のあまりの激しさに口を挟む隙など無く、ただ見守るに留まった。
「高宮君、一体何があったんだ……」
困り果てて伊織に話を振るが、佐々木の豹変ぶりに伊織もまた放心状態であった。
『一見ちょっと変な人だけど、実はすごく変な人』という沖田の見解は、見事に的中していたのである。
「土方さん、やっぱり土方さんを選んでいて正解でした……」
「……だろうな」
呆気に取られながら、伊織と土方は初めて目の当たりにする佐々木の本性に圧倒されていた。
***
その後、収まりの効かない佐々木をどうにか宥めるため、近藤は苦肉の策として佐々木に伊織の剣術指南役を提案、依頼したのだった。
もちろん、嫌がる伊織を無理矢理説得し、これが近藤の伊織への最初の局長命令となるのであった。
【第五章へ続く】
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紫乃森統子
歴史・時代
時は幕末。奥州二本松藩に朱鞘を佩いた青年がいた。名を青山泰四郎。小野派一刀流免許皆伝の、自他共に認める厳格者。
そんな泰四郎を幼少から慕う同門の和田悦蔵は柔和で人当たりも良く、泰四郎とは真逆の性格。泰四郎を自らの目標と定め、何かとひっついてくる悦蔵を、泰四郎は疎ましく思いつつも突き放せずにいた。
やがて二本松藩の領土は戊辰戦争の一舞台となり、泰四郎と悦蔵は戦乱の中へと身を投じることとなる…。
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