新選組秘録―水鏡―

紫乃森統子

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第3部

第二十七章 多事多端

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 遠くに祭囃子を聞いていた。
 噎せ返るような熱気と、胃の腑が煮え滾るような緊張の中で、伊織は無我夢中で脇差を振るう。
 暗がりの中で自ら腹を裂く、男の姿。
 夥しい鮮血が迸り、その肉を引き裂く音が耳に纏わりつくように響く。
 低く重い、くぐもった呻きと共に、その手に握られた刀身が男の腹を殊更深く抉った。
 双眸は飛び出さんばかりに見開かれ、外からの僅かな光に照らされて、まるで異形のようにすら見える。
 壮絶なその自刃を見守り、伊織はその手の脇差を振り上げると、男の首目掛けて白刃を振り下げた。
 血潮を噴き上げ、その男は前へのめるように倒れ伏す──。
「────っ!!!」
 余りの悍ましい光景に、伊織は跳ね起きた。
 夢だ。
 暫く見ないと思っていたが、新選組の屯所に戻ってきたことが引き金となったか、池田屋で見た光景の夢だった。
 外は既に凍えるような寒い季節だというのに、飛び起きた身体はぐっしょりと汗に濡れ、心臓の音も直に聞こえるほどに大きく早い。
 酷い悪夢だ。
 いや、あれは夢ではなかった。
 宮部鼎蔵の自刃は、実際に起きたことだ。
 そして、その介錯をしたことも。
 布団を捲り、未だ震えの収まらぬ右手を見詰める。
 人間の肉を斬る、あの感触が今もまざまざと手に残っていた。
 この世の地獄というのは、ああいうものだろうか。
 その地獄に身を置き、命のやり取りをしたという実感が、否応なく蘇る。
 乱れた呼吸を落ち着けようと、伊織は褞袍を引っ掛け、台所に向かった。
 明け方も近い頃か、寝静まった中をそろそろと歩く。
 締め切った戸の向こう側から、時折寝返りを打つ音や鼾、微かな寝言も聞こえていた。
 暗い屋内は不気味だが、そうした隊士たちの気配に安堵出来るのは、大所帯ならではだろう。
 台所の甕から水を一掬いすると、伊織は乾いた喉に流し込んだ。
 ふぅ、と息をつき、漸く人心地が付く。
 今更だろう。
 この時代に、この組織に身を置くからには、避けては通れない。
 あれからも剣の稽古は続けている。
 腕が上がったかと問われれば然程の上達はないかもしれない。
 だが、腕は上げていかねばならないと強く思っていた。
 そうでなければ、早々に死を以て退場を強いられるのは、他でもない自分自身だ。
 池田屋で起きたことは、あれで良かった。今もそう信じている。
 元治元年に突然放り込まれただけの、何の力も繋がりもない自分が、この時代の大局を動かすことは限りなく不可能に近い。
 ここでこうしていれば、こんなことをしなければ或いは──、などというのは、すべて後世の視点だから言えること。
 考えたことがないわけではない。
 命を落とすには余りに惜しい人物が、この時代には多過ぎる。
 動乱の中で露と消えゆく者の名は、枚挙に遑がない。
 逆に、動乱期の今だからこそ、そうした人物が多く育つのであろうか。
 様々に志を抱き、各々がその思想を掲げて直走る。
 情勢は常に不安定だ。
 詮無い事を考えていることに気付き、伊織は小さく息を吐いた。
 いつか、佐々木に言われた言葉を思い起こす。
 生きるも覚悟、死するも覚悟、と。
 屯所に戻って、少しばかり気が緩んだのだろう。
 伊織は未だ治まりきらぬ震えを振払うように、天を仰いでかぶりを振った。
 
 ***
 
 白洲には、佐々木と伊織の二人きりだった。
「どうした、息が上がっておるぞ」
「……まだ大丈夫です!」
 剣術に関しては、真っ当に師事してくれている。
 技術的な事はまだまだだが、当初に比べれば、随分慣れてきたと思う。
 勿論、佐々木のことだから大分加減してくれているのだが。
「もう一本、お願いします」
「良かろう、どこからでも来るがいい」
 互いに正眼に構え直すと、寒風がその間合いを吹き抜けた。
 風は、佐々木の袴の裾を翻し、伊織の髪を不規則に弄ぶ。
 佐々木の表情には何の変化も無い。
 このまま真向から斬り掛かっても、佐々木の隙を衝くことは出来ないだろう。
 かといって下手に動けば、こちらに隙が生まれる。
 そこを衝いて佐々木の剣が風を斬るかもしれない。
 そう危惧しながらも、伊織は体勢を変えることを選んだ。
 息を呑み、じゃり、と一歩左足を前へ踏み出した。
 刀身をゆっくりと引き込み、刀身を右後方へ送る。
 柄の殿を左手で軽く掴むと、相手には刀そのものが全く見えなくなる。
 相手の目から刀身を隠し、こちらの動きを悟らせない狙いだが、果たして、剣豪たる佐々木にそんな思い付きの小細工が通用するのか。
「小野派一刀流の隠剣、か」
「……!?」
「どこでそれを学んだ?」
 佐々木が無表情に問うた。
 小野派一刀流。
 聞いたことはある。しかし、学んだことは当然ない。
 偶然にも既存の技法を用い、更には瞬時にすべてを見破られたらしい。
 剣術の達人を相手に、殆ど素人の伊織が敵うわけはないのだと、改めて痛感せざるを得なかった。
 これ以外、他にどう構え直してよいかも思いつかず、伊織は佐々木をねめつけた。
 このままでは勝負はつかない。
 その手に隠した剣はそのままに、伊織は呼吸を整える。
 次の瞬間、前へ踏み出し、右下から刀身を振り上げた。
 が、佐々木は難なく太刀筋を読み、その刀身を受けて流す。
 刀身を払われた反動で均衡を崩しかけた、その刹那。
 佐々木の剣は、伊織の首筋にその刀身をぴたりと付けた。
「……参りました」
 伊織が敢え無く降参すると、佐々木も構えを解き、正面に居直る。
「佐々木さん、ありがとうございました」
「うむ。ところで、新選組の中に小野派の剣士がいたか」
 誰かに教授されたものと思ったか、佐々木は竹刀を肩に担ぎ直し、手拭いを差し出す。
「あ、ありがとうございます」
 礼と共に、手拭いを受け取る。
 吐く息は白く日差しもない寒さの中だが、一刻も稽古を続ければ息も上がり汗も流れ落ちた。
 汗が冷えれば即座に風邪を引くような季節だ。
 伊織は汗を拭いながら佐々木に問う。
「すみません、流派の名は聞き覚えがありますが、流石に誰がどの流派を体得しているのかはちょっと曖昧です」
 新選組幹部に名を連ねる人物の流派はある程度覚えていたが、新選組といえば真っ先に思い浮かぶのが天然理心流だろう。
 あとは神道無念流や北辰一刀流など、その辺りが多い気がする。
「隊士は各地から来てますから、本当に様々でしょうし、中には小野派一刀流を学んだ隊士もいると思いますよ」
 そういえば、と伊織は佐々木の顔を見上げる。
「佐々木さんて何流なんですか?」
「ん? なんだ、私のことが気にな──」
「いいえ、剣の流派が、です」
 稽古を終えるとすぐこれだ。
 伊織は食い気味に訂正する。
「まったく、お前は素直さに欠けるな。私の強さに惚れ直したのであろう? 正直にそう申せば教えてやらぬこともないぞ?」
「あ、やっぱ結構です」
「ぬぅう! お前が問うてきたのではないか!? 結構ですとは何だ、もっと食い下がらぬかぁあ!」
 がばりと伊織の両肩を抑え込み、ちょっぴり涙目で言い縋る佐々木。
「いやもう何でもいいや。佐々木流でいいですよね、佐々木流で」
「良いわけがあるか! 神道精武流だ!! 己が愛する男の流派ぐらい、確と覚えておかぬか!」
「神道佐々木流ですね、ハイハイ覚えました」
「いやぁ違ぁう!! 覚えておらぬではないかぁぁあ!!!」
 
 ***
 
 見廻組の屯所内で帰り支度を済ませ、伊織は最後に礼を述べて帰る。
 毎度、こうした礼節は佐々木相手にも怠ることはない。
 普段の伊織に対する行動は突拍子もなく、奇怪な言動も多過ぎるが、実際にこうして自ら剣術を指南し、黒谷出仕の際も後見となり、大きな支えとなってくれていることには間違いない。
 何故にここまで便宜を図ってくれるのか、甚だ疑問ではあるが、稀有な存在であろう。
「それでは、本日はこれで失礼いたします。ありがとうございまし、た……?」
 深く一礼して顔を上げると、こちらを凝視する佐々木の表情に、些かの剣が含まれているように感じた。
「お前は力が弱い。勘はまあまあ良いようだが、如何に稽古を重ねようと、力業では本物の男相手には敵わぬ。速度と技術で補うほかあるまい」
 急に真っ当な意見が飛び出す。
「え、はい。そう、ですね……?」
 きょとんと見返すと、佐々木は目を伏せ、これまた急に悄然と肩を落とした。ように見えた。
「致し方あるまいな……。お前には、剣などとは無縁の道を幾らでも選べように」
「? 何ですか急に。身を守るためには、剣は必要不可欠ですよ」
「そうには違いないが、土方は本当にお前を一隊士として扱っておるのか」
「ええ、まあ。まだまだ使い物にはならないってことでほぼお小姓役ですけど」
 一体何を言わんとしているのか。
 そう訝った次の瞬間。
「土方は、本当にお前を囲う気はないのだな?」
「ハァ?」
 とんだ爆弾発言だった。
「なんで土方さんが私を囲わなきゃならんのですか。ちょっと真面目に話してたかと思えば結局そういう方向性ですか」
「戯れに言っているのではない。今の土方ならば、その程度は造作もないことであろう」
 浪士組として上洛したばかりの頃ならばいざ知らず。
 その後新選組も徐々にその働きを認められてきた。
 そんな組織の副長ならば、やって出来ないことではない。
 続け様に言い募る佐々木に、伊織は呆気に取られた。
「いや佐々木さん、私は土方さんにべったりなように見えるかもしれませんが、別に惚れた腫れたで引っ付きまわっているわけではないですからね……?」
 確かに、魅力的な男性ではあるだろう。
 見目も良く、決断も行動も速く、聞く所によれば花街でもまあおモテになっているようだ。それは否定しない。
「私、土方さんのことを単に良い男、としては最初から見ていないんですよね……。その人が男であろうが女であろうが、そんなことは些細なことで、どうしたって惹かれて止まない。言うなれば、そういう存在なんだと思います」
「…………そうか」
 たっぷり沈黙を挟んでから、佐々木はやがて困ったように笑った。
「まあ良い、お前がそう申すのであれば、私も今暫く様子を見よう」
 一人納得したような面持ちで頷き、また即座に眼差しを強張らせる。
 まるで百面相だ、と伊織は思う。
「だが、新選組に留まるからには、あまり近藤や土方の意に反することは慎め。度が過ぎればお前とていつ何時粛清されるか分からぬ。良いな」
 その声は一層低く、凄みを感じるには充分なものだった。
 
 ***
 
 月は十一月も半ばに差し掛かり、低い鈍色の空から深々と白雪が舞う日も多くなっていた。
 一人静かに書物と向き合う時間が、このところ非常に長くなっていることに、山南自身も気が付いていた。
 読んでいた本を閉じ、書見台に伏せる。
 近藤が江戸から連れ帰った伊東甲子太郎をはじめとする増員があってから、新選組内部は再編成されると同時に、新たに参謀の位が設けられた。
 局長、副長に次ぐその参謀の席に、伊東を据えたのである。
 近藤が拝み倒して招じ入れた伊東には、それなりの肩書を付与しなければならないという配慮もあったものだろう。
 総長の山南よりも上席に伊東を配したということは、実質的に山南の降格も同然だった。
 新選組は、いや、近藤や土方は、どこへ向かおうとしているのか。
 近頃よく思うのは、そこに尽きる。
「やあ、山南君。少しお邪魔しても良いかな?」
 締め切った部屋の戸を滑らせ、山南を覗いた顔はまさに今し方脳裏に浮かべた顔だった。
「ああ、伊東さんか。どうぞ」
 にこにこと笑顔を浮かべ、伊東は招かれるままに室内へ足を踏み入れる。
「君と少し話をしたくてね。新選組の中でも特に勤王の志に篤いと聞いたもので、どうにも興味が湧いてしまった」
「そこまでではありませんよ。浅学にして、貴方と論じ合えるほどかどうか」
「なるほど、聞き及ぶ通りに奥ゆかしい人のようだ。隊士たちの間では親切で優しいと専らの評判だ」
 ふむふむ、と伊東は幾度も頷きながら、山南の傍らに膝を折る。
 その視線が書見台をちらと窺った。
「おや、論語かい? 私も擦り切れるほど読んだものだよ」
 学問所へ上がれば必修とされる、四書五経の一つである。
 武士であれば、それらは基本の教養だ。
 時にハッとさせられる言葉もあり、迷いを振り切る一押しになる言葉もある。
 我が身を省みる機会をくれる言葉が、そこにはあった。
「山南君。『速やかならんを欲するなかれ、小利を見るなかれ』」
 唐突に、伊東の口から出た一節に、山南は意表を突かれた気がして目を丸くした。
「……『速やかならんを欲すれば即ち達せず。小利を見れば、即ち大事成らず』、ですね」
「ふふ、どうも」
 続く一節を山南が返すと、伊東は満足げに笑う。
 有名な一節をただ述べただけだというのに、それほど嬉しいものなのか。
「このところの長州の内情は、聞いているかい。あれから長州では俗論派が優勢だそうだ。先の御所発砲の責任という名目で、正義派の三家老を切腹させたという」
「家老を三人も、ですか」
 確かに、長州の放った砲弾が御所に着弾したことの責は大きいだろう。
 だが、俗論派がその優勢に乗じて正義派を壊滅させんとする狙いが、その措置に顕著に表れている。
「そのようだね。これを受けて、長州の正義派が更なる暴挙に出る恐れがある」
 長州も一枚岩ではない。
 八月十八日の政変並びに禁門の変を引き起こした一派を正義派、長州内での佐幕派を俗論派と呼び、それとはまた別に二勢力の争いの鎮静を試みる一派があった。
「長州は、間もなく内乱になるでしょうね」
「正義派の反発は必至だろうからね。長州がどの立場になるかでは、幕府からの派兵もあるやもしれない」
 その時は新選組にも出兵要請が来るだろう。
 新選組でも、長州出兵を念頭に入れた行軍録を練り出したところだ。
「新選組は、そもそもは勤王であり佐幕の集団だ。帝ありきの佐幕だと聞いている」
 しかしながら、と伊東は続けた。
「本来帝こそが政の中心であるべきでないかと考える者もいる。幕府の威光は今や地に落ち、政の実権を握り続けるには不適格だろうとさえ、ね」
 事実、開国を迫られ、交易を始めて以後、多くの金が国外に流れ出していた。
 流通する貨幣にも、徐々に悪銭が混じり出しているとも聞く。
「これが広がれば、どうなるだろうか? 昨日まで三文で買えた団子が、翌日には六文なければ買えなくなり、一月後には一串三十文にまで値上がってしまうかもしれない」
「経済が破綻、してしまいますね」
「そう、夷狄に搾取され尽くして、この国は崩壊してしまう」
 その意味でも、攘夷は必要不可欠なのだと説く。
 幕府の弱腰の外交では、国内に更なる混乱を招きかねない、とも。
「伊東さん、あなたは──」
 何事か言いかけた山南を制し、伊東は人差し指を軽く口元に当てる。
「近藤君……いや、局長や土方君と話していて、君も私と同じ思いなのではないかと推察してみただけなんだ」
 ここでの話は内密に、と添えて、伊東は立ち上がる。
「どこで誰に聞かれているか、分かりませんよ。あまり幕府を軽んじるようなことをお話しになるべきではない」
「分かっているよ。今のは、そういう意見を耳にしたことがある、という話だ」
 伊東はにっこりと笑って、山南に背を向けた。
 室内に再び一人きりとなり、山南は静かに目を伏せる。
 幸いにも周囲に人の気配は感じない。
 盗み聞きされる心配はないだろうが、近藤や土方は幕府に認められんが為に、日々働いている。
 彼らとて勤皇の志を抱いてはいる。
 けれども、近頃の彼らを見るに、幕府にこそより重きを置いているように感じていた。
 この時期、伊東のような人物が入隊したことを、素直に喜ぶべきだろうか。
 だが、彼の存在があるために、自らの立ち位置をどこに見出せば良いか。その答えを、今以て出せずにもいた。
 
 ***
 
 冬場の洗濯は地獄そのものだ。日が高くなってから漸く差す陽光で僅かに気温が上がっても、そんなものは水の冷たさを緩和してくれはしない。
 この時期だけでも洗濯屋に頼みたいところだが、そう多くの給金を貰っているわけでもなく、下着や稽古着にしている小袖などは度々洗わねば流石に汗臭い。
 ということで、結局は自力で手洗いだ。
(その上、洗濯板すら無いとかさぁ……)
 板でさえ、明治後期にならなければ登場しない。
 井戸端で汲み上げた水を桶に張り、伊織はよいせとしゃがみ込んだ。
 桶の中で水と灰汁を使って手で揉むのだが、これがまた皮膚に鋭く刺さるように痛い。
 他の平隊士たちも、そうして自分で手洗いしている者が大多数だ。
 中には面倒臭がって何日も洗わず酷い悪臭になっている者も、まあ割といる。
 さっさと終わらせてしまおうと、伊織はじゃぶじゃぶと飛沫を上げて力を込める。
「なんだ、土方副長のお小姓か」
 背後からの声に振り返ると、にやにやと嫌な笑いを浮かべた男が立っていた。
 伊織と然程に歳も変わらぬ風貌のその顔には見覚えがある。
(うわぁ……噂の三浦敬之助だ)
「ちょうど良かった。ついでに俺のも洗っておけ」
「……は?」
 三浦はざりざりと歩み寄り、小脇に抱えた汚れ物をどさりと桶に放り込む。
 その拍子に灰汁の混じった水が跳ねて顔面に飛び、思わず立ち上がった。
「あっ!? 何すんだおい!」
「乾いたら俺のところに持って来いよ」
「はぁ!? ふざけんな! そのくらい自分でやれよ」
 跳ねた飛沫を拭って多少声を張るが、三浦はたじろぎもせず鼻で嗤う始末。
 主たる土方の分なら兎も角、何故にこんな新参者の洗濯まで請け負わなければならないのか。
 そもそも三浦は単に平隊士でしかない。
「他の隊士から聞いたぞ。お前ろくに剣も使えなきゃ、学問もからきしらしいな? 副長も何故そんな奴をお側に置いておられるのか」
「それとこれとは関係ないだろ。文武共に鋭意努力中。余計な世話だ!」
 突っ撥ねる伊織に対し、三浦は露骨に顰蹙して上から見下げる。
「前も思ったがその変に高い声。女のような声でなよなよした奴には、洗濯くらいしか出来ることはないよなぁ。何なら他の隊士の分も洗ってやったらどうだ?」
「声は関係ない。人の努力でどうにか出来る範疇を超えた言い掛かりはやめたほうが良い」
「事実だろ? 土方副長の側仕えだからと調子に乗るなよ」
「乗ってない。どちらかと言えば調子付いてるのはあんただろ」
「俺のどこが調子付いているように見えるんだ。まあ俺はどうやら局長にも一目置かれているらしいからな。俺を妬む気持ちも解らんでもないが、悔しけりゃお前も俺ぐらい使える男になるんだな」
 感じが悪いの一言に尽きる。
「私の耳にもあんたのことは随分聞こえてる。平隊士相手に随分横柄な態度を取ってるみたいだな。そんなことを続けていれば、いずれ局長にもお叱りを受けるぞ」
「雑用係に雑用を頼んだだけだぞ、何か問題があるのかァ?」
 苛立ちを抑え、努めて冷静に返したにも関わらず、三浦の挑発は尚も止むことはない。
「っこの野郎……」
 小姑のいびりのようで、腹が立つ。
 だが、この程度の挑発に乗ってしまうのは悪手だ。
 仮にもその目付を申し付けられている立場として、その程度の分別はついているつもりであった。
 土方には土方の思惑がある。
 自分に小姓役を与えられていることにも、その実、監察見習いとして配置されていることにも、何らかの意図があるのだろう。
 と、そう受け止めている。
 無論、伊織を平隊士の群れの中に放り込めば、瞬く間に性別を偽っていることが露見するだろう。
 そういった懸念から随分と守られ、特別な扱いを受けてもいる。それこそ、目の前で踏ん反り返る三浦などより、余程に。
 そう考えの至った瞬間、伊織はすっと苛立ちの引いていくのを感じた。
(あぁ、そうか)
 こんな小物を相手に苛立つ必要などないのだ。
 伊織は投げ込まれた汚れ物を掻き集め、一纏めに軽く絞ると、そのまま三浦の胸元にぶつけるように押し返した。
「雑用係は雑用係でも、私は副長専属の雑用係です。何か頼みたいなら副長の許可を得てからにして下さいね!」
「! うわっ貴様! 何をする! こんなことをしてただで済むと思うなよ!?」
 突き返された汚れ物から滴る水が、三浦の袷を濡らした。
「濡れたついでだ、そいつも纏めて洗ったらどうだ?」
 素っ気なく言い返し、伊織は自分の物をざぶざぶと濯ぎ、最後にぎゅっと絞る。
 手の感覚が無くなるほどの冷たさだったが、早くこの場を去りたい一心だ。
 怒りでぎりぎりと歯を食い縛る三浦を尻目に、絞った洗濯物を空の桶に放ると颯爽と立ち上がった。
 
 ***
 
「あぁぁあぁあんもォォオオオ!!」
 副長室に戻ると、伊織は咆哮した。
「うるせぇ! 入ってくるなり喚く奴がどこにいる!」
「いましたよ、ここに!」
「ああそうかよ、静かにしろ!」
 何があった、とは訊いてくれない辺り、いつもの土方だ。
 非常に嫌な目に遭ったわけだが、汚れ物を押し付けられそうになり、嫁いびりみたいな被害を受けたと報告するのは何となく矜持が許さない。
(ここでチクるのは、なんかあいつと同じレベルになりそうで嫌だ……すっっっごく)
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 文机に向かう土方の背に向けて居住いを正し、伊織はごほんと声の調子を整えた。
「先程、三浦啓之助と接触しました」
「ほう?」
 それで、と土方は手を休めて身体ごと向き直る。
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 案の定だ、と土方は乾いた笑みを浮かべる。
「ちょっと土方さん。私を囮みたいに使うのやめて貰えませんかね……」
「しょうがねえだろう。奴にとっちゃあ、おめえは奴と同等の立場にいるようなもんだ。そりゃ勝手に向こうから張り合ってくるだろうさ」
 確かに。
 片や局長の側に仕え、こちらは副長付きだ。
 目の敵にされるのも納得かもしれない。
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 素行の悪い隊士というのは、三浦以外にもいる。
 よくよく思い起こせば、確かに佐久間象山の子息については、何かで目にしたことがある。
 彼の新選組での逸話も、少しは覚えている。
(確か、最後は脱走だったはず。けど──)
 脱走するまでに、他の隊士との揉め事は絶えなかった。
「猪肉……」
「あぁ?」
 ぽつりと呟いた伊織に、土方は呆れたように声を上げた。
「そう、猪肉だ。猪肉売りの女性を無礼打ちにした話があったんですよ」
 あくまでも未来に残る話では、なので、この先何らかの原因で同一の事件が起こらない可能性も十二分にある。
 大まかな流れは歴史に残る通りだが、末端の個々人に関わることとなると絶対に起こるとは言い難い。
「ほら、時々物売りが屯所に来ることあるでしょ? ああいう人を相手に些細な事で激昂しちゃうんですよ。それで……」
「ハァ……。流石にそりゃあ無えだろう、とは言えねえな」
 寧ろ可能性しか感じないのであろう。
 土方は渋面のままに吐息する。
「多分そりゃ、猪肉に限ったことじゃねえな。内部で片付くことなら兎も角、外で面倒事を起こすのは見過ごせねぇ」
 まだ起こってもいない話を聞かされているというのに、土方はそれを訝ることはあっても、馬鹿にして流すことなく一応は耳を傾ける。
 それに。
「土方さんて、こういう話をしても、私を尋問するとかそういうことは一切しないですよね」
 もっと掘り下げて詳細に聞き出そうとはしないのだ。
「尋問されてぇのか? おめえ、まさか変な趣味があるわけじゃねえだろうな……」
「ないですよ何言ってんですか。単純にほら、他に知ってることがあるなら吐け! みたいに、迫られたことないなぁって」
 尋問らしい尋問は、この時代に来た直後にあったきりだ。
 それさえ、本人のちょっと恥ずかしい話をあげつらってしまったためか、喋るなとお叱りを受けたことを思い出す。
「ほぉ? なら訊くが、自分が今これからどういう目に遭うか、分かっていてそう言ってるんだな?」
 不意に、土方の手がぐいと伊織の顎を掴み上向かせる。
「え?」
「どうなんだ、分かるのか?」
 考えに耽っていて、土方が傍らに来てその片膝をついたことにも気付かなかった。
 息がかかるほどの至近距離で斜め上から射貫く視線に、思わずぎくりとする。
 色っぽい話ではない。
 冷徹な視線が、伊織のそれに絡む。
「え、いや、土方さん、私そういう変な趣味ないですからね」
「一つ尋問してやろう。伊東の入隊は知っていたのか」
「伊東って、参謀の伊東さん?」
 未だ大きな手で顎を掴まれたままで、非常に話しにくい。
 喋る度に指が頬の肉に食い込んでいる感じがする。
(今私、絶対変な顔してるわ……)
 放す気配が無いので仕方なくそのまま話すが、仮にも嫁入り前の女子にすることではないなと思う。
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「お褒めに預かり光栄です」
「……褒めてねえよ」
 迫ってみても、怯むどころか一向に狼狽すら見せない伊織にとうとう諦めたか、土方の手が漸く離れた。
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「それを踏まえて、尚聞きたいのであれば話しますよ。他言無用でお願いしたいですけど」
「俺が知りてえのは、奴が俺達にとって吉と出るか凶と出るかぐれぇだ。てめぇの道行きも見えねえ奴が語る未来なんざ、一々真に受けていられるか」
「ふーん? じゃあいいんですね、伊東さんのこと聞かなくて」
「話してえなら聞いてやるが、話す必要がねえと思うなら話すこたぁねえよ」
 相変わらずぶっきらぼうな物言いだが、その言葉にある種の信頼を置いてくれているような気がして、伊織は笑った。
 
 ***
 
「あー、やっぱもっと早い時間に洗えば良かったかも……」
 洗い張りしておいた衣類を取り込みながら、まだ湿気を含んでいることにがっくりする。陽射しがあるから乾くかと思ったが、夏のようにはいかない。
 とはいえ、このまま放ったらかしにするわけにもいかない。
 文句を言われるかも知れないが、副長室の枕屏風にでも掛けさせて貰うほかないだろう。
 伊織が衣類を抱えて縁側に上がろうとした、その時だった。
 下駄で歩く足音が聞こえる。
 咄嗟に三浦かと身構えたが、どうも違うようだ。
 二人分の足音に、話し声。
(……ん?)
 声のする方へ目をやる。
(山南さんと、伊東さん……?)
 こちらには気付いていないようだが、和やかに談笑しているように見える。
「あの子は若いが、少し侮れないところがあります。人を斬ったこともなかったのが、池田屋では、腹を切った宮部の介錯をしたという。導き方次第では、どう育つか」
「ほほう、随分肝が据わっているんだね。流石は土方君のお小姓、なかなか面白い」
(んお?! 私の話!?)
 伊織は咄嗟に縁側から障子戸の陰に潜む。
 まさか盗み聞きされて困るような話をしているわけでもないだろうが、何となく、身を隠してしまった。
「会津の出だと聞いたけれど、それで彼はいずれは会津に戻るつもりなのかな?」
「……分かりません。でも、戻れるのならば戻ったほうが良いのでは、と私は思っていますよ」
「思想も定まらず、ただ闇雲に動いていたのでは、彼自身の為にもならない。世の中の事に目を向け、その上で己が何を為すべきかを知る必要がある。まだ若いなら呑み込みも早いだろうし、私の講義に一度誘ってみようかな」
「ああ、それは良いかもしれませんね。伊東さんの講義は皆に人気があるし、彼もきっと良い勉強になるはずだ」
「ははは、流石に参謀付き小姓に寄越せとは言えないからね」
(えッ……)
 やはり身を隠して正解だったかもしれない。
 連立って歩き去っていくのを障子の陰からちらりと盗み見る。
「あの二人……」
 山南と伊東とが既に打ち解けている。
 今の話題はさておき、同じく勤王の同志として気の合うところがあったのだろう。
 事実、伊織の知る限りでも、あの二人の間に何か通じるものがあったようだと推察出来る逸話が存在している。
(伊東さんが、山南さんを悼んで詠んだ唄が……)
 そこまで考えて、伊織は抱えた洗濯物をぎゅっと握り締めた。
 
 
【第二十八章へ続く】
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