新選組秘録―水鏡―

紫乃森統子

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第3部

第二十六章 知己朋友

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 局長・近藤勇が新たな隊士を伴って京へ戻ったのは、元治元年十月二十七日のことであった。
 伊東甲子太郎の幹部参画は、この時から始まる。
 近藤が帰着と同時にまず詰め寄った相手は、土方であった。
 二月ぶりの再会のわりに、近藤は端から仏頂面で土方の正面にどっかりと腰を下ろした。
 物腰には些か憤りが滲み、粗暴さの目立つ所作である。
「葛山を切腹させた、というのはどういうわけなんだ。納得のいく説明が聞けるんだろうな、トシ」
「どうもこうもねぇ。あれだけの大事にしておいて、処分が謹慎のみたぁ示しがつかねぇだろう」
「だからと言って、首謀者でもない者に腹を切らせて良いことにはならん」
「あんたがそう言うだろうってことたぁ、俺にだって分かってら。だがな、俺たちゃ言ってみれば寄せ集めに過ぎねぇ。見せしめを作っておかなけりゃ、こういう例は後を絶たなくなっちまう。先だっての池田屋、禁門の戦で功績を認められたって言ってもな、そいつは揺るがぬ信頼ってわけじゃあねえんだ」
 遡って考えてもみれば、上洛以後、新選組が起こした騒動は数知れず、その都度会津の役人からお小言を頂戴している。
 商家への押し借りや脅迫と言った類は、いちいち数えるのも馬鹿らしくなる回数だ。
 しかしそれらも度が過ぎればその度に粛清を加え、何とか体裁を保ってきた。
 たとえそれが、局中のどんな者であれ。
「しかし、永倉や原田が謹慎で済んだものを、他の者にだけ切腹させれば、それこそ内部に示しがつかないだろう。おまえに不満を持つ者が増えるだろうし、無用な派閥を作る原因にもなりかねんぞ」
 今し方の簡潔な説明にも、恐らく腹の底からの納得は出来ていないのだろう。近藤はその大きな口を引き結び、への字に曲げる。
「俺の留守中、高宮君が黒谷へ出仕していたらしいじゃないか。山崎君から聞いたぞ、高宮君はお前の独断に不信を抱いていたようだ、と」
「山崎? ……あいつ、余計なことを」
 帰着早々に山崎から報告が上がっているらしいが、葛山の一件に留まらず、伊織の黒谷出仕についても漏らさず報告しているあたりが、どうにも山崎らしい。
 山崎が伊織に対してあまり良い印象を抱いていないらしいことは、土方も気付いていた。
「余計なことではないだろう。俺にも許せることと許せないことがある。俺の預り知らんところで同志を処断されるのは納得がいかん」
「まあ、そいつに関しちゃあ、説明しなくもねぇぜ。ついでに、斎藤が報告があるとかなんとか言っていやがった」
「この他、まだ何かあるのか」
「悪い報告じゃあないだろうが……。わざわざ招聘したんだ、伊東殿にも同席願っちゃあどうだ?」
 怪訝に眉宇を顰める近藤に対し、土方もまた、やや辟易した風を匂わせた。
 
 ***
 
「――と、まあ斯様な不祥事もありはしましたが、本陣出向中の働きを認められたこともまた一つの事実でしょう。それが証拠に、会津藩大目付、梶原平馬殿より高宮に名賀姫様付相談役の任が下されました」
 局長室で淡々と事実だけを述べる斎藤は、相変わらず感情を窺わせない表情だ。
 その様子を見ているだけでも、この男が如何に隠密に向いているかが分かる。
 対して近藤は眉を顰め、今一つ解せぬ、と言った風に顎を摩る。
「その名賀姫様、というのは――」
「松平肥後守様のご側室です」
「…………ご?」
「ご側室、です」
 間髪いれずに即答した斎藤に、近藤は目を丸くした。
 だが、喫驚したのは何も近藤だけではない。
 土方も同様で、伊織とは初対面の伊東までもがきょとんと目を見開いた。
 瞬間、室内に奇妙な沈黙が降り、伊織は居たたまれずに斎藤の顔を横目で窺う。
 だが、斎藤は視線などまるで感じていないかのように、見事な無視を決め込んでいる。
 文も武もろくに修めていないばかりか、出自さえ明確でない伊織を側室の相談役に据えるなど、俄かには信じ難い話だろう。
 報告を受けた彼らが唖然とするのも当然だ。
 恐らく伊織が自ら報告していたら、馬鹿な冗談を言うものではない、と相手にもされずに一蹴されていたのではないか。
「斎藤君。念のために確認するが、高宮君は公用方に出向していたんだよなぁ?」
「局長、信じたくないお気持ちは分かりますが、役目を賜った件は事実です。が、ご側室の名賀様は未だ十五、六とお若く、高宮とは年も近い。実際にはただ話し相手として時折お訪ねすれば良いとのこと」
 それと引き換えに、名賀は気儘な一人歩きを自重するという約束だ。
 会津の側としても、それで側室の身勝手を抑え込めるのならばそれに越したことはない、ということだ。
「妙な経緯ではあるが、まあ……会津の本陣と親交を深める良い機会でもあるか」
 元々、近藤は会津に対しての忠義心は厚い男だ。
 委細は兎も角、名誉な事と受け止めた様子である。
「なるほど、見掛けに寄らず胆力のある少年なのだね」
 そう言って笑うのは、件の新参一派頭目である伊藤甲子太郎である。
 その風貌は細面に色白の、――優男という表現がしっくり来る。
 新選組の武骨な集団の中にはおよそ馴染まない、良く言えば洗練された、悪く言ってしまうと気位の高そうな雰囲気を纏った男だ。
 柔らかく優しげな笑みを浮かべてはいるものの、伊織にはその眼の奥に些か値踏みするような鋭さが垣間見えた気がした。
 局長室に入ってすぐに近藤によって伊東の紹介を受けたが、伊織も斎藤も名を名乗る程度で多くの言葉を交したわけではない。
 無論伊織にしてみれば、伊東一派の入隊から派生する波乱について知らぬはずもなく、何となく深く関わり合いになるのを回避出来るのならそれに越したことはない、と思うのが本音だった。
「本陣の名賀姫様のもとへは、私が非番の日にお訪ねしようと考えております」
 故に、局中において差し障りの無いよう努める。
 伊織はそう述べるに留めた。
「ふむ、肥後守様の御側室ともなれば、姫君ながら御苦労も多いお立場だろうからなァ。しっかり務めを果たすように」
 頼んだぞ、とにんまり笑う近藤に、伊織は神妙に頷く。
 その遣り取りの最中も、伊東の含みありげな視線を受け続けたのであった。
 
 ***
 
 伊織が斎藤と共に監察方の詰所に戻ると、そこには久方振りに見る顔がせっせと荷解きをしているのが目に入った。
 尾形俊太郎である。
 この男、長らく副長助勤を務めているにも関わらず、真っ先に監察方の詰所へ戻ってきた様子だ。
「あ! おかえりなさい尾形さん! 早速ですがお土産は!?」
「俺が無事で帰ったことが何よりの土産だが、不服なのか」
「えぇ……」
 無事で何よりだが、本当に土産の一つも無いらしい。
 見送りの際にあんなにせがんでおいたのに、多分すっかり忘れているのだろう。
 勿論、伊織としても尾形の顔を見るまでは綺麗さっぱり忘れていたのだが。
 近藤らの不在中、あまりに多くのことがありすぎた。
 葛山の一件については、当然尾形も既知の事実。
 その後の黒谷への出向も山崎あたりが面白おかしく伝えている可能性が高い。
 尾形が出立前に言い残した『副長の指示に従うように』という言い付けも、結局のところ守れていなかった。
「……それで、あの、尾形さん」
 おずおすと改めて声を掛ける伊織に、尾形は目もくれず手荷物を次々と行李に移し替えていく。
「尾形さん、本当にすみませんでした……っ!!」
 ずしゃっっと音を立て、伊織は畳に平伏した。
 実際本当に畳で額を擦り剥いてしまったらしく、次の瞬間にはヒリヒリと痛みが走る。
「尾形さん、一応俺からも謝罪しよう」
 という斎藤の声がすると同時に、伊織の下げたままの頭上に大きな掌が乗り、更に畳に擦り付けられた。
「!? いででででで!」
「高宮に勝手な真似をさせた。俺もさっさと佐々木さんの妾になれとか国へ帰れとか、少し嗾けた。まあ結果丸く収まったが、申し訳ない」
「…………」
 元々然程多くはなかった旅の荷は一通り片付けられたようで、尾形は畳に張り付く伊織と、それを抑え込む斎藤とを交互に眺める。
「まあ大体のところは聞き及んでいるが、結局は副長が許可し、帰隊を認めたんだろう。それなら俺が言うべきことは何もない」
 伏しているためにその表情は見えなかったが、尾形の声の調子には特段憤りや落胆といった色は感じられなかった。
 そして、自分も謝罪する、と宣言した割に、斎藤が尾形へ頭を下げた気配は微塵もない。
 斎藤自身の分まで、ひたすら伊織の頭を畳に押し付けるだけだった。
「それで? それほど勧められたのに、佐々木さんの妾にならなかったのか?」
「……謝罪早々アレですけど、ぶちのめしますよ尾形さん?」
 一体、いつまで佐々木の存在に脅かされ続けなければならないのか。いや、確かに害になるばかりでもない存在なのだが、それが余計に口惜しい。
「ハァーア、おまえの貰い手なぞ佐々木さんくらいしかいないだろうに」
「俺も全く同感だ」
 この二人、実はもう伊織が女であることを承知しているのではないだろうか。時々、そんな風に思うことがある。
 単なる揶揄にしても、果たして同じネタでここまで遊べるものなのか。
 そもそも衆道といえば、もっと繊細かつ高尚な扱いを受ける部類のようにも思う。
(衆道が高尚なのって、戦国時代くらいまでだっけ……?)
 いや、そんなはずはない。
 この時代にも当然存在しているし、少なくとも蔑視されたりするようなものではないはずだ。
 推測だが、問題なのは価値観でも伊織自身でもなく、佐々木の好意の表し方にこそあるのだろう。
 佐々木の行動は、周囲が囃し立て易いものが多い。きっとそのせいに違いない。
「おい、いつまで畳に接吻しているつもりだ」
 尾形の声で、伊織ははっと我に返る。
 考え事をしていたせいで、斎藤の手が既に退けられていることに今更ながら気が付いた。
「近藤局長にも報告は済んでいるんだろう。だったらもうその件はそれで終わりだ」
 慌てて顔を上げると、変化に乏しい見慣れた尾形の顔があった。
 どうやら、言葉の通りにお小言は無しのようだ。
「尾形君が気にしないのであれば、俺も助かる。では、俺はそろそろ休むぞ」
「えっ!? もう行っちゃうんですか、斎藤さん」
 折角、尾形との感動の再会を果たしたというのに。
 すっと立ち上がったかと思うと、斎藤は大きく口を開き一つ長い欠伸をした。
「少々寝不足でな。少し寝る」
 言葉少なにそう言い捨てて、斎藤は悠々と部屋を後にした。
 
 ***
 
 斎藤が戸を閉めると、尾形はちらりと伊織を見遣る。
 伊織も何となく尾形を見返すが、視線が絡むと溜息と共に逸らされてしまった。
「え、なに? 何ですか、その溜息?」
「何でもない」
「いやいやいやいや絶対何かしら含みありますよね」
「含みはない。ただ、俺もお前もまた戻って来たのかと少しがっかりしているだけだ」
「がっかりするようなことじゃないですよね!?」
 そこに、どたどたと大股で急く足音が割り込んだ。
 先に去った斎藤が戻って来たわけではないな、と思うや否や、スパンッと小気味良い音を立てて現れたのは満面の笑みを浮かべた沖田であった。
「お二人とも、お帰りなさい!!!」
 言うが早いか、沖田は片手に尾形、もう一方に伊織を捕まえた。
 肩を組むようにがっちり抑え込まれ、伊織は危うく首が締まるところだったが、その力の強さも喜びの表れだと思うと、多少の苦しさも紛れてしまった。
「ただいま戻りました、沖田さん」
「はいはい、ただいまなさい。あんた出迎えでも局長にやってたなコレ」
 勿論、近藤一行の出迎えにも出たので、帰って初めて三者が顔を合わせたわけではない。
 懐っこい沖田のことだから、恐らく親しい者皆に改めてこうして回っているのだろう。
 一頻り一方的な抱擁を経て、沖田は漸く二人を開放する。
「もー、聞いてくださいよ! 尾形さんがいない間の高宮さんときたら、そりゃあもうひどかったんですよ!」
「えぇっ!? ちょっ、沖田さんそんな事はな──」
「土方さんと私は、高宮さんに一度捨てられたんですからね!」
(人聞きがとても悪い!)
「更に言うとですね、尾形さんだって捨てられたようなものなんですよ!」
「俺はいい加減こいつのお守役から開放されたいから一向に構わんが」
 寧ろこっちから捨ててやりたいだとか宣う尾形に、沖田はぐいぐい膝を詰める。
「そう言わないで聞いてくださいよぅ。私がどんなに口説いても高宮さん一っつも振り向いてくれないし、黒谷でお偉方とも仲良くなっちゃうし、奥向きにまで顔広げちゃうし、佐々木さんと剣稽古は愚か文通まで始めちゃって……」
「文通は誤解ですよ!?」
 佐々木と文通は断じてあり得ない。
 そう言い切ると、沖田はあからさまに仏頂面を作る。
「でもそれ以外は全部本当の事じゃないですか?」
「う……」
 と、言葉に詰まるくらいには、まあまあ事実を列挙されていた。
「もしかして本当に会津に帰っちゃうこともあるかと思って、私は……」
 沖田は伊織が女子であることを知っている、数少ないうちの一人だ。
 会津本陣の公用方は兎も角、奥向きに縁が出来たとなれば、下働きでも何でもより安全な場所へ転がり込むことも出来た可能性もある。沖田が内心でそう考えたとしてもおかしくはなかった。
「沖田さん……」
「戻って来たんですねぇ、本当に」
 しみじみと呟く声に、伊織はじわりと目頭が熱くなるのを感じた。
 これ程までに心を砕いてくれる沖田に、自分は何を以て応えるのか。
「勝手をした分、以後は職務に励みますね」
 今はまだ、その程度しか言えなかった。
 不甲斐無さに自己嫌悪が擡げるが、事実、自分に出来ることはまだまだ少ない。
 そういえば、と沖田は話を接ぐ。
「公用方では、雑用も多かったんじゃないですか?」
「そうですね。雑用と、何というかまあ――、殆ど手習いをさせられてました、ね」
 広沢からちくちく小言を食らいながら、正しい文書の記し方、記録と書状の書き方など、幾度も練習させられたものだ。
「……手習い、ですか」
 にこにこと上がった口角はそのままに、呆れか驚きか、沖田の目から微笑みが失せた。
「公用方はいつから寺子屋になったんだ?」
「いえ、言いたいのは分かりますけど、尾形さんはちょっと歯に着せる衣を一、二着ばかり買って来てください」
 文字そのものは、当然伊織にも書ける。楷書やそれに準じた字体を読むことも、当たり前に出来る。
 問題は旧字体や崩し字、書状や記録の体裁、書き言葉や文章そのものだ。
 こればかりは馴染みがあるはずもなく、未だに怪しい。
 伊織の元居た時代でも、作文が書けるからと言って、社会的に通用する公的な書類を作成出来るかと言ったら、そう簡単にはいかないだろう。
「読み書きもそこそこ出来るようにはなりましたし、広沢さん怖かったけど今では感謝してるんです。根性だけは認めてもらいましたし」
 己が異なる時代の人間だからと、心のどこかで出来ないことを正当化していたように思う。
 出来ないことを出来ないままにしない。
 やればやっただけ実力になるのだ、ということをも教えられた気がする。
「何だか小さな子供みたいな話ですけど、やっぱり、出来ることが増えると嬉しいものですね。でも広沢さんは怖かったです」
 重要なことなので、二度でも三度でも言う。
 職務に従事する間の広沢は怖かった。
 すると、じっと耳を傾けていた沖田と尾形も、どちらからともなく顔を見合わせる。
 そうして、互いに何か通じたものがあったのか、珍しく尾形までもが笑顔を見せたのであった。

 ***
 
 その夜、伊織は副長室で土方の戻りを待っていた。
 伊織が黒谷から壬生の屯所へ帰り着いたのは、今朝早くのことだった。その後間もなくして近藤一行の帰京が重なったのである。
 そうなると、やれ荷解きだ、報告だ、新規参入した伊東らとの面会だ、と、屯所内の空気も一変して気忙しくなっていた。
 今宵は沖田の隊が巡察に出かけて行ったが、それを見送ってしまうと特にすることもない。
 夜は一層冷え込む季節だ。燭台の灯りを整え、火鉢の炭も入替えておく。
 ふるりと一つ身震いすると、伊織は自ら整えた火鉢の前で背を丸めた。
(早く来ないかなー……)
 そわそわしながら、じんわり熱を受ける掌を時折擦り合わせる。
 寒い季節になってくると、どうしても現代に居た当時の暮らしが脳裏を過った。
 何にせよ、暖房器具や家屋の断熱性に於いては相当な差がある。
 その点に限っては、この時代の誰よりも、それこそ徳川将軍や天皇陛下よりも快適な暮らしをしていただろうと自負している。
(軟弱者とか罵られたらどうしよう)
 これから真冬となっていく。
 夜は勿論、朝の厳寒に耐え得るだろうか。
「……雪、降るのかなぁ」
 故郷会津は雪深い土地であった。
 それは恐らく、今も未来も変わらないだろう。
 きっとこの冬も、会津の地では雪化粧の若松城が見られるのに違いない。
 故郷の銀世界を想像したせいか、伊織は火鉢に当たりながらぶるぶると震える。
 思わず小袖一枚の自分の両腕を摩った。
「ああ寒ィな、くそ」
 障子戸の外で床板を軋ませる足音が聞こえ、土方の声がした。
 と同時に、すっと障子戸が滑る。
「あ、お帰りなさい。火鉢どうぞ?」
 大袈裟なまでに身を縮こまらせる土方の姿に、伊織は暖を勧めた。
 が、勿論我が身も寒いので、身を退いたりはしない。
「火鉢か、有難てぇ。おめぇにしちゃ気が利くな、褒めてやる」
「わーい褒められた」
「…………」
 ぴしゃりと戸を閉めると、土方は火鉢の前に直行し早速その両手を翳す。
 火鉢を挟んで、至極近い距離で向き合う形となった。
「……」
「……」
 この副長室で過ごすのも、二月ぶりだ。
 そこはかとなく、ぎこちない雰囲気を漂わせる土方に、伊織も僅かに気まずさを覚える。
「……土方さん」
「なんだ」
「黒谷への出仕、許可してくれてありがとうございました」
「ああ、感謝しろィ」
「色々と勉強になりました。何となく見えてきたことも多くて、得たものは少なくありません」
「まあ会津と繋がりを持つのは、おめぇにとっちゃ悪いことでもねぇだろう」
「んー、そりゃそうかもしれませんが……。けどね土方さん。どんなに良い伝手が出来たとしても、それでも私は、新選組に居座ると思いますよ? 何だかんだ、ここを離れる選択肢を私は持ち合わせていないみたいです」
 関わり合う人に疑念を抱くことも、時に志の揺らぐこともあるだろう。
 記録として残された事実を知っていることと、現実に目の前で繰り広げられる事象とでは、大きな乖離がある。
 結果は字にしてただの一行。
 そこに至るまでの出来事や、当事者たちの感情や思惑は、事細かに記されてはいない。
 後世に残る名も、その人の全てを教えてくれるわけではない。足跡や手記、回顧録といった限られた情報の中で組み立てられた人物像が残るだけだ。
 誰も、直接に会って話したわけではない。
 今目の前にいるのは、生身の人間だ。
 その証左に、彼もその時々で懊悩し、逡巡する。
 一個人である以上、他者には推量ることすら不可能な領域があるはずで。
 それは歴史に名を連ねていようがいまいが、全ての人に等しくあるものだ。
「ある意味、私は土方さんに幻想を抱き過ぎてたようなところがありました。でも、私の中だけの土方さんじゃなくて、こうして目の前にいる土方さんをちゃんと見ていかなきゃいけないんだなって、今はそう思うようになりました」
「お、おぅ……。急にどうした」
 じっと土方の双眸を見返し、決意のほどを示したつもりであったが、それが伝わった手応えは今一つだ。
「今のは私自身の心の区切りなんで、意味分かんなくても大丈夫ですよ」
「あんだそりゃ」
 露骨に怪訝な顔をする土方の視線が、伊織をまじまじと捉える。
「……いや、それよりおめぇ、寒くねぇのか」
「寒いに決まってるじゃないですか。単物ですよコレ」
 これ見よがしに袖を左右にピンと張ると、土方はやおら立ち上がり、部屋の隅に置かれた行李の中を漁り出す。
 暫くごそごそしていたかと思うと、やがてその手に大きな褞袍どてらを持って伊織に向けて突き出した。
「見てるこっちが寒くなる。こいつを羽織ってろ」
 どうやらくれるらしい。
 が、どう見ても大人の男性の身の丈に合わせて縫製された代物だ。
「でもこれ土方さんのでしょ? ちょっと私には大き過ぎるような……」
「うるせぇ、大は小を兼ねるって言うだろうが」
「そうですか? 袖とかすごい余りそう……」
「喧しいわ、黙って着とけ!」
 躊躇する伊織に業を煮やし、土方は褞袍を広げてそのまま伊織の頭からばさりと掛けた。
「うわわ!」
「俺ァ寒いのが嫌いなんだよ! んな寒そうな格好で目の前にいられちゃあ迷惑だって言ってんだ」
「んもー、乱暴なんだから。そういうの良くないですよ?」
 でも、と頭上の褞袍をのけて肩に羽織り直しながら、思わず吹き出してしまった。
「プッ……ありがと、ございます」
 こういうところは相変わらずだ。
 親切なのに、今一つ素直さに欠ける。
「やっぱり大きいですよコレ」
「黙れ小童。あるだけましだろうが」
 袖からは指先すら出ず、襟刳りも大きく開いて、前で抱え込むように合わせなければすぐにずり落ちてしまいそうだ。
 不格好ではあるが、確かに暖かい。
「土方さんのそういうとこ、結構好きですよ」
「ったく、よくそういうこっぱずかしいことが言えるな……」
 再び伊織の正面に胡坐を掻く土方の面持ちには、僅かに照れが見え隠れする。
「私、誰かさんと違って素直なので」
「てめぇ……」
 黒谷へ出る前とそう変わらぬ室内と、今し方受け取った褞袍から、主の香りが仄かに漂う。
「あー……、なんか、土方さんだなぁって匂いがする」
「ハァ? あんだよ、さっきから気持ち悪ィな」
 佐々木に感化されてきたんじゃねえのか、とか何とか、思い切り暴言を吐かれたが、今はそんな憎まれ口も気にならなかった。
「ふふふ」
「おい、さっきからニヤニヤしやがって、戻って来たからにはおめぇにもそれなりに働いてもらうからな。覚悟してんだろうな」
「やだなぁ、遊んで暮らす気はないですよ?」
「ならいいが。早速だが、明日の朝にでも尾形君を呼んで来い。話がある」
 その席に同席しろ、と付け加えたところを見ると、どうも監察の領分での話があるのだろう。
 伊織は二つ返事で了承したのであった。
 
 ***
  
 翌朝も冷え込みの強い朝だった。
 早朝のぴんと張り詰めた冷気に真白い霧が立ち込めて、いつもなら塀の向こう側に臨める遠くの山々が塗り潰されていた。
 寝床から這い出るのも辛く、まだまだ眠っていたいところだったが、流石に帰隊早々寝坊したのでは立つ瀬がない。
 渋々起き出せば、既に朝稽古に励む隊士たちの声が聞こえてきていた。
 今朝は撃剣師範たる斎藤が指南する朝稽古にも顔を出し、久方振りに賑やかな朝食を終えると、伊織は尾形に声を掛けた。
 昨夜土方に申し付けられた通り、揃ってその話とやらを聞くためである。
 
 ***
 
「伊織が黒谷にいる間、会津からの紹介で碌でもねぇのが来やがった」
 相変わらず火鉢を離さず、土方は煙管片手に口火を切った。
「昨日のうちに近藤さんにも話は通したが、局長自らあの様子じゃあ先が思いやられる」
 苦々しく嘆息する土方に、伊織はふとある男を連想する。
 会津公用方の遣いで屯所を訪れた際、山南との談話中に現れた三浦敬之助とかいう男だ。
 碌でもないと形容するのが適当かどうかはまだ判然としないが、確かに態度は大きく、自己主張の強い印象だったのを思い出す。
 そして、山南の話の中で聞く限り、彼が佐久間象山の遺児であり、その父の仇討を目的としているということも。
 佐久間象山は信濃松代の藩士で、朱子学や兵学、西洋砲術にも精通した優れた学者だが、その性質に難のある人物、ということくらいは知識としてある。江戸で塾を開いていた折には、吉田松陰や坂本龍馬も入門していたというから、大人物には違いない。だが、知ることと言えばその程度。ましてやその息子となれば、尚更だ。
 慣れぬ本陣で過ごす中で、三浦敬之助個人を気に留めることは無かったが、自らと入れ替わるように入隊した存在そのものには得体の知れぬ不安を覚えたものだ。
「三浦啓之助という隊士の話なら、私も以前少しだけ伺いましたけど……」
 そんなに酷い有様なのか、と問えば、土方は殊更渋面になった。
「これまでも態度のでかさ故にいざこざを起こしていやがる。だが、報告がてら紹介した折、近藤さんが甚く気に入っちまった。挙句、是非とも自分の側仕えにと言い出した」
「局長の側仕え、かぁ……」
 なるほど。と、伊織は思う。
「あぁー……。副長も気苦労の耐えないことですね。お労しや」
 尾形もその懸念を読み取ったようで、土方へ憐憫の眼差しを投げかけている。
 名士大好きな近藤のことだ、それはそれは可愛がられることだろう。
 別にそこまでは良い。
 問題は、三浦がそれを傘に着て際限無く増長していく事だ。
 今でさえ、そこいらの隊士に生意気な口を叩き、愛刀自慢を繰り広げ、食事や寝所においても優遇を要求する始末。
 到底、新参者の取る態度とは思えない振る舞いだ。
「それで、何をすればよろしいですか」
「尾形君、君を五番組の頭に据えるにあたり、その隊に奴を入れようと思う」
「あ、嫌です」
(尾形さーーーん!?)
 仮にも副長命令に対し、即座に拒絶する尾形。
「そこを何とか頼めないだろうか。君が駄目ならあとは総司くらいしか……」
「では沖田さんの隊にしましょう。俺は監察任務でも瘤付きの身ですから、負担は平等に願います」
 にべも無く突っ撥ねる尾形の堂々たる様は、いっそのこと清々しい。
 何にも億せず、凛とした空気を纏う姿に、伊織は感嘆の息を漏らす。
 が。
「え、いや、瘤ってもしかして私ですか……?」
「もしかしなくてもお前だが」
 瘤を斬り捨て、尾形はまた、土方に向けても追撃の一言を差し向ける。
「そういう問題児の扱いは、俺より沖田さんのほうが上手い。それに、局長にごく近い沖田さんに対してならば、横柄な態度も少しは鳴りを潜めるのでは?」
 大体、そこまで酷ければ、放っておいても勝手に自滅するのではないか。
 私闘は禁じられているが、度が過ぎれば粛清の憂き目を見る可能性も充分にあるだろう。
 尾形の意見に、土方もげんなりと肩を落とす。
「奴は一応は正式な手順を踏んでここへ来た。紹介者は会津の侍だ。大方、あちらさんも手に余っていたんだろうが、おいそれと粛清対象にするわけにゃいかねえ」
 一隊士として扱ってはいるが、いわば会津からの客人のようなものだ。
「副長、また面倒臭いものを抱えたもんですね……」
「私も他人の事は言えないかもしれないですが、厄介者を押し付けられたんですね」
「……二人揃って残念なもん見るような目ェするんじゃねえよ」
 土方は緩んだ空気を振払うかのように一つ咳払いする。
「あー、配属の件は総司にも打診する。が、それとはまた別に、君たち二人には念のため奴の行動を監視してもらいたい」
 前述の通り、三浦は土方から見れば会津から預かった客人のような立ち位置だ。すぐに三浦本人をどうこうしようと考えているわけではないらしい。
「出来ればでけぇ問題を起こす前に、松代へ帰るよう促せりゃそいつが一番良い。説得が難しけりゃ、奴の粗を探せ」
 松代へ帰す口実となり得る材料を集めろ、ということだ。
 近藤が是と言わざるを得なくなるような要素があれば尚良し。
 尾形もこの密命に関しては、否やを唱えることもなく、承諾したのであった。


【第二十七章へ続く】
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