赤い鞘

紫乃森統子

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一.揃いの鞘

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 小野派一刀流、免許皆伝。
 剣の腕は紛れも無く本物である。
 生来剛直で、筋の通らない事は嫌いな性質。
 体躯も人より優れ、その上にやや強面だった。
 名は青山泰四郎。齢、二十一。

     ***

「俺はそんなに怖いんだろうか?」
 いつものように道場で稽古を終えた後、泰四郎は唐突に問いかけた。
 どうにも、周囲には「怖い人」に見えるらしい。
 恐らくそれは何事にも謹厳であるがゆえに周囲に与える印象なのだと思いたかったが、何しろ同じ門下でも遠巻きにされているように感じるのだ。
 勿論、他者にも厳しいところがあるとは自負しているが、己自身にもそれ以上に厳しいつもりなのだが。
 平素通りに振舞っているものの、最近では常々そんな周囲の目が気になるようになってきたのである。
「怖い、って? 泰四郎が?」
 問いかけた相手、幼友達であり同門でもある和田悦蔵は、そんな泰四郎の鬱々とした様子も気にかけずにきょとんと訊き返してきた。
「ああ。この前なんかは、入門したばかりの童に木刀の持ち方がなってないと注意したら……。なんと、泣かれた」
「はあ……、泣かれたか」
「そんなに強く怒鳴ったりしたわけじゃない。手の添え方に気をつけろと言っただけなんだぞ? そしたらそいつは大泣きするし、どういうわけか他の子供まで泣き出した……」
 指導の一環とはいえ、さすがに十を超えたばかりの子供を泣かすのは気が咎めるものだった。
 もし目の前にいる悦蔵が泰四郎と同じ要領で注意したとしても、泣き出すまでにはならなかったのではないだろうか。
 悦蔵もまた同門では泰四郎に匹敵する剣の達人であるが、気性は極めて穏やか、且つ容貌もまるで女のような美丈夫。
「俺はそんなに怖いか? なあ悦蔵、おまえどう思う?」
「えっ、俺は泰四郎大好きだけど?」
「馬鹿か、そんなことを訊いているんじゃないだろう!? 客観的に見て、俺は怖いかどうかと訊いているんだっ!」
「えー? ああ、そうだなぁ。子供にしてみりゃ、怖いのかもなぁ」
「やはり怖いのか、俺は。道理で婦女子も近付かんわけだ……」
「なんだよ、子供より婦女子の皆さんに好かれたいのかよー。やだなあ、泰四郎には俺がいるじゃーん」
 汗に濡れた道着を上半身だけ肌蹴て、悦蔵は適当に汗を拭いながら軽く答える。
 泰四郎としては深刻な悩みなのだが、悦蔵の耳には然程に深く届いていないらしい。
 そして、今更ではあるが、この悦蔵だけは昔から妙に泰四郎に懐いてくるのだ。
 悦蔵とは対照的な気性を持つ泰四郎に、何故こうも如才なく接してくるのか、それは幼い時分から疑問に思っていた。
 いや、対照的な性格をしているからこそ、なのかもしれないが。
 男同士で好きだとか何とか、そういうことを衒い無く言ってのけるあたりも、泰四郎には決して真似できない荒業である。
(いくつになっても、こいつは分からん……)
 まだ藩校の手習所に上がる前の悦蔵は、泰四郎が見かける度にべそをかいていた記憶があるくらいで、何度女々しい様を晒すなと叱り付けたことだろう。
 たった一つ歳が離れているだけなのに、随分弱々しい存在に見えていたこともしっかり覚えている。
 それが何時の間にか、笑った顔しか見せないようになっていた。
 元々柔和な面立ちの悦蔵が笑顔を見せれば、女子供も怖がるどころか向こうから近寄ってくるという。
 にこにこと微笑みながら、泰四郎を慰めるように肩を軽く叩く悦蔵。
 その様子を眺めて、泰四郎はふと思い立った。
「……そうか、笑顔か」
「え? 笑顔? 何がだ?」
 突然声を上げた泰四郎に首を傾げる時も、悦蔵はまだ温和な笑みをその顔に残している。
 悦蔵と違って、泰四郎は滅多に笑わない。
 よほどに面白おかしいことがあれば別だが、ここ最近は人と会えば二言目には年明けから始まった戦の話題ばかりが出るようになっている。
 遥か遠い京都で火蓋を切ったその戦が、今ではこの奥州にまで戦場を移してきているのだ。そう遠くないうちに、二本松藩からも兵を出すことになるだろう。
 さすがにそんな話の最中に笑うのは不謹慎だと思ったし、げらげら笑いながら戦の話を出来るのは、そこに高い勝算が見込める場合だけである。
 城下中にそういう張り詰めた空気が漂っている中では、確かに泰四郎に限らず笑顔を見せる者は少なかった。
 だが、それとこれとはまた別な話。
 泰四郎が笑いながら他愛ない話の一つでもすれば、敬遠する子供たちも少しは気を許してくれるかもしれない。
「俺も笑えば、怖がられずに済むかもしれないな」
「そうか? じゃあ試しに今、ちょっと笑ってみたらどうだ?」
「えっ。い、今? ここで、か?」
 悦蔵は剣術ばかりか、笑顔の達人でもある。
 そんな人の前でいきなり笑ってみろと言われても、泰四郎も慣れぬ笑顔をすることに若干の気後れがした。
 情けない話だが、どうしても悦蔵の笑った顔に勝る自然な笑顔が出来る自信はない。
 たじろいでこの場をやり過ごそうにも、悦蔵は素早く泰四郎の目と鼻の先に顔を寄せて、にっこりと飛び切り上級の笑顔を見せ付ける。
「ほら、にっこりー」
「……に、にっこ、りー……?」
 悦蔵を真似て、泰四郎も半ば強引に口の端を引き上げる。
「!? 泰四郎怖っ!」
「俺の精一杯の笑顔を怖いとか言うな馬鹿野郎っ!」
「ごめんって! でも目が怒ってんだもん、もっと自然に笑えよ……!」
「俺のこの目は生まれつきだっ! もういい、笑顔はやめたっ!」
 まさか、笑った顔まで怖いとは。それも悦蔵に言われると何故か無性に劣等感が生まれる。
 うまく笑えない。
 武人として大事なのは、自戒心、忠誠心、そして忍耐力だと教え込まれてきたせいだろうか。
 泰四郎の父・青山泰介も、やはり厳しい人であった。小野派一刀流の奥義を極めた頗る腕の立つ武人である。
 そういう常に武張った父の背中に倣い、幼少から培われたこの性分をいきなり変えることは難しいのかもしれない。
 泰四郎はくるりと背中を向けると、小さく吐息した。
「いいんじゃないか? 厳しかろうが怖かろうが、俺はそういう泰四郎のほうが良いな。だいたい泰四郎みたいな偉丈夫はさ、キリリとした表情のほうが似合ってるよ」
「変な慰めは要らんぞ」
「じゃ、もっと平たく言うか? ……年中仏頂面の泰四郎がいきなりにこにこしてたら、気味が悪いって」
「言うじゃないか、悦蔵……」
 人の気も知らずに、よくもいけしゃあしゃあとあしらってくれる。
 やはりこんな相談を持ち掛けるのではなかったと少々後悔を覚えた時、背後の悦蔵がぽん、と膝を打った。
「そうだ、泰四郎」
「なんだよ」
 気を取り直し、ひとまず汗と埃に塗れた道着を着替えようと襟を広げたところで、悦蔵の手が泰四郎の肩を掴んで引いた。
「俺、これから太刀を見に出掛けようかと思うんだけど」
「太刀? だからどうした?」
「付き合えよー」
「ああ?」
 太刀と聞いて、思わず悦蔵の腰の得物に視線を落とす。
 黒塗りの鞘の、立派な拵えの一振りを佩いているのに、何故太刀を新調する必要などあるのか。
 そう疑問に感じたことが、泰四郎に自然と怪訝な声を出させた。
「な、たまには二人で逢引といこうじゃないか」
「おまえの誘い方はいちいち気に障るな……」
「ほうら、ぐずぐずしてると俺が着替えの介添えを……」
「せんでよろしい!! 触るな馬鹿っ!」

     ***

 城下、作事場付近の一軒の暖簾を迷わず潜った悦蔵は、仕方なくついてきた泰四郎の袖をも引き摺っていく。
「早く来いよ泰四郎ー」
「ああもう、分かったから袖を引くな、袖を! どこの童だおまえは!」
 紺地に屋号を白く染め抜いた暖簾をかき上げながら、泰四郎も悦蔵に引かれるまま店に足を踏み入れた。
「ご主人、すみませんがね、昨日のあれ、この人のと同じ拵えにしてもらえますか」
 店主らしき中年の男の前にまで引っ張っていくと、悦蔵は徐に泰四郎の朱鞘の大刀を指し示した。
 赤味の強い朱色だが、泰四郎も特に理由があってこの色の鞘なわけではない。単に朱は好む色だったし、身幅も刀身も泰四郎の身体と膂力にちょうど合っている。ただそれだけのことなのだが。
「おい、なんだって俺と同じ物なんか……」
「うん、なんとなく」
「はぁ?」
 悦蔵がどんな色の鞘を佩いても、そんなことは悦蔵の勝手だ。赤が良ければ赤にすれば良いし、黒でも白でも、別にどうだって良いことだ。
 刀の拵えだって、同じにしたければそうしてもらって一向に構わない。
 ただ、昔からこういうことは度々あった。
 いつも泰四郎の後を一歩遅れてついてくるような、そういうところが悦蔵にはある。
 剣術道場に入門した時もそうだったし、藩校に通っていた頃には、独りでさっさと行動してしまう泰四郎を悦蔵が呼び捕まえて、行きも帰りもいつも必ず一緒だった。
 今回もそういう類の思いつきなのだろう。
(学館の雪隠に行く時でさえ、振り返ると必ずこいつがいたしな……)
 過去にはそういう行動が鬱陶しく思えて仕方のない時期もあったが、今となってはすっかり慣れてしまった。
 まるで、生まれてすぐの雛鳥のようなものだ。
 異常に慕われているのが擽ったくもあり、それでもいつの間にか悦蔵と二人で連れ立っていることが当たり前に思う自分がいる。
「おまえには呆れるよ。揃いの鞘なんか持っていたって、何の意味もないだろうに」
「あるよ。少なくとも、俺にはね」
「……何度も言うが、時々気色悪いぞおまえ」
 時々と言わず、これが割りと頻繁に思うことだ。まさか悦蔵の自分に対するそれは、衆道に通ずるものではあるまいな、と思わずにいられなかったりする。
 だが、悦蔵はそんな疑念に気付いてか否か、軽快に笑声を上げると悪戯っぽく白い歯を見せて泰四郎の腕を小突いた。
「あははー、残念ながら俺、そういう趣味はないんだよねー。ま、この世に婦女子の皆さんがいなかったら、間違いなく泰四郎を選ぶけど?」
「えええ選ばんで良いっ!!」
 辺り憚らずにこういうことを言うから困るのだ。
 決して悪気があって言っているのではないらしいが、冗談を言うならもう少し可愛い冗談が言えないものか。
 案の定、店主も丁稚もこっそり笑っている始末。
 笑っていることを泰四郎に気付かれていないと思っているのだろうが、不自然に歪んだ口許でそれと分かってしまう。
 変に目敏い自分も自分だが、商人が武士を哂う不躾は泰四郎の矜持を傷付けるに充分である。
「……悦蔵、俺は外で待っているから」
「えっ、なんだよ急に」
 不機嫌に踵を返した泰四郎に、悦蔵も僅かに焦ったらしい。その手が泰四郎の袂を賺さず掴んで引き止めた。
 そこに更に引き止めたのが店主である。
「ああちょっと、お武家様。同じにすんだら、鞘を拝見さしてもらわんと」
 戸外へ出て行こうとする泰四郎につられてか、振り返ると店主も上がり框で腰を浮かせながら口早に言った。
 次いでしっかりと袂を掴んで放さぬ悦蔵を横目で見れば、満面の笑みで度々頷いてみせるのだ。
「おまえなぁ、本気で俺と同じ拵えにするのか?」
「そりゃそうさ。そのために連れてきたんだから」
 けろりと答える悦蔵に、泰四郎は大仰に顰蹙する。
 こんな面倒なことに付き合わされる身にもなって欲しいものだ。顔ばかりか、やること為すこと女々しいところは今も健在である。
 だが、ここまで来ては無碍に突っ撥ねることも出来ず、泰四郎は仕方なく大刀を鞘ごと引き抜くと、店の床先に腰を降ろした。
「……早くしてくれよ」
 朱鞘の太刀を店主へと差出し、それをしっかりと丁重に受け取る様子を見届けてから、土間に突っ立ったままの悦蔵を見上げる。
 店の者があれこれと泰四郎の鞘の仕立てを確認するのを、悦蔵は嬉しそうに眺めている。
 一体何が良くてこんなことをするのか、泰四郎にはまるで解せなかったが、それで悦蔵が満足するなら已む無しか、とも思った。
 やがて、悦蔵も泰四郎の隣に腰を降ろすと、やおら口を開いて話し始めた。
「泰四郎の強さに肖ろうと思ってね。もうじき俺たちも戦に駆り出されることだし」
「験担ぎか。別に俺は構わんが、刀を同じに仕立てても腕は同じにはならんぞ」
 尤も、悦蔵とてこれでいて同門では泰四郎に並ぶ腕の持ち主だ。わざわざ肖らずとも、力は充分に互角なはずなのに。
 だが、あえてそんなことは口に出さなかった。いくら仲が良くとも、門下では競争相手の一人だ。いつも後ろから付いてくる悦蔵に、自ら剣術の腕は互角だなどと言ってやるのは癪なもの。
 我ながら少しばかり意地が悪いな、とは思った。
 だが、悦蔵はそんな泰四郎の一言を気に留める風もなく、店の戸口から覗ける町の様子を眺めたまま、こちらを向こうともしない。
「剣の腕は、どうでもいいんだ」
「……なんだそりゃ。おまえ、実は俺に喧嘩でも売ってるのか?」
「えー? いや違うよ。泰四郎の剣の強さより、泰四郎のやたら勇猛果敢で男前な性格がさ、半分でも俺にあったら良いなと思って」
「童に泣かれるくらいか?」
「あー……いや、そこまでは」
「どっちなんだよ、まったく」
 ついさっき、子供に怖がられて、しかも泣かれたのだと相談した矢先なのに、傷を抉るようなことを言ってくれる。
 だが、確かに。
 泰四郎の剛毅さの半分でも悦蔵にあったなら、そして、悦蔵の柔和さが半分でも泰四郎に備わっていたなら――。
 それが互いに調度良い塩梅なのかもしれなかった。
 なるほどな、と納得しかけ、泰四郎は慌てて感慨を振り払った。
 そんなものは互いに無いもの強請りであるに過ぎず、揃いの鞘にしたからといって何の御利益があるわけでもない。
「馬鹿馬鹿しいことを」
「そう言うなよー。実は泰四郎も俺くらい学問の成績が良ければなーとか、思ったことあるだろ?」
 悦蔵の口調は確実にからかい半分なのだが、実際に学業においては悦蔵のほうが成績は優秀だった。
 元服して藩に出仕する今でも、月に数回講義を受けねばならない規定なのである。
 剣術で立ち合って、悦蔵に敗北した事はこれまでに無いが、悔しいことに学業の面では悦蔵より高い評価を得た事はない。
「そうか、悦蔵は学問に傾倒してばかりだから、もやしっ子なわけだ」
「あ、酷い。……泰四郎ほどじゃないけど、剣術だって頑張ってるだろ、俺」
「俺に肖ろうって言うなら、まずは俺の後にくっついて回るのをやめるんだな」
 生来負けず嫌いな性格のお陰で出たこの一言で、悦蔵は驚いたように泰四郎を見た。
「なんだよ」
「ああ……いや、なんでもない」
 何か珍しく悦蔵の気に障ったのかと危惧したものの、それは次の瞬間にはいつもの安穏とした笑顔に戻っていた。
(おかしな奴だ)

     ***

 新調の刀は後日悦蔵の手元に届けられることになり、泰四郎も差し慣れた朱鞘を腰に収めて店を出た。
 道場を出た時分にはまだ日も高かったが、思ったよりも店に長居していたらしい。西の稜線に程近いところまで沈みかかった日が、薄い橙色に空を染めていた。
 揃いの仕立てに出来ると聞いて、隣を行く悦蔵の足取りは上機嫌である。
「出陣に間に合うかなー。じゃないと意味ないからなぁ」
「別に間に合わなきゃ、そいつで行けば良いだろう」
 御満悦ながらもちらりと不安をこぼす悦蔵に、泰四郎はその腰の得物を目で示して言う。
 そしてまた、悦蔵はつい先刻も店の中で話したことをもう一度、今度は躍起になって語り聞かせるのだった。
 同じことを二度も三度も聞かされることに、泰四郎がげんなりとした頃。
 入相の朱に染まる往来の向こうで、わいわいと賑やかな声がすることに気が付いた。
 幾人かの子どもたちの集団で、恐らくはどこかの私塾からの帰り道なのだろう。
「ぐあっ! おいあれ泰四郎さんだ! かかか帰ろうかっ、なあみんな!」
 その中の一人がこちらに気付いたようで、あからさまに慌てた様子で仲間に注意を促す。
 すると。まだ前髪を下げた、けれど小生意気で元気の有り余っていそうな子供たちは、三々五々に散り始めたのだ。
 泣かれるよりは逃げられた方が幾分ましなもの。……という達観が出来るまでには、まだ泰四郎も精進が足りなかった。
「おいこらおまえらっ! 人の顔を見て散るとは何事だっ!!」
 商家の軒を三、四軒数えて向こう側の子供たちは、その叱責一つでさらに走り去る速度を上げてしまった。
「まったく、何もなければ挨拶して行き過ぎれば良いだけだろうに。逃げ足だけは速いんだな、あいつらは」
 憤懣遣る方も無く、ぶつぶつと愚痴をこぼす。既に蜘蛛の子を散らすようにして逃げてしまった後では、そうするより他にない。
 そして、勿論腹は立つものの、泰四郎なりに若干の自己嫌悪も覚えるのだ。
 悪戯や不手際を叱ったり注意したりはするが、何もなければ無為に怒鳴ることだってしないのに。これでは悪循環も良いところである。
 それともやはり、顔を見るだけで怖いものなのだろうか。
「あはは。天晴れなほど怖がられてるなぁ」
 挙句、すぐ隣で傍観していた悦蔵は、人の気も知らずに暢気に笑い飛ばしてくれると来た。
 泰四郎はこめかみに手を宛がうと、どっしりと重い口調で悦蔵に言い返す。
「笑い事じゃないだろう。童に好かれたいとは思わんが、こうも怖がられると案外自信をなくすんだぞ」
「泰四郎が思うほど、あいつらは怖がってないと思うよ。充分慕われてるじゃん」
「馬鹿を言え、慕っていたら顔を合わせるなり逃げ出したりせんだろう」
「いいや、あの逃げ方は慕ってるからこそ出来る逃げ方だな」
 天晴れな怖がられ様だと言ったその口で、今度は慕われているなどと言っても説得力は微塵も無い。
 悦蔵は如才ないようでいて、実のところ、誰より人を落ち込ませる技に長けているのではないだろうか。
 だが、悦蔵の口振りは妙に自信有りげなものでもあった。
「厳しいのと怖いのとは、似てるようでいて全然違うからさ。泰四郎は怖い人じゃなくて単に厳しい人なだけだもんなー。あいつらもそれがちゃんと分かってるんだよ」
 悦蔵は浩然と断言するのだが、泰四郎は今一つ素直に頷く気になれなかった。
 結果、泰四郎は渋面で沈黙してしまった。
 そんな苦い面持ちの泰四郎を見て、悦蔵は何を思ったか、間もなくして急に吹き出した。
「なんだ、思い出し笑いか?」
「あー、あはは。泰四郎は昔っから、自他共に認める厳格者だよなー、ってさ。自分にも厳しいけど、他人にもめちゃくちゃ厳しいもんな」
 やはり人の性格云々での思い出し笑いか、と泰四郎は三度辟易した。
 それも、今度は昔の話を持ち出してくるのだから堪らない。
 昔馴染みとは、平素は良いようでいても、時折面倒なものだ。
「そういえば泰四郎、変に強情なとこがあるから、煙たがられて闇討ちにあってたよな」
「! お、おまえ、一体いつの話を持ち出すんだ! いや、そもそもなんでそんなことまで……!?」
「知ってるさ。あの頃は俺、泰四郎しか仲の良い奴いなかったし、泰四郎ばっか追いかけてたからな。多分なんでも知ってるよ」
 闇討ち、それは即ち、子供同士の間では暗黙の了解とされる制裁である。
 仲間内で余りに身勝手な振る舞いの目立つ者や、学館の上級生への挨拶や礼儀を欠くなどする者が、その標的となる。
 だが、礼儀は慇懃なほど徹底していたし、他者へも厳しく徹底させていたくらいだ。泰四郎の場合、理由は逆だった。
 他者に厳しく小言を言い過ぎたがために、闇討ちに遭ったわけだ。
 そんな不名誉な事は、悦蔵に限らず、誰にも打ち明けたことはなかったのに。
 やや露骨に憤慨顔になったかもしれないが、泰四郎は一呼吸置いてから悦蔵に言い返す。
「そう言うおまえだって、いつも除け者にされていただろう」
 学問の成績は優秀でも、何かにつけて及び腰になっていた悦蔵は、確かに周りの者たちにはあまり快く受け容れられてはいなかった。
 度胸が足りない、意気地が無い、そんな揶揄や罵声は毎日のように浴びていたはずだ。
 思えば、あの頃に比べれば悦蔵も随分と胆が据わったものである。
 漫ろ歩く足は止めず、泰四郎は当時の自分の姿と、今も隣に居る悦蔵の昔の姿とを胸に思い起こしていた。
 いつだって泰四郎の後ろからちょこちょこと付いてきていた、気弱だったあの子供の頃の面影が、今では見る影も無い。莞爾とした笑みの似合う、浩然の気を備えた立派な青年だ。
 それに比べ、泰四郎自身は幼少の時分から何か一つでも成長しているのだろうか。
 不意にそんなことを考えてしまい、なんとなく気が滅入った。
 あの頃は、鈍間な悦蔵よりも自分のほうが絶対的に優れているのだと、明確な根拠も無く信じ込んでいた。
 だが、今ではどうだろう。
 決して悦蔵に勝れるものは持っていない気がした。
 強いて挙げるならば剣術の腕だけだろう。それすらも今に追い越されそうな程で、越されてしまえばもう悦蔵より優れたものなど何もなくなってしまう。
 内心で焦っているのを、泰四郎自身よく理解していた。
 その不甲斐無い我が身のさまに、思わず項垂れるかと思った時、悦蔵の快活な声が再び聞こえた。
「何をするのも一番愚図だったしなぁ、俺。でも、除け者じゃなかったよ」
「遊ぶのにも仲間に入れてもらえなかった奴が、何を言っていやがる。俺が見た限りじゃ、おまえ常にひとりぼっちだったろう」
「うん、まぁ確かに。でも、そういう時は泰四郎が声かけてくれてたじゃん」
「……見るに見かねて仕方なく、な」
「またまたぁ。そうやって自分の優しいとこ隠すなんて、損だぞ?」
 気になって気になって、放っておけなかったくせに。と、悦蔵は楽しげに言った。
 放っておけなかった、というのも勿論あったはずだ。
 何しろ、そうやって仲間内で不和を為すような曲がった事は当時から大の嫌いだ。
 ただ、それが心根の優しさから来る信条でないことは紛れも無い。単なる正義感の一種に過ぎないだろう。
 裏を返せば、それは優しいどころか時に驕ったものでもあり、決して他に誇れる事ではないことも知っている。
(こいつに声をかけながら、俺はこいつよりも優位に立っていると自負していたのかもしれないな)
 気分の滅入る日というのは、何もかもが悪しくなりがちだ。
 何気なく交わす会話の中でふと振り返った過去にさえ、自己嫌悪を覚えてしまうのだから。
 そういう負の思考の堂々巡りで、殊更自分というものが卑小な存在に見えてくる。
 悦蔵と話していると、どうにも劣等感に苛まれる気がして、泰四郎は短く息をついてからぐっと顔を上げた。
「用はもう済んだな。俺はもう帰るぞ」
「え? なんだよ、もう帰るのか? 付き合ってもらった礼に、何か奢るよ」
「いや、今日は遠慮する」
 これ以上悦蔵の思い出話に花が咲かぬうちにと、泰四郎は手短に断り、一人歩みを速めて家路についた。
 さっさと切り上げたのが幸いだったらしく、悦蔵もその日はそれ以上泰四郎の後を追っては来なかった。

     ***

 幕府が大政を奉還してより、京から遠く離れたこの奥州の地にも急速にその波紋は広がっていた。
 慶応四年の年明け早々に勃発した、京都鳥羽伏見の戦においては、薩摩や長州が錦旗を掲げて圧倒的な勝利を収め、これによって幕府側の勢力はすべて賊軍となったのである。
 先帝の信任厚く、京都の治安維持のために粉骨砕身して守護職を務めた会津藩も、同時に賊の汚名を着せられることになったのだ。
 この会津藩のすぐ東側が、二本松藩。
 十万七百石の小藩ではあるものの、隣接する会津が薩長に対し徹底抗戦の構えを取るからには、無視は出来ない。
 奥州の各藩が挙って会津の降伏嘆願を周旋し、二本松藩もやはり、薩長と会津との折衝に参加した。
 だが、薩長の会津への怨恨は予想以上に深く根強いものであったのだろう。
 今や王師となった薩長が言うには、会津藩主・松平容保は天地に容れざる罪人なのだそうで、奥羽雄藩の苦心の末に漕ぎ付けた会津の降伏嘆願すらも棄却した。
 尚且つ、彼ら官軍の中には「奥羽皆敵」とまで明言した者もあるらしい。
 泰四郎ら末席の武士には詳細などは知り得ぬことながら、憤慨するに充分な風聞である。
 無論、城中でも昼夜問わず様々に議論が交わされ、城下を出入りする各藩の使者の数も、このところでは閑無く見受けられるようになっていた。
 既に京から出された奥羽征討軍は、奥州への入口である白河関を越え、白河城も制圧されている。
 この二本松藩からも筆頭家老が軍事総裁の任に就き、長らく白河城奪還戦を試みているのだが、仙台、会津などの大藩の兵力を合わせても、未だ白河城を取り返せずにいるらしかった。
(俺もじきに戦場へ出るのだな)
 良好だった日中の天気は、日没後には雨雲の覆う重苦しいものに変わっていた。
 湿った土の匂いが雨の気配を濃厚に漂わせ、城下を囲む野山の蛙が鳴く声が輪唱となって響きわたる。
 蒸し暑さに開け放した障子の桟に凭れた泰四郎は、寝巻きの帷子を纏い、じっと夜陰に潜む黒い竹林を眺めた。
「おまえが羨ましいよ、悦蔵」
 それは思いがけなく小さな掠れた声となって、口の端から紡ぎ出された。
 幼い日、それは口にするには余りに屈辱で、認めたくない事実だった。
 決して誰が比較するでもなく、傍目には仲の良い二人に見えていたはずだ。
 体躯は人に優れ、武にも才を発揮していた泰四郎に比べ、悦蔵は決して突出した存在ではなく、いつも皆の後から慌ててついてくるような奴だった。
 ふとすると鈍間だ何だと仲間内から除け者にされているような、ひ弱な子供だった幼馴染。
 気が付けばいつもひとりぼっちで寂しそうにしていた悦蔵を、泰四郎が見るに見かねて声をかけてやる。そうすると、悦蔵は決まって心底嬉しそうな笑顔で泰四郎を見上げるのだ。今にも泣き出しそうだった顔をぱっと輝かせて。
 それが、泰四郎の記憶にある悦蔵の姿である。
 武よりも学を得意とし、弓馬槍剣に至っては、どんなに贔屓目に見ても秀でているとは言い難かった。
 泰四郎が三日で習得できる剣技を、悦蔵は半年もかけて漸く人並みにまで到達する。
 子供同士の遊びで、仲間内でよくやった兎追いでも常に後れを取っていたし、人と競うことは総じて苦手としていた。苦手だからかどうかは定かでないが、寧ろ競い合うことを嫌っている風にさえ見て取れたものだ。
 誰しも得手不得手はあるものだと理解こそすれ、当時の泰四郎には、悦蔵という人は理解出来ていなかった。
 それが、泰四郎の後を追いかけて来るうちに、いつの間にか文武両道に通ずる非の打ち所の無い青年になっていたのである。
 一朝一夕のうちにそうなったわけではないはずなのに、泰四郎は悦蔵のそんな成長に気付けずにいた。
 そうして、ある時突然にその本領を見せ付けられて、やっと気付くのだ。
 日常を共にしながら如何に悦蔵を見下していたかが、焦燥感となって泰四郎の胸中に浮き彫りになる。
 そういえば、昔は高みから見下ろしていた目線も、今ではほぼ同じ高さにまでなっていたではないか。
 何故、気付けなかったのか。
 何故、気付いて焦るのか。
 何故、今、悔しいと思うと同時に、その存在に羨望を向ける心があるのか。
 その目覚しい成長振りが、単に羨ましいと思う。
 それは泰四郎にとって不思議な感覚でありながら、また安堵という心情でもあった。
 追いつかれたと感じ得るのは、恐らく己自身に精進が足りなかった結果である。
 それを悦蔵への嫉妬というものに摩り替えずにいられることは、なかなかに為し難いことだろう。
 人は兎角、己よりも劣ったものと比較をして、自らの価値の確かさを認める。
 今がもし平穏に包まれた世の中であったなら、羨望はそのまま妬み嫉みに成り果てていただろう。
 これから死地へ赴くという共有の定めがあるからこそ、悦蔵を妬まずにおれるのだ。
 藩の命運をかけた大きな戦の中では、身近な者への些細な嫉視も混乱に紛れて掻き消されるものらしかった。
「我ながら、情けないものだ」
 湿気の多い夜風は時折強かに泰四郎の頬を打ち、夜の帳に隠れた竹薮をさざめかせる。
 そうして、首許へ吹き込んでくる風を目で追うように、泰四郎は室内を振り返った。
 蝋燭の灯りさえ点けない座敷の奥で、掛けられた大刀がひっそりと鈍い朱色を闇に滲ませる。
 悦蔵がわざわざ揃いにしたいと言う、朱鞘。
 もし泰四郎が出陣に別の刀を携えていけば、悦蔵はがっかりするのだろうか。
 いくら学才があるにしても、馬鹿な奴だと思う。
 鞘を同じに誂えたところで、鞘は全くの別物。泰四郎の佩く物と同じには為り得ないというのに。
 漫ろに眺めた後で、泰四郎は徐に座敷へと足を踏み入れた。
 六畳ほどある江戸間の中ほどに腰を据え、大小二本の揃いに見入る。
 この刀で人を斬ったことはない。
 いや、この手で、と言ったほうが正しいだろう。
 それは悦蔵も同じはずだ。
 今や二本松藩でも、武器は銃や大砲が主力たり得るという風潮に染まり、家中の全員が砲術を学ぶよう触れが出されている。
 泰四郎も、そして悦蔵も無論、城下の砲術道場に通っていたが、迫り来る敵はそれ以上に進んだ砲術調練を受けた精兵集団であるとも聞く。
 加えて近年の藩財政は芳しくなかった。
 家中の録は年々目減りしていたし、大身の上士でさえ刀を質に入れなければ家計を維持出来ないという噂まで聞こえてくる。
 当然、藩は武器弾薬の確保にすら難儀している有り様だ。
 とすれば、二本松藩側が砲術だけで敵を退けるのは難しい。
 戦は銃や砲で火蓋を切るだろうが、やはり最後には刀槍の白兵戦になる。
 尤も、刀を抜く前に敵弾にやられてしまえばそれまでだが――。
(斬れるか、俺に)
 戦陣の中で敵を斬らねば、己が斬られるのみ。
 敵兵の血糊、血脂でこの刀身を染める覚悟が必要だった。
 悦蔵にはその覚悟があるのだろうか。比類なき猛者と見做される泰四郎でさえ、人を斬り殺すことに躊躇を覚えるのに。
 あの順良な悦蔵が人を斬り捨てる姿など、思い描く事も難しかった。
 泰四郎は目の前にした大刀を手に取ると、僅かにその刀身を引き抜いた。
 すらりと静かな音が響いて微かな鈍色が現れると、暗闇の中でも秋水の如き輝きを放つ。
 曇り無きは刀ばかりである。
 振り切れぬ迷いを抱えたまま戦へ出ることだけは、避けねばならない。
 いくらそうと自らに強請み立てても、拉致が開く気配は毛筋ほどもなかった。


【二.雨に逸る】へ続く
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