晩夏の蝉

紫乃森統子

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七.晩夏の蝉

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「わしらが退却して城に入ると、茶坊主たちが騒いでおってなァ。唐紙や障子を外して、炭火を熾した大火鉢にくべるところであった。敵の手に落ちる前に、自ら城に火を付けるよう重臣が命じたというわけだ」
 命じた重臣たちも、城内で自刃してしまった。
 こうなってはもはや城を捨てて落ち延びるより他になく、良輔は藩主一行を追って水原の地へと向かい、そこから米沢までの道のりを同行することが出来た。
 その道中も悲惨なものだったが、米沢に入る直前、既に戦死したものと思っていた父・次郎太夫と再び生きて出会えたことは勿怪の幸いであった。
 父の顔を見たときの安堵と言ったら、喩え様もない。
 城は落ち、帰るべき家もなく、友の行方も分からぬまま、過酷な山道を幾日も歩き続けた末に見た肉親の顔は、失われつつあった気力を一気に呼び戻してくれたものだ。
「成田才次郎は敵と刺し違えて戦死を遂げ、行方の知れなかった木村丈太郎も、あとになって重臣の別邸近くで戦死しているのが見つかった」
 丈太郎はどうやら銃弾によって命を落としたらしいが、発見が遅れたためにその遺骸は傷んでおり、辛うじて身に着けた戎衣から身元が判明したという。
 大壇口からの退却中に銃撃された時に、負傷したのかもしれない。
「深手を負って身を潜め、そのまま力尽きたのかもしれんなァ。何にせよ、丈太郎については誰も彼の最期を知らんのだから、それも儂の推測でしかないが……」
 あの日、成田才次郎が最期の力で以て斃した敵将の名は、白井小四郎。
 長州藩士であった白井は、才次郎の渾身の突きを脇腹に受けながらも、今際の際に才次郎の武勇を讃えたという。
 大分後になって伝え聞いたもので、どこまでが真実かは判然としない。しかし白井は事実斃れて、今も異郷の地に眠っている。
「才次郎の父──外記右衛門という人なのだが、盆に彼岸に命日に、必ず白井の墓を訪れてから才次郎の墓参をしていたそうだ」
 明治十八年六月二十日、外記右衛門が五十二歳で没するまで、白井の墓前から香華が絶えることはなかったという。
「随分と、遠くまできてしまったものだなァ」
 あれから時代は明治、大正を経て昭和となった。
 恐らくもう、自分の他に戊辰の生き残りはいないのではないか。
 米寿を超えた堀良輔は、昔を懐かしむように笑った。
 あの戦を生き延びた良輔は、後に「通名」と名乗り、芸術の道を歩んだ。
 戦後、名を変えた者は多い。
 負け戦の後の改名は、古来からの習わしのようなものだ。
「成田や木村といった戦友が見事な戦死を遂げたというのに、儂だけがこうして昭和の世にまで生き長らえようとはな――」
 才次郎も丈太郎も、十四歳のまま時を止めてしまった。
 生き延びたのは良輔だけではないが、それでも時に往時の仲間を想っては、やり場のない寂しさが募った。
 戦死した仲間を誇りに思うと同時に、彼らと自分とで、一体何の差があったのだろうと思う。
 生と死の道別れは、一体どこにあったのか。
 これまで誰もが黙して語らなかった二本松藩の戊辰戦争について、世間は近頃目を向け始めたらしい。
 この日も、良輔が二本松藩の出だと知った新聞記者が家を訪れ、埋もれた歴史を掘り起こすかのように良輔の話に耳を傾けて行った。
 負け戦など誰も語ろうとはしなかった。
 不名誉なことだ。敗戦を機に誰もがその過去を自らの中に封じ、少なくとも良輔が知る限りの生き残った大人たちは、皆固く口を閉ざしていたものだ。
 当時、まだ十四の子供であった自分が、況してや、負け戦を生き延びた自分が語るべきこととは一体何なのか。
 死んでいった者たちの言葉を代弁することなど、出来るわけがない。
 どんなに言葉を尽くして語ったところで、全く足りる気がしないのだ。
 だから結局、見たままを、遠い記憶に残るそのままを語るよりほかに術がない。
 時代は変わり、世の中は目覚ましく発展し、文明も進んだと言えるだろう。
 良輔自身もまた、自らの時を進めてきた。
 だが、毎年秋口になると、必ずと言ってよいほどに心はあの頃に戻る。
 今、郷里はどんな景色であろう。
 あの頃、才次郎と毎朝待ち合わせをした谷口門は。
 あの頃、朝に夕に丈太郎と顔を合わせた向い合せの役宅は。
 当たり前だった日々と、懐かしい顔が脳裏に蘇る。
 学館からの帰り路、三人並んで砲術道場の話に花を咲かせたことも昨日のことのように思い出せる。
 なのに、それはもう七十年以上も昔のことだった。
 
   ***
 
 晩夏の静かな夜。
 寝床に入り目を閉じると、遠くで、或いは近くで、虫の声が涼やかに良輔の耳を掠める。
 時折、夜の闇の中で蝉がジジジと低い声を漏らした。
 誰かに当時を語った日には、遠い昔に戻れるような気になる。
 そうして決まって、あの落城の日の夢を見る。
 戻りたいかと訊かれれば、それはどうだろうか。二つ返事で戻りたいとは言えないかもしれない。
 だが、才次郎や丈太郎に会いたいかと訊かれたなら、即座に肯くだろうと思った。
 
   ***
 
 そこは夏の陽が照りつける城下だった。
 あの頃のままの武家屋敷が軒を連ね、遠い昔の記憶に残る谷口門が目の前にあった。
 門の向こうには城へ続く道。
 屋敷の建ち並ぶ向こうには白い城壁が見える。
 戦で焼けたはずの昔のままの街並みが、これは夢なのだと良輔に気付かせた。
 けれど、遠い故郷に帰って来られるのなら、夢でもいいと思った。
 まだ残暑の頃だというのに、どの屋敷の庭も雑草一本生えていない。
 当時の二本松藩では、屋敷の手入れに気を配る家が多かった。
 良輔の家も例外ではなく、母が下女を従えてよく庭掃除をしていたものだ。
 こんな懐かしい風景の中、人だけがいない。
 意地の悪い夢だ。
 会いたい人は大勢いるのに。
 老いた良輔の胸が、小さく締め付けられた。
 いつも待ち合わせた谷口門に一歩踏み出せば、自分の足音のみが耳に届く。
 そのまま門柱に歩み寄った背後に、急に誰かの気配がした。
 ――また遅刻だぞ、良輔。相変わらずだなぁ、おまえ
 驚いて振り返れば、呆れ顔に苦笑を浮かべた才次郎がいた。
 ――良輔はのんびりしてるもんな。まあそこがおまえの良いところだと思うけど
 才次郎の隣には、優しげな笑みで良輔を擁護する丈太郎がいた。
 ――それにしても良輔、ずいぶん爺さんになったなァ
 ――遊佐先生も爺さんだけど、もっと爺さんだ
 ――おい才次郎、遊佐先生に聞かれたら怒られるぞ
「ああ、──」
 何も変わらない。
 あの頃のままの二人の姿がそこにあった。
 なのに、自分だけが年老いた姿で。
 昔、才次郎と二人で毎朝通った居合道場の師範・遊佐孫九郎も、あの日の戦で戦死を遂げた。遊佐は、享年六十九であった。
「……ああ、俺、遊佐先生よりもずっと爺さんになっちまったんだなァ」
 深い皺の刻まれた自分の手と、十四歳のままの才次郎と丈太郎。
 二人と遠く離れてしまったことが哀しかった。
「なあ、才次郎。丈太郎。話したいことがたくさんあるんだ。長く生きた分、色んなものを見たし、色んな経験をした。楽しいことも、たくさんあったんだ」
 老いて薄くなった瞼が焼けるように熱くなった。
「だけどおれ、本当はさ。……おまえらと一緒に、爺さんになりたかったよ」
 急に景色が滲み、戦友の姿がおぼろげになる。
 二人に涙を見せたことなど、かつてあっただろうか。
 きっと、これが初めてだろう。
「待たせてばっかりで、ごめんな」
 良輔に先んじてこの世を去った二人が、驚いたように目を丸くした。
 ややあって、二人は顔を見合わせてふわりと柔らかく微笑み合う。
 ――何言ってんだよ。良輔が遅れて来るのなんか、いつものことだろう?
 そう言ったのは、才次郎だ。
 ああ、そうだ。待ち合わせにはいつも必ず遅れて参じる。
 そして、遅いぞと揶揄われる。
 ──そうか、そうだな。まったくその通りだ
 良輔はぼろぼろと溢れる涙をそのままに、つい笑ってしまった。
 
 
 晩夏の空は、高く青く澄み渡る。
 城下を囲む山々から、蝉の声が聴こえた気がした。
 
  
 【晩夏の蝉 了】
 
 
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