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十一.衝突
しおりを挟む秋月の上屋敷に戻るなり、源之丞は足音荒く万作のもとへ向かった。
途中、奥へ続く畳廊下で次右衛門と出くわし声を掛けられたが、源之丞の足は止まらなかった。
「あッ、おい、源之丞! おまえ、今まで何をしていたのだ!? 万作さまは既にお戻りに──」
次右衛門は顰蹙顔で源之丞に近寄ったが、すぐにぎょっとしたように目を瞠り、声を窄ませていた。
源之丞の形相に異様なものを見たかの様だった。
大名屋敷の奥御殿は、よほどでなければ立ち入ることの許されない場所だ。
江戸詰めの家中にとっても、御殿の内部がどんな造りで、どこに誰が起居しているかなど未知の領域である。
女中や側用人でもなければ、御殿の奥に足を踏み入れることはない。
たとえ重臣でも、それは同じである。
関家の人間は、当主の小八郎も、嫡男の次右衛門も共に側用人であり、小姓目付も兼ねる。
故に御殿へ出入りすることも屡々あり、万作の相手役である源之丞も同様であった。
広い御殿の間取りも既に知り尽くしたもので、憤りを抱えながらも迷いなく畳廊下を突き進む。
屋敷の奥で、独り縁廊下にへたり込む万作の側へ立ち止まるまで、源之丞は無言だった。
中庭を挟んだ向こう側、締め切った障子張りの戸を眺めては、俯いて肩を落とす。その万作の姿を見ても、哀れむ感情は湧いてこなかった。
兵部しか、見えていないのである。
源之丞の気配に漸く振り返った万作に、源之丞は益々やり場のない憤りを覚える。
怒りに震え、真正面から睨み落とす源之丞に、万作の目は俄かに怯んだようだった。
「どうしたの、源之丞」
ところが万作の口から出た言葉には、己の浅慮を何一つ省みた様子も窺えなかったのである。
青白い顔で、源之丞の目の吊り上がっているのが理解出来ないといったふうだ。
「……いつまで、そうしてるつもりなんだよ」
腹の底から沸々と怒りが込み上げて、胸のあたりがむかむかと気持ち悪い。
それを呑み込んで訊ねただけでも、源之丞は我ながらよく堪えていると思った。
「いつまで、って……。兵部の兄上が元気にならなきゃ、私も笑えないよ……」
万作は威圧を避けるように目を伏せる。
その刹那、源之丞の脳裏で何かがぷつりと音を立てた。
「うじうじしてたら若さまが生き返るのか!? めそめそしてたら、兵部さまが元気になるとでも思ってんのか!?」
「そんな言い方ないだろう?! 兄上が死んだんだぞ!? 落ち込んで当たり前だ、そんなにすぐに立ち直れるもんか!」
「はッ! 万作さまも兵部さまも、とんだ甘ったれだ!」
「源之丞!? なんてことを言うんだ! 兵部の兄上まで悪く言うなら、たとえおまえでも許さないぞ!?」
「いいや、言ってやるよ! 兵部さまの腑抜けっぷりにゃ、死んだ若さまもがっかりしてるだろうな!!」
言い切ったとほぼ同時に、ぱん、と張り詰めた音が響く。
目にいっぱいの涙を溜めた万作の掌が、源之丞の頬を打った音である。
突然のことで、源之丞もまた驚き、打たれた頬を抑える。
白磁の肌を耳まで真っ赤にして、万作はその小さな唇をきつく噛みしめたまま、源之丞を睨みつけていた。
「源之丞!? おまえ、一体何をしとるか!?」
邸内は俄かに騒然となり、騒ぎを聞きつけたらしい小八郎が駆け付けた。
恐らく、次右衛門だろう。
源之丞の憤怒の形相を察して、逸早く小八郎に報せたのに違いない。
小八郎の咎める声が響いたが、源之丞は冷めぬ怒りの傍らで、冷静にそんなことを思った。
「万作君、これは何事でございますか」
「だって、源之丞が兵部兄上を愚弄するから……!」
「源之丞、まことか」
病を癒えたばかりというのに、小八郎には余計な心労を課してしまった。
血の気の引いた小八郎の顔を眺め、源之丞の激昂も漸く鎮まるところを知ったようだった。
「……俺は、お諌めしただけです」
怒りに任せた言動だったとは、自分でも思う。
だが、沈みっ放しで一向に浮いてこない兄弟に、腹が立っていたのは事実である。
そこに利宇の泣き顔がちらついて離れず、気付けば罵声を発していたのだった。
浪々のやもめ暮らしの長かった父の、在りし日を思う。
物心付いた頃には既に母は亡く、この泰平の世に父の剣の腕が見出されることもなく、再び仕官が叶うことを夢に見ながら源之丞を育てた。
暮らしは貧しく、武士としての矜持が時に踏み躙られることもあったろう。
しわぶきが増えたと気付いてから、父はあっという間に痩せ細り、最期は夥しい血を吐き出して、苦悶のままに逝った。
仕官が叶ってさえいれば、医者に掛かることも出来たかもしれない。
そもそも、仕官して暮らし向きが変わっていれば、病を発することもなかったのだろう。
父が胸や喉を鳴らして咳込む音と、苦悶する喘鳴が忽然と消えたことで、自分がこの世にたった一人取り残されたのだと知った。
襤褸布を合わせただけの寝床は吐血を吸って黒々と色を変え、父の臨終は目を背けたくなるような血の海の中だった。
そのときに、源之丞は再び武士として主君に仕えるという父の悲願を、己が叶えるのだと奮い立ったのである。
父の遺品の大刀を背負い、大名屋敷を訪ね歩き、そこで出会ったのが万作だ。
「万作さまだけだ、父上が死んで、ひとりぼっちになった俺を気に掛けてくれたのは。この人はきっと良い主になるって、そう思った」
あの時の自分の目が狂っていたとは思わない。
だからこそ、今の万作の様子は見るに堪えないものがあった。
「だったら、同じじゃないか! 今は兵部兄上が御心を痛めているんだから、私も──」
「だけど今のあんたはだめだ! 全っ然駄目だ! めそめそしてれば何かが変わると思ってる、ただのくそがきだ!」
「兵部兄上に寄り添って、何が悪いんだよ!?」
「悪かねえよ! そのために利宇姫を泣かすなって言ってんだよ!!」
「……っ!」
「大体、さっきの利宇姫への態度は何なんだよ!! 利宇姫はなぁ、万作さまに嫌われちゃったって、泣いてたんだぞ!?」
万作の顔から、みるみる威勢が失せていく。
「あんたが兵部さまを慕うのと同じで、あんたを慕う奴がいるって、なんで分かんないんだよ!?」
「それは……」
「あんたに笑ってて欲しい奴がいるんだよ! 三つも下の利宇姫に心配させて! 泣かして! 恥ずかしくないのかよ!?」
張り続けた声は枯れ、代わりに源之丞の目からはぼろぼろと大粒の涙が止めどもなく溢れ出した。
怒りか哀しみか、それとも悔しさの涙なのか、源之丞には分からなくなっていた。
「死んだ若様だって、そんなの望んでないだろ!?」
「………」
滂沱と伝い落ちる涙が源之丞の頬を滑り、板廊下の上にぱたぱたと音を立てて落ちる。
円い雫は次々に叩き付けられ、小さく弾けた。
初めて見る源之丞の泣き顔に、万作は愕然と瞠目したようだった。
「……ごめん、なさい」
万作はしゃくり上げながら、訥々と声を絞り出す。
「謝る相手は、俺じゃないだろ」
「利宇姫にも、謝るよ……。叩いてごめん、源之丞」
痛かったでしょ、と訊ねる万作に、源之丞は急に気恥ずかしさを覚えてそっぽを向く。
「……俺も、ごめん。万作さまが兵部さまを心配してんのは、本当だもんな。……それは、悪いことじゃないのに」
思い切り泣いていたことに気付き、源之丞は慌てて小袖の口で頬を拭う。
強く擦った頬がひりひりと疼いたが、万作の号泣振りもなかなかひどいもので、源之丞は胸元の懐紙を乱雑に突きつけたのであった。
***
「源之丞め、あれには流石のわしも焦ったわい」
やれやれ、と小八郎は大仰に吐息した。
しかしそこに悪感情はなく、言葉とは真逆の清々しさすら漂うようであった。
万作と源之丞の衝突から、暗雲低迷の藩邸内は徐々に元の日常を取り戻し始めた。
万作は再び佐久間家を訪うようになり、源之丞も相変わらずそれに付き従っている。
年相応に邸内ではしゃぎ回る姿も見掛けるようになった。
兵部はといえば、未だ消沈している風は否めないものの、万作や源之丞の様子に少しずつ気力を取り戻したのか、漸く政務に向き合い始めたところである。
次右衛門が安堵出来るくらいには顔色も良く、以前のような勢いはまだないものの、軽口も漏らすようになっていた。
万作も兵部も、兄弟が欠けたという寂しさは、紛れもなく残っているだろう。
恐らく残り続けるかもしれない。
しかし、次右衛門の目にももう心配はないように見えた。
「父上、今朝も源之丞は万作さまと口喧嘩をしていましたぞ。何とかなりませぬか」
あの一件以来、源之丞には元からなけなしだった遠慮が欠け、露骨に万作と対等な口を利くのが気になるといえば気になる。
故にこうして苦情を入れるのだが、小八郎は我が父ながら暢気なもので、あまり効果はない。
「まあまあ。手も口も荒い、実に困った奴だが……源之丞は万作君の御相手に適任なのかもしれんぞ」
小八郎がしみじみと語る声に、その嫡男・次右衛門は思わず苦笑った。
「源之丞は案外、父上にも不可欠なのでは?」
「なんだと?」
「聞きましたぞ。あれ以前、父上もぶっ倒れて源之丞に叱られたそうですな?」
「!! うぐぅ……」
笑いを噛み殺す次右衛門に、小八郎の目がじろりと向く。
高熱に倒れたときの話だ。
誰から聞いた、と訝る小八郎に、次右衛門はただ笑った。
その相手が万作であれ、小八郎であれ、源之丞が本気で怒るのは必ず相手を想うがゆえである。
はじめこそ、勢いばかりで可愛げのない子供を押し付けられたと厄介に思っていたものが、近頃はその感覚が薄れてきている。
「私も、源之丞に負けぬよう、兵部さまを一層お支えせねばなりませんな」
「おまえはちょっと源之丞を見習え。時に御諌めすることも家臣の役目だぞ」
「大丈夫ですよ。近頃では兵部さまも立ち直られてきているようですからな。この分ならば、心配は御座いますまい」
きっと、万作に元気が戻ったことが何より大きいのだろう。と、次右衛門はそう考えていた。
万作にとっての兵部が、兵部にとっての種恒だった。
しかし、末弟の万作を慈しんでいた兵部には、万作の存在もまた大きいものだったのである。
「兵部さまは昔っから、万作君を可愛がっておいでだからの。此度は万作君の線の細さがかえって裏目に出てしまったが……、まあそれもまず、源之丞の叱咤があれば間違いはあるまい」
「万作君も、無事に利宇姫さまにごめんなさいしたそうですから、秋月も佐久間も一先ず安泰ですな」
関家の父子は、年の瀬の厳しい寒さの中に呵々と笑い、互いの息で真っ白な靄を漂わせた。
翌年、延宝五年一月十五日。
秋月兵部種政は、長兄種恒の死去を以て秋月家の惣領となり、山城守を叙爵したのであった。
【十二.へ続く】
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