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六.十三郎
しおりを挟む延宝三年は、前年からの天候不順が執拗に尾を引いていた。
寒い春のみに留まらず、夏を迎えても寒冷なままであった。
特に西国で連日の大風・大雨となり、洪水の被害は田畑に甚大な被害を齎しているという。
今頃は青々とした稲が風にそよぐはずの季節だったが、長引く雨天と寒さのために稲の生育は進まず、不作が見込まれていた。
「止みませぬな、兄上」
御殿の縁廊下に立ち、兵部は廂の先に覗く曇天を仰ぐ。
雨は白糸のように煙り、庭の緑や、その先に幾重にも連なる役宅の黒い屋根瓦を朧に霞ませた。
春に体調を崩した出羽守種恒は、七月に入っても尚、快癒の兆しなく臥せっている。
以来、兵部は頻繁に兄を見舞うようになっていた。
「国許では、百姓の欠落が後を絶たぬそうですな」
前年の収穫は例年に満たず、国の農村は困窮の一途を辿っている。
備蓄を切り崩して工面しようにも、充分な貯えがあるとは決して言えなかった。
昨年の減収を何とか補っても、今年また不作が重なれば飢饉となる。
兵部の背後で咳込む音がし、苦しげな喘鳴が聴こえた。
振り返ると、種恒は褥の上に身を起こしかけた体勢を崩し、片肘をついて蹲っていた。
「ご無理をなされますな」
慌てて傍に寄ると、兵部は種恒の肩を抱きその背を擦る。
咳は止まらず、苦悶の表情を浮かべる種恒の喉は、烈しい咳の合間にひゅうと甲高く息を継ぐ。
侍医を呼ぼうと兵部が顔を上げたとき、不意に強い力で袖を掴まれた。
「待て」
背筋を上下させる荒い息遣いの下から、種恒の声がそれを止めた。
これだけ苦しげなさまを目の当たりにして、侍医を呼ばずにいられようか。
「しかし兄上!」
「よい、じきに収まる」
その後も喉が破れそうな咳が暫し続いたが、やがて種恒の言葉通りに落ち着いた。
今に血でも吐くのではないかという咳を聞きながら、何も出来ずに待つのは心に苦しいものがある。
だが、種恒は事実、自身の病状を把握しているかのようだった。
幾らか呼吸を整えると、漸く起こした身体を兵部へ半ば預ける。
二十を超えたばかりの若く精悍な兄の面立ちは、今は病苦に険しく歪んでいた。
「私がもし世を去れば、惣領はおまえだ」
「馬鹿なことを。兄上でなくば父上の後は務まりませぬ。私は兄上のためにこそ、この身を役立てるつもりで──」
「いいから聞け」
兵部を遮り、種恒の声が一際大きく搾り出される。
絞り出すとは決して比喩ではなかった。
咳で荒れた喉の奥から、息混じりの掠れた声が兵部の耳に痛々しく刺さる。
「私が気に掛けているのは、十三郎だ」
「は。十三、ですか」
兄弟たちの中でも些か気性の荒い傾向にあるが、父の種信や種恒には素直に従う子だった。
未だ養子入りの宛てもなく、本人もそれに焦っているのか、時折万作にきつく当たることは知っている。
「おまえは万作ばかりを可愛がりすぎる。歳の近い弟のことも気に掛けてやれ」
兵部が万作を可愛がっていることは周知の事実である。
故に、十三郎も兵部へは積極的に近寄っては来なかった。
日頃そんな間柄なので、兵部もまた、十三郎の目に余る行動を見ても深く追求することのないまま、半ば放任していたのである。
いずれ大人になれば、そのうちに養子入り先が決まれば、十三郎の万作に対する当りも和らぐだろう、と。
「………」
「もしもの時には、おまえを支える役目は十三郎が担うのだぞ」
隙間風を思わせる喘鳴の中で、やっとそこまで言うと、堪えていた咳がまたぞろ種恒の言葉を奪った。
***
「最近ね、兄上のご様子が少しおかしいんだ」
降りやまぬ雨が庭園の土を穿つのを漫ろに眺め、万作はぽつりと溢した。
灰色の雨は、夏の緑を昏い色にくすませる。
はじめは風邪を召したと聞かされていたが、種恒の容態は日に日に悪しくなるばかり。
それに伴って、兵部が万作と接する機会も激減していた。
「兵部さま、若さまに付きっきりらしいからなぁ」
関家でも、次右衛門は御殿に上がったきり、一晩も二晩も戻らぬことが頻繁である。
戻ったかと思えば、またすぐに御殿へ出向いてしまう。
雨天の続く中、次右衛門は兵部の命で寺院へ出向き、病気平癒を祈願してもいるらしかった。
「早く良くなるといいんだけどな、若さま」
「……うん」
寂しげに肩を落とし、万作は眉尻を下げた顔のまま俯く。
「元気出せよ、今日はこれから利宇姫のとこ行くんだから。そんな悄気げた顔してたら、あいつら心配するだろ」
気を入れるつもりで、源之丞は万作の背をぽんと叩く。
と、それと殆ど同時だった。
御殿の奥が俄に騒がしくなり、二人はぎくりと顔を上げる。
女の悲鳴であった。
「なんだ? 奥御殿のほうからだ」
「まさか、兄上……!?」
悪い想像が過ぎったのだろう、万作の顔から血の気が引き、白い顔が一層青褪めた。
源之丞も一瞬、種恒の身に異変があったのかと、心の臓が一際大きく鳴る。
が、源之丞は一つ深い呼吸をすると、万作の肩を宥めた。
「いや、賊かもしれない」
悲嘆の声というよりは、もっと驚愕に近いような叫びに聴こえた。
しかしそれでも、奥御殿に何かが起こったことは確かだ。
「万作さまはここにいろ。俺が様子を見て──」
「一緒に行く。いいでしょ」
身を翻した源之丞を追って、万作がついて来るのが分かったが、源之丞は止めなかった。
雨音を割いて届いた声は、ただ事でないのは違いない。
「もし賊だったら、万作さまは俺の後ろに隠れろよ」
秋月の江戸屋敷は、不逞の輩が易々と忍び込めるようなぬるい警備ではない。
だとすれば、騒ぎの元は内輪の者だろう。
ありえぬことではなかった。
元より御家騒動以後、秋月の家中も一枚岩ではない。
種信の代となって漸く殆どの粛清が済み、苦心の末に家中を平定した。
だが、その傷痕を癒すにも時を要するものだ。
小八郎が語ったとおり、五百を超える人間が秋月からいなくなった代わりに、新たな人材登用を行っている。
源之丞が万作に近侍出来ているのもまた、秋月のそうした背景があればこそだろう。
それは源之丞にとって幸いではあったが、逆に、家中が盤石でないことの証でもある。
小八郎や次右衛門の話を何となく耳にするうち、源之丞なりにそういう家中同士の均衡の危うさを感じ取るようになっていた。
板敷きの廊下を駆けつけると、奥御殿の一室から女中たちの声と激しい物音が響いた。
「おやめください、十三郎さま!」
「なんということをなさいます! なべ姫様のご婚礼の品なのですよ」
佐渡守の娘、即ち万作の姉であるなべ姫は、この年、婚礼を控えていた。
そのために揃えた品々を改めていたところに、どうやら十三郎が割って入ったらしい。
散らばった小間物と、金糸銀糸の模様があしらわれた太物、投げ出されて傷の入った鏡など、一目で十三郎の行動が読み取れた。
白髪の目立つ年嵩の女中が、眉を吊り上げて抗議の声を飛ばしたが、十三郎は憤りに任せて木箱を蹴り飛ばす。
中に陶器でも入っていたのか、飛んで長持に当たった拍子に大きな音がした。
「十三郎さま、これは何事ですか」
努めて冷静に声をかけたが、源之丞の鼓動は速く、背が寒かった。
賊でこそないが、騒ぎの元が十三郎ならば万作を連れてくるべきではなかった。
十三郎は源之丞に気付くと足許に積まれた太物の一山を忌々しげに足で払い除ける。
「またおまえか」
「御殿の表にまで騒ぎが聴こえましたから」
鋭く見眇める十三郎の目を見返し、源之丞は怯みそうになるのを漸く堪えて答えた。
「奥にまで我が物顔で出入りしようとは、随分取り入ったものだな? 万作だけでなく、兵部の兄上にまで媚びておるらしい」
「別に、媚びてなんか──」
嫌味たらしく吐き捨てた十三郎に乗せられて内心でむっとしたが、源之丞は言葉途中で呑み込む。
挑発に乗って騒ぎを大きくすれば、万作にまで害が及ぶだろう。
寧ろ源之丞と万作が現れたことで、十三郎は一層怒気満面であるように見えた。
源之丞は対峙すると同時に、その背に万作を庇っていたが、十三郎の目はそれを貫いて万作にも睥睨を向けていた。
「ちびが図に乗りおって。国も身分も問わず、能ある者を登用なさろうという父上の方針はな、こんな小汚い孤児を養うためのものではないわ!」
部屋の奥で侍女たちに囲まれたなべ姫は、突然の十三郎の悪態に吃驚し、些か青褪めた顔でこちらを窺う。
「姉上も姉上だ。兄上が御病気だというのに、婚礼だなんだと浮かれて! 兄上が心配ではないのか!?」
十三郎の怒声には、苛立ちに加えて周囲のすべてを責め立てるような棘があった。
憎らしげな十三郎の放った言葉に、源之丞はふと胸に引っかかるものを感じた。
今日の騒ぎは、長兄の身を案じるがゆえの行動らしい。
なべ姫の婚礼は、種恒が病に臥す以前から決まっていたことである。
それを種恒の病状の思わしくないからといって、取り止めるなどあろうはずもない。
なべ姫自身も、別に自ら望んで整った婚姻でもあるまい。
しかし十三郎には、姉のなべ姫がそわそわと浮足立っているように見えたらしかった。
十三郎なりに種恒を思い遣っているにしても、姉へのこうした態度は看過できるものではない。
「十三郎さま、お言葉ですが──」
意を決して声を上げた源之丞の前に、すっと割って入った人影があった。
と同時に、ぱん、と高い音が雨音を引き裂いた。
「!」
一瞬、誰のものかも判じかねた人影は、なべ姫本人だった。
聴こえた音は、なべ姫が十三郎の頬を打ったものだとわかったのは、それから一拍遅れてのことである。
予想を超えた人物の、思いも寄らぬ行動だった。
源之丞は勿論、万作も、そして頬を打たれた十三郎までもが、何が起こったのかすぐには理解が出来なかったらしい。
「十三郎。おまえ、ここに揃えた品々が、一体どういうものかわかっているのですか」
凛と高く通るなべ姫の声が、冷然と問う。
背丈は十三郎のほうが勝るが、なべ姫は先までの青褪めた面持ちから一変していた。
「これはすべて、兄上が領地を視察してお集め下さった品なのですよ」
なべ姫は騒ぎ立てることなく、淡々と語る。
それがかえって、憤りの深さを物語るようで、源之丞は思わず背後の万作のそばへと退き下がった。
「このことは父上にも、兄上にもお報せせねばなりません。覚悟をなさい」
それだけ言い置くと、なべ姫は棒立ちになった十三郎を捨て置き、するりとその脇を擦り抜けて行ったのだった。
【七.へ続く】
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