9 / 12
九.恋慕
しおりを挟む鉈を噛ませた薪ごと振り上げて、叩き付けるように振り下ろす。
すると薪は真っ二つに裂けて、からりと乾いた音を立てて左右に転がった。
激しく戸を叩く音が聞こえたのは、与十郎が次の薪に手を掛けた時のことだった。
只事でないと察した与十郎が薪を放って来客を迎えると、そこには青褪めた志野の姿があった。
「志野どの? 血相を変えて、一体どうし──」
「急ぎ与十郎どのにお話ししたいことが……」
誰かに聞こえはしないかと、志野は忙しなく周囲を窺っているようだった。
志野に背を押されながら、玄関の中へ入る。
「し、志野どの、……いやその、あまり掃除が行き届いていなくて」
「部屋など今度私が掃除に参ります」
外に人のいないことを念入りに確かめてから、志野は戸を締めた。
そこまで厳重に壁の耳を気にするわけが、志野の口から語られた名で判明したのである。
「実は今日、赤沢幸之助どのにお会いしました」
「志野どのが、ですか」
「はい。そこで平井道場に婿入りすると申されたのです。以前、父が与十郎どのに打診していたことをご存知の様子で……」
恐らくは、部屋住みの身を立てる術とする以外にも、与十郎に対する当て付けも多分に含んであるのだろう。
志野の話から、与十郎にも容易に想像がついた。
日頃から横柄に振舞っていた手前、御前試合での敗北は余程にその矜持を傷付けたはずである。
「そこで折り入って、お願いがございます」
身丈の差から自然上目遣いとはなったが、志野は胸の前に両手を握り締め、真正面から語気を強めた。
その緊張を孕んだ面持ちに、与十郎も俄に心の臓が早鐘を打つのを感じて息を呑む。
或いは志野から直に、婿入りを乞われるかと思ったのだ。
志野の目はじっと与十郎のそれを捉え、逸らされる気配がない。
視線を受け、耳や頬に内から込み上げるような熱を感じた。
「与十郎どの。私は、どうあっても赤沢幸之助どのと夫婦にはなりたくありません」
「あ、ああ」
それはそうだろう、と与十郎も思う。
ふらふらと遊び歩き、浮名を流しているような男を夫にするには、相当の覚悟と諦観が要る。
況して志野のように一本筋の通ったおなごには、耐え難いものに違いない。
与十郎が今からでも先日の打診に応じると言えば、平井家も断る理由が持てる。
志野はそのために来たものと思われた。
(だとすれば──)
その場しのぎの仮初のものだとしても、夫婦の約束をおなごの口から言わせるわけにはいかないだろう。
瞬時にそこまで考え至ると、急に喉の奥が乾いた。
「あの、志野どのがもし、私で構わないと言うのなら──」
「どうか私に剣術を教えて頂きたいのです」
「え? ……剣、剣術?」
「はい」
志野は大真面目に与十郎を見据えて頷く。
全く以て思いもよらない言葉が飛び出し、与十郎は暫し呆然としてしまったのだった。
***
茶の間に通し、その意図をよくよく聞けば、つまりは自分で何とかするということだった。
「私と立ち合って勝てなければ、道場を継ぐ資格無しとして突っ撥ねる理由に致します」
そう断言する志野を前に、与十郎は目眩がするような心地になった。
無謀だ。
こうしたところが、婿取りを難航させる所以なのだろう。
なるほどな、と密かに納得する。
「志野どの、私ですら三本のうち一本は赤沢に取られたのです。貴女にそんな勝負はさせられません」
「ですが、このままでは道場はあの男に牛耳られてしまいます。ここは一歩も引けません」
そこで道場主の平井が勝負するならまだしも、自ら打って出ようとするところに与十郎は思わず噴き出し、破顔してしまった。
「何故お笑いになるのですか! 道場にとっては深刻な問題なのですよ?!」
「いや、申し訳ない。確かにそうなっては困りますね」
面白いと思ったのも、況して噴き出して笑い声を上げることも久しく無かったのに。
平井道場にとっては由々しき問題であるが、与十郎にはより一層、志野が好ましく思えてならなかった。
「御事情はわかりました」
「では、お教え願えますか」
ぱっと表情を輝かせた志野に、与十郎は苦笑して返した。
「いえ──、赤沢が志野どのの婿に名乗りを上げるというなら、私がその勝負に臨みましょう」
***
志野が懸念していた通り、赤沢は数日のうちに正式な申し入れをしてきた。
恐らく幸之助の処遇には赤沢執政も頭を悩ませていたのかもしれない。
放蕩息子が漸く身を立てる気になったと、委細は問わず喜んで婿に差し出すつもりなのだろう。
平井の側は、やはり道場を継がせるにはそれなりの実力を示す必要があることを強調し、高弟との勝負に勝つことを婿入りの条件として提示した。
赤沢家老も、それを呑んだらしい。
与十郎も間もなく城勤めに復帰したが、朝夕には必ず平井道場に顔を出すようになっていた。
自ら受けて立つと断言した以上、御前試合以上に負けられない試合だと思った。
「赤沢を退けたいのは勿論だが、これでまた志野の縁組が難しくなるな」
毎日のように平井と立ち合い稽古を繰り返す与十郎に、平井は時折ぼやいたが、平井自身も赤沢幸之助には良い感情を抱いていないのは明白だ。
よりによってあんな男が名乗りを上げるとは、と気が滅入っている様子で度々愚痴を溢している。
「赤沢は志野どのに無闇に近付いてはいませんか」
元がああいう輩だ。縁組の結納の、という段取りとは関係なく、狙ったおなごに手を出して来ないとも限らない。
勝負そのものは無論だが、志野の身が危うくなりはしないかという懸念も強かった。
すると平井は意外そうに目を丸くし、与十郎の顔をまじまじと観察する。
「……志野に惚れたか?」
「なっ、なんの話ですか! 私は赤沢が志野どのに何もせずにいるはずがないだろうと──」
それこそ既成事実の一つでも作ったところで何の不思議もないような男だ。
「くれぐれも注意なさるよう、志野どのにお伝えください」
「……そうか、なるほどな。全く同じ反応だの」
平井はぶつぶつと独り言ち、妙に得心の行った顔をして、何度か頷いたのであった。
0
お気に入りに追加
5
あなたにおすすめの小説
春雷のあと
紫乃森統子
歴史・時代
番頭の赤沢太兵衛に嫁して八年。初(はつ)には子が出来ず、婚家で冷遇されていた。夫に愛妾を迎えるよう説得するも、太兵衛は一向に頷かず、自ら離縁を申し出るべきか悩んでいた。
その矢先、領内で野盗による被害が頻発し、藩では太兵衛を筆頭として派兵することを決定する。
太兵衛の不在中、実家の八巻家を訪れた初は、昔馴染みで近習頭取を勤める宗方政之丞と再会するが……
陸のくじら侍 -元禄の竜-
陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた……
空蝉
横山美香
歴史・時代
薩摩藩島津家の分家の娘として生まれながら、将軍家御台所となった天璋院篤姫。孝明天皇の妹という高貴な生まれから、第十四代将軍・徳川家定の妻となった和宮親子内親王。
二人の女性と二組の夫婦の恋と人生の物語です。
妻の献身~「鬼と天狗」 Spin Off~
篠川翠
歴史・時代
長編の次作である「鬼と天狗」の習作として、書き下ろしてみました。
舞台は幕末の二本松藩。まだ戦火が遠くにあった頃、少しひねくれたところのある武士、大谷鳴海の日常の一コマです。
尚、鳴海は拙作「直違の紋に誓って」でも、主役の剛介を会津に導くナビゲーター役を務めています。
浅葱色の桜 ―堀川通花屋町下ル
初音
歴史・時代
新選組内外の諜報活動を行う諸士調役兼監察。その頭をつとめるのは、隊内唯一の女隊士だった。
義弟の近藤勇らと上洛して早2年。主人公・さくらの活躍はまだまだ続く……!
『浅葱色の桜』https://www.alphapolis.co.jp/novel/32482980/787215527
の続編となりますが、前作を読んでいなくても大丈夫な作りにはしています。前作未読の方もぜひ。
※時代小説の雰囲気を味わっていただくため、縦組みを推奨しています。行間を詰めてありますので横組みだと読みづらいかもしれませんが、ご了承ください。
※あくまでフィクションです。実際の人物、事件には関係ありません。
薙刀姫の純情 富田信高とその妻
もず りょう
歴史・時代
関ヶ原合戦を目前に控えた慶長五年(一六〇〇)八月、伊勢国安濃津城は西軍に包囲され、絶体絶命の状況に追い込まれていた。城主富田信高は「ほうけ者」と仇名されるほどに茫洋として、掴みどころのない若者。いくさの経験もほとんどない。はたして彼はこの窮地をどのようにして切り抜けるのか――。
華々しく活躍する女武者の伝説を主題とし、乱世に取り残された武将、取り残されまいと足掻く武将など多士済々な登場人物が織り成す一大戦国絵巻、ここに開幕!
壬生狼の戦姫
天羽ヒフミ
歴史・時代
──曰く、新撰組には「壬生狼の戦姫」と言われるほどの強い女性がいたと言う。
土方歳三には最期まで想いを告げられなかった許嫁がいた。名を君菊。幼馴染であり、歳三の良き理解者であった。だが彼女は喧嘩がとんでもなく強く美しい女性だった。そんな彼女にはある秘密があって──?
激動の時代、誠を貫いた新撰組の歴史と土方歳三の愛と人生、そして君菊の人生を描いたおはなし。
参考・引用文献
土方歳三 新撰組の組織者<増補新版>新撰組結成150年
図説 新撰組 横田淳
新撰組・池田屋事件顛末記 冨成博
永き夜の遠の睡りの皆目醒め
七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。
新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。
しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。
近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。
首はどこにあるのか。
そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。
※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる