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三.白羽の矢
しおりを挟む夏の間は現場に出ることも多く、時には城下から離れた山間にまで出向くこともあるが、冬の間は帳簿付けなど机仕事を片付けるのに登城して普請小屋に詰める日も多い。
小屋には用途も今一つ知れぬ測量具なども保管してあるが、小上がりに机や火桶も揃ってある。暖を取りながら過ごせるので、時折眠気に襲われることを除けば、存外に快適な場所だった。
その日のうちに片付けねばならないような仕事もなく、軽輩の中には上役の目を逃れて談笑するだけで帰っていくような者もいる。
夏に日焼けした肌も冬になれば幾らかは地の色に戻っていたが、与十郎は外で汗と埃に塗れる仕事を特に厭とも思わなかった。
少々身形が崩れていても尤もな言い訳が通るし、何より軽輩の数が多い普請の勤めは城内ほどには人目を気にせずに済むのだ。
気を遣う相手は奉行くらいのものだった。
降格の役替えで普請組に来た父との大きな違いは、与十郎の場合は番入り直後からこの環境であったということだろう。
はじめこそあの島崎彦之進の、と陰口を叩く者もあったが、共に外で立ち働くうちに、そうした声は次第に消えていった。
それでも彦之進の病態については、家中に知らぬ者はない。
──あの家には狂人がいる。
それだけが周知の事実として浸透しきっていた。
「親父殿の具合はどうだ? 平井先生から聞いたぞ、婢がやめてしまったそうではないか」
同じ組勤めで、やはり平井道場の門下にある佐野伝蔵が火桶に手を翳しながら言った。
「難儀だのう、飯はどうしておるのだ」
「飯はおれが用意している。口に合わんのか、父はろくに食わんがな」
平井も佐野も気に掛けてはくれるが、手の付けようがないというのが本音なのだろう。
奉公人の口を探していると知っても、積極的に何処そこの誰はどうかという話は寄越さない。
口入れ屋を恃んだりもしたが、島崎の名を出しただけで断られた。
そういうふうだから、下手に人を繋いで万が一のことがあっては一大事、と危惧しているのだろう。
「それじゃあ弁当も自分で拵えているのか」
「見窄らしくて、人に見せられた物ではないがな」
驚きか呆れか、佐野は感嘆の息を吐く。
「いや、良くやっているな。おれには到底真似は出来ん」
やりたくてやっているわけではない、と返したかったが、与十郎は堪えた。
反駁を呑み込むのも、すっかり慣れてしまったらしい。
「それはそうと、また御前試合があるというのは聞いたか」
「そういえば、そんな時期か」
隔年で行われる藩主を前にしての剣術試合が、この正月にもあるとのことだった。
「平井先生がな、此度もやはりお前を出したいと言っていたぞ」
「……それは有り難い話だが、今のおれには難しい。長らく道場にも顔を出していないから腕も落ちているだろうし……。何より今は気力が湧いて来ないのだ」
一昨年の試合に出た時は、家名についた汚点を払拭出来ればと考えて臨んだが、今はそんな気概も失せていた。
「なに、試合までまだ二十日はある。それだけあれば腕は戻るぞ」
「おれはやらん。第一、先生は志野殿の婿を探しておられるのだから、道場を代表するに相応しい者を出すべきでないのか」
開いたままの帳簿に目線を落とし、与十郎は苦い物が込み上げるのを感じた。
「それがいたらお前に声は掛けんだろう」
他にいないからこそ、高弟の与十郎に白羽を立てたのだ、と佐野は肩を竦めた。
「とにかく一度、道場に顔を出せ」
***
その夜、与十郎は久方ぶりに木刀を手にした。
枯れ枝や枯れ葉の朽ちたのが其処彼処に散らばる寂れた庭に出て、一つ二つ空を斬る。
そこで幾つか型を構えてみるが、どうもしっくり来なかった。
下城した帰り際、与十郎は平井道場に顔を出した。
断ろうと思っていたところが、御前試合の件は平井の一存だけではなかった。
「お上がな、またお主の剣を見たいと仰せなのだ」
藩主自らの希望で、白羽の矢が立てられたというわけだったのだ。
加えて、やはり婿にならぬかと再度の打診があったが、それは丁重に断った。
しかし藩主の望みとあれば、平井の面目を潰すわけにもいかず、気は進まないままに承諾せざるを得なかったのである。
木刀を構え、片足を前へ躙り腰を落とす。宵闇に白く浮かび上がる息を整え、与十郎は幾度となく刀身を振るう。
二十日のうちに勘を戻さねばならなかった。
ふと仏間の障子に目を向けた時、ぼんやりと揺れる灯りに照らされ、仏壇に向かって座る父の影が見えた。
(そういえば、近頃は暴れていないようだな)
酷いときには連日のように板戸が外れて表に飛んでいたり、障子や襖が破れていたりもした。
そんな日はたかが門のところでおろおろと震えながら与十郎を待っていたものだ。
勤めから帰ってそんな光景を目の当たりにするのは気が滅入って仕方なかったが、たかは恐ろしい思いをしたことだろう。
それを無理に引き留めていたのだから、悪いことをしたなと思う。
(たかがいなくなってから、か……?)
その頃から父の癇癪が急に鳴りを潜めたように感じる。
座敷牢の話を聞かれた時すら、じっと物思いに耽っている様子だった。以前の父なら怒りに任せて家財を打ち壊すぐらいのことはありそうだったのに。
(いや、そうではないな)
たかがいなくなってからではない。
その後も帰ると物に当たったと思しき形跡はあったし、そうしたことがぱたりと止んだのは平井が訪ねて来てからだ。
医者にも匙を投げられて久しいというのに、ここへ来て回復の兆しもあるまいなと訝る。
御前試合に出ることを話すべきかどうか、迷った。
試合相手についてはまだ聞かされていないが、藩主直々の指名を賜ったと聞けば父も或いは喜ぶかと考えた。
考えて、それはないかと思い直す。
前回の試合も名誉の挽回と父の回復を祈願して臨んだが、見事に勝ち抜き褒賞を賜ったからと言って父が喜ぶことはなく、病が寛解することもなかったのである。
父はもうまともに物事を捉えることが出来なくなっている。そう思い知った。
ぼうっと浮かぶ父の影を横目に、与十郎は再び無心で木刀を振るった。
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