来し方、行く末

紫乃森統子

文字の大きさ
上 下
2 / 12

二.婿取り

しおりを挟む
 
 
 屋敷町の平井道場は、城下でも人気のある道場だった。
 道場主の平井庄右衛門は藩校でも教授方を勤める一刀流の達人で、四十も半ばに差し掛かっていた。
 一連の事件の後にも態度を変えずに付き合いを続けてくれている、数少ない者の一人だ。
 家中の目を避けて道場からは足が遠退きはしたが、平井は時折与十郎の様子を見に家を訪ねてきていた。
「たかもとうとう、辞めてしまったか」
 荒んだ雰囲気の漂う家の中を眺め、平井は渋面を作った。
 掃除も行き届かず、床は塵が見えるほどに薄汚れている。
「どなたか、奉公先を探しているような人はおらぬものでしょうか。たかに暇を出してから、流石に私一人では家事一切まで手が回らず困っております」
「それはそうだろうが、なかなか難しかろうな……」
 そう言って、平井はちらと締め切った奥の襖に目をやった。
「皆、お主の身の上には同情しておるのだ。無論、親父殿に対してもな。算盤勤めから一転して普請組勤め。全く畑違いの持場に放り込まれては、ただでもやり難かろうに」
「それは致し方ありません。不忠者を出した当家の落度です。お上の御不興を買って当然のことでしたので」
「お主ら親子が悪いわけでないことは、充分わかっておる。彦之進殿も真に不運なことであった……」
 ただ、やはりそれと彦之進の病とは別な問題だと言う。
 気鬱を患って狂人となる者は、稀に居る。
 その大半が程無くして刃傷沙汰に及び、放たれた討手によって討取られる。
 そこまで至らずとも、座敷牢に入れられた。
「与十郎、お主は何か手を打とうとは考えぬか」
「手を打つ?」
 平井が言うのは、父のことに関してだろうなと見当がついたが、与十郎はあえて解せぬ振りをした。
 いつ暴れ出すかわからぬ父も、普段は閉じ篭もるばかりで至極大人しいものだ。
 それがかえって不気味さを醸しているのだが、与十郎は父を座敷牢に入れるようなことはしたくなかった。
 母は事件のすぐ後に心労から倒れて、程無くして世を儚んだ。
 他に兄弟もなかった与十郎にとってはたった一人の肉親なのである。
「勤めに家事に、親父殿の面倒まで見ていたのでは、遅かれ早かれお主まで倒れてしまう」
 平井は真底から心配しているふうだった。
 これからどうするつもりなのかと尋ねられ、与十郎は力無く笑った。
「……どう、と言われましても」
 当面は今の暮らしを続ける他ないだろう。
 先のことを考える余裕は無かった。
 平井は一つ喉を鳴らすと、僅かに改まった様子で与十郎を見据える。
「そこでだな、お主さえ良ければの話なのだが……。今後の宛がないのなら、いっそうちへ来ぬか」
「………」
 平井の言う意味がすぐには解せず、与十郎は眉根を寄せる。
「うちには娘ばかり四人もおる。その上、いずれも気が強くてなぁ」
 一番上の娘は二十歳になったが、婿がなかなか決まらない、とぼやきに近い口調で言う。
 与十郎も顔を合わせたことがあったが、平井の娘は、女だてらに目録まで受けていたと記憶している。
 気は強いが荒いわけではないし、取り分け醜女というほどでもない。
「門下に良い方がおられるのではありませんか」
「そう思うだろう。道場を継ぐに足るような実力のある者は一握りだ。更にその中で家督相続から外れるような二男三男となると、もう殆どおらんのだ」
 大きな道場を背負う身としては、誰でも良いというわけではないだろう。
 腕があっても嫡子であったり、そもそも家格が違いすぎたり、かと言って家格相応の者には腕のほうが今ひとつであったり。
 平井は額に手をあてがい、吐息した。
「うまく行かないものですね。あれだけの門弟がおありだというのに」
「志野ももう二十歳の声を聞いてはな、後がないのだ。下の三人を嫁入らせるためにも、早くに婿を取らねばならん」
 その婿になる気はないか、ということだった。
 当然、島崎家の禄は返上せねばならず、家は断絶となる。
 如何に苦しくとも、考えもしないことだった。
「親父殿に関しては、やはり平癒の見込みがなければ座敷牢に入って頂くことを了承して貰いたい。それさえ呑んで貰えれば、お主の腕にも家格にも何の申し分もない」
 どうだろうか、と促す平井を、与十郎はどこかぼんやりした気分で眺めた。
 
   ***
 
「父上、寒くはありませんか。今、火を入れます」
 奥の一間に立ち入ると、底冷えのする空気が満ちていた。
 仏壇と火鉢があるだけで、他には何もない。父が暴れるたびに物を減らし、仏間には殆ど何も置かなくなったのだ。
 行燈の灯が小さくなっているのに気付き、与十郎は中の蝋燭を灯し替える。
 父は仏壇の前に、背筋を伸ばして正座していた。
 それから長火鉢に炭を入れると、与十郎は何の気はなしに父の背中を見詰めて座った。
「今日、道場の平井殿が見えました。新しい奉公人のあてがないかと尋ねてみましたが……」
「儂に座敷牢に入れと申すのであろう」
 枯れ枝のように細くなった父の身体から発せられたとは思い難い、語気の強い声が返る。
 奥の仏間と茶の間では、話も届かぬかと思っていたが、聞こえていたらしい。
 すわ仏壇の鈴でも投げつけられるかと身構えたが、彦之進は身動ぎもせずに背を向けたままだった。
 与十郎は静かに首を振った。
「いえ、その話はお断り申し上げました」
「………」
「私には、あれだけ大きな道場の主などはとても勤まりますまい」
「………」
「奉公人はまだもう少し探してみます」
 滅多に話をすることのない父の声が、意外にもしっかりしたものであったことに与十郎は驚いた。
 しかしそれもたった一声きりで、あとは何を言おうとも返事はなかった。
 
 
しおりを挟む
感想 2

あなたにおすすめの小説

春雷のあと

紫乃森統子
歴史・時代
番頭の赤沢太兵衛に嫁して八年。初(はつ)には子が出来ず、婚家で冷遇されていた。夫に愛妾を迎えるよう説得するも、太兵衛は一向に頷かず、自ら離縁を申し出るべきか悩んでいた。 その矢先、領内で野盗による被害が頻発し、藩では太兵衛を筆頭として派兵することを決定する。 太兵衛の不在中、実家の八巻家を訪れた初は、昔馴染みで近習頭取を勤める宗方政之丞と再会するが……

陸のくじら侍 -元禄の竜-

陸 理明
歴史・時代
元禄時代、江戸に「くじら侍」と呼ばれた男がいた。かつて武士であるにも関わらず鯨漁に没頭し、そして誰も知らない理由で江戸に流れてきた赤銅色の大男――権藤伊佐馬という。海の巨獣との命を削る凄絶な戦いの果てに会得した正確無比な投げ銛術と、苛烈なまでの剛剣の使い手でもある伊佐馬は、南町奉行所の戦闘狂の美貌の同心・青碕伯之進とともに江戸の悪を討ちつつ、日がな一日ずっと釣りをして生きていくだけの暮らしを続けていた…… 

空蝉

横山美香
歴史・時代
薩摩藩島津家の分家の娘として生まれながら、将軍家御台所となった天璋院篤姫。孝明天皇の妹という高貴な生まれから、第十四代将軍・徳川家定の妻となった和宮親子内親王。 二人の女性と二組の夫婦の恋と人生の物語です。

妻の献身~「鬼と天狗」 Spin Off~

篠川翠
歴史・時代
長編の次作である「鬼と天狗」の習作として、書き下ろしてみました。 舞台は幕末の二本松藩。まだ戦火が遠くにあった頃、少しひねくれたところのある武士、大谷鳴海の日常の一コマです。 尚、鳴海は拙作「直違の紋に誓って」でも、主役の剛介を会津に導くナビゲーター役を務めています。

浅葱色の桜 ―堀川通花屋町下ル

初音
歴史・時代
新選組内外の諜報活動を行う諸士調役兼監察。その頭をつとめるのは、隊内唯一の女隊士だった。 義弟の近藤勇らと上洛して早2年。主人公・さくらの活躍はまだまだ続く……! 『浅葱色の桜』https://www.alphapolis.co.jp/novel/32482980/787215527 の続編となりますが、前作を読んでいなくても大丈夫な作りにはしています。前作未読の方もぜひ。 ※時代小説の雰囲気を味わっていただくため、縦組みを推奨しています。行間を詰めてありますので横組みだと読みづらいかもしれませんが、ご了承ください。 ※あくまでフィクションです。実際の人物、事件には関係ありません。

薙刀姫の純情 富田信高とその妻

もず りょう
歴史・時代
関ヶ原合戦を目前に控えた慶長五年(一六〇〇)八月、伊勢国安濃津城は西軍に包囲され、絶体絶命の状況に追い込まれていた。城主富田信高は「ほうけ者」と仇名されるほどに茫洋として、掴みどころのない若者。いくさの経験もほとんどない。はたして彼はこの窮地をどのようにして切り抜けるのか――。 華々しく活躍する女武者の伝説を主題とし、乱世に取り残された武将、取り残されまいと足掻く武将など多士済々な登場人物が織り成す一大戦国絵巻、ここに開幕!

壬生狼の戦姫

天羽ヒフミ
歴史・時代
──曰く、新撰組には「壬生狼の戦姫」と言われるほどの強い女性がいたと言う。 土方歳三には最期まで想いを告げられなかった許嫁がいた。名を君菊。幼馴染であり、歳三の良き理解者であった。だが彼女は喧嘩がとんでもなく強く美しい女性だった。そんな彼女にはある秘密があって──? 激動の時代、誠を貫いた新撰組の歴史と土方歳三の愛と人生、そして君菊の人生を描いたおはなし。 参考・引用文献 土方歳三 新撰組の組織者<増補新版>新撰組結成150年 図説 新撰組 横田淳 新撰組・池田屋事件顛末記 冨成博

永き夜の遠の睡りの皆目醒め

七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。 新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。 しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。 近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。 首はどこにあるのか。 そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。 ※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい

処理中です...