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番外編 重ねる日々

とある筆頭と管理人の密談

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 逸る気持ちを意識しつつ、ベイカーは王宮にあまたある事務所のうち、ひとつの扉をノックした。とは言っても、職員通路に並ぶ扉は密談が行われていない限り大抵が開け放たれているので、部屋の主が顔を上げれば誰何せずとも来訪者を確認することができる。

 オーク材のデスクでパソコンに向かっていた部屋主はベイカーを見ると、下から覗き込むように両眉を動かした。栗色の髪を上げた額に、浅くシワが走る。

「失礼、おいでになるとは聞いていなかったもので」

 椅子から立ち上がってジャケットのボタンを留める男──ジョージに、ベイカーは軽く手を振った。

「いえ、事前の連絡も入れずにお訪ねして申し訳ない」
「筆頭のお越しとは、殿下に関しての急用が?」

 言いながら、片手で机の前にある椅子を示したジョージは、扉を閉めたベイカーが座るのを待って、自分の椅子に腰を下ろした。

 外務省出身で、ベイカーよりいくつか年上のジョージは、上流階級の子どもたち向けのサロン──いわゆる箱庭──の管理責任者だ。

 三十そこそこで王宮の事務部門へやって来た当初は、交流人事的な噂もありちょっとした話題になったが、サイラス王子の箱庭デビューに合わせるようにたった数年で責任者に昇進した。おそらく、最初から次期国王を支える重鎮として将来を嘱望されていたのだろうし、自分たちの立場はそう遠くないうちに逆転するだろうとベイカーは予想している。

 しかし、きょうは職場内の政治について話をしに来たのではない。ベイカーは背筋を伸ばし、腿の上で両手を組んだ。

「殿下に関することというのは間違いありません。本日、エリオット王子がとても嬉しそうに箱庭のお話をなさいました」
「まさか……いえ、失礼」

 驚愕に目を見開いたジョージは、咳払いで素直な感想を濁した。溌溂とした兄王子と真逆で、人見知りの弟王子は箱庭の子どもたちに馴染めないでいる。大人しいグループで絵本の読み聞かせに誘ってみたり、女の子が多いグループで手芸はどうかと薦めても、石のようにだんまりで小さくなっている様子をベイカーに報告し、ともに頭を悩ませてきたのはジョージだ。

 その手腕をもってしても交流の「こ」の字もさせることができないでいるエリオットが、嬉しそうにしていたとは。

 えぇ、驚きますね。わたくしもです。

「わたくしが見ていた限り、本日も殿下の行動に変わったところはありませんでした。初めはままごとのグループにおいででしたが、数人でおもちゃのティーセットの取り合いがあり、それを避けるように庭の奥へ」

 フットマンがこっそりついて行って、十五分ほどで戻ってきたあとは、いつもと同じようにどの子どもからも距離をとりひとりで座っていた。

 机に肘をついて前かがみになったジョージが、「何があったと?」と小声で尋ねた。

「殿下いわく『お姫さま』との出会いがあったそうです」
「お姫さま?」
「箱庭に出入りしているお嬢さまのうちのおひとりでしょう。いまのお話しですと、おそらくその庭の奥で。お嬢さまとお話はなさらなかったようですが、とても印象的な方だったと教えていただきました」

 いつもは箱庭から帰ると疲れて気落ちしている王子が、くりくりした目を輝かせて「お姫さま」の話をしたので、ベイカーも天地がひっくり返るほど驚き、そして喜んだ。

 だから初めて彼が自分から親しくしたいと望んだお相手を知るために、アポイントも取らずジョージのもとを訪れたのだ。

 事情を聴いたジョージは、片手で額をさすり、険しい顔をした。

「殿下は、確かに『お姫さま』と?」
「えぇ。残念ながら、殿下のお話しからは詳しい特徴などが判然としないのです」

 幼い王子の言葉からは、きらきらふわふわなお姫さまであることしか聞き出せていない。当然、それでお姫さまの正体を知りたいと言われても困るだろう。

「ご承知の通り、わたくしども側役は箱庭へお供することができない規則ですから、しばらく殿下の様子を特に気を付けて見ていただきたいのです。お相手がどこの家のお嬢さまかが分かれば、あとはこちらで──」
「いえ、いえベイカー」

 急き込むベイカーを、ジョージが押しとどめた。

「実のところ、殿下と遭遇したであろう子どもは、フットマンの報告で承知しております」

 なんと。

 ベイカーは優秀なフットマンを褒め称えかけて、ジョージのシワの寄った額に気付いた。

 舞い上がった気持ちを抑え、声を落とす。

「お相手の素性に問題が?」

 残念なことに、箱庭には政治的に難しい立場の家の子どももいる。もし相手がそう言った家の子どもであれば、王子との交流には細心の注意と手厚い根回しが必要になるだろう。

 いつ「もう箱庭へは行かない」と言い出してもおかしくないのに、健気に通う背中を送り出してきたベイカーとしては、万難を排して姫さまには王子の初めてのお友達になってもらうつもりだ。

 ジョージは不安定なジャンガのどこに手を付けるか慎重に思案するように、唇を引き結んで沈黙したあと、大きなため息をついて口を開いた。

「殿下がお見初めになったのは、お嬢さまではありません」
「つまり、貴族階級ではなく一般のお子さまですか?」

 家同士のしがらみがない分、むしろ歓迎すべきかもしれない。しかしジョージの顔は冴えない。

「貴族階級でないことは間違いありません。しかしそうではなく──」
「そうではなく?」
「少女でもありません」
「……と、言いますと?」
「彼は少年です」
「少年」
「お姫さまではないのです」
「お姫さまではない」

 理解が追い付かず、ただジョージの言葉を繰り返すベイカーに、子どもたちを知り尽くした管理人は手元のパソコンをいくつか操作して画面をこちらへ向けた。

「アレクシア・バッシュ。父親は外務省の外交官で、わたしも面識がありますが、彼の一人息子です」

 画面には、箱庭へ招待する際に作成された身元調査のデータが映し出されており、名前や生年月日とともに大きく写真が貼られている。

 王子が表現した「ふわふわきらきら」が、少しばかり不貞腐れた顔で写っていた。

「なんと……」

「殿下が勘違いなさるのも、無理はない容姿ですが」

 ジョージが言う通り、アレクシア・バッシュと言う名の少年は、一見して少女と見まごう可憐さだった。

 くるくると巻くくせ毛が桃色の頬をかすめ、前髪の間からは薄青の瞳が覗いている。血色のいい唇は不満げに両端が下がっているが、すっきりした鼻筋と子どもらしい小さな顎は、たくましく成長する片鱗すら見当たらなかった。

 リボンタイの隙間から見えるブラウスのボタンがなければ、大人でも文句なしの美少女だと言うだろう。小さな王子が陽の光のもとで彼を見たなら、なおさらだ。

 しかしまずいことになった。

 ベイカーは己の失態に頭を抱える。

「ベイカー?」
「あぁ、すみません。お相手が少年である可能性に思い至らず、姫さまに喜んでもらうために花を贈るよう進言したのです。どう申し開きをしたものかと」

 ジョージは気の毒そうな視線をよこしたものの、指先で机を叩きながらこう言った。

「いっそ、親しくなるまでそのことには触れないという手もあるのでは?」
「しかし、いくら少女のように見えたとしても少年でしょう。花を贈られて気分を害したら、殿下が傷つくでしょう」
「彼は父親の帰国に合わせてシルヴァーナへ来たばかりです。こちらの文化にはまだ不慣れですが、もめ事を起こしたことはありません。むしろ、そうならないように他の子どもたちから距離を取っているふしがあります」
「頭のいい少年なのですね」
「そう思います。斜に構えていると言えるかもしれませんが、自分より年下のものを邪険に扱うタイプではないと見ています」

 あくまでわたくしの印象ですが。

 ベイカーは顎に手をやって、どこか地味な印象のジョージを見つめた。

 正直なところ、箱庭で王子が馴染めるよう、周囲の子どもに働きかけをしないジョージに不満と不信を抱いている側近もいる。けれど特権階級で育つ子どもの誰も特別扱いせず、それでいて度を超えたトラブルを起こさせずに来たジョージの観察眼に、ベイカーはひと目もふた目も置いていた。エリオットが馴染めないのは、彼個人の個性に由来するところが大きく、管理人の能力を疑うべきでないことは、何度も話し合いをした両親──国王夫妻も認めている。

 そのジョージが言うのなら、お姫さまことアレクシア少年はベイカーが心配するような悪童ではないはずだ。

「それに」ジョージが続けた。

「率直に申し上げて、殿下の人見知りは男女関係なく発揮されています。そして兄上であるサイラス王子にはとても懐いておられることを考えると、親しくなった後であれば、相手が少年だったと知ってもさほどの衝撃はないかもしれません」
「『お姫さま』は、あくまで入り口として目をつぶると」
「いまは、殿下に親しいご友人ができることのほうが優先では?」

 間違いない。

 バッシュ少年は、いきなり花をプレゼントされて戸惑うかもしれないが、そこを乗り越えて友人になってくれれば王子にとって大きな一歩になる。

「我々としては、彼について余計な話は殿下のお耳に入れないようにします」
「できれば、彼にも失礼がないように」
「もちろんです」

 幸い、ベイカーが助言したのは「相手に優しくして差し上げる」と言うことだ。それは男女関係なく通じる。

 それから三十分ほど、バッシュ少年の箱庭での様子や家庭環境などを聞いて、ベイカーは席を立った。

「では、またあす、この時間に伺います。両陛下へのご報告は、そのあとで」
「承知しました。殿下によきご友人ができることを願っています」
「ありがとうございます」

 スキップでもしたい気分で人気のない職員通路を抜け、ベイカーはハウスへと向かった。

 戻ったら、贈るのはどの花がよいか、小さな主人と相談しよう。
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