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訳あり王子と秘密の恋人 第二部 第七章

10.タイミングがいいのか悪いのか

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 クレイヴが開けた扉から部屋に入って来たバッシュは、いつも通り隙のない濃紺のスリーピースだった。片手に下げているのが外出用のブリーフケースじゃなく小ぶりのボストンというところで、彼が勤務時間外だと分かった。そして目ざとく、バッグの大きさが一泊分の荷物を入れるのにちょうどいいくらいだと判断する。

 彼はまず手前の椅子に座っていたエリオットを片腕でハグすると、「よくやった」と大きな手で肩を叩いた。

「着替えてこなかったのか?」

 エリオットはぶっきらぼうにいった。照れくささを隠すためだ。

 ひとにそういいながら、自分もジャケットを脱いだだけのシャツとスラックス姿のエリオットを見て、バッシュは片眉と両肩を上げる。言葉にはしないが、「しょうがない奴」というときの顔だった。

「この服装は便利なんだよ。王子がいるところに侍従がいるのは当たり前だからな」

 それが誰を担当している侍従であろうが、「なにか用事があるんだろう」と周りが勝手に思ってくれる。そして部外者のいない部屋に入ってしまえば、王子とキスしていたって誰にも分からない。

 期待通りエリオットにキスをしたバッシュは、ボストンを床において──すぐクレイヴに回収された──ナサニエルに片手を差し出した。

「いいスピーチだった」

 率直な称賛に、ナサニエルは驚いたように数回まばたきする。自分の仕事が褒められると思っていなかったのか、そもそもバッシュから友好的な態度を示されると思っていなかったのか。どちらの理由もありそうだったが、彼は「ありがとう」と笑顔で握手に応じた。

「スピーチを書いた経験が?」

 肘掛け椅子がふたつしかなかったので、ジャケットとベストを脱いだバッシュはバーカウンターから持って来たスツールに座って足を組んだ。

 エリオットとバッシュの間に挟まれたルードが仰向けになり、屈んで撫でてくるバッシュの手をはぐはぐと甘噛みする。

「首相のスピーチライターと知り合いで、それっぽい文章の書き方は教わったことがあるけど、実際に書いたのは初めて。だから、エリオットにも意見は聞いたよ」
「鉢植えのところとか」
「窓の外のあたりも?」
「あれはぼくの思いつき」
「あそこは、ニールじゃなきゃ出てこないね」
「脚色賞もくれていいよ」

 バッシュが怪訝そうな顔をするので、ネタバラシをしてやる。

「みんな、おれの『窓辺』はカルバートンだと思ってるだろ。公園に来る人の声が聞こえたんだろうって」
「……おかしな話だな」

 その通り。本当のところ、エリオットはずっとカルバートンにいたわけではないから、療養しながら公園からの声が聞こえるはずがない。

「鉢植えがあったのは、ヘインズの屋敷だ。でもって、窓の外の庭はヘインズの庭。おれは一度もカルバートンの窓とはいってないだろ」

 だからぎりぎり嘘じゃないんだな。

「じゃあ、お前が聞いたのは?」
「じいちゃんが主催してた、ガーデンパーティーの声」
「あぁ、『お茶会』か」

 貴族が開く社交場は大小さまざまな規模で存在する。なかでも一年で最も注目されるのが、侯爵以上のいわゆる上級貴族が持ち回りで開催する、『お茶会』と呼ばれるパーティーだ。

 ちなみに、父エドゥアルドと母フェリシアが交際するに至ったきっかけも、ヘインズ家で行われたお茶会で隣に座ったことだった。ベイカーの話では、父は母に一目ぼれして、その後ずっと隣の席を占領し続けたんだったか。

「ぼくらは、そのとき出会ったんだ。十五か、十六だったっけ?」
「それくらい」

 エリオットがグラスに刺さったストローでジュースをかき混ぜながら頷くと、バッシュは気づかわしげな眼でこちらを見た。

 まぁ、いいたいことは分かる。

「パーティーには出てない。おれはそこにいないことになってたし、屋敷の中は普通に歩けるようになってたけど、外に出るのは庭いじりのときだけだったから、客がいる間は屋敷の奥にこもってたよ」

 じゃあどうやって出会ったのか、と視線で問うバッシュに、ナサニエルは山を作るように合わせた両手を口元に当てた。

「まぁ、とある貴婦人の名誉に関わるから詳細は省くけど……」
「年上のお姉さんに迫られてたところを追い払っただけ」
「お前が?」

 そんなに驚かなくても、別に映画みたにスマートに助けに入ったわけじゃない。

 客は入って来ないはずの場所で知らない人間に遭遇して驚いたし、それが明らかに健全な談笑ではない場面だったのにパニックになって、「ひとを呼ぶ」とか「訴える」とかそんなことをいったような記憶はある。
 相手が逃げて行ったあと、うずくまった床から動けなくて、結局屋敷のスタッフを呼び行ってくれたのは当のナサニエルだった。

 後から聞けば、ナサニエルは合意の上で異性間交友にいそしんでいただけで──どうしてキャロルと子爵といい、そういう場にばかり遭遇するのかは謎だ──エリオットが助けに入る必要はまったくなかったし、余計なお世話もいいところだった。

 しかし彼はエリオットのなにを気に入ったのか、その後も怖がらせた謝罪とかなんとか理由をつけて、ヘインズの屋敷に通って来た。彼のフットワークの良さは、あの頃から突き抜けている。

 それに加えて、ナサニエルを捕まえしこたま説教したはずのマイルズが、主治医のパトリシアと相談した上で、風変わりではあるがエリオットと同年代で口の堅い少年を『友人候補』と認めてしまった。

 祖父としては、そろそろ植物以外の友人をと考えていた時期だったのだろう。下手にエリオットの存在をごまかすより、ナサニエルを身内に引き入れることで外に漏らさない選択だったかもしれないが。

 とにかくマイルズの許可を得たナサニエルは、まるで自分も孫のひとりであるかのように、堂々とヘインズ邸に出入りするようになった。持ち前の如才なさですぐメイドや執事たちに気に入られ、引きこもって庭いじりばかりしているエリオットにも、驚異的な辛抱強さで話しかけては少しずつ打ち解けて行ったのだ。

「だからまぁ、ヘインズの屋敷から出られるようになったのは、ニールのおかげかもね」
「で、今回はきみが閉じこもってるぼくを引っ張り出した」

 フォスター女伯爵と貴族会の件をいっているのだろう。彼の出自について知って、女伯爵を利用しようとする者の頭にエリオットの影がチラつくようになったいま、その秘密はさほどの脅威ではなくなっている。

 カニングハム公爵は執行部会で痛い目を見たので、しばらくはエリオットを警戒してちょっかいをかけて来ることはないだろう。オルブライト公爵──アンドルーも、今回の嫌がらせは失敗したと分かったはずだ。エリオットの周囲がさほど愚鈍でないことも。

 エリオットはグラスに刺さったストローで、炭酸が抜け始めたレモンスカッシュをひと口飲む。

「愛を送って、助けを求めて来る時にそこにいろって誰かさんがいったから」
「アイリーン・キャディかい? 彼女は『まだ用意のできていない人には、ただ愛、そしてもっと多くの愛を送りなさい。静かにそっと待ちなさい』といってるんだよ。きみ、全然待ってないじゃない」
「そうなのか?」

 振り返ると、バッシュはすました顔でエリオットの手からグラスを奪った。

「言葉の解釈は自由だ」

 からからと氷が音を立て、薄黄色のジュースが男らしく上下する喉仏に吸い込まれて行く。

「詐欺師!」

 ナサニエルが天井を仰ぐようにして笑った。

「きみの恋人は酷い男だな。パンチしてやる」
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