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番外編 重ねる日々

ザッハトルテと焼きリンゴ

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 どうして自分はここにいるのか。

「ザッハトルテの焼きリンゴ添えでございます」

 勝手に注文されたスイーツの皿が運ばれてきてなお、イェオリは諦め悪く考えていた。
 このまま沈黙していたら、悟りとか開けないだろうか。

「ここのケーキはいつ見ても美味しそうだし、実際に美味しいんだよね」

 心理に至ろうとしているイェオリの前に座り楽しそうに皿を眺めるのは、亜麻色の髪をゆるくまとめたナサニエル・フォスター。シルヴァーナ王国の貴族階級に属する青年で、イェオリが敬愛してやまないエリオットの友人だ。

 仕事と割り切ればどんな横柄な人物にも対応できる自信のあるイェオリだが、この青年だけは、はっきり「苦手」と分類している。

 王子の唯一といえる友人として、資料では彼の存在を知っていた。正直、印象はよくない。若くして田舎の屋敷で隠居のような生活をして、男女問わず浮名を流す遊び人。交友関係の広さには舌を巻いたが、マイナスに振れた針が好転するほどではなく、さらには初対面で歯の浮くようなセリフをささやき、指先にキスをするような軽薄さを体験すれば、なぜエリオットが彼と仲がいいのか、首を傾げざるを得ない。

 その苦手な人物と、どうして貴重な休日にカフェでケーキを食べようとしているのか。

 イェオリは明確な拒否を示せなかった己の意志の弱さを呪った。

「この焼きリンゴはイートイン限定なんだ。ケーキのテイクアウトにはついてこないから、この味を覚えて行って、カルバートンのシェフに焼きリンゴだけ作ってもらいなよ」

 彼も喜ぶから、と付け足されて、イェオリは深いため息をついた。

 そう、すべてはエリオットのためだ。休日に少し足を延ばして旧市街へやってきたのも、女性客が九割の行列に並んだのも。テレビの特集で取り上げられたザッハトルテを、いつもより少し長く見つめていたエリオットへ供するに足る逸品かを確認するため。

 たまたまその行列のそばを彼が通りかからなければ、話題のケーキをテイクアウトしてカルバートンへ帰っていた。

「やぁ、奇遇だね。試食用? じゃあここで食べて行かなきゃ。特別メニューがあるんだよ。ほら、イートインはこっち」と、流れるように引きずられ、星がついていても不思議ではない洗練された内装の店に入り、白いクロスがまぶしいテーブルに案内された。

 まさか居並ぶ女性たちの前で、見目のいい貴族の青年を投げ飛ばすことなどできるはずもなく、その間、イェオリが発することができたのは、「えぇ」「はい」「いえ、結構で──」のみ。ようやく「困ります」といえたときには、すでに「ザッハトルテ 2」と書いたオーダー票をウェイターが持って行ってしまっていた。

 最初から仕組まれていたとしか思えない手際の良さだ。

 その結果として、イェオリの前にはスイーツプレートと紅茶のカップが並んでいる。

 黒々とした円柱のチョコレートケーキ。オーストリア発祥のザッハトルテだ。そして、イートイン限定だという、焼きリンゴがシナモンの香りとともに添えられている。大きさはどちらも控えめで、ケーキは直径と高さが五センチほど、リンゴは四分の一にカットされたものが一切れだ。

「写真は撮らなくていいの?」

 皿を回しながら盛り付けを観察するイェオリに、ナサニエルが尋ねる。

 テイクアウトしたケーキを紙皿とプラスチックのフォークで出すはずもなく、これを再現するチャドへの説明は、たしかに写真のほうが伝わるだろう。

 聞かれていそいそと取り出すのは癪だが、イェオリはナサニエルの助言に従ってスマートフォンを構えた。



  ◇



「満足かな?」

 気がすむまでシャッターを切ったスマートフォンをしまうイェオリに、ナサニエルがいった。ケーキどころかお茶にも手を付けていないのに気付き、慌てて頭を下げる。

「お待たせして申し訳ありません」
「あんまりに真剣だったから、つい見ていたくなっちゃったよ。きみ、ほんとうに彼のことになると一生懸命だよね」
「……卿がおっしゃるほど。わたしたちに接点はないと思いますが」
「直接はね。けど、ぼくときみの間には、特大の接点がある」

 エリオットさまか。

 イェオリの沈黙に笑みで応え、ナサニエルはフォークを取る。

「大丈夫、彼もきみのこと大好きだから。彼と話しをしてて、きみの名前が出ないことがないもの」
「光栄です、と申し上げておきます。しかし彼がお話しになった内容は、あなたの胸に収めておいていただけますか」
「そう? 自分のこと、他人との会話でほめられるって本物だと思うけど」
「僭越ながら。我々の仕事は、ほめられることを目的としてはおりませんので」

 主人からほめられて嬉しくないわけがない。けれどときには主人を諫め、耳の痛い忠告もするのが侍従だ。ほめられよう、好かれようとおもねる気持ちだけでは務まらない。

 イェオリのモチベーションは、仕事に対する自己の評価とは別のところにあった。

「そう。じゃあ、ぼくが大事にとっておくよ」
「お忘れくださっても結構ですが」
「それはもったいないじゃない。いつかきみが聞きたくなったとき、教えてあげる」

 強引に足元をさらったかと思えば、拍子抜けするほどあっさり引いていく。

 さざなみのようなひとだな、と思った。

 ナサニエルの視線を受けて、もともと伸ばしていた背筋にさらに力が入る。普段は適度な距離感を心掛けているので、手を伸ばせば届く近さで誰かと見つめ合うのはずいぶん久しぶりな気がした。

 菫色の瞳がゆっくり瞬く。長いまつ毛に誘われるように、イェオリは細い鼻筋から頬骨の形、意外なほど薄い桜の色をした唇まで、ナサニエルというひとの造形に見入った。

「きみの黒真珠のような瞳で見つめられると、自分が特別な人間になったような気がしてしまうよ」
「日常会話でそのような言葉が出てくるのですから、間違いなくあなたは特別でしょうね」

 つれないな、と肩をすくめたナサニエルは、フォークで軽く皿をつついた。

「食べなよ。せっかくの焼きリンゴが冷めたら、もったいない」
「はい」

 そこでようやくイェオリも、テーブルにセッティングされたフォークを取り上げた。



  ◇



 美しく盛られた菓子や料理を崩すとき、いつも少しだけドキドキしてしまう。高揚というよりは、後ろめたさにも似たなにか。

 イェオリはそっと円柱のケーキにフォークを入れた。グランドピアノを思わせる艶やかな表面に、冷たいシルバーが吸い込まれるような滑らかさで沈み込んでいく。

 フォンダンに包まれたスポンジを口へ入れると、濃厚な甘さと杏の酸味が舌に広がった。

 鼻に抜ける香りまで存分に味わっていると、ナサニエルが半分ほどに減った自分のケーキを見下ろしてこういった。

「最初のひと口って、完ぺきな世界を壊さないと訪れないところが背徳的だよね」
「……」

 下ろしたフォークの先が皿に当たって、カチリと音が鳴る。

「そしてこれも、背徳の果実」

 きつね色に染まったリンゴを、ナサニエルがフォークでひと口大に切り分ける。凝縮された果汁がじゅわりとこぼれシナモンと混ざり合うのを、イェオリはただ見つめていた。

 アダムとイブが口にしたのは、リンゴではなくイチジクだったという説もあるが、賢しげなことは黙っていた。それでもひと言いわずにいられなかったのは、無意味な抵抗だったかもしれない。

「申し訳ありませんが、わたしはキリスト教徒ではありませんから」
「知ってるよ」

 さらりと亜麻色の髪を揺らして頷いたナサニエルは、ピッチャーからカップにミルクを注いだ。渦を巻く紅茶にスプーンを立て、くるくるとかき混ぜる。

「イザナミとイザナギが、天界から槍で地上をかき混ぜて作ったのが日本だ」
「……よくご存じですね」
「きみの国のことだからね」

 生み出されたミルクティーのカップを持ち上げる細い指先に、イェオリは諦めの気持ちで小さく笑った。

 なにを知っているかはもちろん大事かもしれないが、どこでそれを語るかはもっと重要だ。ナサニエルというひとは、それを間違えない。

 だからモテるんだろうな。

「あなた、ほかにいくつの国の神話をご存じなんです?」
「おっと、鋭いな」

 イェオリは焼きリンゴをひと欠片、フォークですくって食べる。

 とろりと温かいリンゴは、芳醇な果実の甘さがビターなチョコの後味と驚くほどマッチして、このうえなく美味しかった。

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