227 / 331
訳あり王子と秘密の恋人 第二部 第三章
10.アイムホーム
しおりを挟む
カルバートンへ帰り着くと、ささやかなサプライズが待っていた。文字通り裏口で。
艶消しの黒いフロックコートに身を包んだクレイヴが、フランツと並んでエリオットを出迎えた。
「クレイヴ、執事デビュー?」
「お帰りなさいませ、エリオットさま。改めまして、本日よりお世話になります」
「世話になるのは、おれだけどな」
「あぁ、たしかにそうですね」
アスコットタイに顎がつきそうなほどクレイヴが大きくうなずき、フランツは肩をすくめた。
「執事とはいいましても、数年は修行の身でございますよ」
更には、エリオットのうしろからベイカーがくぎを刺す。研修期間は終わっても、まだしばらくは大先輩たちの教育が続きそうだ。スタッフとして、彼らほどいい教師はいないだろうが。
エリオットは手始めに、バッシュの居場所を尋ねた。
「ゲストルームにいらっしゃいます」
「分かった。ルードは?」
「エリオットさまのお部屋に」
「じゃあ悪いけど、時間があったらルードを散歩に連れて行ってくれる? きょうはもう二時間も歩けない」
「かしこまりました」
きっちり会釈したクレイヴだったが、その目には「すぐ行きます! でっかいワンコと散歩!」と喜びが駄々もれている。
貴族たちのはりついたような笑みに荒んだ心には、その分かりやすさがとても好ましい。
びっくりするくらい力が強いから気を付けて、と注意して、エリオットはクレイヴたちと別れた。
ゲストルームとは名ばかりで、ほぼバッシュ専用となっている部屋は、エリオットの私室とは階が違うが、距離的にはさほど離れていなかった。とはいえ屋敷内でも自転車に乗ってサイクリングができそうなほどの広さを誇るカルバートンでは、さすがにドア・トゥ・ドアというわけにはいかない。
コンスタンブルやミレーの風景画が並ぶ廊下を歩いて行くと、ドアが半分開いていたのでエリオットは戸口から首だけを部屋の中に突っ込んだ。
「アニー?」
小ぶりなドローイングルームは無人で、奥にあるシャワールームから水音もしない。どこかへ行っているのかと思ったが、それならバッシュはだれかに伝えるだろうし、クレイヴも把握しているはずだ。
エリオットは足音を忍ばせて、あまり使っている様子のないドールハウスのセット品みたいな調度のあいだを通り抜け、寝室を覗く。部屋の主は、クイーンサイズのベッドに転がり眠っていた。
メイドの手で整えられたシーツの上で、綿っぽいシャツにデニムという、眠るにはあまり適さないかっこうだ。サイドチェストを見れば、水差しと飲みかけのグラス。その横からバスタオルの端が床に向かって垂れていた。
エリオットを送り出した後、シャワーを浴びて力尽きたというところか。
寝不足っぽかったしな。
後ろ手に寝室の扉を閉めると、エリオットはジャケットを脱ぎながらゆっくりベッドに近付いた。ネクタイもベルトも外し、革靴も脱ぎ捨てる。それから、仰向けで寝息を立てるバッシュを起こさないように、細心の注意を払ってマットレスに上がる。
シーツに投げ出された太い左腕に頭を置いて、バッシュにくっついた。やっぱり横になるのにシャツは窮屈だ。
ゆったり上下する胸元へ顔を寄せると、エリオットが使っている石けんと同じ匂いがする。そのことに、自分でも驚くほど胸に来るものがあった。
何の疑問もなく、安全だと信じられる場所。心がくすぐったくて、それなのに胸の奥をぎゅっと絞られるような切ない感じ。わけもなく泣き出しそうになって、滲んだ水滴がこぼれないようにエリオットは天井を見上げた。
窓から差し込む光に照らされて、宙を舞う埃まできらきらしている。
腹に乗った彼の右手に自分の左手を重ね、エリオットは目を開けたまま、互いの呼吸と鼓動しか聞こえない、心地のいい場所でじっとしていた。
艶消しの黒いフロックコートに身を包んだクレイヴが、フランツと並んでエリオットを出迎えた。
「クレイヴ、執事デビュー?」
「お帰りなさいませ、エリオットさま。改めまして、本日よりお世話になります」
「世話になるのは、おれだけどな」
「あぁ、たしかにそうですね」
アスコットタイに顎がつきそうなほどクレイヴが大きくうなずき、フランツは肩をすくめた。
「執事とはいいましても、数年は修行の身でございますよ」
更には、エリオットのうしろからベイカーがくぎを刺す。研修期間は終わっても、まだしばらくは大先輩たちの教育が続きそうだ。スタッフとして、彼らほどいい教師はいないだろうが。
エリオットは手始めに、バッシュの居場所を尋ねた。
「ゲストルームにいらっしゃいます」
「分かった。ルードは?」
「エリオットさまのお部屋に」
「じゃあ悪いけど、時間があったらルードを散歩に連れて行ってくれる? きょうはもう二時間も歩けない」
「かしこまりました」
きっちり会釈したクレイヴだったが、その目には「すぐ行きます! でっかいワンコと散歩!」と喜びが駄々もれている。
貴族たちのはりついたような笑みに荒んだ心には、その分かりやすさがとても好ましい。
びっくりするくらい力が強いから気を付けて、と注意して、エリオットはクレイヴたちと別れた。
ゲストルームとは名ばかりで、ほぼバッシュ専用となっている部屋は、エリオットの私室とは階が違うが、距離的にはさほど離れていなかった。とはいえ屋敷内でも自転車に乗ってサイクリングができそうなほどの広さを誇るカルバートンでは、さすがにドア・トゥ・ドアというわけにはいかない。
コンスタンブルやミレーの風景画が並ぶ廊下を歩いて行くと、ドアが半分開いていたのでエリオットは戸口から首だけを部屋の中に突っ込んだ。
「アニー?」
小ぶりなドローイングルームは無人で、奥にあるシャワールームから水音もしない。どこかへ行っているのかと思ったが、それならバッシュはだれかに伝えるだろうし、クレイヴも把握しているはずだ。
エリオットは足音を忍ばせて、あまり使っている様子のないドールハウスのセット品みたいな調度のあいだを通り抜け、寝室を覗く。部屋の主は、クイーンサイズのベッドに転がり眠っていた。
メイドの手で整えられたシーツの上で、綿っぽいシャツにデニムという、眠るにはあまり適さないかっこうだ。サイドチェストを見れば、水差しと飲みかけのグラス。その横からバスタオルの端が床に向かって垂れていた。
エリオットを送り出した後、シャワーを浴びて力尽きたというところか。
寝不足っぽかったしな。
後ろ手に寝室の扉を閉めると、エリオットはジャケットを脱ぎながらゆっくりベッドに近付いた。ネクタイもベルトも外し、革靴も脱ぎ捨てる。それから、仰向けで寝息を立てるバッシュを起こさないように、細心の注意を払ってマットレスに上がる。
シーツに投げ出された太い左腕に頭を置いて、バッシュにくっついた。やっぱり横になるのにシャツは窮屈だ。
ゆったり上下する胸元へ顔を寄せると、エリオットが使っている石けんと同じ匂いがする。そのことに、自分でも驚くほど胸に来るものがあった。
何の疑問もなく、安全だと信じられる場所。心がくすぐったくて、それなのに胸の奥をぎゅっと絞られるような切ない感じ。わけもなく泣き出しそうになって、滲んだ水滴がこぼれないようにエリオットは天井を見上げた。
窓から差し込む光に照らされて、宙を舞う埃まできらきらしている。
腹に乗った彼の右手に自分の左手を重ね、エリオットは目を開けたまま、互いの呼吸と鼓動しか聞こえない、心地のいい場所でじっとしていた。
応援ありがとうございます!
4
お気に入りに追加
415
1 / 5
この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる