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訳あり王子と秘密の恋人 第二部 第二章

4.奪われたもの

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 とぽとぽと水がこぼれる音が、やけに大きくふたりの間に響く。エリオットは亜麻色の髪が縁取る甘いかんばせを穴が開くほど見つめたあと、両手でこめかみをおさえた。

「ごめん、さきに確認だけさせて」
「どうぞ?」
「おれの認識では、フォスター女伯爵はひとり娘だったと思うんだけど?」
「母はあのひとと年子の夢見がちな女性で、売れない画家と駆け落ちした。前伯爵である父親からは勘当同然でね。当時はそこそこの噂になったらしいよ」
「当時って?」
「三十年くらい前」

 そりゃ知らねーよ。

「生まれてもないよ、おれたち」

 顔を上げると、ナサニエルは宗教画のガブリエルが浮かべるような慈愛とも皮肉ともとれる微笑みを口の端にのせていた。

「苦労知らずで夢見がちな令嬢も、子どもができたことで、やっと現実が見えたのかもね。飛び出した家に戻ってこようとしたらしい。でも残念ながらそのころには、それを歓迎できないひとがいた」
「女伯爵か」
「きみに教授するまでもないけど、現在の貴族法において爵位の継承は長子優先だ。もしぼくを姉の息子として認めたら、女伯爵にとって甥ができてしまう」

 自分より優先で爵位を継ぐ甥がね。

「姉がいなくなったせいで、いきなり家を継がなければならなくなって、──それがあったとして──思い描いていた人生設計が崩れてしまった。家格で選んだ夫とは馬が合わない。唯一の支えである息子も、次期伯爵として育てなければいけないから、それだってプレッシャーだ」

 そんなところに、いまさら赤ん坊を抱えて戻って来られても、受け入れられない心情は理解できる。

「あのひとにとって幸運だったのは、自分の父親がぼくの存在を知る前に世を去ったことだ。おかげで、なんとでも対処できた」

 姉とその夫が、生活に困らないだけの金銭的援助を約束する。ただし、自分の地位を脅かす存在である甥は、なにも知らない養子として手元に置いた。

「……いつ、それを?」
「きみに出会う少し前かな。母が書いた誓約書を見つけた。今後の生活を保障するかわりに、ぼくの出生については生涯他言しないと。おかしいなと思ったんだよ。そのころには、屋敷のスタッフはみんなぼくを親の分からない捨て子だと知っていたからね。だから、両親を探した」
「誓約書のサインだけで?」
「スタッフの中にも、ぼくを不憫に思ってくれるひとがいてね。力になってくれた」

 なんとなく、カントリーハウスの執事かな、とエリオットは思った。

「それで母と父に会って、ことの真相を聞いたというわけさ」
「口外しないって誓ったのに」
「まぁ、ぼくも当事者みたいなものだし。感謝してるよ。おかげでぼくはあのひとを脅し、真実に口をつぐんでいることと引き換えに自由を手に入れた」

 そしてフォスター女伯爵は、甥に小さな屋敷と使う当てのない土地を与え、あとのことは見て見ぬふりすることで爵位と資産を引き継いだ。

「あのひとも必死だったんだろうね。姉やぼくが一言でも漏らせば、息子が受け継ぐはずだったものはすべて奪われてしまうんだから」
「それでいいの? 自分のために勝手にひとの人生捻じ曲げて、許せないだろ」

 エリオットは両手を握りしめる。
 息子よりも自分たちの生活を選んだ彼の両親にも、甥から親も権利も取り上げた女伯爵にも。

 しかしそんな衝動も、ナサニエルの言葉で不発となった。

「きみは、自分の人生を捻じ曲げた相手に、復讐したいと思うかい?」

 世界の端っこにぎりぎり立っていたエリオットを孤独に突き落とした生ぬるい手の感触が蘇り、エリオットは握りしめていた両手でぎゅっと膝を抱えた。こみ上げた苦いものがそのまま重しとなって胸をふさぐ。力なく頭を振った。

 ごめんね、とナサニエルが優しく囁く。

「ぼくも思わない。関わりたくないからね。だからもちろん、ぼくからあちらに干渉はしないし、きみに助けてくれなんて恥知らずなことも言わない」
「……それが、ニールの気持ちなんだな?」
「そうだよ」
「分かった」

 それきり、どちらもしばらく黙っていた。

 エリオットには友人が背負わされた理不尽や悲しみを受け止める時間が必要だったし、ナサニエルも無遠慮に引っ張り出された大切なものを、自分の内の深くに沈める時間が。気持ちを整理できたあとに、この関係が変わらないことを願っているけれど。

 やがて、枕木の小道にベイカーが現れ、ティータイムの終わりを告げる。

 エリオットは立ち上がり、ナサニエルに向き直った。

「無理やり呼びつけてごめん」
「話せてよかった、とは言わないよ。きみが知りたがったことだ」
「うん」

 この真実も聞いてしまった罪悪感も、エリオットが負っていくべきものだ。

「きみの高潔さのひと握りでも、ぼくにあったらよかったのにって、ときどき思うよ」
「それはニールの幻覚だと思うけど、仮にそんなものを持ち合わせてなくたって、ニールはこれ以上ない友達だよ」
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