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訳あり王子と秘密の恋人 第一部 第四章
3.はじめまして
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エリオットが思ったままを口に出すと、「ピレニアン・マウンテンドッグです」とスタッフが教えてくれる。
部屋の奥に横たわっていたのは、目の錯覚かと思うほど大きな犬だった。すっとした長い鼻筋とふわふわな長毛は、真っ白いゴールデンレトリーバーにも見えるが、いかんせん大きい。カルバートンによくあるタイプの長椅子──エリオットが横になれるくらいの──というとさすがに誇張かもしれないが、後ろ足で立ち上がれば、上背はエリオットといい勝負だろう。
のしかかられたら潰れるな。
「これはたしかに、フラットでは無理ですね」
エリオットがしゃがむと、ミシェルやスタッフには一瞥もくれなかった犬が、おもむろに頭を上げてこちらを見た。ゆったりと起き上がり、太い脚でこちらへ近づいて来る。
のっしのっしという表現がぴったりだ。目の前に来られると、視界が真っ白な毛並みに埋まってしまう。
「わ、ほんと大きい」
健康的に濡れた鼻先で匂いを嗅ぐしぐさをしたあと、ピレニアンはかりかりと窓をひっかいた。肉球も黒くて分厚い。見えない壁があると分かると、こんどはガラスに体を押し付けるようにして、また横たわる。エリオットにくっついているつもりなのだろうか。
羽毛のような毛があまりにも柔らかそうで、エリオットはついガラスをつついた。
「人懐っこいですね。この子は──」
オスかメスかどちらかと、スタッフを仰いだエリオットはぎょっとした。
あれほど毅然としていた女性スタッフが、なぜか感極まったようすで、口元をおさえて震えている。
「あの……?」
「この子がこんなふうに人に近付くなんて……」
え、なに?
勝手にガラスを触ったのがいけなかったのか。エリオットが慌てて両手を上げると、手のひらほどもありそうな舌が向こうからガラスをなめた。なぜ離れるのかといわんばかりだ。
それを見たスタッフが、本格的に泣き出す。
「す、すみませっ……」
「ええぇ……」
待って待って。これ、おれが泣かしたの?
助けを求めて辺りを見回すが、ミシェルは「あらあら」という顔で瞬くばかり。
思いもよらないハプニングにざわめく人垣の間から、別のスタッフが転がり出て来た。
「申し訳ありません、あの、両殿下。えっと、その子はちょっと、ワケありで。その……」
同僚を助けようと出て来たのは若い男性スタッフだったが、心の準備をしていなかったためか緊張で真っ青だ。まさか自分が、王太子妃と王子の視線を独り占めするなんて、考えもしなかっただろう。気の毒に。
立ち上がるタイミングを逃したエリオットは、頭上に漂う気まずさと困惑に、いたたまれない気分で小さくなる。
見かねたミシェルの侍女が進み出て、必死にしゃくりあげるのをこらえながら、逆に息を詰まらせている女性スタッフを退場させようとする。彼女はどこかで休ませて、別の案内係に代わってもらうという判断は妥当だ。
けれど、ミシェルはそれを制した。
「大丈夫よ」
ふわふわとした温和な声で、パニックになっているスタッフたちに呼びかける。
「あの子のことを教えてくれる?」
ハンドバッグから取り出したハンカチを女性スタッフに手渡し、その背をさすって肩を抱いた。
不興を買ったわけではないと安堵したのか、男性スタッフがこんどは顔を赤くして説明する。
「あまり人に懐かないタイプの子で、交代で世話をするスタッフにもさほど好意的ではないんです。ドッグランに出ても、他の子たちに威嚇されてしまうので、最近は外に出るのも嫌がっていて」
「小さい子にしてみれば、威圧感はあるかもしれないわね」
エリオットはしゃがんだまま、もう一度ガラスに触れた。
体が大きいから、いらないと連れて来られ、体が大きいから仲間の犬たちから警戒される。そして体が大きいから、行き場がない。
「……自分じゃどうしようもないのにな」
自分が場違いだと分かっているような、申し訳なさそうな表情にも見えるピレニアン・マウンテンドッグの鼻先を、エリオットはガラスごしにくすぐった。
「エリオット、その子の里親になってみたら?」
「へ?」
あまりに気負わない調子でミシェルが提案するものだから、慌てて振り向いたエリオットはバランスを崩してしりもちをついた。
「おれ?」
床に座ったまま、突拍子もないことを言い出したミシェルを見上げる。
「カルバートンなら、この子でものびのびできるでしょう?」
「かもしれないけど……」
「この子、あなたが気に入ったみたいだし」
「いや、でも」
そんな軽々しく「じゃあもらう」で済むか……?
この、犬たちの快適を最優先に考えられた施設で、たまたま人に興味を示しただけで泣かれるほど大事にされてきたのだ。
それに引き換え、カルバートンは?
たぶん、この巨体で全力疾走できる庭の広さはある。食事だってササミでもヒレ肉でも、万一アレルギー対応フードだろうと十分まかなえるし、ボールからぬいぐるみまで気に入るものを揃えられる。どうやら自分だけに示されたらしい懐っこさは、正直とてもかわいい。
……問題ないな?
真っ赤な目でハンカチを握りしめる女性スタッフと、その肩を抱くミシェル、額に汗まで浮かべている男性スタッフ、その他の期待に満ちた眼差しに背を向けて、エリオットはなんの打算も持ち合わせない、無垢な生き物を見つめた。
これも運命の出会いというやつだろうか。
「おれのとこに来る?」
ばさりと音がしそうなほどに、しっぽが揺れる。それが答えだった。
部屋の奥に横たわっていたのは、目の錯覚かと思うほど大きな犬だった。すっとした長い鼻筋とふわふわな長毛は、真っ白いゴールデンレトリーバーにも見えるが、いかんせん大きい。カルバートンによくあるタイプの長椅子──エリオットが横になれるくらいの──というとさすがに誇張かもしれないが、後ろ足で立ち上がれば、上背はエリオットといい勝負だろう。
のしかかられたら潰れるな。
「これはたしかに、フラットでは無理ですね」
エリオットがしゃがむと、ミシェルやスタッフには一瞥もくれなかった犬が、おもむろに頭を上げてこちらを見た。ゆったりと起き上がり、太い脚でこちらへ近づいて来る。
のっしのっしという表現がぴったりだ。目の前に来られると、視界が真っ白な毛並みに埋まってしまう。
「わ、ほんと大きい」
健康的に濡れた鼻先で匂いを嗅ぐしぐさをしたあと、ピレニアンはかりかりと窓をひっかいた。肉球も黒くて分厚い。見えない壁があると分かると、こんどはガラスに体を押し付けるようにして、また横たわる。エリオットにくっついているつもりなのだろうか。
羽毛のような毛があまりにも柔らかそうで、エリオットはついガラスをつついた。
「人懐っこいですね。この子は──」
オスかメスかどちらかと、スタッフを仰いだエリオットはぎょっとした。
あれほど毅然としていた女性スタッフが、なぜか感極まったようすで、口元をおさえて震えている。
「あの……?」
「この子がこんなふうに人に近付くなんて……」
え、なに?
勝手にガラスを触ったのがいけなかったのか。エリオットが慌てて両手を上げると、手のひらほどもありそうな舌が向こうからガラスをなめた。なぜ離れるのかといわんばかりだ。
それを見たスタッフが、本格的に泣き出す。
「す、すみませっ……」
「ええぇ……」
待って待って。これ、おれが泣かしたの?
助けを求めて辺りを見回すが、ミシェルは「あらあら」という顔で瞬くばかり。
思いもよらないハプニングにざわめく人垣の間から、別のスタッフが転がり出て来た。
「申し訳ありません、あの、両殿下。えっと、その子はちょっと、ワケありで。その……」
同僚を助けようと出て来たのは若い男性スタッフだったが、心の準備をしていなかったためか緊張で真っ青だ。まさか自分が、王太子妃と王子の視線を独り占めするなんて、考えもしなかっただろう。気の毒に。
立ち上がるタイミングを逃したエリオットは、頭上に漂う気まずさと困惑に、いたたまれない気分で小さくなる。
見かねたミシェルの侍女が進み出て、必死にしゃくりあげるのをこらえながら、逆に息を詰まらせている女性スタッフを退場させようとする。彼女はどこかで休ませて、別の案内係に代わってもらうという判断は妥当だ。
けれど、ミシェルはそれを制した。
「大丈夫よ」
ふわふわとした温和な声で、パニックになっているスタッフたちに呼びかける。
「あの子のことを教えてくれる?」
ハンドバッグから取り出したハンカチを女性スタッフに手渡し、その背をさすって肩を抱いた。
不興を買ったわけではないと安堵したのか、男性スタッフがこんどは顔を赤くして説明する。
「あまり人に懐かないタイプの子で、交代で世話をするスタッフにもさほど好意的ではないんです。ドッグランに出ても、他の子たちに威嚇されてしまうので、最近は外に出るのも嫌がっていて」
「小さい子にしてみれば、威圧感はあるかもしれないわね」
エリオットはしゃがんだまま、もう一度ガラスに触れた。
体が大きいから、いらないと連れて来られ、体が大きいから仲間の犬たちから警戒される。そして体が大きいから、行き場がない。
「……自分じゃどうしようもないのにな」
自分が場違いだと分かっているような、申し訳なさそうな表情にも見えるピレニアン・マウンテンドッグの鼻先を、エリオットはガラスごしにくすぐった。
「エリオット、その子の里親になってみたら?」
「へ?」
あまりに気負わない調子でミシェルが提案するものだから、慌てて振り向いたエリオットはバランスを崩してしりもちをついた。
「おれ?」
床に座ったまま、突拍子もないことを言い出したミシェルを見上げる。
「カルバートンなら、この子でものびのびできるでしょう?」
「かもしれないけど……」
「この子、あなたが気に入ったみたいだし」
「いや、でも」
そんな軽々しく「じゃあもらう」で済むか……?
この、犬たちの快適を最優先に考えられた施設で、たまたま人に興味を示しただけで泣かれるほど大事にされてきたのだ。
それに引き換え、カルバートンは?
たぶん、この巨体で全力疾走できる庭の広さはある。食事だってササミでもヒレ肉でも、万一アレルギー対応フードだろうと十分まかなえるし、ボールからぬいぐるみまで気に入るものを揃えられる。どうやら自分だけに示されたらしい懐っこさは、正直とてもかわいい。
……問題ないな?
真っ赤な目でハンカチを握りしめる女性スタッフと、その肩を抱くミシェル、額に汗まで浮かべている男性スタッフ、その他の期待に満ちた眼差しに背を向けて、エリオットはなんの打算も持ち合わせない、無垢な生き物を見つめた。
これも運命の出会いというやつだろうか。
「おれのとこに来る?」
ばさりと音がしそうなほどに、しっぽが揺れる。それが答えだった。
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