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訳あり王子と秘密の恋人 第一部 第三章
1.ベイカー
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「これでいい?」
「はい、けっこうです」
差し出した書類のサインを確認して、ベイカーが頷く。
「先ほど、ご要望の資料をタブレットにお送りいたしました」
「ありがと、確認しとく」
エリオットは、王室一家の私的な屋敷であるハウスの書斎にいた。
父のエドゥアルドから、家族でのディナーに招待されている。結婚式以降、家族が全員集まるのは初めてだ。ヘクターの一件で叱責され、エリオットとの接触禁止を言い渡されていたサイラスとも、これでめでたく「和解」と言うことだろう。
どうせなら仕事を片付けてしまおうと早めにやって来て、そのついでにちょっと下心を出してサイラスの書斎を覗いてみたりしたが、残念ながら部屋の主は外出中。居残りの侍従たちの中に、バッシュはいなかった。
「増員はいつからになりそう?」
「スタッフは適宜。専属の警護チームだけは、来月に間に合わせます」
「あと一週間くらいしかないけど」
「お任せを」
ベイカーがそう言うなら、無茶も通るはずだ。
エリオットは、レザーのライティングマットに万年筆を転がした。
個人間の送金も役所への手続き申請も、ネットでの電子サインが当たり前の世の中なのに、なぜかロイヤルファミリーの承認は肉筆であることが求められる。エリオットたちが時代に取り残されている証拠だ。
「警護はいいとして、屋敷のスタッフは『ヘインズ』と『王室』、どっちの管轄?」
「リトル・カルバートン宮殿は国の所有ですので、王室費の管轄でございます」
「そのあたりは明確で助かるな」
「さようでございますね」
スタッフの給与を、ヘインズ家と王室のどちらが負担するのかと言う話だ。エリオットの立場は王族と貴族のハイブリット仕様になっているので、身辺に関わるスタッフの立ち位置も非常にややこしい。金銭が絡むとなおシビアだ。
そのあたりは「よきに計らえ」と言えば、詳しい人が適切に処理してくれるけど、必要書類にサインする以上、知りませんでしたでは済まされない。
そして、スタッフと言えば。
「ナサニエル・フォスターを、秘書として雇うのはどう思う?」
側近の候補について話し合ったとき、提示されたリストにナサニエルの名前はなかった。けれどそうしたいと望んでいることを、彼はとうに察しているだろう。現在、エリオットに関する職務上の責任はベイカーが負っているから、その彼に一度も意見を聞かないわけにはいかない。
「おすすめは致しかねます」
「人格的な問題で?」
「いえ、そうではなく。タイミングと申しますか、いまは少々時期が悪うございまして」
ベイカーはやや言いづらそうにしながら、書類をおさめた文書箱のふたを閉めて鍵をかける。いかなるときも忠実に主人を守って来た彼に、首を横に振られたのは初めてのことだ。
「時期って?」
ほどよくしなる椅子の背もたれを揺らし、エリオットは尋ねる。
「先日、サイラスさまが侍従武官を任命されました」
「侍従武官?」
「軍事に関する情報の伝達や、進言を行う役職です」
「あぁ、あったなそんな役職。数代前に、廃止されたんじゃなかった?」
「大戦後、当時のアルバート王が側近に武官を登用せず、それが数代続いておりますが、現在も職自体は廃止されておりません」
つまり、百五十年ぶりくらいに復活したポジションなわけだ。
「新聞や週刊誌にも取り上げられ、話題になっております」
「そうなのか」
自分のデート報道で、サイラスの記事まで気が回らなかった。
だれが任命されたのかと聞けば、陸軍の将官だと言う。これが、サイラスが軍にいたときの知り合いだったなら、お友達を側近にしたと思われるだけですんだだろう。けれど将官となると、王太子の気まぐれですむレベルの話ではなくなる。
「ラスが、軍と結託してクーデターでも起こすって?」
バカバカしい。
「そういった論調の記事も、一部ながらございます。サイラスさまに引き続き、エリオットさまも秘書をお雇いになるとなれば、必要以上に注目を浴びることになりましょう」
「ほんと、時期が悪いな」
「ファンドの活動は来年度からになります。フォスターさまをお雇いになる準備は、半年ほど時間をかけてもよいのではありませんか」
ベイカーは少しだけ、目じりのしわを深くする。
「あまりお急ぎにならずとも大丈夫です。世の中は話題を欲しがり、次々と新しいものを求めるでしょう。しかしあなたさまの価値は、消費されてなくなるようなものではございません。どうか長い目で、歩む道をご覧になりますように」
「……うん」
フェリシアもゆっくり決めればいいと言ったし、エドゥアルドから進捗を尋ねられているわけでもない。気にしているのは、少しでも優位に立ちたい他人ばかりだ。
どうせ自分はバッシュみたいに器用じゃないんだから、ベイカーの言う通り、周囲の思惑に急き立てられず、長期的な視野でやるべきことを考えたほうがいいのだろう。
「ありがとう」
エリオットはベイカーを側へ手招いた。机を回り込み、数歩分の距離で足を止めた筆頭侍従の前に立つ。自分から一歩踏み出して、一瞬──本当に一瞬だけ、息を止めてその袖口を掴んだ。体温も質感も伝わらない接触を受ける間、ベイカーは目を伏せたまま、みじんも動かなかった。身じろぎして、エリオットの勇気をくじかないために。
エリオットが離れて初めて、柔和な笑みで会釈する。
「懐かしゅうございますね。ご幼少のころ、あなたさまはいつも、袖を引いてわたくしをお呼びになりました」
「退職までにはハグしてやるから覚悟しといて」
「楽しみにしておりますが、どうぞごゆっくり。まだ十年は務めるつもりでおりますので」
頼もしいかぎりだ。
「はい、けっこうです」
差し出した書類のサインを確認して、ベイカーが頷く。
「先ほど、ご要望の資料をタブレットにお送りいたしました」
「ありがと、確認しとく」
エリオットは、王室一家の私的な屋敷であるハウスの書斎にいた。
父のエドゥアルドから、家族でのディナーに招待されている。結婚式以降、家族が全員集まるのは初めてだ。ヘクターの一件で叱責され、エリオットとの接触禁止を言い渡されていたサイラスとも、これでめでたく「和解」と言うことだろう。
どうせなら仕事を片付けてしまおうと早めにやって来て、そのついでにちょっと下心を出してサイラスの書斎を覗いてみたりしたが、残念ながら部屋の主は外出中。居残りの侍従たちの中に、バッシュはいなかった。
「増員はいつからになりそう?」
「スタッフは適宜。専属の警護チームだけは、来月に間に合わせます」
「あと一週間くらいしかないけど」
「お任せを」
ベイカーがそう言うなら、無茶も通るはずだ。
エリオットは、レザーのライティングマットに万年筆を転がした。
個人間の送金も役所への手続き申請も、ネットでの電子サインが当たり前の世の中なのに、なぜかロイヤルファミリーの承認は肉筆であることが求められる。エリオットたちが時代に取り残されている証拠だ。
「警護はいいとして、屋敷のスタッフは『ヘインズ』と『王室』、どっちの管轄?」
「リトル・カルバートン宮殿は国の所有ですので、王室費の管轄でございます」
「そのあたりは明確で助かるな」
「さようでございますね」
スタッフの給与を、ヘインズ家と王室のどちらが負担するのかと言う話だ。エリオットの立場は王族と貴族のハイブリット仕様になっているので、身辺に関わるスタッフの立ち位置も非常にややこしい。金銭が絡むとなおシビアだ。
そのあたりは「よきに計らえ」と言えば、詳しい人が適切に処理してくれるけど、必要書類にサインする以上、知りませんでしたでは済まされない。
そして、スタッフと言えば。
「ナサニエル・フォスターを、秘書として雇うのはどう思う?」
側近の候補について話し合ったとき、提示されたリストにナサニエルの名前はなかった。けれどそうしたいと望んでいることを、彼はとうに察しているだろう。現在、エリオットに関する職務上の責任はベイカーが負っているから、その彼に一度も意見を聞かないわけにはいかない。
「おすすめは致しかねます」
「人格的な問題で?」
「いえ、そうではなく。タイミングと申しますか、いまは少々時期が悪うございまして」
ベイカーはやや言いづらそうにしながら、書類をおさめた文書箱のふたを閉めて鍵をかける。いかなるときも忠実に主人を守って来た彼に、首を横に振られたのは初めてのことだ。
「時期って?」
ほどよくしなる椅子の背もたれを揺らし、エリオットは尋ねる。
「先日、サイラスさまが侍従武官を任命されました」
「侍従武官?」
「軍事に関する情報の伝達や、進言を行う役職です」
「あぁ、あったなそんな役職。数代前に、廃止されたんじゃなかった?」
「大戦後、当時のアルバート王が側近に武官を登用せず、それが数代続いておりますが、現在も職自体は廃止されておりません」
つまり、百五十年ぶりくらいに復活したポジションなわけだ。
「新聞や週刊誌にも取り上げられ、話題になっております」
「そうなのか」
自分のデート報道で、サイラスの記事まで気が回らなかった。
だれが任命されたのかと聞けば、陸軍の将官だと言う。これが、サイラスが軍にいたときの知り合いだったなら、お友達を側近にしたと思われるだけですんだだろう。けれど将官となると、王太子の気まぐれですむレベルの話ではなくなる。
「ラスが、軍と結託してクーデターでも起こすって?」
バカバカしい。
「そういった論調の記事も、一部ながらございます。サイラスさまに引き続き、エリオットさまも秘書をお雇いになるとなれば、必要以上に注目を浴びることになりましょう」
「ほんと、時期が悪いな」
「ファンドの活動は来年度からになります。フォスターさまをお雇いになる準備は、半年ほど時間をかけてもよいのではありませんか」
ベイカーは少しだけ、目じりのしわを深くする。
「あまりお急ぎにならずとも大丈夫です。世の中は話題を欲しがり、次々と新しいものを求めるでしょう。しかしあなたさまの価値は、消費されてなくなるようなものではございません。どうか長い目で、歩む道をご覧になりますように」
「……うん」
フェリシアもゆっくり決めればいいと言ったし、エドゥアルドから進捗を尋ねられているわけでもない。気にしているのは、少しでも優位に立ちたい他人ばかりだ。
どうせ自分はバッシュみたいに器用じゃないんだから、ベイカーの言う通り、周囲の思惑に急き立てられず、長期的な視野でやるべきことを考えたほうがいいのだろう。
「ありがとう」
エリオットはベイカーを側へ手招いた。机を回り込み、数歩分の距離で足を止めた筆頭侍従の前に立つ。自分から一歩踏み出して、一瞬──本当に一瞬だけ、息を止めてその袖口を掴んだ。体温も質感も伝わらない接触を受ける間、ベイカーは目を伏せたまま、みじんも動かなかった。身じろぎして、エリオットの勇気をくじかないために。
エリオットが離れて初めて、柔和な笑みで会釈する。
「懐かしゅうございますね。ご幼少のころ、あなたさまはいつも、袖を引いてわたくしをお呼びになりました」
「退職までにはハグしてやるから覚悟しといて」
「楽しみにしておりますが、どうぞごゆっくり。まだ十年は務めるつもりでおりますので」
頼もしいかぎりだ。
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